「脩哉の、……葬儀の日です」 低い、感情を抑えた口調で、藤堂は続けた。 「ただあの日は、同じ会場に同席していたというだけで、僕に、雄一郎さんの存在は認識できていませんでした。――以前もお話しましたが、僕は、脩哉が亡くなった後、責任の全てを放棄する形で家を出た。死ぬつもりはありませんでしたが、生きるつもりもなかった。……言い換えれば、何かの偶然か必然が、僕を殺してくれたらいいと思っていたんです」 そこまで―― まだ18歳だった藤堂が背負った傷の深さに胸が痛む。同時に、脩哉という人が、そうも彼の中で大きな存在だったことに、果歩は内心微かなショックを覚えていた。 「最初に京都に行って、それから灰谷市に行きました。無意識に脩哉を探し回っていることに気がついたのはその時です。この町に、脩哉を産んだ人の生家があるのを知っていたから、ここに来た。もうこの世にいるはずのない人を、僕はあてどもなく探し、そうすることでかろうじて生きる希望をつないでいたんです」 「……藤堂さんが」 果歩は、勇気を振り絞って声をあげた。できることなら触れないでおきたかったが、これをはっきりさせなければ、彼が抱えている本当の闇が見えないような気がしたからだ。 「藤堂さんがそこまで脩哉さんの死に責任を感じたのは、……本当に、以前聞いたことだけが理由ですか」 「……、以前聞いたこととは?」 「自分の存在が、脩哉さんを追いつめたって、藤堂さんそう言われてましたよね。香夜さんとの間に起きたことも含めて。――でも、本当にその負い目だけですか」 彼の眉が微かに歪み、果歩はその質問が、彼の胸の一番柔らかいところをえぐったのだと理解した。 もし、脩哉さんが生きていたら、あなたはどうしていたんですか。 あなたは脩哉さんのことを、本音ではどんな風に思っていたんですか。 「……踏み込みすぎた質問だったらごめんなさい。……もしかすると藤堂さんは、……以前私に説明してくださった以上の感情を……脩哉さんに抱いているような気がしたから」 「…………」 「い、今のお話を聞いて、余計にそんな風に思えたんです。……だってまだ藤堂さんは未成年で、そこまでの責任を負うような年でも立場でもないのに」 それからの沈黙は、果歩には永遠のようにも感じられた。 「その通りです」 呻くような声だった。 「この期に及んで、僕はなお自分の記憶に蓋をしようとしていたのかもしれない。……僕は、脩哉の気持ちに気がついていたし、僕自身も同じ思いで脩哉を見ていた」 同じ。 同じ思い。 「ただそれを恋といっていいのかどうか、その頃も今も、僕には分からない。それもまた、本当の話です」 どこかで予想していた答えだったが、それでも果歩は、衝撃でしばらく言葉が出てこなかった。 性別のことさえ考えなかったら、果歩にとって最大のライバルは、あるいは二宮脩哉なのかもしれない、と思ったことは何度もある。 いつか課の親睦旅行の時に彼が語っていた、思春期の大半を捧げた人は、もしかしたら脩哉だったのかもしれないと。―― ただ藤堂はそれを絶対に認めないだろうし、あるいは本当に無自覚だったのかもしれないとも思っていた。 でも、違った。彼は自身の感情をはっきりと自覚していたのだ。 「性別をそこに持ち出すのは卑怯な言い訳のようですが、僕は、脩哉の心が女性だということを、13歳の夏に初めて知りました」 藤堂は再び話し始めた。 「義父も帝さんも香夜さんも、おそらく最初から知っていて、僕だけがそれを知らなかった。義父が僕を引き取った理由も、脩哉の言うように、彼が病弱だからなのだと信じていた。香夜さんは、おそらく脩哉が女性として唯一素直に甘えられる存在で、帝さんは……」 そこでしばらく無言になった藤堂は、苦痛に耐えるような表情になった。何も言ってもらえなくても、果歩にもその続きは想像できた。 「やはり脩哉が、……素顔で甘えることができた存在だったんだと思います」 同時に果歩も、ようやく理解できていた。帝と藤堂の間に今も横たわる負の感情の正体が。 藤堂が帝を警戒している理由も、帝が嫌がらせのように果歩に接近してきた理由も。 「当時の僕から見れば、全てが奇妙で歪だった3人の関係が、脩哉が女だと分かった瞬間に腑に落ちた。でも僕は、――長らくその事実を記憶から消し去って生きてきたんです」 「どうして、消してしまったんですか」 藤堂の母に聞いた、秘密の部屋のことを思い出しながら、果歩は聞いた。 部屋の存在そのものより、彼がそこに、記憶の一部を閉じ込めてしまった理由の方が重要な気がしたからだ。 「……それは」 藤堂はしばらく言葉に迷っていたが、やがて覚悟を決めた人のように口を開いた。 