「結婚式?」 果歩がそう聞くと、乃々子はハンカチで目を覆って頷いた。 もうそのハンカチが水も滴るほどに濡れていたので、果歩はそっと自分のハンカチを乃々子に手渡す。 「そ、……そうなんです。お、お父さんが勝手に、し、式場を、予約しちゃって」 はぁ――としか果歩には言えなかった。 なにそれ、なんて娘思いのいいお父さんだろう。 昼休憩の屋上。3月の寒風が吹きすさぶ中、ぐずぐずに泣き崩れている乃々子を、果歩はなすすべもなく見下ろした。 「まぁ、それで……南原さんが激怒したと」 「け、結婚することになった時、南原さんが、ひとつだけ出した条件がそれだったんです」 結婚式は絶対に挙げない。 仰々しいことを嫌う南原らしい言い分だが、そもそも条件を出せる立場なの? と果歩は内心つっこんでいる。 「……その前から、実はいろいろあったんです。そもそもお父さん、南原さんとの初対面が最悪だったみたいで」 ああ……と、果歩もまた思い出している。 2月。あれはまだ、乃々子のお腹の子の父親が藤堂だったと疑われていた頃(自分も疑っていたことを果歩はすっかり忘れている)のことだ。 怒り心頭で飛び込んできた乃々子の父――お笑い芸人の「欧米か」のつっこみの人にちょっと感じが似ている――その人物をクレーマーだと勘違いした南原が、およそ公務員として最悪の対応をしたのだ。 もちろん、仮に本当のクレーマーだとしても絶対にしてはならないが。 「南原さんが、初めてうちに挨拶にしにきた時の、あの、……なんていうんですか、氷河期のような、息が詰まるような、葬式のような……分かります?」 「分かる」 それだけはものすごく。まるで昨日の出来事のように。 「父と南原さんが、ぎりぎりのところで我慢したのは、多分、私が妊娠してて、父としてはどうしても入籍させたかったからだと思います。南原さんにしても、順番が違うっていう負い目があるから、父に何を言われても謝るばかりで……。でも、もし私が妊娠していなかったら、父は絶対に許さなかった。きっと、役所を辞めるか南原さんと別れるかの二択だったと思うんです」 果歩は思わず、乃々子の手を力一杯握りしめていた。 「それで?」 「……? そ、それで、その時は一応、表向き和解? ……とにかく、お互いひきつった顔で、これからよろしくお願いしますみたいな挨拶を交わしたんです。でも父が……、マンションを勝手に決めてしまったり、入籍の日や、南原さんのご実家に挨拶に行く段取りを勝手にとりつけてしまったり」 そこは、「いいお父さんじゃないの」と言いたいところだったが、南原の性格を考えると、乃々子の苦悩が手に取るようだ。 元来気ままなところがあって、そのくせプライドだけはやたら高い南原は、そんなことをいちいち決められることが我慢ならなかったのだろう。 「南原さんも、そのあたりまでは、いいよって、なんとか気持ちを抑えてくれてたんですけど……結婚式場――知り合いの式場にキャンセルが出て、それを父が押さえたって知ったとき、ついにブツリと」 堪忍袋の緒が切れたと。 「後はもう、式をあげる、あげないから、結婚は許さん、しませんの流れですよ。南原さんも父もヒートアップするばかりで、私や母が何を言っても、聞く耳持たないんです」 ――昨日の的場家と同じ光景が、百瀬家でもあったのか……。 乃々子は、果歩のハンカチで、思いっきり鼻をかんだ。 「でも的場さん、父が悪いのは百も承知で言いますけど、南原さんも強情だと思いません?」 そして恨みがましい目で果歩を見る。 「いっちゃなんですけど、結婚式なんて、そこまで大げさに考えるようなことです? そんなの、適当に笑って突っ立っとくだけじゃないですか。しかもたった数時間の話ですよ」 「思うわ、全っ然たいしたことない」 果歩は力一杯同意していた。 適当に話を合わせて、結婚しますと、嘘でもいいから言えば済むだけの話だったのに。なにもそれを証に、本当に結婚しろなんて迫ったりしないのに。 ほんの少しでいいから、父の機嫌をとってほしかった。たったそのくらいの気遣いも、あの年下のクソ真面目な恋人はできないのだろうか。 「私なんて、10月まで大きいお腹抱えて働いて、挙げ句死ぬ思いをして出産するんですよ? 馬鹿じゃないかと思いません? たかだか数時間の結婚式で」 「ほんっと馬鹿よ、大馬鹿よ」 「ですよね!」 