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年下の上司 story3〜 June

雨が降っても地固まらず(1)

 
 失礼します、どうかよろしくお願いします。
 果歩は最後にそう言って、丁重に電話を切った。
 受話器を置くと同時に、笑顔が消え、その代わりにため息が零れる。
 6月のはじめ、4月からの疲れはこめかみにまで溜まっていた。
 そうでなくても、月初めの繁忙期。給与に関わる様々な締め切りが、折り重なって設定されている時期である。
「的場さん、これお願いしまーす」
「今月の勤務報告、机の上に置いときますね」
 都市計画局各課の庶務担当が、次々と報告物を持ってくる。それらを全部チェックして集計して、今日中に決裁を取って給与課に持っていくのが、局の総務、その庶務担当である果歩の仕事なのである。
「ああ、またやってる」
 さっそく見つけた単純な計算ミス。果歩は眉をあげ、唇を噛んだ。電話して修正させて決裁を取り直して――
「…………」
 勢いよく受話器を掴みかけていた手を、ふと止めてしまっていた。
 疲れと苛立ちが限界まできているのが、自分でも分かる。
 こんな状態で電話すると、ものすごく険のある言い方をしてしまうかもしれない。
 ――ちょっと……コーヒーでも飲もうかな。
 4月ほどの修羅場ではないものの、事務量の多さに反比例した提出期限の短さには、いつもながら泣きたくなる。気を取り直そうと、立ち上がった時だった。
「郵便、届いてますよ」
 通り過ぎ様に、同じ係の大河内主査がそう声をかけてくれた。
「あ、はい」
 笑顔で答えつつ、ああ――気づいてるならやってくれても、とつい思ってしまっていた。大河内のうら寂しい頭を見送りつつ、自然に肩が落ちてしまう。
 各局のメールボックスの前に、どかっと置かれた巨大な郵便袋。
 その中に、都市計画局が抱える全ての部課あての、膨大な郵便物が入っているからである。
 それを仕分けして、各ボックスに投げ込んでやる。それは果歩の仕事――というより、アルバイト職員、妙見瑞江にやってもらっている仕事だった。
「あのばぁさん、また休みかよ」
 隣の席から、あきれ果てた声がした。
 ここ、都市計画局総務課庶務係で、唯一果歩と同じ役なしの――南原亮輔。
 果歩にしてみれば、年が一つ上なだけの同僚なのに、どうにもこうにも横柄な男。
 今日も襟足がはねているクレーター面の男は、心底忌々しげに舌打ちした。
「つか、さっさとやめさせろよ。なんだってあんなオバン、いつまでも無駄に使ってんだよ」
 それは、対面席の主査大河内に言った言葉のようだが、実際は、隣席の果歩にあてこすったセリフであることは間違いなかった。
 実際、計画係の男性職員にも暗に言われる。
 そろそろ若いバイトさんにしてよ――と。
「明日は、来られるそうですから」
 果歩はあえて明るい声で言い、やさぐれそうな自分を叱咤しつつメールボックスに向かった。
 総務課で雇用しているバイト職員、妙見瑞江。
 実の所、総務課のほぼ全員が辞めさせたいと思っているこの女性を、1人で頑張って引きとめ続けているのが果歩なのだった。
 ――にしても、月初めにダブルで休みか……。
 さすがに、自分の中の限界点が、揺れ始めるのを感じてしまう。
 6月1日、2日、妙見は朝の電話だけで休みますと告げてきた。実の所、明日も来るのかどうか分からない。
 この忙しいのに――と正直思う。いや、理由を知っているだけに、思わないようにしているものの、どうしても思ってしまう。先月の半ばから、新たな仕事に取り組んでいる果歩にとって、この6月初めの定例事務は、実際、最初の試練でもあったからだ。
 ――まぁ、しょうがないわよね。今考えたって、それで何が変わるわけでもないし。
 と、無理に頭を切り替えてメールの袋を持ち上げようとした時だった。
「僕がやりましょう」
 大きな手が、いきなり果歩の前に伸びてきた。
 わっと、果歩は、動揺を抑えきれずに後ずさった。
 ――ど、どうして。
 今日は局長のお供で外出、戻るのは夕方になると聞いていたのに。
 この春から果歩の直属の上司になった、藤堂瑛士。
 かがみこんだ厚みのある肩が、その一時、果歩の視界の全てになる。
