「藤堂君、再来週の土曜、海釣りはどうかね」 時計が午後10時を回ろうとしていた頃、帰り支度を始めた中津川補佐が不意に言った。 「いいですね」 書類の精査をしていた藤堂は、即座に顔を上げてそれに答える。 「でも、今月は仕事が立て込んでいるので、お返事は週末まで待っていただけますか」 「ああ、無理にとは言わんよ。明けた月曜が4月1日だからな。いくら人事異動が先延ばしになるとはいえ、1年で一番忙しい時期だ」 しかし女房が、またぞろ君を連れて来いと言い出してね―― と、少し面はゆげに付け加えると、中津川は「失礼する」と、鞄を持って執務室を出て行った。 ――海釣りか。補佐の誘いを断るのはしのびないが、あの日は……。 「頑固親父が、実はとんだツンデレでしたね」 「え?」 顔を上げると、係にはもう1人、パソコンを叩いている南原が残っている。 藤堂を見ないままで南原は続けた。 「中津川さんのことですよ。最初はあれだけ係長のことを嫌っていたのに、今じゃ実の息子みたいに可愛がっている。一体どうやって籠絡したんですか」 「息子みたいは、言いすぎですよ」 藤堂は苦笑して腕時計を見た。10時ジャスト。事前命令を受けている今日の残業時間はここまでだ。 「特に大したことはしていません。南原さん、もう10時なんで、ここからは上司部下はなしにしませんか」 そう言うと、南原もまた、肩の荷を下ろしたように表情を緩めた。 「てか、実際は何かしたんじゃねぇの。補佐と最高潮に険悪だった頃、――12月だったかな。お前、残業中に頻繁に外に出てたじゃん」 「まぁ……いろいろ放っておけない状況だったので」 ヤクザがバックにいる女子高生と、傍目には援助交際とも取れるつきあいをしていた――とはとても説明できないが。 あの事件は、あれからどうなったんだろう。おそらく藤堂の身分も相手には知られてしまった。それで一時期は警戒して、中津川の動向から目を離さないようにしていたほどだ。 が、結局は何も起こらなかった。 でももし、事が大きくなっていたらどうだったろう。僕は――その時、二宮の力を頼らなかったと言い切れるのか? 「酒でも飲みに誘ったのかよ? それとも何か……好物をプレゼントしたとか?」 藤堂はようやく、この話題に拘る南原の意図を理解した。 ――ああ、実の息子ってそういうことか。 思わず南原を見ると、南原はふてくされたようにそっぽを向いている。 実はとんだツンデレ――ま、いいか。 「いや、そういったことは、ある程度気心からしれてからですね」 「じゃ、一体何やったんだよ。もったいぶってないで教えろよ」 藤堂は、肘をついて唇に指を当てた。 何をしたか? そうだ、まずあの頑固で頑迷な人を理解しようとした。ああいった態度を取るようになった背景を知ろうとした。 そしてどんな極端な考えも、決して否定をしないようにした。あの人は僕そのものを嫌い、全否定している。そんな人にどう正論を説いても無駄だと思ったから――。 「…………」 「藤堂?」 全く―― どうして僕は、的場さんが絡むといつも冷静でいられないんだろう。―― 「いや、今回も僕が間違っていたと思いまして」 「……は? 今はお前じゃなくて俺の話をしてんだけどよ」 「なんとかします」 「はい?」 パソコンを閉じた藤堂は、席を立って南原の傍に大股で歩み寄った。 「南原さん、水原さんと仲直りしてもらえませんか」 「っ、は、はい?」 座ったままの南原が、泡を食った顔で後退する。 「はい? 水原? なんでいきなり水原の話?」 「彼女にとっては、それも大切なことだからです」 「ちょ、一体なんの話をしてんだよ。いいか、俺がなんの問題を抱えているか、お前には分からないと思うけどな」 「確かに詳細は分かりませんが、だいたいのことは今のお話で理解しました。僕らにできることは、誠心誠意謝ることだと思います」 「――……は?」 