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年下の上司 最終章@〜4月の約束

4月の約束(6)


 一瞬の内に、果歩は逃げ場がなくなったことを理解した。
 ――が。
 扉は何故か閉まらなかった。いや、閉まる直前に、外から黒いブーツに包まれた足が勢いよく突き入れられた。
 車内に緊張が走ると同時に、扉が外から開けられる。そこには黒いライダースーツにフルフェイスのヘルメットを被った長身の男が立っている。
 車内にいた、一番手前の男がまずスパナのようなもので口を殴られて悶絶した。
 飛び出そうとした別の男も、ヘルメットをつけた頭で思いっきり頭突きを食らわされ、跳ね飛ばされる。その何もかもが凄まじく凶暴的で、車内に残る誰もが息を飲んで凍り付いた。
 謎の男の腕が伸びて、動けない果歩の腕を掴んだ。
「――早く」
 どこかで聞いた声のような気がしたが、考えている暇はない。腕を引っ張られ、車内から外に膝から転がり落ちた途端、背後で慌てたように扉が閉まった。
 いきなりアクセルを踏み込んだのか、猛スピードで黒のバンが走り去っていく。
 果歩は呆然と、去って行く車を見送った。
 ――今の……何? 
 まだ8時前の住宅街は、帰宅中のサラリーマンがちらほらしている。しかしあまりに短時間すぎて何が起きたのか分からないのか、何人かが、不審そうにこちらを見ているだけだ。
 アスファルトで両膝を強打した果歩は、まだ、自分に起きたこと――起きようとしたことが理解できず、呆然としたままでいた。
 今――一体、何が起きた?
 私……、どうなるところだったの?
「あー、靴が片方、車に残ったままでしたね」
 頭上から、どこかで聞いた声がした。
「いやぁ、しまったなぁ。どうします? 的場さん。ひとまずどっかで靴を買ってきましょうか」
 あ……、とようやく我に返った果歩は顔を上げた。
 うるさげにヘルメットを外した男が、もつれた髪をわしゃわしゃと指でかき混ぜる。
「お、緒方さん?」
 ――なんで? どうしてこの人が?
 県警本部の暴対係の緒方潤一。先日会った三宅の先輩だ。
 果歩とは昨年の11月、大河内が巻き込まれた痴漢えん罪事件で知り合いなった。
 座り込んだままの果歩の前に膝をつくと、緒方は困惑したように頭を掻いた。
「すみませんねぇ。実は今、とある組織の内定中でして、……まぁ、たまたまその犯行現場に居合わせて、たまたま被害者が知り合いだったので、うっかり手を出してしまったと――今ここなんですよ」
「……、は、はぁ」
 緒方は、傍らに落ちている果歩のバッグやショップの袋を拾い上げた。
「中は大丈夫だと思いますよ。ただ、靴がなぁ」
 ここで靴に拘る意味が分からなかったが、緒方は残念そうにため息をついた。
「怖かっただろうし、さぞかし警察に行きたいでしょうが、すみません。そこは僕に免じて、ちょっとの間、辛抱してもらえませんか」
「……内定中、だからですか」
「そういうことです。本当は、ここで僕が手を出すのも厳禁なんです。しかしさすがに、知り合いの女性が拉致されかけているのを放っておくわけにもいかんでしょう」
 ――……それはつまり、知り合いでなかったら放っておいたということ?
 緒方のひょうひょうとした明るさと、束の間見せた狂気にも似た凶暴性が合致せず、果歩は戸惑って視線を彷徨わせる。
 どれだけ親しげに見えても、警察官が自分たちとは全く違った人種であることはよく分かった。ただ、いずれにしても、緒方に助けられなかったら、今夜、自分はどうなっていたか分からないのだ。
「どうします? ひとまずタクシーを呼びますか。僕が送れたらいいんですが、生憎今日はバイク――おっと」
 その時、前方に車のライトが煌めいた。
 先ほどのバンを彷彿させるほどの猛スピードで、白のセダンが近づいてくる。
 軋むようなブレーキ音がして、車がやや斜めにぶれながら歩道沿いに停車する。
 果歩は恐怖で凍り付いていた。また、先ほどの連中の仲間が戻ってきたと思ったのだ。
 運転席と助手席の扉が開いて、男2人が同時に飛び降りてくる。
 その姿を見て、果歩は今度こそを息を飲んでいた。
 1人は二宮家の執事で、先日真鍋と一緒にいるところを見た片倉。そしてもう1人は、今日早く帰宅したはずの藤堂だった。

