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年下の上司 最終章@〜4月の約束

4月の約束(最終話)


 4月最後の月曜日。
 灰谷市役所の正門にはカメラクルーが集まり、局長級をはじめ市の幹部職員、市長室秘書課、あと業務上集合可能な職員数百人が一階のロビーに整列してその時を待っていた。 エントランスに黒塗りの車が滑り込んできて、中から真鍋新市長が顔を出す。
 元市長の秘書だった安藤香名が、うっとりした笑顔で花束を渡し、それを受け取った真鍋は、花を高く掲げるようにして集まったマスコミに笑顔を見せた。
 新市長の初登庁。これもまた、市役所の恒例行事である。
 しかしこれまで、その光景がこうも絵になる市長がいただろうか。
「いやぁ、本当、生で見たら格好よかったなぁ。市長っていうより、俳優さんみたいでしたね」
 帰りのエレベーターで、笹岡が興奮気味に話している。新市長の出迎えは任意で、もちろん果歩は行く気はなかった。
 しかし、本庁勤務が初めての笹岡が行きたそうな空気を出していたので、仕方なく「じゃ、一緒に行ってみる?」と声を掛けたのだ。
 総務課からは、春日局長と志摩課長が出迎えの列に並んでいたはずだった。そのクラスになると、参加はすでに任意ではない。
 執務室に戻ると、いつもの光景が広がっている。
 普段通りの表情で淡々と仕事をする藤堂に、最後に2人で話した夜の出来事を修復する気はもうないようだった。
 果歩もまた、どこか諦めの気持ちで、その時を待っている。来月――果歩がこの局を出て行く時をだ。
 その時、ようやく藤堂とは上司部下の関係ではなくなるからだ。
 指輪をどうするかも含め、話し合うならその時だと果歩は覚悟を決めていた。
 真鍋と一度話したことで、不思議なくらい気持ちが落ち着いたせいもある。今朝も、車から降りてくる真鍋を見ても、特段恐さは感じなかった。
 思えば、それまでの果歩は真鍋と会うことを過剰なまでに恐れすぎていたのだ。それは藤堂から見れば、少なからず異常に映っていたのかもしれない。
 ――ま、藤堂さんとどうなるかは、何もかもその時だな……。でも本当に異動先が島だったらどうしよう。
 そして午後4時半、いよいよその時がやってきた。
 にわかに局長室の動きが慌ただしくなり、局の課長が次々と局長室に入っては外に出て行く。それが異動内示であることは、局の全員が暗黙の了解で知っていた。
「志摩さん、やっぱり異動かな」
「ま、順当なとこじゃないか」
 そんな囁きが交わされる中、局長室から出てきた志摩が、最初に呼んだのが中津川だった。ぴりっと課内に緊張が走る。
 異動の口頭内示は、その該当者だけが課長に呼ばれて、直々に口頭で異動先を告げられる。つまり中津川補佐は異動確定だ。
 誰もが耳をそばだてるが、課長のもそもそした声は聞こえてこない。ただ中津川の「わかりました」「ありがとうございます」という声だけが聞こえてくる。
 中津川が異動し、その後に藤堂が入るのではないかという噂はかねてからあったから、次に呼ばれるのは藤堂かな、と果歩がそう思った時だった。
「的場さん」
 志摩の声に、果歩はびくっと肩を震わせた。
 私だった。つまり――藤堂さんは庶務係長残留確定。そして私も、異動確定だ。
 にわかに心臓が高鳴るのを感じながら、果歩は急いで課長席の前に立つ。その直前、ちらっと藤堂の様子を窺ったが、彼はパソコンを見つめたまま、果歩を振り返りもしなかった。
「市長室秘書課」
 志摩のぼそぼそした声が、何を言ったのか分からなかった。
 果歩は数度瞬きをした。
 志摩はゆっくりと顔を上げると、度の強い眼鏡越しに果歩を見た。
「真鍋新市長の秘書だ。――頑張りたまえ」
 それでも果歩は、志摩が何を言っているのか分からなかった。

