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年下の上司 story19〜March

マリアージュ(9)

 
「もしかして今から買い出しですか」
 午後6時。本庁舎の東玄関。
 果歩が外に出ると、少し遅れて出てきた人が、背後からそう声を掛けてきた。
「ええ、そうです。前園さんも?」
「ええ、近くのコンビニまで」
 今さらこんな真似して馬鹿みたいだなと思いながら、果歩はどこか温かな気持ちで、晃司の後について歩き始めた。
 こっそりつきあっていた時、こうやって時間差で落ち合っては一緒に帰った。
 その時のドキドキ感とか、幸せな気持ちとか、いろいろあってすっかり忘れていたと思っていたことが、今さらのように胸に蘇ってくる。
 私にとっては2人目の彼氏だけど、まともにつきあったという意味では初めての人。今のところ、最後の人でもある。
「雨、降りそうですね」
 どこか翳った空を見つめ、果歩は思わず呟いた。
「予報じゃ、今夜はぎりぎり持つらしいですよ」
「そうなんですか」
 今日は、どちらも傘を持っていない。連日の激務と転居の準備で疲弊しているのか、晃司の背中はいつもより疲れて見えた。
 どうしてだか、ふと、その背中に傘をかざしてあげたくなる。
 変だなと果歩は思った。まだ、雨も降っていないのに。
 以前晃司と2人で話をした路地裏に入ると、そこで晃司は缶コーヒーを2つ買った。
「ごめん。どっか入ってゆっくり話したかったけど、あまり時間がなくて」
「いいよ。ありがとう」
 それからしばらく2人とも無言になって、黙ってコーヒーを口にした。
「……いろいろ、ごめん。宮沢さんから、もう聞いたと思うけど」
 いや、そこで私に謝られても、どう返していいか分からない。
 ただ、晃司が謝る気持ちも分かる気がして、果歩は何も答えず、ただうんと頷いた。
「まぁ、最初は不慮の事故というかなんというか、……もっと早いタイミングで俺から話すべきだったんだけど、俺も正直、その……、しばらくの間は、俺とあの人がどういう関係なのか分からなくて」
 まぁ、そうだろうなと果歩は思った。
 9年つきあった果歩でも、りょうの内面は掴みにくい。友達だと彼女の口からはっきり認めてもらったのも、知りあって1年が過ぎてからだ。短いつきあいの晃司は、何も分からず、振り回されてばかりだっただろう。
「嫌味じゃなく言ってるつもりだけど、私に相談してくれたら、少しはアドバイスできたのに」
「できるかよ」
 少し笑って、疲れたようなため息をつくと、晃司はコーヒーを飲み干した。
「しかも、本当につきあってんのかなって思えたタイミングで、お互い異動内示だったからさ。もう聞いたと思うけど、……そういうことになったから」
「……粘らなかったの?」
 果歩がそう聞くと、うつむいた晃司が微かに苦笑するのが分かった。
「ちょっとだけ。でも無駄だと分かってた。あの人、俺の言うことなんて聞いてくれたことないし、……まぁ」
 タイミングかな。
 晃司は遠くを見つめたままで呟いた。
「これが来年だったらな、とは思ったよ。1年つきあって、もう少し関係性が変わってたらどうだったかなとかさ。でもそれは永遠に出ない答えで、考えても仕方のないことだから」
 ――タイミング……。
