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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(11)

 

「たった今、噂の女性がタクシーから降りてきました。お話をお伺いすることができるでしょうか」
 見慣れた市役所の前に大勢の報道陣が詰めかけている。
 その輪の中を、うつむいて無言で通り過ぎる女性が自分だとは、果歩はとても思えなかった。
「――そんなの見ない方がいいよ」
 そんな声がして、テレビがブツッと切られた。顔を上げると沙穂が怖い目をして立っている。
「みんな好き勝手なことばかり言ってるから。気分が悪くなるだけだよ」
「もう、慣れちゃいましたよ」
 果歩は微笑んで立ち上がった。
「ご迷惑をかけちゃってすみません。本当は休めばいいんでしょうけど」
「誰もそんなこと思ってないよ。市長には全員がそう思ってるけどさ」
 腹立たしげにそう言うと、沙穂は果歩の対面に座って自分のランチボックスを開いた。 果歩も、ホテルで用意された弁当を取り出して同じように開く。
「いつも豪華、うらやましい」
「選択肢がないんですよ。――食べます? あまり食欲ないんです」
 監禁生活が始まって一週間が過ぎた。真鍋には絶対借りを作りたくないから、費用は全て自費でまかなっているが、正直きついな、と内心では思っている。
 とはいえ、送迎はやむなく真鍋に頼っているのが現状だ。
 世間体をはばかって移動にはタクシーを使用しているが、そのタクシーの運転手は片倉である。 1
「食べた方がいいよ。……正直、5月のはじめより随分痩せたし」
「ダイエットに成功したと思うようにしてます」
 果歩はほろにがく微笑んだ。雑誌やテレビ番組に、あたかも犯罪者のようにモザイクをかけられて、氾濫している自分の写真。もちろんネット上では素顔も本名もさらされているし、自宅の住所も出ていたらしい。
(しばらくの間、美玲はお友達の家で預かってもらうことになったから。まぁ、済んだことは仕方がないから、あまりくよくよ悩まないことよ)
 救いは、この最悪の状況下で、母が不思議なくらい開き直っていることだ。
 テレビのインタビューにも音声で答えていて「まぁ、娘といっても30過ぎた大人ですから」と明るく答えていた。年は、この際言わないで欲しかったが。 
(お父さんは怒っているっていうか、ショックで放心状態ってとこかしらね。落ち着いたら、しっかり謝りなさいよ)
 父に対しては、さすがにもう顔向けできないものを感じている。
 藤堂のことで1月から3月にかけて大騒動になったのに、5月には違う相手と日本中を騒がすことになるなんて、一体誰に想像できただろう。
(お姉、私なら彼氏と一緒で、むしろ家を出られてラッキーって感じだから気にしないで。――で、藤堂さんと市長のどっちが本命?)
 美玲も美玲で相変わらずだった。
 ひとまず家族は大丈夫そうで、さすがにそうでなければ、果歩もまいっていたかもしれない。
(よく役所に顔が出せるよな)
(毎日、記者の人が役所の前をうろうろしてるし、本当に迷惑)
(あんな風に芸能人みたいに騒がれて、実はいい気になってるんじゃないの)
 毎日タクシーで通勤して、市長専用エレベーターで市長室のある10階まで通う果歩に、役所に勤める同僚らの声は基本届かない。
 しかしインターネットに溢れる言葉は、見ないようにしていても時折目につきささってくる。
(普通、辞めない? しかもまだ秘書課にいるなんて、公私混同もはなはだしいでしょ)
「そうだ、尾ノ上課長が、そろそろ通常業務に戻ってもいいみたいなこと言ってたよ」
 沙穂の声で、沈みかけていた果歩は我に返った。
「え?」
「さすがに役所の中にまで記者は入ってこないし、取材電話も最近はかかってこなくなったしね。真鍋市長は自分でなんでもやっちゃう人だから、秘書の仕事なんて今は電話番だけでしょ。――だったら会議室にこもってても、執務室にいても同じだろうって」
「いいんですか」
「いいんじゃない。――それに遠慮することないよ。的場さんは被害者なんだから」
 果歩のもうひとつの救いは、8年前と違って秘書課の全員が果歩の味方だということである。
 言い方を変えれば、全員が真鍋に反発しているということだ。
 それは彼の、秘書課での横暴な振る舞いが原因なのだが、今回の件でも全員が、あの夜のことは真鍋のセクハラだと認識しているようだった。
「いまさらだけど、8年前は本当にごめんね」
 ランチをつつきながら、怒ったように沙穂は続けた。
「8年前も今も、あんな最低男のために人生をめちゃくちゃにされた的場さんが、本当に気の毒で……。何も知らずに、そんな的場さんを一方的に妬んでた自分が馬鹿みたいで……」
「そのことは、もう本当にいいですから」
「あいつが一方的に的場さんにつきまとってたんだって、今は全員がそう思ってるから。今は的場さんのことを悪く言ってる人たちも、直に気づくと思うよ。――すごいよね、あの異常な女性遍歴。奥さんとの美談はなんだったのって感じ」
 果歩は箸をとめて沙穂を見た。
 異常な女性遍歴?
「それ、どういうことですか」
「まだ読んでないの? 週刊スポットの最新号。市長が若い頃から最近までつきあってた女がずらり。モデルからタレントの卵から既婚者まで、――びっくりするよ」
「…………」
 沙穂は憤慨したようにランチの唐揚げを箸で突き刺した。
「今だって、仕事もろくにせずに東京の政治家と会ってばかりでしょ。――次の議会、相当荒れると思うよ。もしかして就任早々辞職決議案が出されたりしてね」


