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年下の上司 story19〜March

マリアージュ(10)

 
「瑛士様、どうされました」
 2コール目の途中で電話に出てくれた男は、珍しく戸惑いを含んだ声をしていた。
「片倉、一つ確認したいことがある」
 階段の踊り場まで出た藤堂は、声をひそめて切り出した。
 午後7時少し前。6時前に外に出た果歩はまだ帰ってこない。。
 その少し前に前園晃司も外に出たから、多分2人は一緒なのだろう。
 今日一日、さまざまな驚きに翻弄されたであろう彼女に寄り添ってあげられなかったことが、多少の心残りになっている。
 しかし年度末、人事異動を控えた局の総務課は、想像以上の慌ただしさだった。
 今も執務室では、南原と大河内が引き継ぎをやっている。藤堂もすぐに戻ってその輪に加わらなければいけない。
「先日、帝さんが僕を訪ねて役所にやってきた。その時、ひとつ気がかりなことを言われたんだ」
(今の彼女には、俺と結婚するだけの価値がある。そういうことになったんだよ)
 その言葉の意味を、ここ数日ずっと考え続けてきた。
 2月以来、帝を動かしているであろう人物の意図を、ずっと考え続けてきた。
 しかし、その意図はもちろん、帝の放ったヒントの意味すら分からない。帝の思惑はともかく、その人物はどうあっても彼女の味方でなくてはならないからだ。
 藤堂に想像できることはひとつで、それには必ず、二宮の義父が絡んでいなければならなかった。
「先月、義父は的場さんと会っている。彼女のことで、義父が何かを決めてしまったということはないだろうか」
 少しの間、片倉には不似合いな沈黙が返された。
「瑛士様、その件について、私にはお答えすることができません」
 藤堂は黙って眉を寄せた。
 分からないのではなく、答えられない。
「私が、幼い頃に申し上げたことをお忘れですか」
「…………」
「お察し下さい。この件で、私は一切手出しはできません」
 通話が切れ、藤堂は、自分が抱いていた予感が、にわかに現実味を帯びてきたのを感じた。
 今、片倉は、最大のヒントをくれたのだ。
 いざとなれば法律すら躊躇なく破る片倉が、唯一できないこと。
 それは、後継者争いに関わることだ。
 