「そういうタイミングで出会った以上、もう、どうしようもないって諦めることにした。ま、実際のところ、俺が思いっきりふられたようなものだけど」
 そこで言葉を切ると、晃司は初めて果歩を正面から見つめて笑った。
「須藤の時は、二股って言われたら心外な気がしたけど、今回はちょっとそうだったのかもな。……俺、お前も、宮沢さんも……なんていうか、そんなだったから」
「……うん」
「すぐに肯定されるのもきついけど」
 晃司は笑ったが、果歩は笑うことができなかった。
 頭の中に、屋上で聞いたりょうの言葉が蘇る。
(無自覚なのはいつものことだけど、今、曖昧にしてるのは果歩の方だよ)
 曖昧な関係はここにもあって、それは晃司だけではなく、果歩自身が望んでいたことだったのかもしれない。はっきりさせれば壊れてしまうしかない晃司との関係。それが怖くて、ずっと気づかないふりをし続けていたから。
「晃司だけじゃないよ。多分私も、ちょっとだけ二股だった」
「マジで?」
「まぁ、晃司とは違う意味でだけど、……晃司といると楽しいし、気楽だと思ってた時期があって、それ、藤堂さんには言えなかったから」
「……うん」
 多分晃司にも、自分の気持ちは伝わっていたんだろうと果歩は思った。
 曖昧な関係。それは、双方が同じことを願っているからこそ、成り立つものなのかもしれない。
 はっきりさせたくない。まだ、今の関係のままでいたいと。
 それは私と――藤堂さんも?
「………」
 何故だかひどく不安な気持ちになって、果歩は無意識に胸の指輪を握りしめていた。
「果歩」
「え?」
「変な意味じゃないから、抱き締めていい?」
「――、はいっ?」
 たちまち我に返った果歩は、缶コーヒーを持つ手で胸をブロックして後ずさった。
「ちょっと、本気で怒るわよ。そんなことしたら、りょうに代わってひっぱたいてやるから」
「いや、だからそういうんじゃないって」
「絶っ対にだめ。何馬鹿なこと言ってんのよ、本当に……」
 はいはい、と晃司はあっさり肩をすくめる。
「そんな大げさに騒がなくても、外国じゃハグくらい当たり前だろ」
「ここは日本です。しかも市役所の近くなのよ?」
 あの慎重な晃司が一体何を言っているんだろう。確実な出世コースに乗ったことで、頭がどうかしたのかしら。てか、これってもしかして、未来のセクハラ?
 しかし晃司は、まるで今の全てが冗談だったようにさばさばした顔をしている。
「じゃ、そろそろ戻るか。缶捨てるから貸せよ」
「……ありがと」
 缶を差し出すと、缶ではなく腕を掴まれた。あっという間もなく、晃司の胸に抱き寄せられている。
 驚きで声も出ない果歩を両腕で抱き締めると、晃司はその肩に顔を埋めた。
「……ごめん」
「…………」
「今まで、ありがとう」
「…………」
(都市政策部の前園晃司です。庶務のことは、的場さんに聞けばいいですか)
(俺と……、その、つきあってください)
 やばい。どうしてここで、私が泣けてくるのよ。
 馬鹿じゃないの? てか、りょうと別れたばかりで何やってんの?
 これ、もしかして二股より最低の裏切りじゃない。
 やがて顔を上げて、果歩から離れた晃司は、呆然と立つ果歩の手から缶コーヒーを取ると、ダストボックスに投げ入れた。
「じゃあな、果歩。元気でな」
  