唖然としていた南原は、ようやく得心したように藤堂を見上げた。 「もしかして、的場さんと何かあった?」 「ありました。でも僕が間違っていた」 「……それと俺に、なんの関係が?」 「もう予想はついていると思いますが、百瀬さんは的場さんに全て打ち明けて、今、2人して僕らと別れる相談をしています」 「はいっ??」 まぁ最後のは誇張――だと、今は信じたいが。 「先日はいいアドバイスをいただいたので、僕もひとつ、僕が学んだ女性の特性をお伝えします。女性というのは……」 「お、おう」 ごくっと南原が唾を飲む。 「些細な感情を女性同士の情報共有で増幅させ、エスカレートさせていく傾向があります」 これはこの1年をかけて、様々な女性たちから学んだことである。 「南原さんには、一晩か二晩寝れば冷めてしまう感情も、女性には逆なんです。むしろこちらの想定以上に増大します。そして気がついた時には」 「き、気がついた時には?」 「こっちがびっくりするような結論を出してきます」 蒼白になった南原が、ガタッと椅子を蹴って立ち上がった。その手には携帯電話が握られている。 そして外に出て行こうとして振りかえった。 「てか、そこに水原との仲直りがどう絡んでんの?」 藤堂の想像通り、男同士の気楽さというか、南原はさほど水原との関係を気にしてはいないようだった。多分、時間がたてば落ち着くと思っているのだろうし、今、自分から声を掛けることが逆効果だとも思っているのだろう。 「的場さんがお二人の関係を気にしていたからです」 「はい?」 「僕は、的場さんの悲しむ顔はみたくないので」 「…………」 「早めに仲直りしていただげると助かります」 呆気にとられていた南原の顔が、今夜はじめて楽しそうに笑った。 「へいへい。じゃ、係長の顔を立てて、こっちから水原に謝りますよ」 足音が廊下の向こうに消えていく。 その音をどこか温かい気持ちで聞きながら、藤堂も自分の携帯を取り上げていた。 ************************* 「おっはようございまーす」 翌朝――給湯室。一瞬流奈かと思っていた。 振り返った果歩の前に立つ、昨夜とは別人のようにハイテンションな乃々子。 その理由を知っているだけに、その態度の変わりようがむしろ可愛らしくもあった。 「大丈夫だったの、昨日」 「うふふ」 果歩が聞くと、乃々子は余裕の含み笑いでそれに答えた。 「的場さんこそ、どうだったんですか」 昨夜――2人してりょうの行きつけの店で毒と愚痴を吐きながら飲んでいたら(もちろん乃々子はジュースである)、まず乃々子の携帯に南原から着信があった。 最初は出ないと言い張っていた乃々子だが、5コール目(あまりに早くて、果歩は内心びっくりしていた)で、それに出た。 その後の――ふてくされた声から、次第に甘えた声になる乃々子の変化に、果歩は肉食女子の本質を初めて垣間見た気がしたのだった。 そして、今日一日ものすごく心配してしまった時間が全く無駄だったことも。 しかしその直後にかかってきた藤堂からの電話には、おそらくマスターが苦笑するほど、果歩も態度を変えていたことだろう。 「店まで迎えに来てくれて……家まで送ってくれたかな」 昨夜の幸福を噛み締めながら、果歩もまた乙女の眼差しになって答えていた。 「ご両親は、大丈夫だったんですか」 「もう遅かったから、マンションの下で別れたの。まぁ、また日を改めてってことで」 (お父さんに、ご予定を聞いておいてもらえますか) (将来に関しては、同じことしか言えませんが、先日の非礼を謝りたいんです) 一体どういう心境の変化なのか。あの日はてこでも考えは変えないみたいな頑固な顔をしていたのに。 一応、父には「藤堂さんが謝りたいって」とだけ伝えたが、帰宅が遅くなった理由を見抜かれそうで、話は早々に切り上げた。 