 *************************
 
 午後7時過ぎ。果歩が役所に戻ると、都市計画局内が妙にざわついていた。
 ――……なんだろう?
 総務課内では、藤堂と志摩が深刻な顔で協議をしているし、次長室からは都市政策部の部長が、怒りも露わに飛び出してくる。
「どうなってるんだ、最近の若い奴は!」
 ――ん? ん? 今度は一体何があった?
 私が感傷に浸っている間に、また何か局に事件が起きたみたいな……。
「的場さん」
 自席に戻ろうとすると、ひらひらっと南原が手を振った。苦虫をかみつぶしたような、あきれ果てたような、なんとも言えない顔をしている。
「何があったんですか」
「辞めるんだってさ、役所」
「……、誰が、ですか」
 ドキッとしたのは、それが藤堂ではないかと思ったからだ。
 しかし南原は、親指で局長室の方を指し示した。
「今、局長と話してる。須藤」
「えっ……」
 須藤?
 須藤って、もしかして――
 ――流奈??
「退職は3月31日だけど、年休とって、明日からもう役所に出てこないんだそうで。まぁ、なんつーか、どこまでも勝手な奴だよな」
 果歩は、ぽかんと開けた口を閉じるのも忘れていた。
 ――え……?
 は……? この驚きの1日の最後の最後で、これは一体、どういう展開?
「的場君」
 課長席から、志摩の重々しい声がした。
 果歩は慌てて姿勢を正し、課長席に駆けていく。着席したままの志摩の隣では、藤堂が翳った表情で立っていた。
「今、聞いた通りだ」
「は、はい」
 志摩の簡単すぎる説明に、果歩は戸惑いながら頷いた。
「業務が大変な時期に悪いが、君にはしばらく都市政策部の庶務を兼任してもらいたい。須藤君の穴が埋まるのは、次の人事異動の時になる」
 つまり、4月下旬だ。さすがに果歩は目眩がしそうになっていた。ただでさえ激務の4月に――これはもう、確実に胃薬が必要だ。 
 流奈――あんたって奴は!
「的場さん、総務の仕事は僕が引き受けますから」
 席に戻ろうとすると、背後から藤堂の声がした。
「いえ、大丈夫ですよ。係長もお忙しいのは分かってますから」
 心配そうな顔の藤堂に向かって、果歩は軽くガッツポーズをしてみせた。
 くさっても8年ここで庶務をやってきた。もう段取りは完璧に頭に入っているし、これに関しては藤堂よりスムーズに仕事をこなせる自信がある。
 むしろ年度またぎを初めて経験する藤堂の方が大変だろう。
「なんとかするので心配しないでください。あー、でも、土曜日の結婚式がちょっと厳しいですね」
「あ、でしたら係長も的場さんも来なくていいので」
 と、すかさず目を輝かせて南原。
「絶対にいきますから」
 そこは挑発的に返しておいて、果歩は自席に戻ってパソコンを開いた。感傷にふけっている暇はこれで完全になくなった。それはそれでなんだかちょっとありがたい。
 正直、今夜家に帰ってしまったら、めそめそ泣いてしまいそうだったから。
 もうこうなったら、死ぬ気で頑張るしかない。これも異動前の最後の恩返しというやつだ。
 ――てか……。
 そうして冷静になってみると、果歩は改めて事態の異常さに首をかしげた。
 流奈、なんで退職? 何があった?
 役所を辞めるなんて、さすがに一時の思いつきではないだろう。
 よほどの覚悟がないと決断できないだろうし、つい先日も給湯室で、女性の派閥を作ると息まいていたばかりの流奈だ。
「……もしかして結婚?」
「知らね」
 南原は肩をすくめたが、会話が聞こえたのか水原が「違うみたいですよ」とためらいがちに口を挟んだ。
 南原の異動内示後、ずっとめそめそとしていた水原だが、夕方になってようやく気持ちを切り替えたらしい。
「僕……政策部長と須藤さんが話しているのを聞いちゃったんです。須藤さん、自己都合としか言いませんでした。結婚でも妊娠でもないって」
「言っとくけど、お前の立ち聞きは一番信憑性がないからな」
 南原の嫌味に、うんうんと果歩も頷いた。しかし、この内容で、さすがに聞き間違いもないだろう。
「係長は、何か聞いてないんですか」
 大河内がそう言ったが、それにはしばらく沈黙だけが返された。
「係長?」
「――えっ、あ、はい、なんでしょう」
 珍しい。藤堂さんが本当に聞いてないなんて。
 だいたい聞いてないようで、会話の内容は何故か頭に入っている人なのに。
 というより、なんだか今日1日、元気がないように見えるのは考えすぎかしら。
 金曜日の祝いの会で、急に距離を詰めてきたことや、ひどく酔っていたことだって、「すみません、あまりよく覚えてないんです」と、あっさり振り出しに戻されたし。
 ま、それもいつものことですけど。
 その時、局長室が開いて、「失礼しまぁす」と明るい声と共に流奈が出てきた。
 彼女が振り返った途端、総務課の大半が顔を伏せて目が合わないようにしている。
 果歩は顔を上げて流奈を見ていた。果歩の視線に気づいた流奈は、楽しそうににっこりと笑う。
「的場さん、じゃ、さっそく引き継ぎさせてもらっていいですか」

