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年下の上司 最終章@〜4月の約束

4月の約束(5)


「市役所で市の職員をしていました」
 果歩は冷淡に切り返した。
「誰でも知ってることですけど」
「雄一郎は、あなたのことを忘れたことがないんです。この8年、ずっと」
「それが本当なら、申し訳ないとしか言いようがないです」
 果歩はもう、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思っていた。
 どいつもこいつも――藤堂と乃々子のおかしな思い込みだけでもうんざりなのに、いい加減にして欲しい。一体何が言いたいわけ?
「私にはすっかり過去の話です。思い出すのも難しいくらいの」
「女性というのは、残酷ですね」
 さすがの吉永も、少し苛立ったような口調になった。
「それでも僕は、あなたには雄一郎を変えてしまった責任があると思っています。雄一郎と会って下さい。いや、会うべきだ。今度こそ僕が、あなたと雄一郎を幸せにしてみせます。あの時も言いました、僕は雄一郎の味方なんです」
「他を当たって下さい」果歩は立ち上がった。
「あなたが味方すべき女性は、沢山いると思いますよ」
 吉永の眉が、不快気にゆがむ。
「あと、これ以上、おかしな用件で私につきまとうなら警察に通報しますから。たたださえ役所の中で過去の噂が蒸し返されてうんざりしてるんです。失礼します。もう6時になったので」
「僕の名刺です」
 遮るように吉永が差し出した名刺には、光彩建設社長と書かれていた。
「連絡してください。いや、あなたはしなければならないはずだ。雄一郎が忘れられなかったからこそ、あなたは奴と縁続きの男に惹かれたのではないですか」
「偶然です。知っていたら、逆にお近づきにもなりたくなかったでしょう」
「雄一郎は殺されますよ」
 それにはさすがに、果歩は足を止めていた。
「……なんですって?」
 吉永は初めて、被っていた羊の仮面を脱ぎ捨てたような陰険な笑みを浮かべた。
「それくらい、議兄は市長の座に固執している。どんな手を使っても、雄一郎を市長にはさせないつもりだし、その理由があるんです」
「ばかばかしい」果歩は、肩で大きく息をした。
「いずれにしても、私には関係のない話です」 
 たかだか市長職に、人を殺すほどの価値があるはずもない。そもそも、真鍋にしろその父親にしろ、一生働かなくても生きていけるほどの資産家なのだ。
「あなたが雄一郎を止めるべきだ」
 しかし、吉永はなおも言い募った。
「あなたさえ手に入れば、雄一郎は市長選から手を引きます。それは僕がよく知っている。的場さん、あなたは雄一郎に、本当にわずかな未練もないんですか」
「一ミリもないです」
果歩はきっぱり言い切ると、照明の落ち始めた市民ロビーを後にした。

 *************************

 ――なんなんだ、あの女。8年前とは別人になっていやがる。
 果歩が去った後のロビーで、吉永は舌打ちをしながら煙草を取り出した。
 そこに、ロープを持った警備員がやってくる。
「申し訳ないんですが、ここは6時以降立ち入り禁止です。あと、庁内は禁煙なので」
 黙っとけ、公僕が。
 この俺を、一体誰だと思ってやがる。
 吉永は悠然と煙草に火をつけると、口にくわえたままで歩き出した。
 初老の警備員は、眉をひそめるだけで何も言わない。市民相手には何もできない。それが税金で食わせてもらっている公務員だ。
「それにしても、あてが外れたな」
 葬儀の席で、震えながら立っている姿を見たときは、まだ十分理由価値があると思ったものだが。
 今年で30かそのくらいか。昔は見た目が可愛いだけの頭が空っぽな女の子だったが、今はその逆になっている。可愛くないし、頭の中は疑念と警戒心で一杯だ。一ミリも隙を見せまいという覚悟が、話していただけで伝わってくる。 
 それでも、使えないわけじゃない。
 役所を出た吉永は、携帯を取りだして耳に当てた。
(これ以上、おかしな用件で私につきまとうなら警察に通報しますから)
 悪いが、警察はあてにならない。それが分かったら、あの真面目なお嬢ちゃんはどう思うかな。
「おう、俺だ。また仕事を頼みたい。そう――例のあれだ。以前女の顔写真は送ったな。おそらく、もう直市役所を出てくるはずだ」  
 雄一郎、お前の本心をあぶり出すのなんて簡単だ。
 あの女を痛めるだけ痛めつけて、お前がどこまで耐えられるかじっくり観察してやるさ。
 すっかり力をつけたつもりだろうが、所詮8年前と同じ結末になることを、俺が思い知らせてやるよ。