 *************************


 午後4時。明日から執務室に本格的に戻されることになった果歩は、その準備と明日からの仕事の確認のため、何日かぶりに執務室に足を踏み入れた。
 自席の上は、たまった書類でいっぱいだったが、何故かそれには、ほっとするものを感じていた。
(誰だって、この社会で、何かの役に立っていたいんです。それが生きているということです。人に必要とされていると実感することが)
 いつだったか藤堂が言っていた言葉が思い出される。
 誰だって仕事がしたい。誰だって、この社会で自分が必要とされていることを感じていたい――いまほど強くその言葉が胸に響いてくることもない。
 課長席に決裁書類を置いた果歩は、その席の後ろに、雑誌が積み重ねられているのに気がついた。
 沙穂が言っていた週刊スポットの最新号。それだけでなく、市長の報道がなされた全ての雑誌媒体が置かれている。
 おそるおそる取り上げてみた果歩は、ページを開いてからすぐに閉じた。セックス依存症という過激な見出しがそこにあって、それだけで、もう中身は読むまでもないと思った。
 真鍋がかつて、多くの女性と浮名を流していたのは本当の話だ。
(僕は、今まで女性とまともにつきあったことがない。冷めてしまうんだ―― 相手が、自分のものになった瞬間に)
 彼自身が8年前、果歩にそう告白し、その原因は叔父の吉永が教えてくれた。
(雄一郎にとっては、……そうですね、愛とは、すなわち裏切りの前哨のようなものなんです)
(愛しても、いつかは必ず裏切られるということですよ。それどころか、破滅と憎しみと死に転じていく。奴はそれが怖いんです。……意外に強情な男だから、決して認めないでしょうがね)
 真鍋の心の中に深く根を下ろしている闇は、8年経ってもまだそのままなのだと改めて思わざるをえなかった。
 結婚して、あるいはいい方に変わったのではないかとも思っていたが、そうではなかった。女性を嫌悪する自分に嫌悪し、それでも愛をもとめてやまない寂しい人。
 それは今も、変わっていなかったのだろうか。
 そして8年前と同じゲーム感覚で、彼は今回も私に絡んできたのだろうか。――
「――ああ、的場さん、大丈夫かね」
 そのとき、別室にいた尾ノ上が戻ってきた。
「少しいいかね。話がある」
 その尾ノ上に手招きされ、果歩は課長席の後ろにある小さな会議室に誘われた。
「君にとっていいことか悪いことかは分からないが、少し風向きが変わってきたよ」
 向かい合って席につくと、開口一番尾ノ上はそう言った。
「スポットの記事が出たことで、マスコミの注目は、真鍋市長と不倫をしていたという女優や有名企業役員の夫人たちに移っている。――まぁ、なんとも言えないゲスな話だがね」
 吐き捨てるように苦く言って、尾ノ上は両腕を組んだ。
「幸いなことに、マスコミ対応の窓口は市長の私設秘書が引き受けてくれている。まぁ、そんなわけでうちは通常営業だ。君に関しては、当分、好奇の目で見られることは避けられたんだろうが、人の噂も75日と言って……」
 そこで尾ノ上は、少し面はゆそうに視線を伏せる。
「まぁ、私が君に言うことではないのかもしれないがな」
「いえ、ありがとうございます」
 果歩は素直に礼を言ったが、心は晴れないままだった。
 これだけの騒ぎになることを、果たして真鍋は予測していたのだろうか? それとも、彼が雑誌社に写真をリークしたというのは、私の考えすぎだったのだろうか。
 根拠もないのに、真鍋の態度だけでそうだと決めつけていたが、実際写真を撮られたのは、真鍋にとってもアクシデントだったのかもしれない。
 少し前に、御藤に言われた言葉が蘇る。  
(雄一郎さんもそれなりに汚いことをしてここまできた。――それをマスコミにすっぱ抜かれたら、どこかでそのバブルも終わる。あの人にとって苦しいのはその後だよ)
 まさかそれが、こんなに早く来るなんて――
「昨日、市長と話したが、ホテル暮らしは少なくとも6月議会までは続けてほしいとのことだった。費用の方も……実は私が預かっているのだが」
「受け取るつもりはないので、お返ししてください。それに、送迎の面では十分お世話になっていますし」
 やはり期限は6月議会か。果歩は眉をひそめていた。
 真鍋が6月というワードを出す度に気に掛かる。一体6月に何があるというのだろう。
「ここだけの話だが」