 *************************

「……片倉、ひとまず僕の家にやってくれないか」
 藤堂の声が暗く沈んでいる。
 その隣で、果歩は膝の上で拳を握り、小さく深呼吸をしながら冷静さを保とうとした。
 片倉が運転する車の車内。
 拉致されかけたという恐怖は、後になればなるほど強くなり、もしあの時緒方が来てくれなかったらと思うと全身が震え出しそうになる。
 どうにもならなかった。手も足も押さえられて、叫ぶことも抵抗することもできなかった。車の扉が閉められて、もしあのまま車が走り去っていたら――
 内心の恐怖を体現するかのように、心拍が息苦しいほど高くなる。
 それでも果歩は、懸命に自分の恐怖を押し殺した。
「藤堂さん、私ならもう大丈夫ですから」
 藤堂が、ゆっくり自分を振り返る。
 車内は暗く、彼の表情を窺うことができない。
「ただ、どこかでストッキングと靴を買ってもらえると助かります。今日は色々買い物しちゃったんですけど、生憎アウターばかりで」
「分かりました。サイズを聞いてもいいですか」
 藤堂の口調が落ち着いているので少しだけ安堵したが、彼が最初、――果歩を抱きかかえて車に乗せてくれたとき、激しい怒りと動揺を堪えていたのはよく分かった。
 ――……しっかりしなきゃ。
 果歩は自分に言い聞かせた。私がいつまでも怯えていたら、藤堂さんだって、どうしていいか分からないに違いない。
「あ、ただ安いのでお願いします。ご存じの通り、冬のボーナスはもう残っていないので」
 藤堂が笑ったような気がしたが、それは気のせいだったのかもしれず、果歩もまた、上手く笑えていた自信はなかった。
 それきり、車内に沈黙が満ちる。
 隣に座る藤堂は、役所では決して見ることのない上質のスーツを着ていた。きっと今夜は、誰かと会う約束だったのだろう。
 ――……どうして、来てくれたの?
 藤堂に聞きたいことは色々あったが、これだけは今日どうしても聞かなければいけない根源的な疑問だった。
 藤堂と片倉が駆けつけてくれた時、緒方はすでに姿を消していた。
 迷ったが、嘘をついても仕方がないので、果歩は自分の身に起きたことと、それを緒方が助けてくれたこと――緒方が別の事件の内偵中であったことを車内で2人に説明した。
「警察には、届けなくてもいいと思います。緒方さんがそもそも警察だし、相手も分かっていたような口ぶりでしたし」
 藤堂が警察に行こうと言い出す前に、果歩は急いでそう付け加えた。緒方の名刺なら持っているし、明日にでも詳しい事情を聞くことができる。
 何より、自宅の近所でこんなことがあったことを、心配性の両親に知られたくない。きっと大騒ぎになるだろうし、明日から仕事を休めと言い出しかねないからだ。
 それでも藤堂なら、警察に届けるべきだと言い張ると思ったが、意外なことに、彼は何も言わなかった。
 運転する片倉もまた、黙りこくったまま一言も口を聞かない。
 そして今、どこか異様な雰囲気のまま、3人を乗せた車は、藤堂の部屋に向かって走っている。
 今夜、藤堂といることの不思議に、うつむいたままの果歩は微かに眉を寄せた。
 最初から今まで、消えない疑問は、今も頭の中で渦を巻き続けている。
 ――どうして、藤堂さんが来てくれたんだろう。 
 もちろん偶然であるわけはない。緒方も偶然で藤堂も偶然なんて、あまりに話が出来すぎている。
 あまり考えたくないけど、今夜、私がこんな目にあったのは、もしかして二宮家に関わることが原因だったのだろうか。
(私がもし、反対したらどうするね)
 反対――されている? いや、だからといって藤堂の義父が、こんな犯罪的な手段を選ぶとは思えない。それは違う、絶対に。
 ――だったら、何故?
 気がつくと、車が見慣れた場所で停まっていた。
 目の前には、藤堂の暮らす小さなマンションがある。 
 