 *************************

「皆さん、ちょっといいですか」
 5時を過ぎると、藤堂がそう声を掛けて係全員を自分の方に集めた。隣の計画係でも、中津川が同じように係員全員を集めている。
 まだ自分の身に何が起きたのか整理できない果歩は、すがるような気持ちで藤堂を見たが、彼は平素と同じ眼差しを返してくれただけだった。
 この人は、――多分、知っていたんだ。
 失意の中で、果歩はそう理解するしかなかった。 
 少なくとも私より早いタイミングで、私の異動先を知っていたに違いない。
 その上でこんなにも、平然としていたのだ。――
「本日、人事異動内示がありました。この課からは志摩課長が財政課長として、中津川補佐が北区役所の建設課長として転出されます。志摩課長の後任は市民安全局から来られ、中津川補佐の後任は、都市デザイン室の窪塚主査が課長補佐に昇格されて就くことになりました」
 大河内主査が「ほう」と言った。
 それは確かに驚きの人事だった。窪塚主査の若さを考えると、それまでの市の人事慣習にない、かなり思い切った抜擢である。
「それから」藤堂は続けた。
「うちの係からは、的場さんが市長室秘書課に異動されます」
 さらっと言ったが、今度は大河内がごくっと息を飲むのが分かった。大河内に限らず、8年前の果歩のことを知っている人なら、おそらく全員が同じ反応をするだろう。
「それは……大変な所へ、異動になりましたね」
「えーっ、あの俳優みたいな市長さんの秘書なんて、すごいじゃないですか。的場さん」
 果歩は黙って微笑んだ。大変どころの騒ぎじゃない。これは一体、なんの嫌がらせなんだろう。まさか――まさかと思うけど、今度こそ本当に、真鍋さんは私に市役所を辞めさせるつもりなんだろうか。
「それから、的場さんの後任は、議会事務局秘書課から、入江主査が来られることになりました」
 ――えっ?
 果歩は思わず顔を上げていた。
 議会の入江主査といったら入江耀子だ。
 あの入江さんが――私の後任?
「以前、うちの局におられたこともありますから、皆さん、よくご存じかと思います」
 淡々した口調で、藤堂は続けた。
「これから異動まで3日しかありません。慌ただしいと思いますが、引き続きよろしくお願いします」

 *************************

 入江耀子が総務課にやってきたのは、その日の午後8時過ぎのことだった。
「すみません、本当は文書が出るまで口外しちゃいけないんですけど、どうしても一言、ご挨拶したくって」
 耀子が言うように、今日はあくまで口頭内示で、正式な文書は明日発令される。異動者間で連絡を取り合うことが解禁されるのもその日からだ。
 果歩にいたずらっぽくそう言った耀子は、すぐに藤堂の席に歩み寄った。
「ああ、これはわざわざ」
 藤堂が立ち上がる。
「こちらこそ。――もう私、本当にうれしくて。藤堂係長とは、一度、一緒にお仕事してみたかったものですから」
「はぁ」
「民間から来られた人の手法というのも興味がありますし、勉強させてください。すごく楽しみにしてますから」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 藤堂は淡々としているが、なんとなく周囲が微妙な空気なのは、この入江耀子の悪評が、今ではそこそこ都市計画局に広がっているからだろう。
 市の財政を支える三輪自動車会長の娘で、元々は霞ヶ関の官僚だった。――が、何故か灰谷市役所に派遣され、おそらくこのまま居着くのではないかと囁かれている。
