「すごい、的場さん。一体どうやってあの虎の首に鈴をつけたの?」 果歩にとっては最悪の一夜だったが、その翌日から、真鍋の態度は劇的に変わった。 まず、尾ノ上の求めに応じ、朝のミーティングだけは、尾ノ上と果歩の入室を許すようになった。それまで頑なに秘書課を通さなかった他局との調整も、一部、秘書課に権限を戻してくれた。 その上、安田沙穂を市長室に呼んで、果歩に約束したように謝罪までしたらしい。それを沙穂に報告されても、果歩はどこか浮かない気持ちのままだった。 そんな状態で数日が過ぎ、真鍋市長と秘書課のギスギスした空気もかなり和らいできたものの、果歩1人だけがその空気になじめないままでいた。 クリーニングを終えたドレスは、片倉を通して返したが、あの夜以来、2人が仕事以外で口を聞いたことはない。 果歩もそうだが、真鍋の方も、誰が見てもはっきりそれと分かるほど、露骨に果歩を避けている。 ただそれは秘書課では「――的場さんが、また真鍋市長を袖にしたんじゃないか」という、名誉なんだか不名誉なんだか分からない暗黙の了解で済まされてしまった。 あの一夜で、果歩はますます真鍋という人が分からなくなった。 すごく距離が縮まった気がしたのに、最後は一気に突き放された。 強引に距離を縮めてきたのは真鍋の方で、果歩も次第にそれを受け入れようという気持ちになっていたのに、最後はその全てを彼自身が台無しにしてしまった。 (だったら遠慮せずに本気で口説けばよかったな。この8年で、君がどんな女になったのか多少興味があったんだ) 彼が露悪的な思惑であの発言をしたことは、果歩にもなんとなく分かっている。 真鍋は、意図的に果歩を怒らせたくて、あんな侮辱的なことを言ったのだ。 理由は……もう、考えたくもない。何か考えがあったのか。それとも、そもそもそういう性格の人だったのか。 ――もう、うんざりだな。真鍋さんに振り回されるのは。 思えば8年前もそうだった。優しかったり冷たかったり、突き放したり引き寄せたり。とにかく感情の変化がめまぐるしい人だった。そして22才の果歩は、そういう彼のミステリアスなところに、すっかりはまってしまったのだ。 結局のところ、8年前も今も、果歩は彼のターゲットの1人として網にかけられ、いいようにからかわれただけだったのかもしれない。 自分だけは他の女とは違う――そんな風に思えていた22才の自分が、なんだかもう、笑えるくらい滑稽に思えてくる。 ――早く6月にならないかな。 そうなったら絶対にここを異動させてもらおう。 市長にセクハラを受けたと訴えてみてもいいかもしれない。少なくとも最後の発言は絶対にセクハラだ。というか、よく考えたらあの夜の全部がセクハラじゃない? そんなことをつらつら考えていると、机の上に置いてあった携帯が震えた。手に取ってみると自宅からだ。気づかなかったが、5分前にも一度かかってきている。 ――なんだろう、急用かな? 不審に思った時、今度は卓上電話が鳴った。コールが長いから外線だ。果歩は急いで携帯を置くと、受話器を取り上げた。 「はい、灰谷市役所市長室的場です」 「的場果歩さん?」 聞いたこともない男の声に、一瞬心臓が嫌な風に収縮する。 「……はい、的場は私ですが」 「私、東京の出版社で、週刊スポットの記者をしております」 ――記者……? 眉を寄せた時、今度は課長席の電話が鳴るのが聞こえた。そこに気を取られたとき、男の声が再び耳に戻ってくる。 「的場さん、担当直入にお聞きしますが、あなたが真鍋市長とお付き合いをされているというのは事実ですか」 「えっ」 息をのんだ果歩の背後では、尾ノ上が「週刊女性? どういったご用件ですか?」と不審そうに声を荒げている。混乱しながら、果歩は受話器を持ち直した。 「それは、どういうことでしょうか」 「先日の夜、ホテルロイヤルリッツで、市長とご一緒でしたよね」 「一緒でしたが仕事です」 冷静に答えたつもりが、声が少しうわずっていた。 ――どういうこと……? 週刊スポットといえば、芸能人や政治家のスキャンダルを売り物にしている全国誌だ。そんな会社から、どうしてこんな電話が私に? 背後の課長席では尾ノ上が、「的場は電話応対中ですが、一体なんのご用ですか」と用心深く言葉を選んで喋っている。 卓上に置いた携帯が再び震えた。庶務係の方からも「的場は今電話中ですが、どういったご用件ですか」という声が聞こえてくる。 「写真、いくつかありますよ」 相手の声は、こういった問答になれているのか淡々としている。 「お2人の服装や雰囲気を見るに、とても仕事とは思えないんですが、本当にお仕事でした?」 ――どういうこと……? 一体何が起きているの? 「的場さん、断っておきますけど、この問答も記事になりますから」 動揺が手指を震わせた。 待って、写真ってどういうこと? また8年前と同じように誰かに盗撮されていたってこと? でも真鍋さんは大丈夫だって――ホテルでも、ずっと人目につかないように気を遣われていたし。…… 「お仕事でした?」 畳みかけるように、相手の男が言う。果歩は机の上で、ボールペンを固く握りしめた。 「……私には、そうです」 「どういったお仕事でした?」 「……業務の話をしただけです」 「業務って?」 「それは、申し上げられません」 背後の尾ノ上が、鋭い視線を向けてくるのが分かる。 「あなたには仕事だったと言われましたが、では市長さんとっては?」 「市長に聞いて下さい」そんなの分かるわけがない。 「じゃ、繋いでもらうことは可能ですか」 「私の一存では決められません」 果歩は唇を噛み締めた。もちろんこれは、真鍋に伝えなければならないだろう。 「……し、市長に伺ってみますので、ご連絡先をお願いします」 男の言う連絡先のメモをとると、果歩は急いで電話を切った。 こめかみがズキズキして、心臓がどくどくと激しい音を立てている。 「的場さん、電話だけど……」 沙穂のためらいがちな声がしたとき、尾ノ上が立ち上がった。 「回さなくてもいい。いったん切って、今後、雑誌社等からの電話は、全部私に繋ぐように!」 苛立った尾ノ上の声に、果歩は動揺を懸命に堪えて、立ち上がった。 まるで8年前のデジャブのようだ。その時よりなお最悪なのは、先月の選挙で、真鍋が一躍時の人になってしまったことだろう。 政権の一翼を担う大物政治家の義理の息子。早世した妻を看取った美談。親子対決。真鍋の美貌もあいまって、選挙の様子は全国ニュースでも再々とりあげられた。 当選後も取材の申し込みは後を絶たず、5月の中頃になって、それもようやく落ち着いてきた頃だったのだ。 以前は、灰谷市役所だけの醜聞だった。でも、今は―― 携帯が、4度目の自宅からの着信を告げている。今、家で何が起きているのかと思ったら、めまいがしそうだった。 「申し訳ありません、課長、……報告しないといけないことがあります」 ************************* 「なるほど、記者が」 午後7時――市長室。 外出先から戻ってきたばかりの真鍋は、尾ノ上の報告を受けても、顔色ひとつ変えなかった。 市長室には、今、その尾ノ上と総務局長の中上が顔を揃えている。そしてその末席に、当然のように果歩も座らされていた。 「在京出版社の、ほぼ全社から問い合わせの電話がありました。雑誌の発売は今週末、そうなればテレビのワイドショーなども取り上げる可能性があります」 尾ノ上の口調は、穏やかではあったが、隠しきれない怒りが滲み出ていた。 「随分と迂闊な真似をされましたね」 その隣に座る果歩は、尾ノ上に申し訳なくて声も出ない。 今日一日、秘書課の電話は鳴りっぱなしで、その全てに対応したのが尾ノ上だった。果歩は、最初の電話の後、ただちに会議室に避難するように命じられ、おそらく直接取材に来た記者の応対も、尾ノ上1人がしたはずだった。 