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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(12)

 

「お久しぶりです。真鍋市長と4時半にアポをとっておりまして」
「……は、はい」
「市長室にお邪魔してもいいですか」
 弾かれたように受話器を取ると、果歩は市長室の内線をコールした。心臓がいまさらのようにドキドキと鳴り始める。
「へぇー、的場さん、休んでるって聞いたけど、仕事復帰してたんですね」
 呼び出し音にまじって、どこかで聞いた女性の声がした。まだ動揺が収まらないままに視線を巡らせると、藤堂の背後に入江耀子が立っている。
 わけもなく心臓がズキッと痛んだ。この5月に果歩の後任として総務課に配属された入江耀子。今は、彼女が藤堂のパートナーだ。
 その時、電話に片倉が出た。
「……あ、的場です。都市計画局総務課の方が来られていますが」
「どうぞ、市長室にお通ししてください」
 心得たように返される。受話器を置いた果歩は、どこか固い笑顔で藤堂を見上げた。
「確認いたしましたので、お入り下さい」
「ありがとうございます」
 屈託なく微笑むと、藤堂は市長室のある通路に向かって歩き出した。
 一瞬果歩に目配せのようなものを送った耀子が、急いでその後を追う。
「へぇ、市長が直接担当者に会うなんて珍しい」
 沙穂の声がして、果歩は動揺しながら卓上の書類を取り上げた。
「若いけど係長なの。女性の方も係長級よ」
「それでもなかなか市長とは会えないでしょ。最近じゃ局長だって滅多にアポが取れないのに」
 その通りだ。以前は市長決裁を取る際、直接担当者が市長の元を訪れていたが、今はそれすら禁止されて、全てデータでやり取りするようになっている。
 もちろん真鍋が面会を許可したのは、彼にとって藤堂が特別な存在だからだろう。
 ――……藤堂さん、変わってなかったな……。
 髪だけは、4月に別れた時より少し短くなっていた。
 白いシャツ、何度か目にしたネクタイ、穏やかな表情。全くいつもの藤堂さんだ。
 まだ心臓が鈍い音を立てている。頭を仕事に切り替えようとしても、書類に記された文字は全く頭に入ってこなかった。
 びっくりするほど普段通りだったし、私を見て笑ってくれた。同じ場所で仕事をしていた時、いつも向けてくれていたのと同じ笑顔で。
(おはようごさいます、的場さん)
(それなら僕がやっておきますよ。待場さんには、別の仕事をお願いしてもいいですか)
 一年間も一緒にいたのに、今は、それがまるで何年も昔の出来事のようだ。
 戻れるものなら2ヶ月前の世界に戻りたい。朝、仕事にいったら当たり前のように藤堂さんがいて、当たり前のように話ができた。
 乃々子や流奈がいて、晃司もいて――くだらないことで大騒ぎして、――誤解して、喧嘩して、でも最後は仲直りした。あの幸せだった頃に戻りたい。
 ここに入ってきた時の、彼の全く変わらない態度が胸に刺さる。
 もちろん藤堂が、果歩を取り巻く騒ぎを知らないわけがない。
 馬鹿みたいに着飾った私が真鍋さんと一緒にホテルに行って、1時間も2人で部屋に閉じこもっていた。あの記事を読んでいないはずがない。
 しかもそのホテルは、3月に藤堂と2人で訪れたホテルなのだ。
「…………」
 果歩は目を閉じ、唇を強く噛み締めた。
 なのに今日に至るまで、藤堂からの連絡は一切ない。果歩がマスコミに追い回されていたのも、ホテルから通勤していることも、もちろん知っていたはずなのに。
 連絡がないどころか、今、何事もなかったように普通に笑いかけられた。
 その態度は、一体何を意味しているんだろう。 
 その時、入江耀子一人が市長室のあるフロアから戻ってきた。そして当たり前のように果歩の傍に歩み寄ってくる。
「的場さん、お久しぶりです」
 藤堂が続いて出てくることに、むしろ恐怖を覚えながら、果歩も仕方なく立ち上がった。
「……お久しぶりです。決裁は、もう?」
「ええ、それはもうあっさりと。今は係長と市長の2人でお話しているみたいです」
 心臓が収縮するように痛くなった。
「……2人で?」
「私だけ先に帰るように、係長に言われました。――なんの話をしてるんだと思います?」
 誤魔化すこともできずに果歩が表情を強張らせると、「仕事に決まってるじゃないですか」と、おかしそうに耀子は笑った。
「市長が、駅前再開発事業を勝手に凍結させたんで、うちは今大変なことになってるんですよ。何度も何度も直接話させてくれってお願いして、ようやく藤堂係長にだけオッケーが出たんです」
 ああそう――と、果歩は怒ることもできずに、力なく頷いた。
 もうこの件では、なんの話も聞きたくないような気がした。  
「じゃあ、話は長くなるんでしょうか」
「そうかもしれませんね。でも今夜は係長と2人で残業する約束になっているから、あまり遅くなられても困りますけど」
 果歩の顔色を窺うようにして耀子は続けた。
「最近は、毎日係長と一緒なんです。帰りはだいたい12時近くになるから、自宅まで車で送ってもらってます。失恋したばかりの男って案外もろいものですよね」
「…………」
「彼の部屋、行ったことありますよね? 狭くてもうびっくりしちゃった。でもああみえて」
 囁くように声をひそめ、耀子は果歩の耳に口を近づけた。
「セックス、お上手だったんですね」
 こういう攻撃は、流奈と香夜で耐性がついている。
 2人の挑発も、その殆どが嘘だった。今も果歩は、耀子の言葉が真実でないと知っている。
 それでも心のどこかで、今回ばかりはそうなっても仕方がないという不安が渦を巻いている。それだけの裏切りを――そう見えても仕方のないことを果歩はして、なおかつ一切の言い訳も説明もしていないのだ。
「市長とどっちがよかったですか」
 からかうように耀子は囁き、つっと姿勢を元に戻した。
「言っておきますけど、係長を狙っているは私だけじゃないですよ。――先日も、昔仕事で一緒だったっていうすごい美人が訪ねてきて、係長を連れ出したらしいですから。今は私、的場さんよりそっちの方を警戒してるんです」
 顔を強張らせる果歩を見下ろすと、耀子はにっこりと微笑んだ。
「じゃ、私はこれで。係長には先に戻ったって伝えて下さいね」