「その日見たものが、僕には、生涯忘れてしまいたいほど苦痛だったからです」 「……何を見たんですか」 「脩哉と帝さんが、恋人のように抱き合っているのを」 「…………」 「その時、脩哉の目が確かに僕を捉えたのを」 ************************* 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。 藤堂が、今気づいたように立ち上がって、閉めてあった窓を開け放った。 春の終わりの風が、静けさを増した部屋の中に流れ込んでくる。 「それからしばらくの間、脩哉がひどく不思議そうな目で僕を見ていたことをよく覚えています。何故黙っているんだ、多分そんな顔をしていた。僕はその度に胸の底からいやなものがあふれ出しそうになるのを感じましたが、それが何か分かる前に、急いで記憶に蓋をした」 窓辺に立ったまま、藤堂は静かに話の続きを再開した。 「僕らは互いに大人になり、脩哉は正視するのが恐ろしくなるほど、美しくなりました。僕らが互いの肉体に触れるのは、その頃には柔術の稽古の時だけになっていましたが、女性のように華奢な彼を組み伏せた時、僕は名状しがたい劣情を覚えたし、脩哉の目にもそういった感情を見たことは、何度かあったと思います」 一番言いにくかったことを話してしまったせいか、藤堂の口調は穏やかだったが、それでもところどころ、抑えきれない感情の波が現れていた。 「――でも僕は、そういったものを全てなかったことにして、次の瞬間には平然と――それを異常といっていいならですが――、その世界に脩哉1人を置き去りにして、彼の感情や懊悩の全てを黙殺し続けてきたんです。もっと罪深いことに、そうしているという自覚さえないままに」 「…………」 「彼が死んだ時、僕の記憶の蓋も壊れました。正確には、家を出て、1人であてもなく彷徨っている間に、悪夢にさいなまれるようにして思い出した。香夜さんはそれを知らない。帝さんも、僕の心の底にあるものまでは多分知らない。――僕自身が、このことを人に話したのが、これが初めてだからです」 果歩は黙って藤堂を見つめた。 秘密の部屋の扉が開き、藤堂がその前に立っている。 今、傍に寄り添って抱き締めてあげたいと思ったが、彼がそれを望んでいないことも分かっていた。 脩哉が自殺した理由――それは二宮喜彦からも聞いたし、香夜から聞かされた人魚姫の逸話にも、推測できる理由は凝縮されていた。 喜彦は、脩哉にとって生きるという選択そのものが地獄だったと語っていたが、それに関しては、果歩の想像の及ぶ範疇ではない。 それでも一点、女として――少し腑に落ちないものを感じていたのも確かだった。 自分の気持ちに気づきもしない相手への思いが届かなかっただけで、脩哉ほど気性の激しい人が死を選んだりするものだろうか。 喜彦のいうところの苦しむだけの生を、それでも20年歯を食いしばるようにして生きてきた人が、それだけのことで絶望するものだろうか。 むろん、思いの激しさというのは人それぞれだし、脩哉という人の精神は、果歩が想像するよりもっと繊細だったのかもしれないが。 でも、今の藤堂の話で、全ての違和感が腑に落ちたような気がした。 2人は――以心伝心で、互いの気持ちを理解しあっていたのではないか。 脩哉という人は、藤堂の心の底に流れるものを敏感に読み取り、どこかで2人の未来に希望を抱いていた。 だからこそ、香夜の嘘に、より深い絶望を感じたのではないか―― 「脩哉を追い詰めたのは、最後に香夜さんがついた嘘だったのかもしれませんが、彼の精神を少しずつ壊していったのは、間違いなく僕なんです」 顔を上げ、わずかに微笑した藤堂の声音は落ち着き払っていた。 「その罪を、僕は一生忘れないし、生涯背負っていくつもりでいます。でも、18歳だった僕は、一度壊れた蓋を、愚かにも再び元通りに閉めてしまった。その時の僕には、自分のしてしまったことを受け入れるだけの強さがなかった。そうして――曖昧になった過去と、受け入れがたい現実を抱えたまま、この町で雄一郎さんに出会ったんです。僕が18、雄一郎さんが29歳の時でした」 ************************* ここでようやく話が本題に戻ったことを知り、果歩は表情を強張らせた。 真鍋が29歳。それは果歩と急速に親しくなった時期と重なっている。 その時期、藤堂が灰谷市にいたことも、果歩にとっては驚きだった。 それは一体いつのことだったのだろう。脩哉さんが亡くなったのが、確か1月だったから……。 「的場さん」 藤堂が気持ちを改めたように、まっすぐに果歩を見つめた。 「雄一郎さんと、会ってもらえませんか」 衝撃で言葉を失い、果歩は睫毛を震わせたまま黙っていた。今、よりにもよってこの流れで、藤堂がどうしてそんなことを言うのか、理解できなかった。 「会ってください。……いや、会わなければいけないと、僕は思います」 「藤堂さん」 果歩は唾を飲み込み、冷静さを保とうと自分に言い聞かせながら口を開いた。 「以前、藤堂さんは、私は誰のものでもないといいました。