 *************************

 ――なんかもう、最低の1日だったな……。
 帰りのバスの中で、果歩はぼんやりと目をつむった。   
 執務室に戻ったら、当然のことながら藤堂は帰宅した後だった。せっかく藤堂と話そうと決めたのに、あんなくだらない男に時間を奪われたことが悔しくて腹立たしくてたまらない。
 あまりに気が収まらなかったから、久しぶりにデパートに寄って、今さらながら春物の服をいくつか衝動買いしてしまった。
 2月に散財して3月は祝いやら餞別のラッシュだったから、少なくとも夏のボーナスまでは服は新調しないと決めていたのに――来月の引き落とし額を考えると、ストレス解消どころか、余計に気が重くなるばかりだ。
 バスの窓を流れていく景色に目をやった果歩は、ふっと気鬱なため息をついた。
 ――……藤堂さんに電話、してみようかな。
 何をしたところで、藤堂との仲が元に戻らない限り、この気の重さが晴れることはないだろう。
 でも用事があって早く帰ったくらいだから、電話に出られる状況かどうか。それに、もしめちゃくちゃ冷たくされたら、もう二度と立ち直れないような気がする。
 だから余計に腹が立つ。あのタイミングで、あんな邪魔さえ入らなければ……。
 ――てゆっか、なんなの、あの男。
 吉永冬馬。
 今思い出しても、腹が立つし、気分が悪い。最初から最後まで全部が嘘くさくて、そのくせ胸をえぐられるような残酷なことをズバズバ言われた。
 23歳の果歩が、愚かにも信じていたおとぎ話を――その可能性を何度も何度も考えて、ようやくそうではないと受け入れられたことを――汚い言葉と、嘘にまみれた笑顔でまくしたてられた。
(8年前、雄一郎はあなたとの仲を父親に引き裂かれ、あげく持ち株の全てを奪われて光彩建設を追放された。雄一郎が父親の言いなりにならざるを得なかった理由が分かりますか?)
(雄一郎は、あなたのことを忘れたことがないんです。この8年、ずっと)
 その程度のことなら、何度も何度も考えた。何度も何度も。何度も何度も。
 泣きながら眠って、泣きながら目覚めた。夢であの人の姿を見つけては喜び、目覚めて現実の残酷さを思い知らされた。
 彼の望んだように、市役所をやめなかった自分が悪かったのかもしれないとも考えた。退職して東京へ行くことも考えた。彼と会えば、きっと誤解の何もかもが解けて、また再び元通りになると――そんな夢を、まだ見ていた。
 いつかのように、慌ててベンツで追いかけてきてくれて、……
(俺は、君が好きだ)
(ずっとそうでなければいいと思っていた。でも、もう、認めるしかない)
 気づけば果歩は、睫毛を震わせて泣いていた。
 駄目じゃん、私。
 私が好きなのは藤堂さんで、真鍋さんに未練なんかこれっぽっちもないはずなのに。
 こうしていったん思い出の中に取り込まれてしまうと、苦しくて身動きできなくなる。
 まるで自分が自分でなくなるようで、ただ、泣くことしかできなくなる。
 23歳の時と同じで、1人身体を丸めて海の底に沈んでいくような――そんな無力感に囚われてしまう。
 こんな気持ちのままじゃ、藤堂さんと話なんかできない。
 藤堂さんに申し訳なくて、もう顔を見ることもできない――
 