 *************************


 気づけばエレベーターが13階で停まり、果歩はぼんやりと降りていた。
 目の前には、8年間通った懐かしいフロアが広がっている。
 5時少し前のエレベーターホールは閑散としていて、時折せわしげに通り過ぎる職員も、誰も果歩に気づいていない。
(今夜、よかったらどこかで食事、どうですか)
(そうですね……) 
 いつかの夜、このホールで、藤堂と並んでエレベーターを待っていたことを思い出し、果歩は不意打ちのように泣きそうになった。
 ――馬鹿だ、私、逃げたつもりなのに、どうしてここに来ちゃったんだろう。
 藤堂が市長室から出てくるのを待つのが怖くて、つい秘書課の外に出てしまった。
 行く当てもないままにエレベーターに乗って、気づけば懐かしいフロアで降りてしまっている。
 急いで、エレベーターのスイッチを押した果歩は、にじみ出した涙を指で拭った。
 ここに来たってなんにもならないのに。
 私の場所なんてどこにもないし、自分の席に入江さんが座っているのを見て、余計傷つくだけなのに。――
「――的場さん?」
 その時、背後で懐かしい声がした。
 振り返ると、目を丸くした乃々子が、数人の男性職員らと交じって立っている。
「びっくりした。どうしたんですか、こんなところで」
 駆け寄ってきた乃々子の背後では、同僚男性らが好奇の視線を果歩の方に向けている。
 それに気づいたのか、乃々子は少し表情を硬くして、立ちすくむ果歩の手を取った。
「よかったら別のところで……、ちょっと話をしてもいいですか」


