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年下の上司 story19〜March

マリアージュ(11)

 
「すみません、じゃ、役所で待ち合わせってことでいいですか。はい、私もぎりぎりまで仕事してると思うんで」
 ――土曜日、的場家。
 藤堂との通話を切った果歩は、改めて鏡に向き直った。
 寝不足で、目は軽い充血状態。コンタクトがその目の中でゴロゴロしている。
 それもそうだ。昨夜は庶務総出で(新郎の南原も含め)深夜11時まで仕事をした。へろへろになって帰宅した果歩はベッドに倒れこむやいなや泥のように眠り、朝の4時に飛び起きた。そこから再度入浴して予約した美容室にタクシーで直行。
 帰宅した今の時刻は午後8時――そう、今日の果歩はある意味勝負に出たのである。
「お姉……、おっと」
 いつものようにノックもなしに部屋に入ってきた美玲が、鏡の前に立つ果歩を見て言葉をのんだ。
「びっくりした、お正月かと思っちゃった」
「お姉ちゃん、今日は同僚の結婚式なのよ」
 台所から母の声がした。
「二次会もあるだろうし、自分で脱げもしない着物はどうなのかしらねと思ったんだけど、まぁ、どうしても着たいっていうから」
「いいんじゃない? そろそろ着物もお姉には賞味期限が近いわけだし」
 それは振り袖の話であって、そんなものとっくに着てません。
 25歳の誕生日に買ってもらった淡い金糸雀色の訪問着は、やはり友人の結婚式で一度か二度袖を通した。そして今年のお正月――見合いにために無理に着せられたのだが、そこに藤堂がやってきた。
(――僕のために、着て欲しかった)
 その時のセリフを、果歩はまだしっかりと覚えている。
 藤堂さん、今日私はあなたのためにこの着物を着るんです。(ごめん、乃々子)
 だって4月まであと2日。もう、いいですよね。指輪を直しに行こうって言っても。
 先月買ったドレスと着物と、最後まで選択に迷ったが、結局は着物にした。
 言っては悪いが、藤堂の婚約式に出るために買ったドレスは少々縁起が悪すぎる。で、いくらなんでもゴージャスすぎる。
 チャペルに着物はどうかと思って調べてみたが、着物で出席する人も多いらしく、そこは問題ないようだ。結婚式の後は、南原家と百瀬家で合同の食事会をするらしく、二次会の予定もない。皆仕事で疲れ切っているし、おそらく現地解散になるだろう。
 さすがに1日着物でいる自信はないが、半日くらいなら我慢できる。
 小物を最近の流行に買いそろえたり、市内で有名な着付けのできる美容院を予約したりと、準備は完璧すぎるほど完璧だったが、唯一中の人(果歩)だけがくたびれ果てていた。
 しかも、仕事が全く片付いていない。
 本当なら、タクシーでチャペルに颯爽と降り立ち――そこにいる藤堂の視線を独り占め――乃々子ごめんなさい――のはずだったのだが。
 結局この格好のままで今から休日出勤。で、ぎりぎりまで役所で仕事をすることになったのだ。そこに藤堂も来てくれるから、つまりこの、勝負を賭けた衣装をお披露目するのが執務室……。
 げんなりとため息が出たが、同じ姿ならお正月にも見せているから、最初のインパクトに拘らなくてもいいだろう。今日、彼に見せたいのは果歩の心意気なのである。
「果歩、下にタクシーが来てるわよ」
 母の声に、果歩はハンドバッグを持って部屋を出た。もちろん、いつもみたいに大股でバタバタ走ることはできない。
 リビングに入った途端、ソファに座っていた父がバチッとテレビを消した。その突然さに眉を寄せた時、その父がいかにも不機嫌そうに立ち上がる。
「着物か」
「あ、うん」
「……そうか」
 え? 何、そのちょっと残念そうなニュアンスは。
「私もやめておけって言ったんだけど」
 と、追い打ちをかけるように台所から母。
 はい? なんでなんで? この格好ってそんなに浮いてる? そんなに私に似合ってない? お正月は、お見合いだからって半ば強制的に着せられたのに。
「まぁいい。今夜、帰りは何時になるんだ」
「あー、いったん帰って、着替えてまた仕事だと思う。うーん……」
 運良く藤堂さんと一緒に指輪を直しに行けたとして――「3時くらいかな?」 
「そうか」
 と、またしてもテンションの低い父の声。
「ま、あまりハメを外さないようにな」
 31歳の娘が、後輩の結婚式でどんなハメを外すというのか。
 釈然としないものを感じながら、果歩は「行ってきます」と言って家を出た。

