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年下の上司 story19〜March

マリアージュ(2)

 
「まぁ、しょうがないんじゃないですか」
 果歩の話を聞き終えた藤堂は、案の定あっさりとそう言った。
 彼が、人と人との揉め事に首をつっこみたがらない性格なのは分かっていたが、それでも果歩は唇を尖らせている。
「でも、なんだか気分が悪いじゃないですか。仲の良かった2人が、あんな風に課の中でギスギスしてたら」
 退庁して10分後、果歩は藤堂が運転する車の助手席に収まっていた。
 今日はもともと夜に会う予定で、互いに時間差で役所を出たのだ。そして役所近くの、藤堂が契約している月極駐車場で落ち合った。
 そんなわけだから、今日は流奈の攻撃もさほど気にならなかったのである。都市政策部で起きた騒動も、後で2人になれば、いくらでも聞けるという余裕もあった。
 というより、時間差で役所を出て外で落ち合う――この秘密のオフィスラブ感はなんだろう。もう2人は本当の恋人同士みたいじゃないですか!
 とはいえ、すでに課内では公認の仲同然の2人である。 
「それにしても、水原君の態度も不思議だと思いません? 乃々子の妊娠騒動の時は、ここまで拗ねてなかったじゃないですか。今月に入ってからですよ、急に南原さんによそよそしくなったのは」
「……まぁ、確かに」
 運転に集中しているのか、藤堂の返事はそっけない。
「乃々子が南原さんと結婚することになった時は、むしろ喜んでた風だったのに、なんなんですかね。一度は諦めたものの、また気持ちが再燃しちゃったんでしょうか」
「…………」
 返事はない。どうせ、私がまた余計なことに口を突っ込んでいると思っているのだろう。
 少し面白くない気持ちで窓の外に視線を向けると、藤堂の声がした。
「元々、仲がいい2人でしたからね」
「……? 乃々子と水原さんのことですか」
「南原さんと水原さんのことですよ。きっと2人にしか分からない思いがあるんじゃないかな。それは、僕や的場さんが口を挟むことではないような気がしますよ」
 まぁ、それは確かにそうなんだけど。まるでそんな言い方をしたら、水原さんの思い人が南原さんだったみたいじゃない。――おっと。
 かつての妄想を思い出し、果歩は自分の頬を軽く叩いた。
 シーズー犬(果歩が勝手につけたあだ名)水原を、南原と臨時職員の宇佐美(男)が取り合っていたいう妄想。いまとなっては馬鹿みたいだが、そんな風に思えるくらい水原は南原にべったりで、南原も水原を弟みたいに可愛がっていたのだ。
「そういえば、さっき須藤さんも言ってましたね。一番仲がいいならなおさらとかなんとか」
 そこまで口にした果歩は、あっと小さな声をあげて口元を手で押さえた。しまった、失言。
「あれって、なんの話だったんでしょうね。晃――前園さんのことで、須藤さん、何か誤解しているのかな」 
 藤堂は答えず、眼前の道路に目を向けている。
 なんだろ、今日の藤堂さんもちょっと変だな。
 まぁ、この人の、緩めては締め、緩めては締めの残酷なルーティンにはさすがにもう慣れてしまった。
 先月、過去最大限に緩んだネジは、今はもうネジ回しを使っても動かないくらいガッチガチに締められているのがなんとなく分かる。
 全く意味不明の背中へのキス(その後、痣でもあるのかと思って、何度も鏡で確認したが何もなかった)。衣服越しとはいえ、胸にも初めてキスされた。それから彼の部屋で――初めて入った寝室のベッドで――
 ま、結局疲れのあまり、彼の隣ですかーっと寝ちゃったのは私なんだけど。
 そんな風に、もういっそ、ネジを抜いちゃいましょうよといいたくなるくらい緩んだのも束の間、今はその反動の真っ最中。どう秋波を送ったところで、藤堂の鉄の鎧はびくともしないのだ。
 ただ、それを差し引いても、今夜の彼はどこかおかしいような気がした。
「……あの、藤堂さん、そんなに緊張しなくても大丈夫ですから」
「え?」
 ほら、今だって上の空だ。
「父には、まだ正式につきあっていないって説明してますし、……一応、まだ上司と部下ですから、私たち」
「……ああ、そうですね、すみません」
 ん? そこ謝るとこ?
 まるで頭の中は別のことでいっぱいですと、白状しているようなものである。 
 とはいえ、彼の様子がおかしい理由は考えるまでもない。
 都市政策部の異変を聞くつもりだった果歩は、それも申し訳なくなって、口をつぐんだ。
 今夜、2人の行き先は的場家である。
 何があったか、ついに父の堪忍袋の緒が切れた。
「あの男を家に呼べ!」その再三の招集命令を無視できず、なんの約束もできないはずの藤堂が、叱られるのを覚悟で父の元に向かっているのである。
     