 *************************

 流奈の出してきた書類は、どれも意外なほどきっちり整理されていた。
 仕事の工程も分かりやすくマニュアル化されていて、多分4月に自分が異動することを見越していたのか、引き継ぎの準備はほぼ完璧といっていい。
 晃司の姿はもうなかった。聞いた話だと、流奈が辞めますと言い出す前には、局長に挨拶を済ませて帰宅していたらしい。
 晃司が知ったらどう思うかしら、――と思ったが、きっと流奈が自分で知らせるんだろうなとも思った。
 都市政策部は、当たり前だが全員が呆れていた。
 若い男性職員や他局の女子職員が「寂しくなるよ」「どうしたの? なんで?」と流奈の元にやってきたが、それは表向きの態度で、影に回れば悪口が始まるんだろうなという気がした。
 果歩は流奈の席の隣――綺麗に片付けられた晃司の席に座って引き継ぎを受けたが、課内に漂う針のむしろのような空気は、ひしひしと伝わってきた。
 実際、社会人として、誰の迷惑も顧みない最低の辞め方をしようしているのだ、流奈は。
 しかしその空気が全く読めないのか、流奈は全くいつもの調子で、手際よく引き継ぎを続けていった。
「あー、ここの数字の出し方がちょっと独特なんですよ。的場さん、まだ大丈夫です?」
 説明をしていた流奈が不意に言ったので、果歩は反射的に腕時計を見た。
 あと少しで10時半――さすがに都市政策部からは、2人以外の姿が消えている。
「そ、そうね。さすがにそろそろ……」
 果歩は立ち上がって総務課の方を見た。総務課には、まだ藤堂と南原が残っている。
 あ、よかった。できたら今夜は、藤堂さんに流奈も送ってもらおうかしら。
「私のことならほっといてもらっていいですよ。まだ机の片付けもあるし、ロッカーから私物も出さなきゃだから」
 果歩の気持ちを読んだように流奈が言った。
「この数字の出し方、メールで的場さんに送っときますね。帰りはタクシーを拾うのでおかまいなく。今さら、的場さんの恋路を邪魔するつもりもないですし」
「…………」
 あまりにからっとした流奈の態度に、果歩はさすがに放っておけないものを感じていた。
 今夜、課長ですら流奈を無視して、さっさと帰宅の途についた。
 何人かはおざなり程度に声をかけて帰っていったが、それも型通りの挨拶にすぎない。
 あんなに局で人気のあった流奈が――2年も愛されキャラ(果歩にとっては違うが)で通してきた流奈が、こんな寂しい辞め方をするなんて、余りにも悲しすぎる。
「辞めるなら辞めるで、もうちょっと順序を待てばよかったのに」
「んー、それ、局長にも言われましたけど」
 特に気にもしていないのか、流奈は軽く肩をすくめる。
「逆に聞きたいんですけど、人生の一大事に、順序とか守って何か意味があるんですか? 周りの人たちが納得するまで仕事をしたら、その人たちが私の人生、どうにかしてくれるんですか?」
「……それは、でも、色々お世話になったから」
「そうですね。それでも譲れないことってあると思ってるんで、私」
 いつも以上に話が通じないことに、ため息が出そうになる。
 というか、人生の一大事ってなんだろう。何か事情があるならきちんと説明したらいいのに。そうしたら、周囲に理解もされるだろうに。
「じゃ、これで終わりです。遅くまでありがとうございました」
 最後はらしからぬ態度でしおらしく礼を言うと、流奈は財布を持って立ち上がった。
「どこに行くの?」
「16階です。喉渇いたんでジュース買いに」
 果歩はちらっと総務課を見た。まだ藤堂は残っている。
 すみません、もうちょっとだけ待ってて下さい。
「じゃ私もいこうかな。せっかくなんで奢ってくれる?」
「図々しい。普通後輩に奢らせます?」
 それでも2人は揃ってエレベーターに乗って、人気のない真っ暗な16階に降り立った。
「――本当は、なんで辞めるの?」
 思い切ってそう聞くと、闇の中で、流奈が微かに笑うのが分かった。