 人脈作りには長けているが、仕事の仕方はいい加減、しかも悪質な職場イジメの首謀者である。果歩も藤堂も、昨年はそれで危ない目にあっている。
 親が権力者だけに、誰も面と向かっては注意できない。とんでもなく厄介な存在なのだ。
 乃々子はまだ休んでいて、折り悪く異動日である5月1日から復帰予定だが、これはかなりのストレスになるだろう。
「的場さん、ちょっといいですか」
 その耀子が果歩のところに来たので、気は進まなかったが、彼女に誘われるままに廊下に出た。
「びっくりした。私のことじゃないですよ、的場さんの人事です」
 2人になると、耀子は目を輝かせて振り返った。
 なんとなくこの話になると覚悟していた果歩は、藤堂みたいに「はぁ」と言って曖昧に視線を下げる。彼のあの反応、話を適当に流したい時には便利だなと思いながら。
「ていうか、秘書課は今、パニック状態ですよ。とんでもない人事だって――私も聞いてびっくりしたし、多分明日は、結構な騒ぎになるんじゃないですか」
「……別に、そこまでは」
 あまりに耀子が大げさなので、果歩はたまらず口を挟んだ。
 確かに果歩的には青天の霹靂だったし、今でもまだ、そのショックを引きずっている。確認したわけではないが、この人事異動に真鍋新市長の意向が含まれていないはずがないからだ。
 少なくとも秘書課の人選は、市長の思惑が最大限考慮される。よしんばそれが人事課の他意のない組み間違いだったとしても、少なくとも彼には拒否権があったはずなのだ。
 しかし、真鍋との間に色々あったのはもう8年も前のことで、当時のことを知っている人の中でも、それが果歩だと認識している人はそれほど多くない。
 秘書課がパニックになるほどの大事かといえば、そこまでではないはずだ。
「え? まさか的場さん、まだ知らないんですか?」
 しかし耀子は。さも意外そうに眉を上げた。
「一種の報復人事じゃないかって、昔のことをご存じの人は、そんな風に囁いてますよ。やだ、てっきり知ってるんだと思ってた」
 なんの話……?
「ま、明日文書が出たら分かりますよ。でもそんな些細なことはどうでもいいって思えるくらい、明日は大変な日になりそうですけどね」
 耀子の話の意図が判らず、果歩はただ眉を寄せる。そんな果歩を、耀子は楽しそうに振り返った。
「そんなことより、そっくりだったでしょ?」
「…………」
 真鍋雄一郎と二宮脩哉。
「従兄弟みたいですよ。母親が姉妹同士の。もう藤堂係長にお聞きだとは思いましたけど、これって偶然ですか? 真鍋さんって的場さんの元カレなんですよね?」
「――入江さん、私、まだ仕事があるから」
「ああごめんなさい。すぐ終わります。でもいいじゃないですか。ある意味すごくロマンチック。これでまたよりが戻る可能性、ありますよね。市長もそのつもりで的場さんを抜擢したとしか思えないし」
「まさか、――馬鹿馬鹿しい」
「その馬鹿馬鹿しいことを、市長は大真面目にやってるんですから」
 またもや意味の分からないことを言って、耀子は笑った。
「もし真鍋市長ともう一度おつきあいするなら、――絶対そうなりそうな気がしますけど、藤堂係長のことは安心してください。それも含めて、私がフォローしますから」
 どういう意味?
 果歩は初めて、敵意をこめた目で耀子を見た。
「恐い目」
 耀子はくすっと笑い、肩をすくめる。
「私の男だから手を出すなってことですか。でも私、すごく彼に興味があるんです。役所の彼ではなく、プライベートの彼に」
「…………」
「この異動だって、実は私が希望したんです。二宮の御曹司に近づくなんて、こんなチャンス二度とないから。悪いけど、ここで遠慮するほど間抜けじゃないですよ、私も」

