「叔父さんこそね」 氷のように冷たい目で、真鍋は吉永を見下ろした。 「僕が的場果歩さんの周辺に気を配ったのは、叔父さんの切り札が、どうせそれしかないことが分かっていたからです。放っておいてもよかった。彼女とのことは僕にはとっくに過去の遺物で、互いに嫌な思い出しかないですから」 「お前が普通の男ならな」 吉永は言い募った。 「8年も前、たかだか数ヶ月つきあった女をそこまで引きずるとは想像もしやしないさ。でもお前は普通じゃない。昔も今も、まともな恋愛はできやしない。もっと言えばこの先もだ」 「強いて言えば、罪悪感はあるのかもしれない」 吉永を無視して真鍋は続けた。 「彼女は8年前、僕のために多くのものを失った。今回も巻き込んでしまったら、あまりにも気の毒だ。白状すればそういう配慮はありましたよ」 「――そう、確かに気の毒だな。お前なんかのために、これから、もっと人生が滅茶苦茶になるんだからな」 「一般的な話をしましょうか」 再び真鍋は、吉永を無視した。 「4年前、ご結婚されましたね。今で言うところの授かり婚だとお聞きしていますが、どうですか、初めて人の親になったご感想は」 「…………」 「ご承知のとおり、僕は子供というのが反吐が出るほど嫌いなので、羨ましくもなんともありませんが、3歳というのは、一般的な話としてさぞかし可愛い盛りなんでしょうね」 吉永は微かに喉を鳴らした。衝動的に、ポケットの携帯に手が伸びそうになっていた。 「何が言いたい」 「だから一般的な話ですよ」 この日初めて、真鍋は楽しそうな笑顔を見せた。 「今、奥様とお子様は?」 「…………」 「たまたまですが、僕の知人女性とクラッシックコンサートに赴かれているようですね。双方のお子さんは、その女性が雇ったシッターが面倒を見ている。今、この瞬間の話ですが」 先ほど操作した携帯電話を取り上げると、真鍋は画面に目をやった。 「叔父さんにあまり似てないですね」 「――っ」 思わず駆け寄った吉永は、真鍋の手から携帯電話を奪い取った。 そこには、七五三の時に神社で撮影した記念写真が写っている。 「去年、義母さんに送ってもらったんですよ」 呆然と立つ吉永から携帯電話を取り戻すと、雄一郎はおかしそうに笑った。 「いけませんか? 僕も一度は、叔父さんの子供とやらを見てみたかったので」 安堵のあまり、吉永はくずおれそうになっていた。額には冷たい脂汗が浮いている。 「……雄一郎、貴様」 「お互いが抱えているものの重さの違いが、これでよく分かったんじゃないですか」 真鍋は笑いを堪えるような口調で言い、吉永が見たこともない酷薄な目で冷笑した。 「24時間、鎖に繋いで檻に閉じ込めておきますか。ああ、そんなことは不可能でしたね。どんな強靱な人間にも一瞬の隙がある。3歳の子供ならなおさらだ。――もちろん一般的な話ですが」 「…………」 「今度は僕が、叔父さんをいいように利用する番ですか。執念深い性質ではありませんが、されたことくらいはやり返したいのが人情です。言い忘れましたが、僕もある意味、義母さんが生きている間は遠慮していた。――もう、互いに手加減はなしでいいですか」 動けない吉永の胸ぐらを掴むと、真鍋は床に突き倒した。 愕然としながら、吉永は自分が知っている雄一郎とは、別人になってしまった男を見上げた。 こいつは――一体、何者になったんだ? 一体何がしたくて、灰谷市に戻ってきた? 「今日だけは、警告に来てくれた叔父さんに免じて許してあげますよ。ただ、次はもうない。そして警告などというなまぬるい真似もしない。叔父さんと違って、僕は確かに普通の人間ではないのでね」 「…………」 「うっとおしい子供がこの世から1人消えたところで、僕にはむしろ好都合ですから」 立ち上がることもできないほどの敗北感の中、それでも吉永は、最後の意地で、甥だった男を睨んだ。 「……俺一人を脅して、まさか、それで終わりだと思っているんじゃないだろうな」 すでにソファに座り直している真鍋は、それには答えず、新しいグラスに琥珀色の液体を注ぎ入れている。 「まさかあの男が出てくるとは俺も意表をつかれたよ。今日のことだ。お前が褒めてくれたんで、もう一度警告してやってるんだぜ、雄一郎」 「…………」 「あいつはな、あの梶川が手をやいて手放したほどの狂犬だ。敵にしても味方にしてもやっかいだし、お前にはなおさら危険な相手だよ。