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年下の上司 最終章@〜4月の約束

4月の約束(4)


「藤堂さん、その時、結構酔ってて……。的場さんはさっさと帰っちゃったから知らないでしょうけど、亮輔さんに支えてもらって、ようやくタクシーに乗り込んだくらいだったんです」
「…………」
「亮輔さん、……多分、的場さんと上手くいってないんじゃないかって言ってました。私には全然そうは見えなかったら驚きましたけど」
 あの夜、藤堂の様子がいつもと違っているのは、確かに果歩も感じていた。
 でもそれは、そんな深刻なものじゃなくて、いつもの彼の意地悪というか――彼には時々、そういった大胆な振る舞いをするところがあるから――
(的場さんのためです)
(ええ、今日くらいはそう思っていようかと思いまして)
 でも、次の週には何もなかったみたいに平然としていたし、結婚式の日だって、彼はいつも通りだった。
 いや、どうなんだろう。次長室でのくだりまでは、確かに普段の藤堂さんだったけど、急にホテルで泊まろうなんて、どこかで頭を打ったとしか思えない展開だった。
 で――結局、あんな最悪な結末が待っていたし。
 でもあの時、もし私がそのまま藤堂さんを受け入れていたらどうなっていただろう。
 多分だけど、彼と食事の約束していた真鍋さんが、同じホテルで待ちぼうけをくらわされていたことになる。
 逆に言えば私は、階下に真鍋さんがいることなど何も知らずに、藤堂さんと初めての夜を過ごしていたかもしれないのだ。
(今日、あなたを抱いたら、僕は一生自分を許せなかった)
 怒りのあまり、頭からきれいに飛んでいたあの夜の出来事が、今さらのように思い返される。
 藤堂の苦悩の理由は分かった。
 でも、だったらどうして、わざわざ真鍋との待ち合わせのホテルを宿泊の場所に選んだんだろう。
 もしあの場所じゃなかったら――あんな風に、真鍋さんと再会することもなかったのに。
「……藤堂さん、南原さんに何か話したの?」
「何も。ただ、あの忍耐強い藤堂さんが、珍しくやけになってるみたいだって亮輔さんが」
「……やけに? それって自暴自棄って意味?」
「そうだと思います」 
 なんだか意味が分からなくなってきた。それじゃまるで藤堂さんは、お祝いの会の頃から私と別れる覚悟を固めていたみたいじゃない。
 4月まで待てって、少なくともそういう意味じゃないでしょう?
 それともあの人の中では、私と真鍋さんが復縁するのが確定事項だったってこと?
 ――あー……もう、余計に腹が立ってくる。
「何があったのかは聞きませんけど、藤堂さんが的場さんを好きなのは、なんかもうお日様が東から登るレベルの話というか、――的場さんがいまひとつ分かってないのが歯がゆいですけど、藤堂さんがどれだけ的場さんのことが好きで、どれだけ大切に思ってるか。――できることなら、藤堂さんの頭を割って、的場さんに見せてあげたいくらいですよ」
「…………」
「須藤さんだってそれで諦めたし、私だってそうです。南原さんだって分かってたし、中津川補佐も大河内主査も、――なんなら前園さんだって分かってましたよ。なのにどうして、的場さんだけ、いつも分かってあげないんですか?」
 果歩は携帯を握りしめたまま、こくりと唾を飲んだ。
 私だけ、分かっていない……?
 ううん、そんなことない。藤堂さんが私を好きでいてくれることくらい、私だってちゃんと分かってた。乃々子は知らないけど、2人の関係が中途半端で止まっていたのは、私じゃなくて藤堂さんのせいで―― 
(無自覚なのはいつものことだけど、今、曖昧にしてるのは、果歩の方だよ)
(藤堂君も、それは分かっていると思うけどな)
 りょうの言葉が、再び脳裏に蘇る。
 まぁ……、私のせいでもあったか。
「……すみません。的場さんの気持ちも考えずに、言いたいことを言いました。色々言いましたけど、誰を選ぶのかは的場さんが決めることだと思ってます。それが、どういう結論でも、的場さんに幸せになってもらいたいっていう気持ちは変わらないですから……」
 乃々子の電話が切れた後、果歩は脱力したようにベッドに再び仰向けになった。
 どいつもこいつも、なんなの一体。
 誰を選ぶのかって、なんなのそれ。
 なんで今さら真鍋さん?
 認めましょう。そりゃトラウマにはなってますよ。思い出したら泣けてくるくらい、二十代だった私には、美しく、きらきらした思い出です。そして、身を切られるほど残酷な思い出です。
 そりゃそうでしょ、めちゃくちゃ好きだったし、結婚するものだとばかり思っていたし、初めての彼氏だったし――そんな人が、ある日突然連絡をくれなくなって、人づてに結婚話を聞かされたんだから、普通に考えてとんでもないショックでしょ。
 藤堂さんには話せなかったし、もちろん晃司にも話せなかった。その程度には大切な思い出です。
 ただあのホテルでの出来事は藤堂さんが悪くて――いや、冷静になって考えたら、土壇場になってめそめそ泣いてしまった私も、……少しは悪かったのかもしれないけど。
「…………」
 多分、自分が思っていた以上に、真鍋の存在というのは大きかったのだろう。8年たった今でもなお。
 ただ、だからといって、今でも真鍋さんが好きかと言われたら絶対に違う。
 彼は私を傷つけたけど、私も彼の妻を傷つけたのかもしれないのだから、それはもうお互いさまだ。
 そういう、双方にとって残酷な過去も含め、今では、声も聞きたくないほど顔を合わせるのが嫌なのに、藤堂さんも乃々子も、なんだってそういう発想になる?
「……少女漫画の読み過ぎでしょ」
 果歩は嘆息して、何日も藤堂から着信のない携帯を持ち上げた。
 ――まぁ、一回、そういうのも含めて話をしてみた方がいいのかな。……