 長袖シャツに雨の匂いが沁みていた。今朝から重く淀んでいた空が、ついに降り出したのかもしれない。
「的場さんは、ご自分の仕事をしてください」
 顔をあげた藤堂が、わずかに笑んだ顔をこちらに向けた。
 黒縁メガネの片方だけ、光で隠れてしまっているが、見えている目は、柔和な表情を浮かべている。ただし、どこか事務的な笑顔。
「い、いいです、そんな」
 果歩は慌てて、藤堂の前にある郵便袋を引き寄せようとした。
 いつものことだけど、間近に寄られると圧倒される。
 なにしろ、この4月から果歩の上司になった4歳年下の民間出身係長は、身長は180を軽く超え、体格も厚みがあって、どこもかしこも大きい! のである。
「期限ものが、沢山たまってるんじゃありませんか」
 が、藤堂はそう言うと、果歩の手を遮るようにして、かなり重量のある袋を片手で軽々と持ち上げた。
 元々スポーツでもやっていたのだろう。立ち上がった藤堂の身体は、縦にも横にも大きくはあるが、無駄なものは一筋もついていない。すっきりと引き締まった、バランスの取れたボディをしている。
 ネクタイを締めた襟元が窮屈そうで、思わず緩めてあげたくなる。――果歩はそんなことを考えた自分に咳払いした。
「私は大丈夫です。それより今は、係長の方が大変なんじゃないですか」
 6月議会が近いせいもあって、最近は連日、局長、次長ヒアリングが続いていた。建築業界で不正が相次ぎ、市の取り組みについても、議会で質問がぶつけられることが予想されているからだ。
 総務の庶務係長――藤堂がいるポジションは、議会対応の責任者でもある。
 藤堂は連日局長室に詰めていた。毎日他課との調整や資料集めに追われ、夜になれば山積みの決裁箱と格闘している。
「僕は大丈夫ですよ」
「でも」
「あなたは席に戻ってください」
「私の方が慣れてますから」
 押し問答をしつつ、果歩は藤堂の手から郵便袋を受け取ろうとした。
 その刹那、指先が触れる。
「…………」
「…………」
 そ知らぬ顔で手を引きつつ、果歩は頬が熱くなるのを感じていたし、藤堂も、目を逸らしたまま、わざとらしい咳払いをした。
 1度目のキスは4月に、このフロアの給湯室で。
 2度目のキスは5月だった。宴会の帰りに――公園で。
 3度目のキスは……。
 その時の互いの体温や、眼差しを思い出すと、果歩はもう正気ではいられない気分になる。
 日がたてばたつほど、あの日のことが、恥ずかしさだけが強調されて思い出されてくる。自分の格好や、その前に晃司と争っていたことや――なにより。
 藤堂に抱かれながら、彼を見上げていた果歩の眼差しは、明らかにそうなることを期待していたような気がするからだ。
「編纂の仕事が、なかなか進まないようですね」
 結局は、2人並んでその作業をすることになった。
 袋から郵便物の束を取り出し、それをいくつか果歩に渡しながら藤堂が言った。
「あ、人選が……予定通り決まらなくて、あと、アンケートの統計を出すのが」
 果歩は言葉を濁らせる。
 先月、藤堂が上申して、果歩が担当することになった新しい仕事。
 この灰谷市の都市計画史を編纂した冊子を、今年度末に発刊するという仕事である。
 おおむねの資料は管理課から引き継いだ。果歩の当面の仕事は、冊子の記事や写真を依頼する専門家を選び、アポを取り、了解を得て打ち合わせ等の調整をすることと、管理から引き継いだ膨大な量の市民アンケートを取りまとめ、資料として集計すること。
 それを、少なくとも6月前半には済ませてしまい、今月中には編集チームをたちあげ、編集会議を開かなければならない。
 時間がない。
 とにかくない。
 それが、果歩の差し迫った現実だった。
「……僕も手伝えることは手伝いますが」
 藤堂にしては、妙に迷いのある口調。忙しい時期、それが口約束だけになると、自分でも分かっているからだろう。
「そんな、全然大丈夫ですよ。明日には、庶務の仕事も片付きますし」
 隣立つ男の心中を察し、果歩はあえて元気よく言ってみせた。本当は、それ以外にも、他局への回答ものが山積みになっている。日中は雑事で殆ど潰れるから、実際は残業するしか活路はない。
 そこでしばらく会話が途切れる。