威勢良く言った乃々子は、しかし次の瞬間、再び双眸を涙に沈めた。 「……つまり、その程度だったんですよ、私に対する思いなんて」 自分のことのように(実際自分のことで)怒っていた果歩は、その刹那、はっとして乃々子の肩を抱いていた。 「もともと身体から入って、気持ちなんて後回し……。その気持ちもついてこなかったのかもしれないですけど、南原さんも、これで目が覚めたんじゃないかと思ったんです」 「…………」 「そしたらもう……悲しくて、悔しくて」 それは違うよ、と言ってあげたかった。 でも自分が言ったところで、なんの説得力もないことも分かっている。 同時に、乃々子の不安も一理あると思ってしまい、果歩は憂鬱なため息をついた。 ************************* 「よう、隣いいか」 グラスに口をつけていた藤堂は、その言葉で顔を上げた。 5時過ぎの職員食堂は、残業予定の職員が黙々と夕食を取っている。目の前に、トレーを手にして立っているのは都市政策部の前園晃司だった。 「どうぞ、僕はもう戻るところですので」 藤堂が立ち上がろうとすると、肩を上から押さえられる。 「隣いいかって言ってんだ。察しろよ、木偶の坊」 「はぁ」 察したいところだが、今日は本当に時間がない。藤堂が腕時計に目をやっても、晃司は気にすることなく隣に腰を下ろして箸を取り上げた。 「もう聞いてんだろ、局の庶務係長さんなら」 定食のアジフライを口に運びながら、晃司が言った。 「あれ、どういう人事だよ。1月に別の奴に決まってた海外派遣が、なんだって今になって俺?」 「さぁ、僕も詳しいことまでは」 嘘くせぇな、そう言って晃司は苦笑した。 「まぁいいよ。それがどういう理由でも。俺にとっては二度とないチャンスなんだ。俺、お前より先に局長になるぜ」 勝ち誇ったようにそう言う男が、不思議に浮かない顔をしている理由を考えながら、藤堂は空になったグラスを取り上げた。 「水、もらってきます」 「逃げるなよ。本当はほっとしてんだろ? 俺が果歩の前から消えることになって」 口を開きかけた藤堂は、何故か用意した言葉をのみこみ、無自覚に本音を口にした。 「半分は」 「なんだよ。半分って。じゃ、もう半分はなんなんだよ」 「…………」 「けっ、肝心なところはだんまりかよ」 それきり何も言わず、晃司はやけくそのように白飯を口にかきこんでいる。 一体、何の用で呼び止められたのか、今ので話は全部終わったのか――そう思いながらも、藤堂も何故か席を立たずにいた。 「ここの飯、こんなにまずかったっけ」 「そうでもないですよ」 「お前は雑食だから分からないんだ。まずいだろ。脂はギトギトだし、飯は硬いし」 「どこかで、美味しいものでも食べたんですか」 「…………」 不意に黙り込んだ晃司を横目で見てから、藤堂は席を立とうとした。その腕に、晃司の手が被さった。 「お前ならどうするよ」 「どうするとは?」 「たとえば――たとえばだけど果歩が、……」 「的場さんが?」 「その……島? 島流しにあってだな。お前が……なんつーの? お前が仕事やめてついていくしかなくなったら」 「……? 僕がついていくんですか? 的場さんが仕事を辞めるのではなく?」 「そ、その選択肢が絶対ないとしての話だよ」 困ったな。 今の立場で、どう答えていいものやら。 でもこれで合点がいった。須藤さんが言っていたのはそういうことか―― (女って、自分が手放したものが他の女のものになるのが、案外気にくわないものなんです。それが自分の一番仲のいい友達ならなおさら) 前園晃司の後任人事の件で人事課に協議に行った際、もれ聞いた噂が本当なら、この春、果歩の親しい友人がもう1人、灰谷市を去ることになる。 これは――本当に偶然か? 「彼女が本気でそれを望むなら、そうするんじゃないですか」 手元のグラスを見つめながら、藤堂は言った。 「……、そうするんじゃないですかって、お前、人事みたいに」 「正直に言えば、そうなってみないと分からないから」 それでも、もし本気で彼女がそう望めば、僕はどんなことでもするだろう。 もし――本気で望んでくれたら。 一時込み上げた葛藤をのみ込み、藤堂は顔を上げて苦笑した。 「それに、彼女の気質だったら、まず自分が辞めると言いそうですしね」 「かもな。