 *************************

「靴は片倉が買ってくるので、それまでうちで休んでください」
 先に室内に上がった藤堂は、すぐに浴室の方に消えていった。
「今、お湯と、足を拭くものを持ってきます」
 両方の靴を脱ぎ、ストッキングで車からここまで歩いてきた果歩は、藤堂の姿が見えなくなったのを確認してから、膝の部分がズタズタに裂けたストッキングを脱いだ。
 藤堂は抱えようとしてくれたが、それは固辞した。いくらなんでも住人に出くわしたら恥ずかしいし、膝は、立ってさえいればスカートで隠れるからだ。
 改めて自分の膝頭を見た果歩は、息をのんだ。
 ずっと痛いとは思っていたが、そこは打撲で青黒く腫れ、細かな裂傷から血が滲み出ている。
 そこに藤堂が洗面器を持って戻ってきたので、果歩は慌ててスカートを下ろした。
「すみません」
 屈み込んだ藤堂の肩に手を置いて、盥に張られたぬるま湯に足をつける。
 その際、スカートがずり上がらないよう、膝の上から手で押さえた。
 その手を、上からそっと掴まれる。
 ドキッとして、息が止まった。
 しばらく触れていなかった素肌の温かさが、手の甲を通じて伝わってくる。
「な、なんですか」
「膝を見せて」
「…………」
 やんわりと、しかし有無を言わせない力で果歩の手を脇によけると、藤堂は膝を覆うスカートを膝上まで押し上げた。
 はっと眉を険しくさせた彼が、そのまま黙り込んでしまうのが怖かった。
「大丈夫です。普通に歩けましたし、ただの打ち身だと思います」
 果歩は急いで言い添えた。
「明日、ひどく痛むようだったら病院に行ってきます。しばらく、短いスカートははけませんけど」
「……そうですね」
 感情を懸命に押し殺した声だった。それきり藤堂は何も言わず、黙って果歩の足をぬるま湯ですすいでから、タオルで拭った。
 素足に触れる彼の手の温度が心地よかった。自分の足首に添えられた大きな手は、昔から自分だけのもので、それはこれからもずっとそうなのだという気がした。
 そして同じことを、今藤堂も考えているような気がした。
 立ち上がった藤堂が果歩を見下ろし、果歩は吸い寄せられるように、その身体に両腕を回した。
 言葉もなく抱き締められた途端、堪えていた涙が鼻筋を濡らした。
 ――怖かった……。
 すごく、すごく怖かった。
「……的場さん」
 力いっぱい抱き締めてくれる藤堂の両腕が微かに震えている。冷静に振る舞う彼が、今夜、果歩以上に動揺し、怒ってくれていることが愛おしかった。
 果歩はいっそう両手に力をこめ、藤堂の胸に頬を埋めた。もう、このまま離れたくない。ずっと傍にいてほしい。
「……帰りたくない」
 万感の思いを込めた言葉だったし、それだけで藤堂には伝わったはずだった。
 一瞬身体を硬くした彼から、火のように激しい情熱が伝わってくる。
 彼の手が果歩の顔を上向かせ、それに呼応するように目を閉じた。
 このまま唇を合わせてしまったら、今度こそ本当に、2人は一つになれるような気がした。
 ――が、その興奮はほんの短い間だけのものだった。数秒後、静かな目色になった藤堂は、そっと果歩を肩を抱いて引き離した。
「……片倉が戻ってくるので」
「…………」
「座って下さい。今、消毒液を持ってきますから」
 目を逸らすようにして離れた藤堂を、果歩は呆然と見上げた。
 ――なんで……?
 どうしてなの?
 藤堂は、引き戸を開けて隣の寝室に入り、プラスチックのケースを持って戻ってくる。 後ろ手でぴったりと閉められた扉は、今夜、きっと何があっても開かないのだろう。
 果歩は悄然としたまま、藤堂が用意してくれた椅子に腰掛けた。