 *************************
 
 涙が止まらなくなったので、二つ前のバス停でバスを降りた果歩は、とぼとぼ歩いている内にようやく冷静さを取り戻していた。  
 ――まぁ、今思えばだけど、帝さんには感謝だな。
 今回、吉永冬馬の襲来を最大限の警戒態勢で迎えることができたのは、間違いなくわずか2ヶ月前、似たようなパターンで松平帝の襲撃を受けたからだ。 
 吉永が役者なら、言っては悪いが松平は喜劇役者のようなもので、全てがわざとらしく、大げさで、――それが帝という人の特徴でもあるのだろうが、はっきり言えばわかりやすく胡散臭かった。
 だけど果歩は、あたかも蜘蛛の糸にすがるような思いで、その胡散臭い糸を掴もうとしたのだ。
 結局、りょうの叡智で糸から手を離したものの、もし自分が帝の罠に落ちていたらと考えたら、身もすくむような思いに囚われる。
(僕は、彼に嫌われているので)
(もしかすると、的場さんにも嫌がらせをしてくるかもしれない。いずれにしても、もし帝さんから接触があったら、まず僕に知らせて下さい)
 薄々そんな予感はしていたが、帝は、藤堂にとって決していい関係性を持つ人ではなかったのだ。藤堂は言わないが、あるいは水面下で、二宮家の後継者を巡る諍いがあったのかもしれない。
 もし私が選択を誤って、藤堂が帝に弱味を握られるようなことになっていたら――それは、悔やんでも悔やみきれなかったろう。
 そんな風に、親切な申し出の裏に潜む悪意を察知できるようになったのは、果歩にとってはいい意味での、8年前からの成長なのかもしれない。
 今回も、吉永の言葉に、怪しみながらも何度か心が揺れたのは事実である。
 もし、帝との間に似たような出来事がなかったら、その甘言にひっかかって、8年前と同じ深みにはまっていた可能性は十分にあった。
 そういう意味では、帝は吉永の下手なレプリカのようなもので、吉永が虎なら帝はしょせん猫にすぎない。その猫相手に、運良く今回は、事前の対応策を学べていたのだ。
 ――お金持ち相手の恋愛って、結局、似てくるものなのかな。
 今振り返ってみると、藤堂と過ごした1年は、まるで真壁との恋愛の、奇妙なリピートのようだった。
 親にも友人にも紹介できない秘密の関係、彼の親の反対と婚約者の存在。
 似たような立ち位置だった帝と吉永。親族間の深刻な愛憎。
 そうだ、――真鍋さんと同じように、藤堂さんも車で田舎まで来てくれたんだっけ。しかもどちらも見合いという餌に欺されて。
 思わず微笑んだ果歩は、ふと足を止めていた。
 そうして考えると、この1年、もしかすると私は、真鍋さんとの恋愛でできなかったことや失敗したことを、ひとつひとつ、リベンジしていたのかもしれない。
 当時は知恵も行動力も仲間もいなくてできなかったことを、泣いたり怒ったり悩んだりしながら、藤堂さんと一緒に、ひとつひとつクリアしていった。
 そうしてゴールが近づくにつれて……おそらくだが、ずっと胸に封じ込めていた真鍋との思い出が、少しずつ自分の心の中に溢れて、蓄積されていったのだ。
 1月に、彼の義母の葬儀があったことも、それに拍車をかけたのかもしれない。
 あの日、否応なしに過去に引き戻された果歩は、雨の中、思い出に囚われて身動きが取れなくなってしまった。あの因縁のホテルで、急に過去に引き戻されてしまったのと同じように。
 ――でも、それは絶対に恋とは違う。
 そこは多分、藤堂さんも誤解している――というか、自分の態度が誤解させてしまった。それをはっきり言葉で伝えることができたら、藤堂さんも分かってくれるかもしれない。
 そして、解決方法を一緒に考えてくれるかもしれない。
「うん、明日もう一度、ちゃんと話をしてみよう」
 少し元気が出たような気がして、前に向き直ったとき、歩道沿いの車道に停車していた大型のバンから、年配の女性が出てくるのが見えた。
 その人が松葉杖のようなものをついていて、少し足下をふらつかせていたから、果歩は急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「すみません、実は荷台から車椅子を下ろしたくて……、申し訳ないんですが、手伝ってもらえませんか」
「分かりました」
 女に促されるままに、果歩は車の後部席の扉に手をかけた。扉を開ける直前、どうして窓が真っ黒なんだろうと、不審に思った時だった。
 内側から扉が開いて、同時に背中を強く押された。よろめいた途端、中から延びてきた手に両腕をがっしり掴まれている。
 ――え?
 ハンドバッグとショッピングバッグが地面に落ち、同時に車内に引きずり込まれた。真っ暗な中、複数の人がいる気配がして、声を上げる前に背後から口を手で塞がれる。
「しっ、しっ、しっ」
「騒ぐと、痛い目に合うからな」
 なに? なに? なに?
 頭の中が真っ白になって、今、何が起きているのか分からない。背後から両腕で抱き込まれ、別の人間に両足を抱えられて、車の奥の方に押し込まれる、
 少なくとも3人の男が、前後から果歩の身体を拘束している。煙草と脂臭い匂いが、車内にきつくたちこめている。
「早く閉めろ」
 車内の誰かがそう言い、後部座席の扉が外から閉められた。


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