翌朝、少し早めに仕事に出ると、覚悟はしていたものの、机の上は書類が山積みになっていた。 「よ、もう、いいの?」 カウンターの上を雑巾で拭いていると、呑気な声が背後でする。 今出勤してきたのか、それは南原の声だった。火をつけない煙草を口にくわえ、この男のいつもの癖で、後ろ髪が少しだけ跳ねている。 「いいねぇ、女は、色んな口実で休めるから」 おはようございます。 と、言う前に、すれ違い様にそんな皮肉が返って来た。 どういう意味だろう。まさか藤堂が、果歩の体調のことまで南原に話すとは思えないが……。 不審を感じつつ、むっとして、それでも果歩は南原に笑顔を向けた。 「すみません。ご迷惑お掛けしました。郵便物はどうなりました?」 「政策部のバイトさん。……カカリチョーが頼んだみたいでさ、お前、ちゃんと礼言っとけよ」 ばん、と机の上に投げやりに鞄を置いて、南原はカウンターの上の新聞を取りに戻ってくる。 「そうですか」 少しうつむいて、それから果歩は顔を上げた。 「私からもお礼言っておきますね。でも、南原さんも言わないと」 「…………」 カウンターを挟んで立った男が、意外そうに眉を上げる。 「南原さんの仕事ですから、私もできるだけお手伝いしますけど」 「……は?」 「今は手が離せないんです。なるべくバイトさんに頼むようにしてもらえたら、助かります」 果歩の役所人生で、ここまではっきり、自分の意思を口にしたのは初めてだった。 「……なんだ、そりゃ」 予想通り、呆れたような、怒ったような声が返ってきた。 「ふざけんなよ。それ、ずっとお前がやってたことだろう」 ばん、と新聞でカウンターを叩き、そして南原は、肩をいからすようにそびやかした。 「ああ、ああ、係長がバックについた途端にこれかよ、やってらんねぇな」 果歩は黙ったまま、雑巾でカウンターを拭き続けた。 色々な軋轢や困難がある、が、――それに耐えてもやらなければならないことがある。 南原の仕事を抱えて、1人で残業していた時、藤堂が何故冷たかったのか、果歩にはようやく分かったような気がしていた。 受動的に、来る仕事全てを引き受けていたら、つぶれるのは果歩自身だ。 それは――自分で選択し、時には地人に嫌な顔をされるのを覚悟の上で、断らなければならなかったのだ。 給湯室で、お湯を火にかけた時「おはよーございます」と、蓮っ葉な声が背後でした。 なまあくびを噛み殺したような顔をした、須藤流奈である。 ニットのアンサンブルに膝上のミニのプリーツスカート。果歩には到底真似できない、若々しいスタイルだった。 「昨日、タイヘンだったですよー、総務のお茶出し、ぜーんぶ、うちのバイトさん」 「ごめんなさい、迷惑をかけてしまったわね」 「いいええ、ちなみに、総務のカップ、最後に洗って片付けたの、アタシですから」 嫌味たっぷりに言い、流奈は背後の戸棚からポットを取り出す。 「ありがとう、助かったわ」 確かに、カップはきちんと洗って収められていた。 職員が飲むカップは、大抵帰り際に果歩が下げ、そしてここで洗うようにしている。バイトさんは定時きっかりに帰るし、職員は、大抵7時ごろまでは残り、各々コーヒーやお茶などを仕事の合間に飲んだりするからだ。 去年、一度風邪で休んだ時は、誰も洗わず、給湯室に投げっぱなしになっていたから、今日もそうだと思ったのだが――。 「でも、ごめんね、須藤さん」 果歩は、急須を戸棚から出しながら、傍らの流奈にそう言った。 「これから、少し忙しくなるの。総務のバイトさんが休みの時は、そちらのバイトさんに仕事を頼むこともあるかもしれない」 「聞いてますよー、的場さん、タイヘンな仕事やるんですってね」 流奈の声は、どこか小馬鹿にしたものを含んでいた。 その言葉で、なんとなく察しがついた。 おそらく南原と流奈が、そういった会話を交わしたに違いない。昨日の、果歩が倒れた理由についても。 「でもぉ、それって、的場さんの仕事でしょ? うちには関係ないんじゃないですかぁ?」 甘えたような、が、確実に棘を含んだ言葉が返ってくる。 「私に言われても困っちゃうな。そういうの、うちの課長にちゃんと話通してくださいねー」 「そうね」 芯から疲れを感じつつ、果歩は、急須に茶葉を入れた。 