 *************************

「……的場さん、先日は本当に、失礼しました」
 時計の秒針の音さえ聞こえそうな沈黙の中、最初に切り出したのは藤堂だった。
 果歩の両膝を消毒液で清め、切り傷に傷テープを貼った藤堂は、そこで言葉を切って立ち上がり「何か飲みますか」と言った。
 果歩は黙ったままで首を横に振る。
「僕にとっては個人的な……そして、的場さんにはなんの責任もない、」
 やはり苦しそうに言葉を切ると、藤堂は自分もリビングテーブルを挟んだ椅子に腰を下ろした。
「……、的場さんが知りようもない理由が、あの日の僕にはありました。ただそれでも、あんな真似をするべきじゃなかった。どれだけ謝っても許されることではないと思っています」
 そうだろうか?
 私の知りようのない理由――それが何かは分からないが、あの日、藤堂は一度は、永遠にその事実を私に知らせないでおこうと決めたのではなかったのか。  
 もしあの日、私がためらうことなく、彼を受け入れていたら。
 ロビーで真鍋に会うこともなかったし、今、こんな深刻な顔で、2人で向き合うこともなかった。
 でもこの人は、それを私に、謝らせるつもりはないのだ。
 そして、彼の言うところの過ちを犯させた分岐点には、もう二度と戻れないのだ。――
 藤堂が、すでに何かの決意を固めてしまったことを失望とともに感じながら、果歩はようやく口を開いた。
「真鍋さんは、藤堂さんの従兄弟なんですか」
「……血の繋がりはありませんが、二宮の養子だった立場で言えばそうです。雄一郎さんと脩哉の母親は姉妹で、そのご実家は二宮家と絶縁状態にありました。だから僕は、長らく雄一郎さんの存在を知らなかったんです」
「絶縁……、というのは」
「義父が、脩哉を産んだ女性を、半ば強引に――いえ、はっきり言えば犯罪的な方法で妻にしたからだと思います」
 そのことは、二宮喜彦本人から告白を受けている。
 果歩はようやく、二宮家で香夜と対決した夜、彼女がとうとうと脩哉の母親のことを語った本当の理由を理解した。
(それはそれはお美しい方だったそうよ。脩哉様のお母様は――そのご姉妹も、本当に竹取物語のかぐや姫のようだったと聞いたわ)
(その月光のような美貌ゆえに、様々な名家から求婚が来たそうよ。ご本人たちの生家は、しがない田舎の中小企業にすぎなかったようだけれど)
(かぐや姫のお姉様――脩哉さんには伯母にあたる人も、自室で首を括ってなくなられたそうよ)
 あの夜の香夜は、脩哉のことを話すふりをして、そこに真鍋の母親の話を意図的に挟み込んでいたのだ。
 きっと香夜ははじめから、果歩の過去――その主要登場人物である真鍋と藤堂の繋がりを知っていたに違いない。
 果歩がその事実を知れば、逃げるしかないだろうと、おそらくだがそんな風に思っていたのだ。
「……あの建物には、何があったんですか」
 思わず呟いた果歩を、藤堂がすこしだけ訝しげな目で見る。果歩はこくりと唾を飲んだ。
「二宮の家で……庭に、大きな、鍵のかかった搭状の建物がありましたよね。あれは、なんだったんですか」
 香夜が、最後に果歩を誘おうとした建物。
 ここに藤堂の秘密があると言い放った建物。
 目元を翳らせた藤堂は、果歩の質問の意図を理解したようだった。
「あれは、二宮家の霊廟です」
「……霊廟?」
「二宮家の先祖の肖像画や写真、遺品などが収められている建物です。……鍵は義父しかもっていない。以前はいつでも解放されていましたが、脩哉の写真が収められた日から、特別な日にしか解放されないようになりました」
「…………」
 ではあの夜、香夜は最初から建物の中身を果歩に見せるつもりはなかったのだ。
 それでも霊廟の扉が開けば、そこには真鍋とよく似た脩哉の写真があったのだろう。
 あの時見ておくべきだったのか、見ないことが幸福だったのか、今でも果歩には分からない。
 いずれ藤堂が話してくれると思っていたし、実際にその通りになった。でもそれは、なんと残酷なタイミングだったのだろうか。――
 思わず見上げた藤堂は、テーブルの上で指を組み、視線をその指の方に向けている。
 思い詰めた表情に胸が痛んだが、まだ聞かなければいけないことがあった。
「……その、存在を知らなかったゆ、――真鍋さんと、藤堂さんはいつ知り合ったんですか」



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