まぁ、後輩と食事をしていたから遅くなった――途中までは本当の言い訳だったのだが。 「私はー、うふふっ」 と、聞いてもいないのに乃々子が声をひそめて近づいてきた。どうやら自分の話をするための前振りに、とりあえず果歩の顛末を聞いたらしい。 「南原さんの部屋に泊まっちゃいました」 「えっ、そんなの……許されるの」 「許されますよー、だって婚約してるんだもん」 次第に、話をするのが馬鹿馬鹿しくなってきた果歩である。 そして一言こう言ってやりたかった。乃々子、あんたのお父さん、甘々だよ。 「もちろんそっちは無理ですよ。だって妊娠初期ですもん。その代わり……」 そこで囁かれたことに、果歩は鼻血を噴き出すかと思った。 ちょっ、は? そんな真似妊婦にしちゃって――っていうか、付き合い始めで、もうそういうことをやってるわけ? 「あれ、思ったより難しいですね」 「そ……そうだったかしらね」 「身長差があるせいかな」 「…………」 「え? もしかして経験ないんですか? 藤堂さんとはまだでも」 そこで出入り口に人の気配を察したので、果歩はぎゅんっと乃々子から離れていた。 「百瀬、ちょっと」 その声に振り返った果歩は、秒で声の人物から顔を逸らした。出入り口に立っていたのは、乃々子の婚約者、南原である。 「何ですか?」 と、無邪気に乃々子。片や南原は、女2人の不穏な空気を察したのか、ひきつった顔をしている。 2人が出て行った後、果歩は顔を赤くしながら、ポットを水ですすぎ始めた。 まったくもう、職場でそんな生々しい話はやめて欲しい。今日一日、南原さんの隣で仕事をする私の身にもなってよ、頼むから! 「おはようございます」 そこに、また間が悪いことに、爽やかな笑顔で藤堂が入ってくる。 「……どうしました? 風邪ですか」 「えっ、いえ」 「いや、でも顔がいつもより赤いから」 不審そうに見下ろされ、果歩はますますうろたえて目を泳がせていた。 あー、馬鹿馬鹿。乃々子が余計なことを言うから――言うから、どうしても想像しちゃうじゃない。私と藤堂さんが……あんな……あんな……。 きゃーーー。 「的場さん?」 「は。はいっ?」 「ポットの水……、溢れてますけど」 果歩は慌てて、斜めになっていたポットを垂直に持ち直した。 「体調が悪いなら、無理されなくてもいいのに」 「た、体調はすこぶるいいです」 「そうなんですか?」 はい。昨夜、藤堂さんに無条件に謝りたおしてもらって、身も心もすっきり軽くなりました。父のことは――まぁ、重たい課題ではありますが。 「……あの、藤堂さん、父のことですけど」 珍しく給湯室に誰も入ってこないから、果歩は思い切ってきりだした。 「父のことは、もうそんなに気にしなくていいですから」 「というと?」 見上げた藤堂は、穏やかな目でカップを棚から下ろしている。 「怒るのはいつものことだし、しばらくすれば落ち着くと思うんです。仕事やめろって言われた時は驚きましたけど、本人も、めちゃくちゃなことを言ってる自覚はあったはずです。……さすがに反省しているのか、昨日だって、帰りが遅くなっても何も言われなかったですし」 少し言い訳がましく果歩は続けた。 「あの……だから、父のことで、無理に急いで来なくても大丈夫です」 藤堂は黙っている。その横顔に、先日車中で見た不思議な静けさを見た気がして、果歩はふと不安になっていた。 「つまり、はっきり約束できない間はお会いしない方がいいということですか」 「……、まぁ、はっきり言えば、そうです」 どう言葉を尽くして謝罪したところで、この根本が解決しない限り、藤堂が責められるのは目に見えている。そんなのはもう二度といやだ。 果歩はそっと、ニットの下に隠したネックレスの指輪を握りしめた。 1月――果歩の誕生日にもらった13号の巨大リング。 