 *************************

「うー、これとこれと、これ。あー……これだけは、4月までにやっておかないと」
 朝の8時半、なんの因果か定時ぴったりにたどり着いた執務室は、予想以上にとっちらかっていた。昨夜は結構片付いたと思ったのに、チェック漏れや処理忘れも結構あって、これは明日も確実に休日出勤だ。
 休日入り口の前にある警備室では、着物姿の果歩に、警備員がびっくりしていた。まぁ、ある意味当たり前の反応だ。普通、こんな格好で仕事に出てくる人なんていない。  
「おはようござい――……え?」
 その声に振り返ると、カウンターに、少し意外そうな目をした藤堂が立っていた。
「驚いた、着物だったんですね」
 しおらしく頷いた果歩は、逆に藤堂の正装姿に釘付けになっていた。ここ数日、互いに疲労困憊してよれよれだったから感動もひとしおだ。
 暗い色合いのスーツにモスグリーンのタイ。それがあまりに素敵すぎて、いっそこのまま結婚しちゃいましょうか、私たち。と言ってしまいたくなる。
 しかし、感慨にふけっている暇はない。
「10時にはここを出ないと間に合わないので、さっさとやってしまいますか」
 藤堂はさっそく気持ちを切り替えたのか(早すぎるけど)、上着を脱いで自席についた。
 まぁ、もうちょっと見惚れて欲しい気もするけど――そこは、女心が全く分からない藤堂さんらしいというか。
「的場さん、この数字……」
「え?」
 果歩が席を立とうとすると、藤堂が急いで立ち上がった。
「あ、いいです。僕が行きます。いちいち立ち上がるのも大変でしょう」
 藤堂が果歩の背後に立ち、綺麗な手が、出力した書類をデスクに並べた。
「ここの数字は、少し根拠が曖昧ですね。累計より平均の方がいいと思います」
「え、でも去年もこれで提出したんですよ」
 囲うように伸ばされた腕の辺りから、ふわっと彼の香りがする。
 計算根拠を説明しながら、果歩は久しぶりにドキドキしていた。
 最近はずっと忙しくて、なかなか2人になれなかったから、こういうもどかしい空気感も久しぶりだ。触れられそうで触れられない上司と部下。近づいても決して埋まらない2人の距離。――
「そうかな。ただ、昨年と今年とでは少し事情が違うと思うんですよ、というのも……」
 身を屈めた藤堂の息が、微かに耳にかかった気がして、ドキッと果歩は身をすくませていた。
 おっとこの距離の近さ――いや、距離感は今まで通りだけど、私の髪型の問題か。今日は、髪をアップにして、耳もうなじも出しているから……。
 そのせいかもしれないけど、普段より、すごく近くに彼の温度を感じる。
 とはいえ藤堂はそれに全く気づかないのか、数字の齟齬について、むしろ無神経なほど懇切丁寧に説明してくれた。
 ――ちょっと息が……、あの……、できたらもう少し離れてくれると、気持ちも落ち着くんですけど! 
「――的場さん?」
「えっ? あ、はいはい、よく分かりました、すぐ直します」
 彼の視線を避けるようにうつむいた果歩は、赤くなった頬を軽く叩いた。
 本当は半分も頭に入ってこなかったけど、ひとまず藤堂さんの指示通りに直します。
「…………」
 藤堂は何故か黙ったまま、その場から動こうとしない。
 彼の視線をうなじのあたりに強く感じる。多分、顔と同じで耳も首筋もうっすら赤く染まっている。
 こくっと自分の喉が鳴った。机に添えられた彼の指が、その刹那微かに動いた気がした。心臓がドキドキと高鳴り始める。
 なんかもう――このまま、背中から抱き締められてしまいたい……。
「……的場さん」
「は、はい」
「少し、仕事の速度を速めてもらえますか」
 さすがにそれには、がくっと肩が落ちそうになった。
 こんな時でも仕事モード。ま、そうですよね。それが藤堂さんでした。無駄に期待してすみません。
「10分もあれば済むと思うので」
「……えっ? 10分ですか?」
 それには驚いて、果歩は背後の人を振り返っていた。
「藤堂さんには出来るかもしれませんけど、私にはさすがに無理です。15分はいただかないと」
「いえ、仕事の話じゃないですよ」
 苦笑した藤堂は、果歩から離れて自席に戻った。
 意味が分からず、果歩はただ眉を寄せる。
 ――仕事じゃない? じゃあ、一体なんのこと?
「仕事が終わったら、次長室、いいですか」
「……? は、はい」
 ――次長室……?
 計算式の修正をしながら彼の謎のワードを整理していた果歩は、次第に顔が熱くなるのを感じていた。
 10分で済む――次長室?
 いやいやちょっと待って、藤堂さん。
 次長室で10分で済むことって何ですか?