――教えろよ、色男、一体どうやってあの猛禽を飼い慣らした?」 「お引き取りを」 静かな声で真鍋は言った。 「もうお会いすることもないと思いますが、お元気で」 「お前は間違ってるぞ、雄一郎」 吉永は、歯軋りをしながら言い放った。 「俺はともかく、義兄さんはお前を――そのくらい、とっくに分かっていると思っていたよ」 もう真鍋は何も答えようとしない。ぎりっと奥歯を噛み締めると、吉永は足を引きずるようにして部屋を出て行った。 ************************* 「――くそっ」 扉が閉まった途端、真鍋は卓上のグラスを力一杯払いのけた。 柔らかな絨毯に転がったグラスから、芳醇な香りが立ち上る。背後の扉が開いて、今日、そこにずっといてくれた人が顔を出した。 「大丈夫よ、雄一郎さん」 震える指で額を押さえていた真鍋は、救いを求めるように顔をあげた。 「……義姉さん」 「大丈夫――あれだけ準備を重ねてきたのよ、今夜はたまたまその穴を突かれただけ。次はないわ」 芹沢花織は真鍋の隣に腰を下ろすと、肩にそっと手を添えた。 「落ち着いて……、それからもうお酒はやめて。身体を悪くするばかりだわ」 「これを、捨ててくれないか」 片手で顔を覆ったままで、真鍋は呻くように呟いた。 卓上に置かれた白い箱に花織は目をやり、そして不審そうに眉をひそめる。 「なんなの?」 「……中身が何だかは分かっている。叔父さんが来る前に、送り主から丁寧な電話があったからね。ただ、僕はそれを見る勇気も捨てる勇気もないんだ」 「…………」 「頼む」 花織は箱を取り上げた。思ったより軽く、傾けた途端、中で固形物が動く音がする。 うなだれた真鍋がこちらを見ていないことを確認してから、花織はそっと箱の蓋を開けた。 「…………」 片方だけの女性もののパンプス。 それが、しきつめられた薔薇の花と一緒に収められている。 箱を元通りに閉め直した花織は、送り主の正体を悟って唇を軽く噛んだ。 「雄一郎さん、気持ちは判るけど、今は挑発に乗るべきじゃないわ。相手は、あなたのわずかな隙と弱味を探して、そこにつけこもうとしているのよ」 「分かっている、僕は何もする気はない」 「正解よ。まずはこの選挙戦を無事に乗り切ることを考えましょう。分かっていると思うけど、積み重ねた美談が崩れるようなスキャンダルだけは御法度よ」 真鍋は無言で、数度短く頷いた。 「その後は、速やかにあなたのプランを実行に移しなさい。それが正解で、それで、きっと、……何もかもが終わるわ」 ――何年もの間、あなたを苦しめ続けた悪夢も苦しみも、何もかも。 (――可哀想、……可哀想な、雄一郎さん……) 妹が死の間際に呟いた声が、花織の胸を苦しく締め付けた。 「……傍にいてくれ」 真鍋の腕がそっと腰に回される。 「俺を一人にしないでくれ」 「…………」 花織は黙って、その震える指に手を添え、寄りかかってくる髪を優しく撫でた。 「いるわ。だから安心して眠りなさい。朝まで、ずっと一緒にいるから」 (――姉さん、お願い、一生のお願い) (――何もできなかった私に代わって、どうか、あの人を幸せにしてあげて……) ************************* どんなに最悪な夜でも、朝は必ずやってくるし、そういう日に限って慌ただしい。 翌日――都市計画局総務課では、水原が国の会計監査の通知一式を無くしていたという、1年前を彷彿させるようなミスにより、てんやわんやの騒ぎだった。 「この資料、出してもいいものですかね」 「いや、それはまずい、とりあえず決裁から抜いておけ!」 そんな不穏な会話が、計画係から聞こえてくる。 国の補助金に係る監査で、その提出資料の準備は、毎年相当な労力と時間がかかる。 期限が迫った中での突貫作業に、この件には無関係の藤堂も駆り出され、その分、庶務係の仕事は残る3人の負担となって回された。 とはいえ、4月もそろそろ後半、どれだけ忙しいといっても4月当初ほどではない。 「一難去ってまた一難というか、係長も休む暇がないですね」 4時過ぎ、ようやく落ち着きを取り戻した庶務係で、大河内主査がそう呟いた。 「昼間、僕も少し手伝いましたけど、完全に藤堂係長が現場の指揮をとってましたよ」 と、今年来た笹岡が感嘆したような声をあげる。 「まだ若いのにすごい人ですねぇ。