自宅には、会議室から折り返した。 (一体どうなってるの? 家に記者の人が訪ねてきて、今も下でうろうろしてるんだけど) (真鍋市長とあんたがって……、お母さん、意味が分からないんだけど、どういうことなの?) 午後6時になると、秘書課に総務局長と広報課長がやってきて、尾ノ上と3人で今後の対策を話し合った。当然果歩もその場に呼ばれ、当夜のできごとをことこまかに報告させられた。 この5月に新たに総務局長になった中上は、当初の内示では総務局次長に任命されていた、57才の男である。 いい言い方をすれば真面目な、悪い言い方をすればことなかれ主義的な――いかにも公務員めいた性格で、今も青ざめた顔でそわそわと膝を揺らしている。 本来総務局長に任命されていたはずの藤家元総務局長は4月末日に辞表を提出し、そのニュースは、真鍋新政権に対する最初の反乱として庁内を大きく騒がせた。 藤家は、将来副市長は間違いないと言われていたエリートで、庁内では、今回の真鍋擁立に一役買ったのではないかと囁かれていた。 というのも真鍋新市長が徐々に支持基盤を拡大していくに当たって、庁内に協力者がいたのは疑いようのない事実だったからである。そして、その最有力候補が藤家だったのだ。 しかし、藤家の唐突な退職で、それが単なる噂であったことが証明された。 同時に真鍋は、就任初っ端に、市で最も優秀なブレーンを失ったことになる。 果歩は――まだ悪夢を見ているような気持ちだった。 何もかも夢だと思いたかった。夢でなければ、二度と今まで通りの生活には戻れない。 真鍋は公人だが、マスメディアではむしろ芸能人のような扱いである。美談に彩られて当選した男の醜聞は、さぞかし視聴率を稼ぐだろう。今日だけでもかなりの数の問い合わせがあったし、果歩の自宅にも記者が押しかけているという。2人の写真が掲載された雑誌が発売されれば、騒ぎは多分この比ではない。 ――私……これから、どうしたらいいの。 まだ受け止められない現実の中で、膝に置いた指が震えている。 「今回のことは、的場さん1人に、市長と話をするよう頼んだ私にも責任があります」 尾ノ上の苦々しい声がした。 今回の果歩の唯一の救いは、8年前と違い、尾ノ上がその一点について、果歩を庇ってくれたことだろう。 「しかし、少しは彼女の立場も考えていただきたかった。一体どうするおつもりなんです。このままでは的場さんは、自宅に帰ることもできないんですよ」 「……それで?」 真鍋は腕時計に視線を落とし、心ここにあらずといった風に聞いている。 「どういった内容が記事になるんだ? あの夜は、僕の親しい人に彼女を紹介しただけなんだがな」 「一時間あまり、2人で部屋に閉じこもっていたという内容も出るそうです」 尾ノ上が鋭く切り返した。 「的場さんに聞いたところ、貧血を起こしたという話ですが」 「実際、そうだ」 「そう説明したところで、世間には下手な言い訳としかとられないでしょう。まずいことになりますよ。市長にとっても相当な痛手でしょうが、このままでは的場さんがあまりに気の毒だ」 「どうしろと?」 移動中に報せを受けてはいたのだろうが、それでも真鍋の冷静さが、果歩には信じられなかった。果歩への取材があれだけあったのなら、真鍋はその比ではないだろう。 むろん彼が築いたイメージにも大きな傷がつくはずだ。なのに彼は、動揺するどころか、今も別のことに思考を巡らせているようである。 「これは彼女の希望でもありますが、記事が出るまでに別部署に異動させてやってください」 「地下室に?」 尾ノ上が顔を赤くして立ち上がった。怒りで、唇がわなわなと震えている。 「冗談だよ」 尾ノ上の怒りに、うんざりしたように真鍋は肩をすくめた。 「的場さんの処遇のことなら僕も移動中に考えた。部署異動は得策とは言えないな。どこにいたって取材はついて回るんだ。