父の前で」 「……言いました」 「だったらそれを決めるのは、私であって藤堂さんじゃありません。……今」 果歩はうつむき、微かに唇を震わせた。 「あなたのお節介に、私がどれだけ腹を立てているか分かりますか。ホテルの件では謝っていただきました。だったらもう、二度とそのことは口にしないで!」 押さえられない怒りが、言葉にも現れてしまっている。それでも藤堂は、不思議に静かな目で、果歩を見つめているだけだった。 「的場さん」 「なんでしょう」 「僕はあなたに、何を命じられる立場でもない。ただ今は、僕の考えを言いました」 「…………」 「それを不快にとられたのなら、謝ります。それと、ホテルの件で僕が謝罪したのは、あくまで僕とあなたの間に起きたことで、あの場であなたと雄一郎さんが顔を合わせたのは、むしろ必然の流れだったのだろうと思っています」 「――あんな場所を選んだからじゃないんですか!」 たまらず、果歩は言葉を荒げていた。 「なんでこのホテルなのって、私、ずっと思ってました。よりにもよってなんでここなのって。馬鹿みたいですよね、私は必死に動揺を隠して、藤堂さんに気づかれないようにしていたのに、――何もかも、最初から知っていたなんて」 「……あのホテルは」 藤堂は何かを言いかけたようだが、諦めたように口をつぐんだ。 「それは、確かに僕の配慮が足りませんでした」 「やめてください。まるで役所の中で喋っているみたい」 果歩は感情的に遮って耳を塞いだ。 「本当に分からなくなってきました。あなたの本心はなんなんですか? 私のこと、一体どう思ってるんですか? もし、私と真鍋さんが会ったとして――」 そんなこと絶対にあり得ないないけど。 「万が一、よりが戻ったらどうするつもりだったんですか。それとも、絶対そうならないっていう自信でもあったんですか」 「絶対にそうならないという自信があるなら」 殆ど即答する形で、藤堂が言葉を継いだ。 「僕はむしろ、あなたと雄一郎さんを絶対に会わせたりしなかったでしょう。あなたがどう思っているかは知りませんが、僕はそこまで心の広い人間じゃない」 その言葉の語尾に滲む感情の激しさに、果歩は思わず息をのんだ。 ――どういう意味? じゃあ、自信がないから私と彼を会わせようとしたってこと? 馬鹿みたいだ、ますます意味が分からない。 てゆっかなんで、こんな怖い思いをした夜に、藤堂さんにまで冷たくされないといけないの? 怒るくらいだったら、最初から私のことなんて放っておいてくれたらよかったのに―― 歯を食いしばるようにして泣く果歩の背後に、藤堂が立った。 「……すみませんでした」 肩に、彼の温かな手が重なった。それをはね除けたいのか、すがりたいのか分からないまま、果歩は手で口を覆って顔を背ける。 藤堂はしばらく無言だったが、やがて苦しそうにうつむいてから、口を開いた。 「……的場さん、僕にはこの世で、とても大切な人が3人います」 ――大切な人……? 「1人はあなたで、1人は母です。比べることができないくらい、どちらも僕にとっては大切な人です」 果歩は零れた涙を指で払った。今そんな風に打ち明けられたことが、幸福なのか悲しいのか分からなかった。もう1人は――? 「もう1人は、雄一郎さんです」 果歩は息を飲み、うつむいたままで藤堂は続けた。 「その3人を裏切ってしまうくらいなら、僕はどんなみっともない真似でもするでしょう。逆に3人の幸福のためなら、僕などどうなっても構わない。――そんな僕は、雄一郎さんとの戦いの土俵に上がることすらできなかった。それが分かっていたから、一度は香夜さんとの婚約を受け入れることに決めたんです」 ――それが……理由? 果歩は呆然と藤堂を見た。 藤堂が香夜との婚約を決めたのは、おそらく9月の終わりか10月の半ば頃だ。 流奈に部屋に上がり込まれて、それを見て誤解した果歩が、藤堂を完全に無視していた期間。 誤解が解けて彼と話しあおうとした時には、すでに彼は香夜との婚約を決めてしまった後だった。 しかし彼は婚約を決めつつも、11月には果歩に「まだ諦めたくない」と告白し、4月まで待ってくれと、謎の条件を持ち出したのだ。 「……できるはずもない。8年前、半分死んでいた僕に、もう一度生きる力をくれた人に。――脩哉と同じ顔と、同じくらい繊細な心を持つ人に。どうしてその人より、自分の幸福を優先することができるでしょうか」 彼はそこで、苦しげに言葉を切った。 「4月まで――雄一郎さんが灰谷市に戻る4月まで、僕は少なくとも、あなたの恋人にはなれないと思った。これは僕が、僕自身を許せる最低限のラインです。あなたにはなんの責任も関係もない、僕自身がつくった身勝手なルールなんです」 |
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