 隣で、適当にやってるんじゃないか――と、思えるほど見事な手さばきで郵便を振り分けている男を、果歩はちらっと見ては視線を逸らし、逸らしては、また見た。
「……あの」
「……はい?」
 手を止めた藤堂が振り返る。果歩は赤くなってうつむいた。
 最後のキスを交わした夜から、ずっと他人行儀で過ごしてきた2人。
 それが、課内での果歩の立場をおもんばかった藤堂の配慮だというのは分かっている。
 それでも―― 一言くらい、視線でもいい、サインを送ってくれたらいいのにな、と思う。
「あの」
「………?」
「ひょ、表紙のデザインを決めるのに、係長に、相談にのってもらってもいいですか」
「ああ――」
 最大限の勇気を振り絞って言った果歩の言葉に、藤堂が、気安げに頷きかけた時だった。
「藤堂さんっ」
 甘いハイテンションな声と共に、果歩を思いっきりスルーして、藤堂の背を両手で叩く女の影。
 顔を見るまでもない。都市計画局の「モーニング娘。」、政策部に去年新規配属された須藤流奈である。
「お、はよーございますっ」
 と、若者言葉なのか、わけのわからないアクセントでそう言い、甘えきった目で藤堂を見上げる流奈の視界に、果歩は全く入っていないようだった。
「おはようございます」
 藤堂は、まったく普通に微笑して、その甘い挑発に気づかないふり(?)をしている。
 身長150そこそこの小柄な流奈と、藤堂は、並び立つとまるで大人と子供だった。
 都市計画局で「小さな恋の物語」と揶揄されている噂の2人。尤もそれは、間違いなく流奈の一方的なアタックのせいなのだが。
「もう、水臭いなぁ、藤堂さんたら、こういう時は、うちのバイトさん使ってくださいよ」
 果歩の前では「うちのバイト使う時は、課長通してくださいね」と、冷ややかに言い捨てた女は、まるで別人のようなセリフを真摯な目で口にした。
「いや……そちらも忙しいようですので」
「メールの仕分けなんて、係長さんのする仕事じゃないですよ。私、すぐ呼んできますから」
 流奈はそう言うと、終始無視していた果歩を皮肉たっぷりの目で見上げ、そのまま膝上のスカートを翻して背を向けた。
 やがてすぐに、政策部が雇用している若いアルバイト職員が駆けつけてくる。 
 果歩が用事を頼むと、言葉を濁して断る若いフリーターは、自らのボス――ここでは流奈なのだろうが、その言いつけには絶対服従のようだった。
 早速、手際よく、メールの仕分け作業に入る。
「いつでも、声かけてくださっていいですから」
 と、流奈が、その隣で悠然と言う。
「ありがとう、助かります」
 内心の腹立ちを抑え、果歩は後輩に頭を下げた。
 実際、猫の手も借りたいほど忙しかった。動機は不純でも、態度は不遜でも、今は素直に感謝するしかない。
 先月、藤堂の計らいで、果歩は新たな仕事を手がけることになった。
 それは、果歩の、今までの課内での立場を考えるとあまりに異例な扱いだったし、時間のやりくりのためには、何か仕事を減らさなければならないのが実情だった。
 しかし今、局内でそれに協力してくれる者は誰もいない。
 今日のようなすさまじい事務量が降りかかってくる日に、バイトの妙見に休まれると、果歩にはもう、どうにもならない。が、どの課にも「総務にはバイトは貸さない」と言った冷たい雰囲気がたちこめていて、それはもう、果歩や藤堂だけの一存で、どうにかなるようなものではないほど、ひどい状況になりつつあるのだ。
 ――私もだけど、藤堂さんも辛い立場よね。
 果歩はかすかに嘆息しつつ、空になった郵便袋を定位置に戻した。
 各課の、あまりに冷ややかな反応は、結局は、民間登用係長への無言の反発であり、「それみたことか」という意趣返しでもあるのだろう。
 そういう仕事は、女には無理なんだよ。
 総務秘書には、秘書らしい仕事だけで十分じゃないか。
 民間の人は、役所の常識がわかってない。
 そんな陰口は果歩にしても何回も聞いたし、暗に言われたこともある。
 そういったムードは、果歩と藤堂が所属する総務課内でも同じだった。
 先月の藤堂と南原の一件以来、課内で、果歩に雑用を頼む者は極端に減った。が、その代わり、妙にぎすぎすした雰囲気が立ち込めている。
 ド素人が生意気に。
 的場さんも気の毒に。
 そう言いつつ、誰も果歩の窮状に手を貸さない。
 冷めた目で、突き放しているだけである。