果歩だったらな」 「宮沢さんは」 ガタッと椅子がひっくりかえった。いきなり立ち上がった晃司を、藤堂は唖然と見上げている。 「すみません、失言でしたか」 「し、ししっ、失言もなにも、え? は? なんの話だよ、は?」 「…………」 どうでもいいけど、いちいち反応が面白い人だなぁ。 的場さんが、一時激しく嫌いながらも、今もこの人といい関係を築いているのが、なんとなく頷ける。 まぁ……僕には多少、複雑ではあるけれど。 彼と的場さんの間には、2人にしか分からない3年がある。それは――僕がどれだけ努力しても、知ることもふれることもできない。 「失礼します。6時から協議が入っているので」 藤堂は丁寧に断ってから、トレーを持って立ち上がった。 「おい、今の話、果歩には絶対に言うなよ」 「人事異動は、正式に内示が降りる日まで口外しないのが鉄則ですから」 宮沢さんの口から的場さんに漏れていない以上、僕の口から言うことは絶対にできない。 そう思いながら、藤堂は忘れていた憂鬱のひとつが、再び胸を占めるのを感じていた。 折しも今日、同じような理由でため息ばかりを繰り返していた南原のことを思い出しながら。―― ************************* 藤堂が協議を終えて執務室に戻ると、丁度果歩が退庁するところだった。 隣には百瀬乃々子。2人して、コートを羽織って女子更衣室から出てくる。 「失礼します」 つんっとした他人行儀な声は、今日何度も耳にしたものだ。 そしてそれだけで、課内中が理解しているはずだった。係長と的場さん、また喧嘩でもしたのかなと。 この馬鹿みたいな分かりやすさ。案外前園さんと的場さんはお似合いだったのかもしれないな――と、やけくそのように考えながら、藤堂もまた「お疲れ様でした」と他人行儀に挨拶した。 今は何を言ってもどうせ無駄だ。 それに藤堂も、この件に関しては問題解決の道筋を見いだせないままでいる。 彼女はどうして、自分をああも縛る父親に疑問を抱こうとしないんだ? 娘の交際相手――いや、交際しているくせにそれを認めない27歳の最低男――俺か――に対する怒りは理解できるが、彼女に対する傲慢なものいいだけは理解できない。 仕事を辞めさせようとするにいたっては狂気の沙汰だ。いっそ、暴力といってもいい。 それを果たして、このままにしていいものかどうか。 しかし一番怒っていいはずの果歩が、「藤堂さん、どうして?」みたいな目で自分を見るものだから、ますますどうしていいか分からなくなる。 「まいったなぁ……」 なんだってこの時期、こんな難題が降りかかるんだ。 まだ――まだ、本当の試練はこれだというのに。 コーヒーでも買おうと執務室の外に出ると、エレベーターホールには、まだ果歩と乃々子が立っていた。あれから5分は経ったはずだから、トイレにでも寄っていたのだろう。 思わず足を止めて引き返そうとした藤堂の耳に、果歩の声が飛び込んでくる。 「……まぁ、そんなに早急に結論出さなくていいと思うよ」 「もういいんです。結局私への思いはその程度だったってことですから」 「そんなこともないでしょ」 「的場さん、いまさら南原さんの味方ですか? 的場さんだって藤堂さんに怒ってたじゃないですか」 「しっ、ちょっと声が……」 いや、いまさら気をつけたところで、もう丸聞こえだが。 「私は、彼のお母さんにもお父さんにも気をつかったし、結構腹立つことを言われましたけど我慢しましたよ。だってご両親にとっては、あの人は大切な一人息子だし、あの人にとっても大切なご両親じゃないですか」 立ち去ろうとした藤堂は、そこで足を止めていた。 「私がご両親に嫌な思いをさせて、あの人が困ったり悲しんだりする顔を見るのが嫌だったから……、だから我慢したんです」 その刹那、藤堂の脳裏に、自分の母親のことが浮かんだ。 あの人が、これまで的場さんに何を言って、何をさせたのか――。 的場さんは嫌な顔ひとつせずにあの人に付き合ってくれたが、内心では面白くない気持ちもあっただろう。特に彼女が気にしている年齢の部分では。 「なのに南原さんは、私が困ろうと悲しもうと何も感じないんです。そんな男と結婚したって。どうせ不幸になるに決まってますよ」 |
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