「困るんですよね、昨日みたいなことされちゃ」 と、今度ははっきり悪意のある言葉で言い、流奈はついっと背を向けた。 ************************* 局長室にミルクを出して席に戻ると、机の上には、南原のメモと共に、会議の議事録の資料一式が投げてあった。 「…………」 はぁ……。 果歩は、気鬱なため息を吐いた。 どうやら南原は、徹底的に果歩の言い分を無視することに決めたらしい。 当の本人は、計画係の中津川補佐の前に立ち、したり顔で何かを説明している。 ――どうしよう……。 さすがに、重い溜息が何度も零れた。 よほどそれを南原の机の上に戻してやろうかとも思ったが、それは大人の対応ではない。 嫌味を言われ、傷つけられるのを覚悟の上で、自分の口から言わなければならないだろう。 でも……。 せっかく、気持ちを固めて出勤したものの、朝一番での南原との――そして、流奈とのやりとりで、果歩は疲れきっていた。 あんな思いをするくらいなら、いっそ、自分でやってしまおうかという気になる。 ああ、でも――実際、時間は1分も惜しいほどなのだ。 「おはようございます」 背後から優しい声がした。 果歩は、はっとして顔を上げた。 今朝は、まだ顔を見ていなかった。春日と一緒に朝一で法務省に行ったと聞いていた――藤堂である。 普段どおりの表情で、上着を脱ぎながらカウンターをくぐって来た藤堂は、果歩に目を留め、あるかなきかの微笑を浮かべた。 昨日の別れを――ずっと気にしていた果歩は、その表情だけで心が満たされていくのを感じた。 それだけで、後は何事もないように、藤堂は果歩の後ろをすりぬけて自席に向かった。 入れ替わりに南原が戻って来る。 果歩は、目には見えない勇気をもらったような気がしていた。 「南原さん」 果歩は、気持ちを振り絞って、椅子に腰を降ろした南原に声をかけた。 それを予想していたのか、南原は果歩を無視して電話に手を伸ばす。 「ごめんなさい、これ、今、私にはできません」 「今週まででいいから、やっといてよ」 素っ気無い言葉だけが返ってくる。 「すみません、その今週が、難しくて」 「じゃ、お前がバイトにでもやらせりゃいいじゃん」 「……南原さん」 果歩はさすがに、こみあげる怒りを感じた。 これは、仕事以前の問題だ。南原は、完全に果歩を部下同様に見下している。 年はひとつ下でも、果歩と南原は同じ立場の同僚である。そこに上下関係は存在しない。 「すみません。ひとまずこれは、お返しします」 果歩は、感情を抑えつつ、書類一式を南原の机の上に押し戻した。 電話を掛けようとしていた南原が、がん、と受話器を乱暴に置いた。 その場にいた全員が、思わず振り返るほどの勢いだった。 「お前さ、何、勘違いしてんだよ」 課内が凍りついている。 公印をもらいに来ている、他課の職員も唖然としている。 「お前の仕事は、局長のお世話と庶務だろ。庶務、その他の仕事。俺らメイン業務の補佐なんだよ」 「…………」 果歩は、自分の頬が、かっと熱くなるのを感じた。 「さっきも中津川補佐に言われたよ。余計な仕事を抱えるのも結構だがな、だからって、本来の仕事をさぼってんじゃねぇよ」 本来の仕事。 それが――南原の手伝いとでも言うのだろうか。 「そんなに時間がないならさ」 最後に南原は、小馬鹿にしたように肩をすくめた。 「局長のミルク出しを止めるんだな。それこそ、何の意味もない仕事だろ」 そして、再度書類を果歩の机に押し戻し、南原は再び電話を取った。 隣の係で、失笑のような笑いが聞こえる。 「ま、そのとおりだな」 笑いながら、皮肉のように口を挟んだのは、中津川補佐だった。 果歩が――怒りに唇を震わせながら、その書類に視線を落とした時、 「これは、僕がやりましょう」 大きな手が、書類を掴んで持ち上げた。 声は藤堂のものだった。 「は………?」 南原は受話器を片手に、唖然とした顔を、背後に立つ長身の上司に向けている。 それは果歩も一緒だった。 「本来の業務……そのとおりですね。係長の僕の仕事は、みなさんの仕事の補佐ですから」 「ちょ……」 南原の代わりに慌てて立ち上がったのは果歩の方だった。 