 *************************
 
「じっとして」
「は、はい……、でも本当に大丈夫なんですか」
 仕事の間中、藤堂の真意を測りかねて気もそぞろな果歩だったが、結末はやはりというか、案の定というか――それでも、少しばかり意外なものだった。
 扉を開けたままの次長室。
 立ったままの果歩の背後では、藤堂が帯を結い直してくれている。
(帯が少し崩れているので、僕が直してもいいですか) 
 そう言われた時は何かの冗談かと思ったが、よく考えたら藤堂の母は着付け教室の社長をしているのだ。
 彼は慣れた手つきで複雑に入り組んだ帯を解くと、今日の美容師より器用な手つきでそれを再び結び始めた。
「でも、藤堂さんが着付けまでできるなんて驚きです」
「母に教えられたんですよ。去年は、週末の度に母の会社に行って、仕事を手伝っていましたから」
「そうだったんですか」
 そっか。当時、週末の誘いを必ずといっていいほど断られていたのはそういうことか。
「あまり上手ではないですけど、髪も少しなら直せますよ」
「はぁ……」
 しかしこの人の生存スキルってとんでもないな。一体いくつ隠れた技を持っているんだろう。たとえ南海トラフ地震が来て、日本が半ば壊滅しても、この人と一緒だったら生き残れそうな気がする。
 でも、26歳にもなった成年男性が、一応彼女かもしれない人の誘いを断ってまで、毎週母親の会社を手伝っていたなんて――
「もしかして、お母様の会社を継がれるつもりなんですか」
 その質問に藤堂は驚いたのか、心外そうに咳き込んだ。
「い、いや、それは母も思ってもいないはずです。ただ僕は、随分長く母と離れて暮らしていたので」
 ――あ、そうだった。
「海外から日本に帰ってきて、最初の会社がとにかく忙しかったので……、そうですね。役所に入ってひとまず土日が休めるようになったので、その間くらい母の傍にいてあげたいと思ったのかもしれません」
 そうでしたね。事情を知ってたくせに余計な推測をしてしまってごめんなさい。
 そうか――優しいな、藤堂さんって。
 言い方を変えればマザコンと紙一重だけど、私のこともちゃんと大切にしてくれてるし。
 そもそもお母様が、いい意味で藤堂さんのお母さんらしくて、さっぱりした人だし。
 もし結婚したら、やっぱり週末は時々お母様の所に行くのかな。その時は私も――何かの役に立てれば嬉しいな。
「わ……、私も、着付け、習おうかな」
「母も喜ぶと思いますよ」
 果歩としては、勇気を振り絞った一言だっただけに、さらっと流されてがっくりきた。
 ほんっとに鈍い。もしかして4月があと2日後に迫ってることまで忘れてるんじゃないだろうか。
「すみません、お疲れなのに立たせたままで。もうすぐ終わりますから」
「あ、いえ」
 ――てか、藤堂さん、さっきは絶対分かってて私のことからかってましたよね。
 次長室で10分で済むって、さすがにエッチなことまでは想像しませんでしたけど(本当はしていた)、ちょっとは期待してしまったじゃないですか。
 今年に入って改めて知ったことだが、犬のように素直で害のなさそうな藤堂には、案外意地の悪いところがある。
 今だって、私が動揺したり顔を赤くしたりしていたのを、楽しんでいたに違いない。
 ――なんか、ちょっと腹立つな。
「よし、これでいいかな。じゃ、少し早いですけど、そろそろ」