 そもそも計画係の連中は、最初から藤堂に批判的だったから、それこそ「それみたことか」と言わんばかりの横柄さで、仕事が滞っていることを暗に責めてくる。普段なら果歩や臨時に頼んでいる仕事を自分たちで回さないといけないことに、あからさまな不満をぶつけてくるのである。
 なんにしても、最悪の状況であることだけは間違いなかった。
 果歩が席につくと、藤堂は珍しく、何か考え込むような目になってため息を吐いていた。
 その目が、一瞬果歩を見たから――。
 彼の気鬱の原因に、自分がいることが判り、果歩は少し困惑したまま、視線を下げた。

 *************************
  
「的場さん」
 声を掛けられたのは、あと10分で夜の10時になろうかと言う時間帯だった
 取り散らかった机の上を片付けていた果歩は、少し驚いて顔を上げる。
 この時間、さすがに残っている人間はまばらだった。総務の庶務係席には、果歩しかいない。今日一日、ずっと局次長室に詰めていた藤堂は、5時前に慌しく出て以来ずっと席空けだったので、もう戻ってこないと思っていたのだが――
「は、はい」
 咄嗟に目元を押さえて立ち上がる。
 ああ――せめて、メイクを直しておけばよかったと、今更思ってももう遅い。
 今日はずっと息つく暇もなかったから、相当ひどい顔になっているはずだ。
 運行日誌を片手に執務室に入ってきた藤堂は、周辺を見回すような素振りをした。
「……ちょっと、いいですか」
 黒縁メガネの下、その目がわずかに疲れている。
 その眼差しと表情で判った。思いっきり仕事モード。かすかに抱いた期待を押し殺し、果歩は笑顔で頷いた。
「こんな時間に、大変ですね」
 先を行く藤堂の背後に立った果歩は、その衣服に、夜の匂いを感じていた。
「もしかして、今夜は次長のお供ですか」
 局次長の春日要一郎。
 果歩が最も苦手としている都市計画局のナンバー2は、今日は県との会合に出ていたはずだ。
「まぁ、そんなものです」
 藤堂は言葉すくなに言い、その春日の部屋の扉を開けた。
 次長室。
 整理と倹約好きな春日の執務室らしく、何もかもきちっと規則正しい序列を持って収められている。
 デスクの前に据えられた長机と4つのパイプ椅子。豪華な応接セットが備え付けてある局長室と違い、同じ役付きの部屋でも、どこか事務的な色合いが強い部屋。
 春日の不在時、ここを会議スペースとして使うことは、春日自身が許していることである。
「どうぞ」
 扉を開けたまま固定して、藤堂は果歩に座るように勧めた。
 どう考えても仕事の話だろう。しかも、表情からしてあまりいい話ではなさそうだ。
 果歩は、固い気持ちのまま、藤堂の対面に腰を下ろした。
「時間がないので、いきなり本題で申し訳ないのですが」
 そう言った藤堂は、わずかに唇を曲げ、それからネクタイを緩める仕草をした。
 こんな時でも、その口元や、手の甲に浮かんだ筋にときめいている自分がいる。果歩は、頷きつつ、自分の手元に視線を落とす。
「来月から、妙見さんには辞めてもらおうかと思っています」
「えっ」
 藤堂の第一声。
 果歩は、唖然として顔を上げていた。
 いずれは、アルバイト職員、妙見のことで、なんらかの話があるだろうとは思っていた。
 が、いきなり今、しかも結論から切り出されるとは。
「ちょっと待ってください、任用は半年のはずですけど」
「欠勤が目につきます。仕事に支障をきたしている以上、やむをえないと思いませんか」
「思いません」
 思わず、きつい声で言い返してしまっていた。
「彼女には、きちんとした理由があるんです。本人の希望で、誰にも話していませんけど」
「……ご離婚されているということですか」
 すでに履歴を見ていたのか、藤堂は静かな目で果歩を見下ろす。
「そ、そうです、……話すと長くなりますけど」
 果歩は、迷いつつも、任用当初、妙見瑞江から聞き取った話をした。
 妙見は、子供2人の親権をめぐり、離婚した夫の両親とずっともめているという。
 そういった事情があるから――と、いうわけではないが、面接時にその話を聞いたせいもあり、果歩は最初から、妙見に同情的な気持ちを抱いていた。
「きちんとした職業に就くことが、お子さんを手元に置く条件なんだそうです。だから」