「そんな、困ります」 「本来の仕事というなら、業務分担表をもう一度、見られてはどうでしょうか」 藤堂は落ち着いた声のまま、書類を片手に自席に戻っていく。 「的場さんの仕事は、局長秘書、局と課の庶務、それは、みなさんの補佐という意味ではなく、福利厚生、給与、人事、それから」 「…………」 「那賀局長の補佐役という意味です」 「…………」 「それで、的場さんには一人役がついています。みなさんの補佐役は僕の仕事ですよ」 そこまで言い、藤堂は屈託のない笑顔になった。 「南原さんも遠慮なく、なんでも僕に言ってください。民間出身で不安でしょうが、力仕事は得意ですから」 南原は唖然としている。 それはそうだろう。総務の庶務係長というのは、見えない仕事が実に多い。 果歩が、局長、局次長の女性秘書なら、藤堂は男性秘書のようなものだ。 局長、局次長が出かける時は、たとえそれが勤務時間外でも、時間調整し、運転手役をつとめるのもそのひとつだし、6月議会が近いから、始終、次長室に呼ばれては、他課と協議ばかりしている。実際傍から見ても、その忙しさは半端ではなかった。 その藤堂に、週の半分は定時近くに帰る南原が仕事を頼むのは、どう考えても筋が違う。 「な、なんだよ、それ」 南原は、しばし唖然としてたが、やがて、救いを求めるような眼差しを中津川に向けた。 4月、年下の係長が着任して以来、その上司をすっとばして、何かと南原が相談を持ち掛けていた隣の係の課長補佐――中津川である。 中津川は、その気配を察したのか、ごほんと、乾いた咳払いをした。 「まぁ、藤堂君、女性を引きたてたいという、君の思いはわからんでもないがね」 どこか嫌味な言いようだった。 「今までは、それで上手く回っていたんだ。何も的場君に、荷の重い仕事を任せることはないじゃないか、あれはそもそも」 そして、ちらっと果歩を見る。何かを勘ぐるような嫌な目色だった。 「藤堂君がメインでするはずの仕事ではなかったのかね。だったら最初から、君がするのが筋というものだろう」 「僕の仕事は」 藤堂は穏やかにそれに切り替えした。 「局、課内の全ての仕事を円滑の回すための調整役だと思っています。それに、この件は」 丁寧で柔らかい物言いだが、毅然としている。 「僕一人の一存決めたことではありません、局長以下三役の了解も得ています」 それだけ言うと、藤堂は手元のパソコンを開いた。 それは、局長、次長、課長全員の許可を取っているということになる。 さすがに中津川は露骨に嫌な顔になった。 「君は、私をすっとばして、勝手にそれを決めたというのかね。随分手回しのいいことだね、次長のお気に入りだかなんだか知らないが、民間君のやることは理解できんよ」 その言葉に、――いまだ藤堂のことをよく思わない、隣係の何人かが、苦笑いを漏らしている。 で、本来なら藤堂の味方であるべき庶務係は、禿頭の大河内主査は、我関せず、といった表情で無視を決め込んでいるし、南原は明らかに反抗的、そして、果歩は――何も、口を挟む事ができないでいる。 「ご希望であれば」 が、藤堂は、少し申し訳なさそうに、そして真摯な態度で言葉を続けた。 「庶務ラインのことも、全て課長補佐に報告いたします。僕が三役に了解を取ったのは、的場さんのメインの仕事が、三役の補佐だからです」 ぐっと、そこで中津川が詰まるのが、果歩にも判った。 「仕事のことで、一番ご迷惑をかける相手だからです。お気を悪くされたのなら、謝罪します」 「もういいよ」 中津川は、不機嫌も露わに、片手を振った。 「うちも忙しくてそれどころじゃない。庶務のことは、庶務で勝手にやりたまえ」 藤堂は黙って目礼する。 あれだけ、はっきりものを言っているのに、聞いていて、まるで嫌味がないのが不思議だった。 それが、藤堂の、人格のようなものかもしれない。 「………もう、いいっすよ」 怒りを噛み殺した表情で、後ろ盾を失った南原が立ち上がった。 「わかりましたよ、それ、俺の仕事っすから、返してください」 冷えた声でそう言い、上席の藤堂を睨み上げる。 「いえ」 が、藤堂は、にっこり笑っただけだった。 「これは、僕がやりましょう。南原さんは、他の仕事をお願いします」 「…………」 むうっとした顔で、南原が黙りこむ。 