 *************************

「先月は、大変ご心配とご迷惑をおかけしました」
 葬儀の席のような夕食が終わると、藤堂は姿勢を正して頭を下げた。
 的場家のリビング――
 きれいに片付けられた食卓には、母が運んできたコーヒーカップが4人分並べられている。
 夕食の席で、唯一の盛り上げ役だった妹の美玲は、食事が終わるとすぐに「部屋に戻ってなさい」と追い出された。 
 もちろん扉の向こうで立ち聞きしているのは百も承知の果歩だが、今はそんなことを気にしている場合でもない。
 父がとんでもなく怒っている。
 娘の躾に厳しいのは今に始まったことではないが、夕食の間中、藤堂に何を話し掛けられても一言も口をきかない。
 こんな険悪な、一種陰湿な怒り方をしているのは、初めてだ。
 母、宮子も、その異様な雰囲気を察してか、余計なことは何も言わない。
 ただ台所で一度だけ果歩に「藤堂さん、本当にまだ、あんたと結婚する気はないの?」と、どこか責めるような口調で囁かれたから、――多分、煮え切らない態度(フォローしようもない事実だが)に、いよいよ堪忍袋の緒が切れたというところだろう。
 でもなんで?
 4月までは上司部下だから、清いお付き合いをしているという説明はちゃんとして、父も一時は納得してくれていたようだったのに。
 なんで今さら、この仕打ち?
「つい先日も、門限に間に合わせて送ることができずに、申し訳なかったと思っています」
「藤堂さん、それは」
 果歩は思わず口を挟んでいた。それは藤堂さんのせいじゃない。うっかり寝てしまった私のせいだ。
「お前は黙ってろ!」
 しかし、鋭い怒声が果歩の口出しを遮った。今日、初めて口を開いた父、憲介の声である。
「藤堂さん、正月にも一度言ったな。娘はもう30だ」
「31ですよ」
 と、そこで母が入れなくてもいい訂正を入れる。
「君はまだ26か。……結婚など、到底考えられない年だろうな」
 それこそ訂正を入れて欲しいところだが、今度は誰も口を開かない。お父さん、藤堂ささんはもう27歳です。
 しばらく黙り込んだ父は、おもむろに卓上のコーヒーカップを押しやった。
「藤堂さん、娘はあんたと、まだ交際しているような関係ではないと言った。でもあんたの部屋に再々出入りしているし、先月は実家に泊まりもした。それはどうひいき目に見ても、交際していると言うんじゃないのか」
 藤堂は答えず、ただ険しい視線を下げたままでいる。
「それでも娘に――、26歳のあんたが、31の適齢期をとっくに過ぎた娘に、交際していないと親に言わせる。それはあまりに卑怯というものじゃないのか!」
 色々訂正を入れたいと思うより先に、だんっと卓上のカップが揺れた。
 父のあまりの剣幕に、藤堂を庇うつもりだった果歩も何も言えなくなっていた。
 それ以前に、隣に座る藤堂に申し訳なさ過ぎて、目眩がしそうになっている。
 年度末の激務の間を縫って、わざわざ家にまで来てくれた。
 今日早く帰るために、彼がどれだけ多方面と調整していたかを、果歩はよく知っている。こんな展開になると分かっていたなら、何があっても家に呼んだりはしなかったのに。
「一度でも手を出した以上、上司だの部下だの、卑怯な言い訳は二度とするな。今ここで、はっきり約束してほしい。そもそもあんたは、果歩と結婚する気があるのかないのか」
「お父さん」
「お前は黙ってろ!」
 席を立った果歩は、憤りをもてあましながら、動かない藤堂を見下ろした。
 彼の横顔に浮かぶ苦渋が、見て取れるようだ。   
「31の娘にそれが言えないような男に、悪いが娘をやることはできん。今すぐ、果歩と別れて、この家を出て行け」
「……僕は……」
 膝に置かれた彼の指に、力がこもるのが分かった。
「すみません。1月にご実家でお話させていただいたこと以上に、今、僕にお話できることは何もありません」