「市役所の臨時職員が、きちんとした職業でしょうか」
 よどみない藤堂の口調は、柔らかくはあったが冷たくも聞こえた。
「そんな言い方は、……失礼だと思います」
 果歩は、頬が熱くなるのを感じた。
「下のお子さんが病弱で、それで妙見さんは休みがちなんです。今のご時勢で、ああいった条件で、学歴も資格もない女性を、どこが雇ってくれると思いますか」
「……的場さん」
 そう言ったきり、少しの間藤堂は黙っていた。
 それから髪に指を差しいれ、難しい目になって視線を下げる。
「僕は民間の感覚でしかものが言えませんが」
「はい」
「役所は、ボランティアで人を雇う場所ですか、能力ではなく」
「…………」
 それは、と反論しかけ、果歩もまた黙った。
 藤堂の言いたいことは分かる。その意味では、自分の考えが誤っていることも。でも、
「……例えば、それが職員だったらどうでしょうか」
 果歩は、かねてから疑問に思っていたことを口にしていた。
「親の介護、子供の介護、手厚い休暇制度があって、それを取ったからって解雇されるわけじゃないと思います。同じように働いていて、子供さんの介護のために休む臨時職員さんを、それだけの理由で解雇するのはおかしいと思います」
 それには藤堂は、無言で頷いた。
 けれど、やはり、その目はどこか難しげな色を帯びていた。
「私……できるだけフォローするつもりですし、妙見さんは、私の仕事を手伝ってくださっているわけですから、他の方にとやかく言われることもないと思います」
「…………」
 藤堂は何も言わず、ただ、かすかに嘆息する。
 10時。かろやかなメロディと共に、退庁をうながすコールが流れはじめた。
「的場さん」
 立ち上がりながら藤堂は、言った。
「……職員と臨時職員は、同じ立場で働いていると思いますか」
「雇われているという意味では同じでしょう」
 藤堂の言いたいことを察し、果歩は初めて腹立たしい気持ちになって立ち上がった。
「私が、彼女を庇うのは、何もご家庭のことが全てじゃありません」
 見下ろす藤堂を、きっと見上げる。多分、かなり感情的な眼差しになっている。
「彼女の仕事ぶりは、今まで雇ったどんな臨時さんより確かなんです。一度教えた仕事は絶対にミスしませんし、ひとつ頼めば、さらに先を見越した仕事をしてくれます。私にとっては重要な戦力なんです」
「では、妙見さんは、あなたの仕事を手伝うためだけに雇用されていると思いますか」
 話がまるで通じないことに、果歩は、目の前が暗くなるほどの感情に、一時かられた。
「……それは違います、でも」
 言いかけて、黙る。黙った端から、不満が首をもたげてくる。
 現実的には、そうじゃない。
 果歩の仕事が妙見に振られ、妙見が休めば、それは全部果歩に返ってくる。
 他の人は、誰もそこにタッチしない。
「係長は何が言いたいんですか」
 果歩は、きつい口調になって藤堂を見上げた。
「そんな回りくどい言い方、正直、バカにされてるみたいで気分が悪いです」
「……そんなつもりは」
 はじめて藤堂の表情が戸惑いを見せた。
 果歩は、たたみかけるように言葉を繋いだ。
「そもそも臨時を雇用する権限は、私にはありませんから。最初から結論が出ているなら、いちいち相談されずに勝手にしたらいいじゃいないですか」
 言いすぎ……。
 それが分かっていても、一度溢れた感情が止まらない。
「失礼します」
 果歩はそれだけ言って、次長室を出ると自席に戻った。
 ああ――またやっちゃった。
 席についた途端、今度は後悔が込み上げてくる。
 感情の抑制が、またできなくなっている。
 他の人には完璧に出来るのに、どうして藤堂さんの前だと、私は――。
「……もう遅いですが、帰りは大丈夫ですか」
 次長室の扉を閉めた藤堂が、気を使うように声をかけてくれた。
 その、顔色を伺うような彼の口調に、また不機嫌になっている自分がいる。
「バスですから、お気になさらなくて結構です」
 とどめのように、冷たいセリフを吐いてから、果歩はむしろ、泣きたくなった。
 自分の意地っ張りさかげんが嫌になる。
 彼が年下でなかったら――。 
 しかも、上司なんかじゃなかったら――。


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