むしろ異動先に迷惑がかかるだろう」 「お、おっしゃる通りです」 そこで初めて、空気のような存在だった中上局長が弱々しく口を開いた。 「――気の毒なようですが、やはり的場さんには、一定期間仕事を休んでもらうしかないでしょう。形ばかりにはなりますが、リモートワークという体裁で、」 「しかし局長、どのような形であっても、市長と職場を離した方がいいと思うのですが」 「そういったことは、落ち着いてから改めて決めてくれ」 中上と尾ノ上の会話を、真鍋はうるさげに遮った。 「的場さんには、僕の方でホテルを用意させたから、当面はそこに隠れてもらおう。しぱらくすればマスコミの熱も冷める。――それでいいだろう?」 「……わかりました」 渋々といった風に尾ノ上が頷いた。 「しかし、ホテル代を市長が出したと知れたら……むろん私費だと思いますが、それはそれで問題なのではないですか」 「だったら、いったんは的場さんが捻出した体裁にすればいい」 疲れたように真鍋は言った。 「細かいことはどうにでもなる。仕事に必要な道具は、ホテルに運ばせるよう手配してくれ。彼女の異動については6月に改めて考えよう。――以上だ」 6月。 はっと目を見開き、果歩は真鍋を見上げていた。 ( ……それは、6月には私を解放してくださるということなんですか) (その通りだ。少なく見積もっても6月中には片がつく) その瞬間、絶対にあり得ないと思ったが――もしかすると今回の騒動は、真鍋が意図的に引き起こしたのではないかと思っていた。 (それが一番安全だからだ。役所というのは民間企業より何倍も無防備で、市民を名乗ればどこにだって出入りできる。ただし市長室以外は) 真鍋は、果歩を敵対勢力から守るために、秘書課にわざわざ呼び寄せた。 これもまた――彼の策略だとしたら? 意図的に写真をとらせ、雑誌社に送らせた。そして今、果歩を役所から遠ざけホテルに閉じ込めようとしている。そこまですることに――自分が負うダメージがはるかに多いその手法に、一体何の意味があるのかは分からないが。 「待って下さい」 果歩は咄嗟に声をあげていた。もしそうなら絶対に許せない。この恐ろしい疑惑を真鍋に直接確かめたいという欲求が胸を強く突き上げている。 「ホテルの件は了承しました。家には、とても戻れないですから。……でも仕事には、これまで通り出てきます」 尾ノ上がぎょっとしたように振り返る。果歩は、真鍋の反応を目を逸らさずに見つめていた。 立ち上がろうとしていた真鍋は足をとめ、明らかに目元を険しくさせた。 その刹那、彼が動揺を垣間見せたことが、果歩にははっきりと確信できた。 「何を言っているんだ。的場さん、マスコミは役所の前でも待ち受けているんだぞ」 声をあげたのは尾ノ上である。 「構いません。課長は私を庇って下さいましたが、何もかも私の判断の甘さが招いたことです。それに、やましいことは何もありませんから」 「それはだめだ」 尾ノ上に向けてそう言った時、真鍋の声がした。 「君がよくても秘書課が迷惑する。電話応対ばかりで仕事にならないだろう」 「ホテルにいたってそれは同じじゃないですか。どうせ電話はかかってくるんですから」 果歩は冷ややかに真鍋を見つめた。 これまで、ここまで軽蔑をこめてこの人を見たことはなかった。 「課長、部屋は別にしてもらって構いません。どうせリモートワークになるなら、秘書課の会議室でそれをさせてください」 「だめだ、それは認められない」 課長の前に答えたのは真鍋だった。 「では人事課を通して、正式に私を懲戒処分にしてください」 真鍋を見つめる自分の目から、激しい怒りが迸っているような気がした。 「それとも今度は市長が、私を地下室に送りますか」 「…………」 「ホテルから役所に通います。それは労働者としての私の権利だと思います」 |
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