 行きましょうかと、彼が言う前に、果歩は前傾姿勢になって、片手をソファの背もたれについていた。
「どうしました?」
「……すみません、ちょっと、貧血みたいで」
 藤堂が少し慌てたように、肩に手を置いてくれる。
「少し座って休みますか」
 そういうことじゃないでしょ、本当にこの人は――
 くるっと身体の向きを変えた果歩は、そのまま藤堂の胸に身体を預けた。
 彼が絶句して、固まっているのが分かる。
「こうしていれば、楽になります」
 ざまあみろ。と、果歩はちょっと乱暴な言葉を内心呟いて、ちろっと舌を出していた。
 少し卑怯な手だったけど、私をからかったおしおきです。
「…………」
 黙ってしまった藤堂の手が、ややあって、そっと背中に回される。
 果歩の着物や帯を庇うように抱き締めると、彼はしばらく動かなくなった。
 果歩もまた、思わぬ展開にドギマギしたまま、同じように動けなくなる。
「……あの、藤堂さん」
「……もう少し」
 囁いた彼の唇が首筋に淡く触れる。果歩はびくっとして顎を引いた。
「……あ」
 首に、耳に、そっと唇が押し当てられる。
 彼の呼吸の熱さに、息が止まりそうになった。
 そのままキスするのかと思ったが、藤堂は顔を上げ、果歩の頭をそっと抱いて自分の方に引き寄せる。
「…………」
「…………」
 罠にかけたと思っていたのに、結局落ちていたのは果歩の方だった。
 今の、掠めるような首や耳へのキスだけで、本当に自力では立てなくなっている。
「貧血は、嘘?」
 やがて落ち着きを取り戻したのか、優しい声で藤堂が言った。
「……、すみません。でも、藤堂さんが意地悪するから」
「したかな」
「――っ、したじゃないですか。分かってるくせに」
 耳元で、彼が微かに笑うのが分かった。
「すみません、本音を言うと、少し、おもしろくなかったのかもしれないです」
「……おもしろくない?」
「ここ数日、的場さんの視界に全く僕が入っていなかったので」
「…………」
「ちょっと、ひねくれた気持ちになっていたのかな。すみませんでした」
 ――え?
 何言ってるの、この人。
 そりゃ、りょうや晃司や流奈のことで色々あって、藤堂さんと少しばかり距離が出来ていたのは確かだけど。
 わ、私の気持ちなんていまさら――いまさら、いちいち言わないと分かんないんですか?
 私なんて基本、朝から夜まで藤堂さんのことばかりじゃないですか。
「すごく、似合ってます」
「……え?」
 反論の言葉を探している間に、そう囁かれたので、果歩は顔を上げて藤堂を見た。
 彼は、少しまぶしそうな目になって微笑する。
「今日、それを言ったのは僕が最初ですか」
 ――……最初です。
 本当は次長室なんかじゃなくて、もっとロマンチックな場所でそう言ってもらいたかったけど――もういいか。
 あ……キスするなと思ったので、果歩は自然に瞼を閉じていた。
 が、藤堂は動かず、肩に置かれた手に、強張ったような力がこもる。
「うー、オホンッ」
 その咳払いだけで、果歩は全身の血の気が引いたようになっていた。
 見上げた藤堂は、もはや観念した人のように頭を垂れている。
 開け放たれた扉の向こうに、この部屋の主が立っていた。

 


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