 尾ノ上はそこで、出入り口をうかがうようにして声を小さくした。
「真鍋市長は、そう長くはもたないかもしれない」
「え……?」
「6月議会で、不信任決議案が全会一致で出される予定だという話だ。もちろん法的拘束力があるわけではないから、それによってただちに辞任とはならないが」
 果歩はこくりと唾を飲んだ。
 沙穂も昼に言っていたが、それは、当然――予想されてもいい事態だった。
「市会議員は全員、――特に旧市長派だった古参議員は、相当真鍋市長に反発している。この先、市長が出すどんな議案も通らなくなるし、間違いなく6月議会は大混乱に陥るだろう。それもいたしかたない。あの人は一体何を考えているのか、議員と一切コンタクトをとろうとしていないんだ」
「一切ですか」
「ああ、全くだ。つまりあの人の味方をする議員は一人もいないことになる。――こんな異常事態は、市始まって以来だよ」
 それがいかに異常かということは、市長秘書を経験していた立場上よく分かる。
 議会とは、50数名の市議会議員が出席し、市長側――つまり市側が提出した議案――予算だの条例案だのを、採決によって認可する場である。
 つまり、議員の過半数を味方につけないと、市が提出するいかなる議案も認可されないことになる。だから歴代市長は、議員との関係を良好に保つべく努力してきたのだ。それは、元市長の真鍋も例外ではない。
「真鍋市長の支持母体は公新党ですけど、公新党系の議員も、市長の味方ではないんですか」
 果歩はつい聞いていた。
「その公新党議員すら、市長はないがしろにしているからな」
 苦々しい声で尾ノ上は答えた。
「それでも、市長の支持率が高い内は味方をする腹づもりだったと思うが、現状はもう違う。市長は今や、市だけでなく国中から総スカン状態だ。いずれ国会へという話もあったと思うが、それも難しくなったんじゃないのか」
「…………」
「本人も市政になんの興味もないようだ。就任当初こそ、地元企業と繋がりの深い幹部連中を一新して、高額入札案件を調査するなどのやる気を見せはしたがね。そこから先のプランはないまま、現場では混乱だけが続いている」
 果歩は膝の上で両手を握りしめた。――知らなかった。そこまでひどいことになっていたなんて。
「市長が辞めて元の幹部連中が戻ってくれば、またもとの木阿弥だ。いってみれば改革に手をつけたものの、あまりに反発が大きくて本人もどうしていいのか分からないんだろう」
 真鍋さんはそんな人じゃ――と言いかけた果歩は、急いで言葉をのみこんだ。
 私も馬鹿だ。いまさら彼を庇ってどうしようというのだろう。しかも尾ノ上に反論できるほど、彼のことを知っているわけでもないのに……。
「6月議会で演説する所信表明も総務局長に任せきりだというし、本当に無責任な人間だよ。なんにしろ、私も君もあと少しの辛抱だ」
 最後はどこかほっとしたような口調で言って、尾ノ上は席を立った。


 *************************


 執務室に戻った果歩は、憂鬱な気持ちのままで席についた。
 議会の初日は、6月中旬の金曜日。その日、就任した真鍋の所信表明が行われることになっている。いわば、彼の市長としての初舞台だ。
 現時点で、真鍋はマスコミに一切対応していないし、記者会見も拒否するという徹底ぶりだが、その場にはむろん大勢のマスコミが押し寄せるだろう。このままの騒動が続けば、尾ノ上が言うように議会が混乱することは間違いない。
(それに、何もかも6月までのことだ)
 ――なのに、6月に終わるってどういうこと? 何も片付かないどころか、今より余計、ひどいことになってそうな気がするけど……。
「失礼します。都市計画局総務課です」
 その声につられるように顔をあげた果歩は、息をのむようにして固まった。
 市長室とエレベーターホールを区切る自動扉が開き、そこに背の高い男性が立っている。
 普段と変わらない穏やかな表情を浮かべたその人が、藤堂だと認識できるまでに――実際には声を聞いただけで分かっていたのに――頭がそう認識するまで、数秒を要していた。
 顔を強張らせる果歩を見下ろし、藤堂は親しげな微笑を浮かべた。
「お久しぶりです。真鍋市長と4時半にアポをとっておりまして」





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