 *************************

 翌日――
「話、します?」の一言が言えないまま、今日も通常通りの1日が終わろうとしていた。
 課内にも、もうこの件には一切触れない空気ができあがっていたし、なにしろ、当の藤堂が全くの――腹か立つほどの通常モード。
 決裁をもらう時や、給湯室で顔を合わせた時など、少し柔らかな態度で接してみたが、肝心の藤堂が、果歩の変化に気づく素振りもない。
 果歩も自然と意地になって、昨夜決めた決意も、当たり前だがしぼんでいく。
「すみません。ちょっと今日は、僕は早く帰るので」
 5時前――それでも果歩が、彼と2人になれるタイミングを見計らっていると、藤堂がその空気を察したように、宣言した。
「皆さんがお忙しいのに申し訳ないです。急ぎの決裁があれば、すぐに回してもらえますか」
 もちろん、藤堂がそんな卑怯な逃げ方をするわけもなく、きっと本当に用事があるのだろう。それでも果歩はその刹那、もう、本当に駄目なのかもしれないと思っていた。
 これまでだって、双方が誤解して険悪になったことはいくらでもあった。けれど、それが藤堂側の事情であれば、藤堂は必ず果歩を追いかけて、きちんと――曖昧にされた部分はいくらでもあったが――それでも、真摯に説明してくれた。
 今回のことは、もちろん果歩側の事情もあるが、藤堂側の事情だって絶対にある。でも今回に限って言えば、彼はそれを、果歩を追いかけてまで説明する気はないのだ。
 市長選はいよいよ今週末に迫り、その翌週には間違いなく人事異動が発令される。今の状態で職場まで離れてしまったら、――今度こそ本当に、2人は駄目になってしまうかもしれない。……
 それでいいの、本当に?
 確かに今回はめちゃくちゃ腹が立ったし、絶対に許せないとは思ったけど、本当にそれでいいの?
 藤堂さんを、このまま永久に失っても。
「…………」
 果歩は立ち上がり、帰り支度を始めた藤堂の方を窺った。
 言おう。
 このまま、偶然2人になれる機会を待っていたららちがあかない。
 仕事のことで相談があると言って、明日にでも時間を作ってもらおう。今回、私が折れることになったのはしゃくに触るが、そこは私が年上ということで我慢しよう。
「係――」
 その時、間が悪く卓上の電話が鳴った。緊張していた果歩は脱力しながら電話に出る。
「はい、都市計画局総務課、的場です」
「こちら一階の受付です。実は今、受付にお客様がおいでになっておられまして」
「……? 私にですか?」
「はい、都市計画局総務課の的場さんに連絡をとっていただけないかと――お知り合いの方とは思いますが、ヨシナガ様とおっしゃる男性の方です」
 ――誰?
 そんな知り合い、庁外にいたっけ?
 もしかして保険か不動産のセールスマンかな。
「……、申し訳ないですけど」
「――え? はい、あの、光彩建設の、吉永様と仰る方です」
 受付の女性が慌てたように言い添えたのは、おそらく隣でそう言えと指示されたのだ。
 果歩は、受話器を持ったまま固まっていた。
 光彩建設のヨシナガ――吉永。
 もしかしなくても、吉永冬馬だ。
 8年前に何度か会った真鍋の叔父。果歩が現市長に憎まれるきっかけを作った男。
 果歩にとっては二度と会いたくない因縁の男である。――
 