以前は民間だって聞いたけど、やっぱ、民間出身の人って違うのかなぁ」 会話を一切聞いていないふりをしながら、果歩は3時前から閉まったきりの次長室をちらっと見た。 春日次長が局長に昇格したため、現時点で次長室は、臨時の会議室として使用されている。そこが今は、急ごしらえの監査準備室になり、今、計画係総出で資料の精査をしているのである。 「民間出身というより、藤堂係長がちょっと特別な人なんだと思いますけどねぇ」 と大河内が相づちを求めるように果歩を見たので、「そうですね」とだけさらっと答えた。 顔を見るどころか声も聞きたくないし、なんなら名前すら耳にしたくないのに、どいつもこいつも藤堂、藤堂。いっそのこと、耳栓でもしてやろうかしらという気になる。 多分、別れた。いや多分じゃなくて、はっきりと別れた。 少なくとも果歩の気持ち的には、そういうことで折り合いをつけた。 もう考えない。もう振り返らない、もう、絶対に翻意しない。 指輪は――そう、指輪も、この課を異動するタイミングで彼に返そう。 乃々子の結婚式の日以来、それは外して自室の収納箱に収めたままになっている。収めて以来一度も引き出しを開けていない。 (4月になったら、サイズを直しに行きましょうか) 胸をよぎる感情を押しやり、果歩は乱暴にパソコンのキーを叩いた。 もう、過去は振り返らない。昨日までの過去も、もちろん8年前の過去も。 当然のことながら、真鍋に会う気はさらさらないし、向こうだってそうだろう。 昨夜、藤堂から聞いた話は、一時激しく果歩を動揺させたが、よく考えたら、そういうこともあるのかもしれないと思い直した。 昨日、たまたま吉永冬馬が尋ねてきたから思えたことでもあるが、真鍋の周辺の人たちにとってみれば、果歩は今でも彼の関係者の一人なのだろう。 彼の当選を妨害しようとしているのは、もちろん現市長と、その義弟の吉永冬馬だ。 昨夜、果歩を拉致しようとしたのも、もしかしたら吉永だったのかもしれない。 多分、その推理で正解だろうという気がしたし、さすがに以前の恋人が拉致されたら、真鍋も多少は困った立場になるのだろう。 そうしてみると、あるいは自分がまだ、――真鍋にとって、心理的な重荷になっているのかもしれないな、とふと思った。 今や灰谷市のプリンスとして完全に返り咲いた真鍋にとって、多分、絶対に蒸し返されたくない過去が果歩のことだ。――いや、もっとあるのかもしれないが、そこはそういうことにしておこう。 たとえば妄想を膨らませて、今、真鍋の後ろ盾になっていると思しき芹沢議員の娘と、彼がそういう関係だったとしたらどうだろう。もう考えるまでもなくそういう関係だろうけど、それに政治的な思惑が絡んでいたら? そこに私みたいな過去の遺物がでてきたら、芹沢議員も面白くないだろうし、真鍋にとっては、それが致命的な醜聞に繋がるのかもしれない。 ――つまり……、私は彼にとっての邪魔者だから…… だから、守ろうとしてくれた……? 「…………」 再び分からなくなり、果歩は急いで首を横に振った。 いやいや、もう考えたくない。 いずれにしても、私には一切無関係の世界の話だ。 今、果歩が半ば本気で願っているのが、人事異動に伴う島流しだった。 もしかしたら那賀局長が遊びに来てくれるかもしれないし、釣り道具を買って、そう――釣りガール的なものを目指してもいいかもしれない。そして島の人と結婚……。いいんじゃない? 一生静かに暮らせそうで。 そんなくだらないことを考えて気を紛らわせていた果歩は、ふっと重いため息をついた。 ――なんかもう、疲れちゃったな……。 今朝よりは大分ましとはいえ、膝も痛いし、一人で帰る夜道も怖い。 「すみません。今日はちょっと、早く帰ってもいいですか」 「あ、いいですよ。そういえば朝から体調悪そうでしたけど、風邪ですか」 大河内が、少し心配そうに振り返る。 「課長には僕が報告しておくので、こっそり帰って下さい。係長も、的場さんのことを気にされてましたし」 そこでまた、余計な一言が飛んでくる。 「……藤堂係長が、なんて?」 「あ、いやいや。別に何も」 果歩がそこにつっこんでくるとは思わなかったのか、普段冷静な大河内が、ちょっと慌てたように手を振った。 「ただまぁ、そういうのってなんとなく分かるんで。余計なことだったらすみません」 |
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