「おい、本省から急な来客が来ることになった」 と、そこで、次長室から、春日がひょいと顔を出した。 「何人ですか」 藤堂が即座に立ち上がる。 「他課を含めて16名だ、10分で到着されるそうだ、会議室の準備を頼む」 頷いた藤堂がこちらを振り返る、果歩も頷き、立ち上がっていた。 席を開けているバイトの妙見は、多分、給湯室にいるのだろう。 「けっ、ご機嫌とりばかりやってる連中と一緒ってのはたまんねぇな」 春日が再び室内に引っ込むと、南原が嫌味たらしく呟いた。 「お茶の用意、妙見さんに、お願いしてきます」 果歩はぐっとくる気持ちを抑え、それだけ言って、席を立った。 ************************* 「じゃ、後は私がやりますから」 家庭の事情で何かと休みがちのアルバイト、妙見瑞江は、そう言ってすまなそうに頭を下げた。 「よろしくお願いします、準備が出来たら声かけてくださいね」 16名もの来客にコーヒーを出すのは、一人では無理がある。基本的に湯茶接待はアルバイトに任せているが、ひとつのトレーで運ぶのが無理な場合、果歩も必ず手伝う事にしていた。 指示だけ済ませ、果歩は給湯室を出ようとした。 「……あの、昨日は大変だったそうですね」 が、普段寡黙な妙見が、珍しく声を掛けてきた。 「すいません。私が、再々休むばっかりに……、あの、今、計画係の人にもお聞きしたんですけど」 妙見は、妙におどおどしている。 「昨日、カップを洗ってくださったの、藤堂係長だってお聞きして……。あの、私、一言お礼を言ったほうがよろしいんでしょうか」 「…………」 果歩はさすがに驚いていた。 今朝――ここで会った須藤流奈は、さも自分がやったように言っていなかっただろうか。 「あれは……須藤さん、が」 「あ、ええ……最後の方だけ、少し須藤さんも手伝ったって聞いてはいますけども」 「…………」 藤堂係長が。 こんなことまで。 果歩は目が覚めるような思いで、再度、綺麗に片付けられた給湯室を見回した。 「あの……それと」 妙見は、まだおずおずと言葉を詰まらせているようだった。 「すみません。今日の午後とそれから明日も、休ませてもらってよろしいでしょうか」 「…………」 一瞬であるが、また? と、思わず果歩は思っていた。 この忙しい時期に――と、つい思ってしまっていた。 「す、すみません、ご迷惑お掛けしているのはわかってるんです、でも……すみませんっ」 まだ子どものように頼りない所のある、果歩より5つ年上の女は、恥も外聞もかなぐり捨てたようにお辞儀をくりかえす。 果歩は、自分の表情に滲み出たであろう、冷たい、残酷な感情を、苦い気持ちで恥ずかしく思った。 今、この人が、どういうつもりで5つも年下の、女としては小娘の自分に頭を下げているか、その気持ちが痛いほど分かるからだ。 アルバイトの任用は課長決済だが、実質、人選は果歩一人に任せられている。 「妙見さん、私が……あなたにお給料を払っているわけじゃありませんから」 果歩はできるだけ、優しい声でそう言った。 「お休みを取るのは、労働者の権利なんです。用事があれば、いつだって休んでいただいて結構なんですよ」 「……すみません……」 妙見は、視線を下げたまま、力ない返事を繰り返す。 「……私……ご迷惑になってるのは、分かってるんですけど」 「妙見さん、とにかくコーヒーの準備、お願いしますね」 果歩は気持ちを切り替えて給湯室を出た。とにかくやるしかない。元々、妙見に手伝ってもらっている仕事は、果歩の仕事なのである。 「やっさし〜い、さすが八方美人の的場サン」 が、給湯室を出たところで、待ちかねたような嫌味が浴びせられた。 いやな会話を聞かれたな、と果歩は思っていた。須藤流奈である。 「あーんな、使えないオバサン、とっとと首にしちゃえばいいって、うちじゃみんな言ってますよ」 小声だが、おそらく給湯室の妙見には届いている。 果歩は、さすがに怒りを感じつつ、流奈を無視して歩き出した。 「的場さん、自分より美人がバイトに来るのが嫌だから、あんなさえない人使ってるって評判ですけど、ホントです〜?」 が、流奈は楽しそうな声でついてくる。 「どうでもいいけど、自分がいい顔した後始末、うちの課のバイトさんに持ってこないでくださいね」 そして、最後に、捨て台詞のようにそう言って去っていった。 