 *************************
   
「やぁ、的場さん、随分とお久しぶりですね」
 ロビーに立っていた男は、エレベーターから降りた果歩に、上機嫌な顔を向けた。
 間違いであればいいと思ったが、本当にあの吉永冬馬だ。
 しかし8年の歳月は、当時30代後半だった吉永から、その頃の面影の大半を奪い去ってしまっていた。
 当たり前だが、ふけた。それは吉永から見た果歩もまた同じだろう。髪は若干後退し、明らかに量が減っている。目尻には深い皺がより、肌もそこそこ老化している。
 多分、今は40代半ばだろう。年相応に年を重ねた男の左手の薬指には、銀色のリングが輝いていた。
「お久しぶりです」
 果歩は警戒しながら、それでも努めて冷静に――そして控え目に挨拶した。
「お姉様のことは、ご愁傷様でした」
「ああ」吉永の慇懃な微笑みが、わずかに翳った。
「義兄に聞きました。葬儀においでになられていたそうで。――生前、姉は随分、あなたのことを気にかけていましたよ」
「まさか、あれ以来お会いしたこともないのに」
「本当ですよ。姉はああ見えて情の深い女性でね。しかも継子の雄一郎を自分の子のように大切に思っていた。だから雄一郎が大切にしていたあなたは、姉にとっても気に掛かる存在だったんです」
「……座りませんか?」
 果歩は、受付横にある市民向けに開放されているロビーを指さした。そこには長椅子がいくつか置かれていて、自動販売機やテレビも置いてある。
「といっても、ロビーは6時には閉まるので、あまりゆっくりはできませんけど」
「お変わりになっていませんね。以前と変わらずお美しい」
 懐かしそうに果歩を見つめ、吉永は恭しく胸に手を当てた。
「どうでしょう。お時間があれば、少し場所を変えませんか。とても6時までに話が終わるとは思えない。僕を警戒しているようなら、あなたの行きやすい店を指定していただいても構いません」
 果歩の返事を遮るように、吉永は続けた。
「8年前もそうでしたが、僕に他意はないのです。ただ、結果的にあなたと雄一郎が上手くいかなかったことの、その原因を僕のお節介が作ってしまった。それは今でも、苦しいくらい後悔しています」
「ここのロビーで」
 果歩は微笑して切り返した。
「お話は要約して、6時まででお願いします」
 それまで情感たっぷりに果歩を見つめていた吉永が、やや鼻白んだような顔になる。
 果歩はそれを無視して、先にロビーの中に入った。
 もし、葬儀の席で、妻子を伴ったこの男の憔悴しきった姿を見ていなければ、それでも絶対に会おうとは思わなかっただろう。
 姉に対する情愛の深さ。その一点についてのみ、果歩はこの男にわずかながらの好意を抱いている。しかも今は妻子を持つ身になったのだから、人間的に昔とは違っているかもしれない――そう思った。
 が、吉永の態度を見て確信した。全く同じ匂いがする。8年前と、そしてつい2ヶ月前に、やはりこの役所で顔を合わせた松平帝と。
 強いて言えば、人好きのする笑顔で息を吐くように嘘をつく。そんな人間に共通する匂いだ。