 なんて正直なんだろう、と、父に憤りながらも、果歩は内心脱力している。
 口約束で構わないのに、どうして適当な言い逃れができないんだろう、この人は。
「じゃあ、果歩と別れるんだな? そもそもつきあっていないという抗弁はもう聞かん。二度と果歩に関わらないというんだな?」
「……それは」
 がっと憲介が立ち上がった。その時には母の宮子が父の前に、果歩は藤堂を守るように、それぞれ身を乗り出している。
「よく分かった。娘は退職させて結婚させる。宮子、市役所の人事課に電話しろ!」
「もう閉庁時間ですよ」
「そうか、では俺が明日電話する」
 言い出したら引かない父の気性を知っている果歩は、顔を青ざめさせていた。
「ちょっとお父さん」
「宮子、果歩を家から一歩も外に出すな。役所には二度と行かせなくていい。ちょうど上司とやらがそこにいるんだ。退職の意思はもう伝えた」
 果歩が何か言う前に、父は藤堂を睨みつけた。
「帰れ! たとえ天地がひっくりかえってもお前に果歩をやることはない。――帰れ!」
 いやもう、ちょっと待って。父が短気で怒りやすいのはいつものことだが、この展開はいくらなんでも滅茶苦茶だ。
「あのね、お父さん」
 その時、山のように動かなかった藤堂がすっくと立ち上がった。
 いきなり高みから見下ろされ、身長170センチの父がうっと眉を寄せる。
「娘さんは、あなたの所有物ですか」
「――なんだと?」
 藤堂の抑えた声に、珍しく怒りがこもっているのが分かり、果歩は驚いて彼を見上げる。
「僕のものではない。でも的場さんは、あなたのものでもありません」
 父同様、果歩もまた唖然としていた。
 いや、ここで――今、そんなことで反論する?
「なんだと、貴様――!」
 コーヒーカップの壊れる音、母が父にしがみついて「美玲!」と何故か、なんの役にもたたない妹を呼ぶ。待ってましたとばかりに美玲が駆け込んでくるが、もちろん、何ができるわけでもない。
「帰ります」
 藤堂は上着を取り上げて、一礼した。
「当たり前だ、二度と俺の前に顔を出すなよ!」
 父が真っ赤になってまくしたてる。果歩は貧血を起こしそうになっていた。最低だ。
「退職の件は、ご本人からその申し出があれば検討します。もちろんすぐにと言うわけにはいかない。仕事の引き継ぎというものがありますから」
 落ち着いた口調で言った藤堂が、再度深く頭を下げる。
 それでも、彼がまだ怒っているのが果歩には分かった。
 誰に? 非常識なことを言った父に? でもここは――ここは空気を読んで、引くところじゃないの? こんなことじゃ4月になっても、私たち――
「藤堂さん、コート」
 呆然と立つ果歩に代わり、美玲がコートを持ってきてくれた。 
 受け取った藤堂が、「今日はごちそうさまでした」と、頭を下げる。
 もはや静まりかえった家の中で、それに答える者はいない。
 彼が玄関の方に歩いて行こうとするので、果歩は弾かれたようにその後を追った。背後から「行かなくていい!」と父が怒鳴るのが分かったが、それは無視した。
 果歩自身も怒っていたからだ。父にも、そしてこんな風に帰ってしまう藤堂にも、それをどうすることもできない自分にも。
「……あの、藤堂さん」
 玄関で、しかし果歩はおろおろと声をかけることしかできなかった。「果歩、そんな男をもう構うな!」父の声がリビングから響く。
 背を向けて靴を履いた藤堂は、果歩に向き直って、申し訳なさそうに頭を下げた。
 けれどその目には、まだ平静にはなりきれていない何かがある。
「すみません、また後日、改めてお詫びに伺います」
 いや……これってもう、ある意味致命的じゃない?
 扉が閉まっても、果歩はその場から動くことができなかった。
 父と藤堂さんが喧嘩した。交際さえしていない2人の関係は、そもそも喧嘩の土壌にすら上がっていないはずなのに、いきなりそこまでいっちゃった。 
 これ――一体、どうすればいいの?
     