「…………」 やはり、やめさせて、他を探すべきなのだろうか。 カウンターに置かれた名刺入れ。そこに溜まった名刺を取り出しながら、果歩は苦い思いで考えていた。 職員と違って、アルバイトはいくらでも代えが聞く。 不景気を反映して、人事課にはバイト希望者の履歴書が溢れているのが現状なのだ。 アルバイトは、休みなく勤務ができてナンボ、である。 今までも妙見は、週に一度は休みを取っていた。他課なら、速攻首を切られているケースだろう。 ――でも……。 妙見には妙見の事情があり、果歩はその理由を聞いている。 そして、家庭の都合で、妙見はどうしても、今の仕事を続けたいらしい。 そんな人を辞めさせるのは、人としてどうなのか、と思っていた。 それ以外の点では、妙見の勤務態度は真面目そのもので、他課の、学生気分が抜け切らないアルバイトより各段に使いやすい。 ――うん。 果歩は、自分で決心を固めた。 週に一度程度の休みなら、なんとかフォローできる範囲だ。今は、もう少し、自分でなんとかしてみよう。 妙見を辞めさせることは、南原の仕事を断ることと、似ているようで、まるで違うことだと思う。 「的場さん」 カウンターをくぐろうとすると、背後からふいに呼び止められた。 相手を見上げ、果歩は少し驚いていた。 都市デザイン室の窪塚主査である。 まだ30代前半、アフロヘアにスニーカーという独特のスタイで、局内だけでなく、庁内でも有名な存在。 とかく変わり者と評判の窪塚から話し掛けられたのは、正真正銘これがはじめてだった。 奇抜そうに見えて、現市長と同じ京都大学卒。将来、局長まで上り詰めるだろうと囁かれている切れ者の男である。5年間ロサンゼルス市役所に勤務していて、去年同年代としては異例の役付きとして、この都市計画局都市デザイン室に戻ってきた。 先ほど公印を取りに来て、果歩と南原、そして藤堂と中津川のやりとりを、唖然としながら聞いていたのも、この男である。 「4月からずっと様子見してたけど、おたくの係長、なかなかの人物らしいね」 どこか女性的な優しい声で、それでもこの男の癖なのか、せっかちなまでの早口で、窪塚はそう言った。 「あれは中津川氏の完璧な負けだった。傍で聞いてて愉快だったね。同じ役所でも、うちの体質は古すぎてお話にならないからね」 早口すぎるのと、話が時折り飛躍するのとで、果歩はただ、はぁ、と頷くことしか出来なかった。 「無駄な税金を使いすぎてる。多分、春日さんと同じ気質なんだろうね、あの若さで、どうやってこの旧体制に風穴を開けるか、それが見ものではあるけどさ」 「…………」 「ま、応援してるって、言っといて」 それだけ言うと、窪塚は、ひょうひょうとした顔で果歩の横を通り過ぎていく。 相変わらず、意味不明だが、不思議な嬉しさを感じつつ、果歩は自席に戻っていた。 ――わかってる、人もいる……。 パソコンを開きながら、ちら、と上席の藤堂を見つめる。 藤堂さんの魅力や人柄を、その本質を、ちゃんと見ている人もいる。 果歩にしても、最初は藤堂が苦手だった。4つも年下で、民間出。そんな係長の下で働きにくいなと思っていた。でも、今は。―― 隣席で、まだ南原は不機嫌そうにぶつぶつ言っている。 大河内主査は、相変わらずの我関せず顔である。 果歩は、それを横目で見て、もう気にすまい、と自分に言いきかせた。 きっと、南原にも、大河内にも、いつか伝わるだろうと思った。 いつか――きっと。 「会議室行って来ます」 藤堂がそう言って立ち上がる。 藤堂は、いつもそう言って一言行き先を言い残す。 誰もそれに返事はしないが、必ず言う。 「はい」 果歩は、勇気を出して、そう言った。 「じゃ、後はよろしくおねがいします」 こちらにちらっと視線を向けた藤堂が、抑揚のない声で言う。 が、果歩には、彼の眼が笑っているように見えた。 がんばりましょう。 そう言っているように見えた。 うん、がんばろう。 遠ざかる藤堂の足音を聞きながら、果歩は、両手を軽く握り締めた。 人はそれを嫉妬と呼ぶ(終) |
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