 *************************

 ――最初から、ちょっとかっこいい子だと思っていた。
 空から、雨がぽつぽつ降り出している。
 1人になった果歩は、傘がちらほら混じり始めた雑踏の中、役所に向かって歩き出した。
 クラスに1人はいた、運動もできて勉強もできる人気者の男の子。
 ああいう将来有望なイケメンと付き合えたらいいわよね、とお酒の席で、りょうと冗談みたいに話したこともあった。
 やたら目が合うなと思ったけど、2歳も年下だったから、そういう意味では全くの対象外。だから告白された時は、息が止まるほど驚いたっけ。――
 積極的に好きというわけではなかったが、断るにはちょっと惜しいなという感じだった。
 ずっと恋に後ろ向きだった自分には、もしかして最後のチャンスかもしれないとも思った。
 それでオーケーしたものの、今のりょうと晃司と同じで、これをつきあっていると言っていいかどうか、よく分からない状態がしばらく続いた。
 その間に分かったことは、この前園晃司という男が、仕事を何より優先する、結構身勝手で冷たい気質の持ち主だということだ。
 これまでつきあった彼女は1人だけ、しかも2ヶ月で別れた――と打ち明けられた時は嘘だと思ったが、間違いなく本当だとも確信した。
(ま、典型的なワーカホリックね。将来局長夫人になりたいならともかく、やめといた方がいいんじゃない? 果歩が尽くして疲れ果てる未来が手に取るようよ)
 りょうの忠告を鵜呑みにしたわけではないが、果歩自身も、そこまで前園晃司に執着していたわけではなかった。むしろその逆――その昨年、市長選でやたら連呼された「真鍋、真鍋、真鍋でございます」で、自分が全く過去を忘れていなかったことを思い知らされたせいもある。
 いってみれば、かつての恋人への未練を断ち切るために、交際をOKしたようなものなのだ。
 その罪悪感というか後ろめたさもあって、結局は別れることに決めた。それで、最後のつもりで、予め約束して彼の部屋に行ったのだ。
 ――そこで、どうしてああいうことになっちゃったかな。
 2人してゴキブリに驚いて、ある種の吊り橋効果に陥ってしまったのかもしれない。
(――……お、俺は好きだから) 
 真っ赤になって手で目を覆う晃司を見て、果歩は初めて目の前の人を可愛いと思い、もう少しつきあってみたいと思ったのだ。
 その夜、初めてキスをした。
 すごく怖かったのを覚えている。……あれ以来――二度と思い出さないと決めた人と、最後にキスをして以来……あの夜が、本当に初めてだったから。
 多分、手も足もガチガチだったし、口も引き結んだままだった。ただ、それ以上に、晃司の方もガチガチに緊張していたから、少しずつ不安も薄れていったのかもしれない。
 ――で、その夜は結局、ぎこちないキスをしただけで終わったっけ。
 それが、もう少し深いキスになったのは、翌週末、二度目に彼の部屋に行った時だ。
 一緒にDVDを観ようと誘われたが、もちろん内容は全く記憶にない。
(それ、完全に食いにかかってきてるから、行くなら覚悟を決めた方がいいんじゃない)
 りょうにはそう言われていたが、結局その日もキスだけだった。
 ただ、こんなにするもの? と驚くほど、繰り返しキスをした。
 抱き合って、何度も何度も唇を重ねて、離れては抱き合って、それからまたキスをした。
 気がつけば恐さも不安も消えて、一生懸命キスしてくれる人が、ただただ無性に愛おしくなっていた。
 その次からは、もうあまりよく覚えていない。一度越えてしまった境界が溶けていくのはあっという間で、その一時、晃司もだが、果歩もまた恋に夢中になっていたのだ。
 それでも、初めて結ばれた夜、嬉しさや痛みとは別の部分で泣いてしまったのをよく覚えている。
 その涙の意味は、――それだけは、晃司には言えなかった。……
 気づけば果歩は足を止め、睫毛を震わせるようにして泣いていた。
 ――晃司、ごめん。
 謝らないといけないのは、本当は私の方だった。
 最初から隠し事ばかりの恋愛で、そのくせ一度の浮気が許せずに、最後は彼のプライドを思いっきり踏みにじってしまった。
 でも、好きだったのは本当だし、もし結婚しようと言われていたら、一も二もなく頷いていただろう。
 1年目の記念日、結局記念日なんて最初の年しかお祝いしなかったけど、「俺、女の人と1年もつきあうのなんて初めてだから、すごく嬉しい」と、はにかんだように言われた時は本当に嬉しかった。私も初めてだと打ち明けたらなんだか泣けてきて、夜景を見ながら、2人で何度もキスをした。
 もう二度と恋なんてできないと思っていた私に――女として不完全なまま年を重ねていた私に、晃司は、もう一度、情熱の火をくれたのだ。
 8年前から、ずっと海の底に沈んでいた私を、孤独で潰れそうだった私を、手を伸ばして引き上げてくれたのが晃司だった。
 彼は私に、新しい強さと弱さをくれた。もう思い出になった初めての恋人と同じで、晃司もまた、今の私を作ってくれた一人だったのだ。――
「……私こそ、ありがとう」
 果歩は呟くように言って、頬にこぼれた涙を拭った。
 ありがとう。
 そして、さよなら――


 

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