 *************************

「……はよう、ございます」
 翌朝――正確には午後になって、果歩は死人のようにふらふらと登庁した。
 忙しい折、半日休暇などもっての他だったが、そこは体調不良で通させてもらった。
 決して藤堂へのあてつけではない。父が本気で市役所の人事課に電話しようとしたからだ。
 それを、果歩と母とで必死に説得して諦めさせた。
(お父さん、藤堂さんはご実家が複雑で、まだ私との結婚を許してもらえるような状況じゃないのよ。今それを、なんとかしてくれている最中だから)
 果歩は仕方なく、藤堂がかつて養子にいっていた家で、彼が別の人との結婚を求められているというようなことを曖昧に説明した。
 正直言えば、それが「4月まで」の本当の理由かどうかも分からなかったが、他に説明しようがない。そうまで言わないと、本当に父は人事課に電話をする勢いだったからだ。
 しかし、その話をした途端、今度はやや果歩の味方だった母の顔色が変わった。
(果歩、仕事を辞める必要はないけど、そういう面倒な人はやめた方がいいんじゃないの。1年か2年か、その人にはなんでもない時間だけど、あんたはもう、35になるのよ)
 いや、お母さん。31に2を足しても35にはならないから。
 結局、藤堂と別れるか仕事を辞めるか、その意味の分からない二択を突きつけられたまま、果歩はようやく両親から解放されたのだった。
 しかし意味が分からないのは、仕事を辞めるという選択肢を、父が強硬に言い張ることだ。何故そこに退職という極論がでてくる?
 35の娘(もう否定するのも面倒になった)を今さら無職にさせて、どうしろっていうんだろう? まさか、部下の松本さんと、もう一回見合いさせようとでもいうんじゃ……。
 幸いなことに、今、一番顔を合わせづらい藤堂は席空けだった。それにはほっとしたものの、課内の様子もどこか変だ。
 昼前だというのに、全員妙に静まりかえって、会話がぎこちないというか……。
 不穏なものを感じながら席についた果歩は、机上に置かれた書類を整理して、そこに、今日が提出期限の届けがないことに気がついた。
「南原さん、……住居変更届けがまだだけど、やっぱり間に合いそうもない?」
 水原に聞こえないように、声のトーンを下げて隣席の南原に声をかける。
「いや、もう引っ越さないから」
 と、パソコンから顔も上げずに南原。
「……そうなの?」
 おかしいな。乃々子の話では、不動産会社をしているという父親の紹介で、マンションを購入するみたいな話だったのに。
「てか、結婚もなくなったから」
「そうなんだ。……、……ええっっ」
 果歩は思わず声を上げたが、課内は水を打ったように静まりかえっている。
「そゆことなんで、もうこの話は一切すんなよ」
 南原が冷めた目で席を立つ。そこで昼休憩のチャイムが鳴った。
 



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