それを果歩の指のサイズに直しに行く約束の4月は、あとたった2週間なのだ。しかもきりよく、週頭は月曜日。 「……的場さんが、その方がいいなら」 静かに言うと、藤堂は不意に表情に明るさを取り戻して振り返った。 「そうだ、的場さん。今週の金曜日、空けておいてもらえますか」 「え、仕事ですか?」 果歩は即座に感情の予防線を張った。 この1年の経験が教えてくれている。この明るさと無邪気さ、絶対にいい話じゃない。―― ************************* 「じゃあ、南原さんの結婚祝い、マジでやるんですか?」 午後6時過ぎの都市政策部。果歩が訪ねていくと、流奈は帰るところなのか、机の上を片付けていた。 ピンクのニットに白のフレアスカート。まぁ……どうでもいいけど、執務室でブーツっていうのはどうなんだろう。 「うん、藤堂さんと水原君が発起人で、局内の有志で集まろうってことになってね」 果歩の予想に反し、今朝の藤堂のお誘いは、ある意味いい話だった。 南原と乃々子の結婚を祝う会。 今日にでも那賀局長に、やんわり断ろうと思っていた果歩だったが、その必要はなかった。水原と南原は相変わらずぎくしゃくしているが、水原は店を決めたり出席者に連絡をしたりと、幹事として積極的に動き始めている。 「出席は自由なんだけど、流奈、行くでしょ? うちの局で女子は私と流奈だけだから、2人でちょっとしたお祝いでも」 「私、行かないです」 即答され、面食らった果歩は瞬きした。 え、でも藤堂さんも行くのよ? と言いかけて、邪魔者がいることがすっかり自分の通常モードになっていることに改めて気づく。 「金曜日ですよね。ま、当たり前の話ですけど、デートなんで」 流奈は綺麗にネイルした爪を、果歩にむけてそびやかした。その左手の薬指には銀色のリングがきらめいている。 「えっ、まさかと思うけど流奈も婚約?」 「まさか、ただ彼氏に買ってもらっただけですよ。どの指につけたって、別にどーだっていいっていうか」 「…………」 なんだろうその態度。自慢なのか、投げやりなのか分からない。 「いい年した女が、せっかくの金曜の夜を、なんだって他人のお祝いに費やさなきゃいけないんですか。的場さん、そんなことばっかやってるから婚期がどんどん遅れるんですよ」 言葉がきついのはいつものことだが、今夜の流奈は表情もきつい。というか、果歩を貶めていても、いつもと違って全然楽しそうではない。 「うちの課、多分誰も行かないと思いますよ。よく分かんないけど、この前からずーっとバタバタで」 果歩は、都市政策部を見渡した。ここが忙しいのはいつものことだが、確かに少しばかり慌ただしい。晃司は――協議机で、他課の職員と協議をしているようだ。 「前園さんが一番忙しくしてるから、もしかして4月1日で異動するのかとも思いましたけど、来年度の異動内示、まだ先なんですよね」 「うん、まだはっきり決まったわけじゃないけど、多分市長選が終わった後になるんじゃないかな。多分だけど、4月の後半くらい」 その晃司はあきらかに寝不足のようだった。そこそこ身なりには拘る人のはずなのに、髪もボサボサで、どこかよれっとしたシャツを着ている。 「前園さん、昨日、役所に泊まったみたいです。近寄ったら汗臭いのなんのって。イケメンぶってるけど、年齢的にはとっくにオヤジですよね、あの人も」 「……何もそこまで言わなくても」 苦笑した果歩は、ふと、奇妙な感覚に囚われていた。流奈って本当は誰が好きだったんだろう。藤堂さん? それとも―― 「じゃ、私はこれで。金曜の夜に課飲みしてるようじゃ、的場さん、来年の今頃も独身ですよ」 最後は流奈らしい皮肉を放って去って行ったが、その背中は、やはりどこか寂しげに見えた。―― |
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