「絶対聞いてくると思ってた。私、的場さんに知られるのが嫌で、誰にも理由を言わなかったのに」
「……はい?」
 ――私?
「ごめん、意味がよく分からないんだけど」
「正確には的場さんからあの女に伝わるのが嫌で黙ってました。でももういいかな。そろそろあの人、東京ですよね」
「………」
 ――それ……まさかと思うけど、りょうのこと?
「私、ロサンゼルスに行くんです」
 数秒遅れてその意味が分かり、果歩は言葉を失っていた。
「……まさか……、晃司のところ?」
「そうです。ちなみに前園さんは、まだそのことを知りません」
 いや、知らないって、え?
 だって晃司は――言っては悪いけど、流奈じゃなくてりょうを選んで……。
 流奈は自動販売機の前に立つと、晃司が買ってくれたのと同じ缶コーヒーを選んで、果歩に差し出した。
「今朝、前園さんがロスに行くって聞いて、その時はてっきりあの人もついて行くものだと思ってました。でも――昼休憩に、屋上で立ち聞きしちゃって」
 それは私とりょうの会話のことだ。
 そういえば、以前も流奈が、突然屋上に現れたことがあった。あれも今思えば、りょうの動向を窺っていたに違いない。
「その時、仕事辞めて私が行こうって決めたんです」
 薄闇の中で、流奈の目がまっすぐに果歩を見つめていた。
「あの人が、心変わりして前園さんを追いかけて行く前に。前園さんが、寂しくなって日本に戻ってくる前に」
「…………」
 2人をよく知っている果歩には分かる。そんなことは、絶対にないだろう。
 それでも果歩は。流奈の言葉の強さに圧倒されていた。
「だから、今しかないんです」
 自分に言い聞かせるように流奈は言った。
「誰に迷惑かけたって、嫌われたって構わない。前園さんと二度と会えなくなることに比べたら、そんなの、なんともありませんから」
 語尾が微かに震えている。流奈の強がりの下の素顔を見た気がして、果歩は胸がいっぱいになっていた。
「……そんなに、好き?」
「好きですよ。もう、大好き」
 そのまましばらく動かなくなった流奈が、闇の中で声を殺して泣いているのが分かった。
「いつから、そんなに好きだったの?」
「いつかな……。藤堂さんに完全にふられて、入江耀子にいいようにやられてた頃、無駄におせっかいやかれて、励まされた時かな。……前園さんが、的場さんの気を引きたくて、そんな真似したんだってことは分かってたんですけど」
「…………」
「最初はちょっと面白半分に絡んで、1人で深みにはまっちゃった感じ。だから前園さんは、まだ私が藤堂さんのことを追っかけてると信じてますよ」
 涙を両手で払うような仕草をして、流奈は自分の分の炭酸飲料を買った。
「どうせ私のこと、卑怯で馬鹿な女だと思ってますよね。なんとでもご自由に。宮沢さんには申し訳ないと思うけど、手を離した方が悪いんです」
「…………」
「私なら絶対に離さない――たとえ振りほどかれても、食らいついていきます」
 りょうの気持ちを思うと、なんと言っていいか分からなかった。
 でも、たとえ生まれ変わっても、りょうにも――そして果歩にも、流奈のような行動力は絶対に持てない。
 いじらしいまでの情熱と、火のように激しい行動力。
 今にして思えば、藤堂が落ちなかったのが奇跡のようなものだった。晃司はきっと驚くだろうし、最初は必死に逃げるだろう。でも……なんだろう、いい意味で、もう時間の問題だという気もする。――
 りょう……、もう舞台を降りた人に言うセリフじゃないけれど、負けちゃったみたいだよ、私たち。
 悔しいけど、これが二十代と三十代の差なのかしらね。
 果歩は思わず、苦笑して言っていた。
「敵わないよ、流奈には」
「やっと気づきました?」
 流奈は明るい声で言うと、ひらっと手を振って、エレベーターホールの方に消えていった。  

 

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