 *************************

「雄一郎には、もう会いましたか」
 着座するや否や、吉永は慈愛のこもった目でそう切り出した。
「毎日のように」
 果歩は苦笑して、ロビーの中央でつけっぱなしになっているテレビに視線を向けた。ローカルニュース、そこには、遊説する真鍋の姿が映し出されている。 
 まくり上げたシャツに、鉢巻き。熱狂する主婦たちがそこに押しかけ、あたかもアイドルの握手会のような握手、握手、握手――もうすっかりお馴染みになった光景だ。
「まさか、雄一郎のようなプライドの高い男が、ここまでするとは思ってもみませんでしたよ」
 その姿を横目で見て、吉永はしみじみとそう言った。
「でも奴は間違っている。その理由がお判りですか」
「いえ、全く」
「それはいけない」
 吉永は大げさに目を見開いて果歩を見た。
「あなただけでも雄一郎を理解してやらないと、あまりに奴が可哀想というものです。8年前、雄一郎はあなたとの仲を父親に引き裂かれ、あげく持ち株の全てを奪われて光彩建設を追放された。雄一郎が父親の言いなりにならざるを得なかった理由が分かりますか? あなたが市役所にいたからだ。――あなたを、父親に人質に取られていたからです」
「私が、人質」
 一瞬、動揺しなかったと言えば嘘になる。しかし果歩は冷静に応対した。
 いくらなんでもそれは理論の飛躍だろう。いくら市長といえど、せいぜい私に対してできるのは地下室で文書整理をさせることくらい。
 しかも、そこから脱することができたのは、何も雄一郎の助力があったからではない。果歩自身が訴訟をちらつかせて人事課と直接交渉したからだ。
 その件で、果歩が人事課のブラックリストに載っているのはりょうの折り紙つきである。
「彼がそのように思うのは自由ですけど、それが、今回の市長選と何か?」
「雄一郎の目的は、市政をよくすることなどではありません。亡き母親の復讐と、――当時奪われたものを取り戻すためです。その復讐心は、僕に言わせればとても危険だ。雄一郎にとっても、この市にとっても」
「吉永さん」
 果歩は腕時計に目をやった。
「あと5分です。そろそろこちらに来られた目的をお話いただけないですか」
「雄一郎と、もう一度会ってくれませんか」
「もうお会いしたんですよ、偶然ですけど」
「知っています。あのホテルですね。以前あなたと食事をした」
 吉永はにやりと笑い、果歩は初めて、動揺で双眸を翳らせた。
「あなたは、二宮家の継嗣――今は家を出たそうですが、かつて、戸籍上は雄一郎の従兄弟に当たる男と一緒だった。二宮には、雄一郎の母親の妹が嫁いでいましてね。あなたとご一緒だった男とはまた別の人間ですが、雄一郎によく似た従兄弟がもう1人いたんですよ」
 それが、二宮脩哉のことだ。
 親戚だろうとは思っていたが、ようやく果歩の中でその人間関係が整理できた。
 早世した脩哉の実母と、同じく早世した雄一郎の母は姉妹だったのだ。
 1月、おそらく藤堂と母は、揃って真鍋麻子の葬儀に顔を出していたのだろう。姻戚である二宮家の代理として。
「あなたと一緒にいた藤堂という男は、その二宮家の養子で、一時期、雄一郎がとても可愛がって、面倒を見ていた男です。僕も今回調べて初めて知りましたが、その男は今はあなたの上司だという。それはただの偶然でしょうか」
「偶然です。私も先日知って驚いたくらいですから」
「そうでしょうか。でも雄一郎は、2人を見ても驚かなかったのではないですか」
 またしても果歩は、目元を険しくさせ、吉永はますます嬉しそうな顔になった。
「――驚くはずはない。雄一郎は、この8年、あなたがどこで何をしていたか、その何もかもを知っていたからです」


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