 *************************

 ――本当にもう……、これってどういう流れなの?
 席に戻った果歩は、頭を抱えたくなっていた。
 ある意味、最悪にして最強のライバルが自分の後任になるなんて。
 しかも藤堂の素性を知っているだけに性質が悪い。藤堂もやりにくいだろうし、言ってみれば常に弱味を握られているも同然なのだ。
 席次は主査だから、多分藤堂のすぐ手前になるだろう。そうして彼女がこれから一年、彼のサポート役になる。今年果歩が経験したさまざまなことが、彼女によって上書きされていくのである。
 ――どうしよう、吐きそうなくらい、嫌だ。
 今の自分が藤堂とどういう関係なのかは分からないが、彼の隣に別の人がいることを想像しただけで気分が悪くなる。
 ――藤堂さんは平気なの?
 果歩は、半分泣きそうになりながら、上席の藤堂を窺った。彼は果歩の動揺など一切関心がないように、大河内と何かを話している。
 私が秘書課に行っても平気なの? 真鍋さんの近くに行っても平気なの?
 それとも、もう私のことなんか、――
「すみません。今日は私、帰ります」
 机の上を手早く片付けると、果歩はそう言って立ち上がった。
 果歩の仕事はすでに藤堂が引き継いでおり、後は身の回りの片付けと引継書類を作るだけで、することはそう残っていない。
 カップを持って給湯室に行くと、不意に堪えていたものが溢れそうになった。
 なんでこんなことになっちゃったの?
 あれだけ4月が来るのが待ち遠しかったのに、毎日毎日、カレンダーに×をつけて、ずっとその日を待ってたのに。
 誰が悪いの? 私なの? 藤堂さんなの?
 もう、どうしていいのか分からない――
「的場さん」
 不意に藤堂の声がして、うつむいていた果歩はびっくりして顔をあげた。
 黙って近づいてきた藤堂が、流しっぱなしになっていた水道の蛇口を閉める。
 カップは果歩の手の中に握りしめられたままだった。
「……、あ、今までお世話に、なりました」
 反射的に顔を背け、果歩は事務的に言っていた。
 多分、意図的に2人になろうとしてくれた。それが嬉しいのか不安なのか分からなかった。
「こちらこそ、――役所の異動は急ですね。本当はもう少し、時間をかけて気持ちを切り替えたいところですが」
「そんな……、藤堂さん、そういうの上手いじゃないですか」
 口にしてからしまったと思った。これは嫌味ではないが、2人の今の状況下では完全に嫌味である。
 案の定藤堂は黙り、果歩も、どう言葉をつないでいいか分からなくなる。
「百瀬さんのことは、気にしなくても大丈夫ですよ」
 しかし彼は、果歩が全く予想していなかったことを口にした。
「え? 乃々子のことですか?」
「ああ。百瀬さんというより入江さんのことかな。そちらを気にされているのかと思ったものですから」
「…………」
 確かに、入江耀子が来た後の乃々子のことは気がかりだった。ただ申し訳ないが、それより気がかりなことが立て続けにやってきて、今、そのことは完全に頭から飛んでいた。
「入江さんは、ちょっと難しい人ですけど」
 自分のカップを洗いながら、藤堂は動揺の素振りもない淡々とした口調で続けた。
「全く落としどころがないわけでもないので、僕の下で適任なのかなと思います。百瀬さんのこともフォローしますし、そこは安心されてください」
 僕の下で適任? 落としどころがないわけでもない?
 なにそれ、それを今、私に言います?
 しかも、わざわざ追いかけてきて、話題は乃々子と入江さんのこと――
「そうですね。じゃ、後はよろしくお願いします」
 果歩は力なくお辞儀をすると、ふらふらと給湯室を出ようとした。
 今度こそ本当によく分かった。私の気持ちなんて、この人には全く届いてないんだ。届いていたと思っていたのは独りよがりで、実はずっと一方通行だったんだ。
 なんかもう――全部の気力がなくなったというか。
 不意に手首を掴まれ、果歩はびっくりして足を止めた。
「僕を見ないでください」
 振り返る前に、藤堂が低く囁いた。どこか切羽詰まった声だった。
「……僕には、どうすることもできない」
「…………」
「この人事のことを知った時から、ずっと考えていました。でも、……やっぱりこれは、的場さんと雄一郎さんの問題だと思います。僕が口を出すことでも」
「…………」
「関わることでもない。――そう、思いました」
「いいんですか」
 失望とも嬉しさともつかぬ感情で目の奥が熱くなり、果歩は思わず本心を口走っていた。
「私が、もし真鍋さんそういうことになっても、藤堂さんは平気なんですか」
 返事の代わりに、手首を掴む彼の手に力がこもった。
「……僕は、何度も言いました」
「…………」
「何があろうと僕の気持ちは変わらない。だから僕のことは、しばらく忘れてもらって構わない」
「藤堂さ、」
「もう一度、雄一郎さんと向き合ってみてください」
「…………」
「あなたにどう非難されようと、僕も、それだけは譲れない。それは去年の秋からずっと決めていたことです」
 藤堂の手が離れ、果歩は彼を振り返ることもできないまま、ぼんやりと給湯室を出た。
 分かっているようで分かっていなかった彼の気持ちを口にしてもらえたのは嬉しかった。
 でも、あたかも先の見えない暗い海に、1人で送り出されたような気持ちだった。  
 

 翌日、新体制での人事異動の全容が、文書で全庁に配布された。
「すげぇな、これ」
「どこの局も大騒ぎらしい。もちろん上の連中は、ある程度新市長の意向を知ってたらしいけど」
 局長は、数名を除いて全てが入れ替えられ、その数名に残ったのが総務局の藤家と、都市計画局の春日だった。しかしそれに加え、工事入札室の職員が室長を含めて全員異動。 大型事業を持つ道路局や都市政策部のトップも軒並みすげ替えられていた。
 どこも、10年以上の長きに渡り、トップの異動が殆どなかった部署である。
「しかし様子見するでもなく、急にここまでやったら、反発もすごいんじゃないか」
「勢いがあるから何でもありなんだろ。なにしろ近年じゃ最大の得票を叩き出したからな」
 その中で、市長室秘書課の人事異動は、さほどのニュースにはならなかったが、それでもかつての出来事を知っている人たちにとっては衝撃的な人事に違いなかった。
 果歩はただ愕然としていた。
 秘書課は安藤香名をはじめとする旧メンバーが全員が異動していた。
 そして新メンバーは、果歩を含め一人残らず、――正確には前市長秘書だった御籐補佐をのぞき、――全員が、8年前に果歩と一緒に机を並べていた職員だった。
 


 
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