 *************************


 乃々子は、階段の踊り場に果歩を引っ張っていくと、すぐに心配そうな目を向けてきた。
「大丈夫なんですか、今」
「うん。まぁ」
 何をもって大丈夫かといえば、それはよく分からないけれど。
 2人になっても、果歩は何を話していいか分からなかったし、それは乃々子も同じようだった。
 もしかして怒っているかなとふと思った。
 乃々子は全面的に藤堂の味方で、果歩と藤堂のことを誰よりも応援してくれていた。その期待を――ある意味果歩は、裏切ったのかもしれないからだ。
「乃々子はどう、身体の方は大丈夫なの?」
 仕方なく、果歩は何事もなかったかのように、無理に作った笑顔で切り出した。
「あ、はい。もうすっかり、――4月は本当にお世話になって……、私、一度きちんとお礼をしようと思ってたんですけど」
「いいよ。私も忙しかったし、乃々子も5月は大変だったでしょ。入江さん……大丈夫だった?」
 乃々子は微かに眉をひそめたが、すぐに「なんとかやってます」と微笑んだ。
「正直いえば、最初は怖くて仕方なかったんですけど、入江さん案外大人しくて……というより、藤堂さんがしっかり手綱を握ってるみたいで」
 再び心臓が収縮し、果歩は表情を強張らせた。
「そうなんだ」
「入江さんは相変わらず口ばっかり……あ、いえ、これは私が言ったことじゃないですよ? そういうところは変わってないですけど、それでも仕事だけはそつなくやってるみたいです。5月の初めは、しゅっちゅう藤堂さんと衝突して、周りもはらはらしてましたけど……」
「……衝突?」
「彼女、あの頃は本当に態度が悪くて、仕事も周りに振ってばかりだったんです。そういうところを藤堂さんに注意されて逆ギレして、……でも今は……そうですね、上手く回ってるみたいです」
 そこで果歩の表情に気がついたのか、乃々子は慌てて言い添えた。
「あ、でも噂になってるようなことは絶対にないですから。最近ずっと2人が一緒なのは本当のことですけど、藤堂さんに限って浮気なんてあり得ないですから」
 浮気。その言葉にズキリと胸が痛んだのは、多分だが自分の心のどこかにやましさがあるからだ。
 あの夜の全てが欺されたも同然の展開だったが、心の底から嫌だったわけではない。むしろ真鍋と会話していて、楽しさを感じたことはいくらでもあった。
 それを人は、客観的にみれば浮気というのではないだろうか。
 そんな自分が、藤堂の行動にあれこれ口を挟めるはずがない。
「……的場さんは、……今は、どうなんですか」
「…………」
 乃々子が聞きたいのは、むろん仕事のことではないだろう。
 果歩は答えられないまま、視線を伏せ、乃々子もそのまま無言になった。
「……乃々子、身体には気をつけて」
 果歩はようやく、それだけを言った。
「私、戻らなきゃ。実は外出禁止令が出てるの。今頃、課長がめちゃくちゃ怒ってるかもしれない」
「そうなん、ですか」
「そ、一躍時の人だから。有名人も大変よ」
 冗談めかして言うと、ようやく乃々子の表情も微かに緩む。
「じゃ、またね。落ち着いたらまた連絡する」
 階段を降りようとしたら、背後から乃々子が「的場さん」と、どこか切羽詰まった声で呼び止めた。
「本当は何度も連絡しようとしたんです。的場さんも藤堂さんもお互い連絡を取り合ってないようだったし、的場さんの口から本当の気持ちを聞きたかったから」
「………」
「でも、藤堂さんに止められたんです。今は、そっとしておいて欲しいって」
 ――そっとしておいて欲しい……?
 果歩は、ぎこちなく振り返った。
「それ、藤堂さんが?」
「そうです」
 頷いた乃々子は、少し悔しそうな顔になった。
「的場さんには過去と向き合う時間が必要なんだって言われました。……意味は、あまりよく分からなかったけど」
 過去と向き合う時間。
 果歩はやや呆然として、立ちすくんでいた。
 ――過去と向き合う時間って、何……?
「でも、藤堂さんの方がもっと辛そうだったから、私が何か言うことでもないと思ったんです。――それに、多分同じなのかなって思って」
「同じって……?」
「私もそうだけど、藤堂さんも」
 そこで乃々子は、言葉に迷うように言いよどんだ。
「……的場さんにとって、一番幸せな道を選んで欲しいと思ってるんだなって、そう思ったんです」
「…………」
「――昔のことは、噂程度にしか知らないですけど、それに、やっぱり本音を言えば、藤堂さんを選んでほしいと思いますけど」
 そこで乃々子は、何かを断ち切るような笑顔になった。
「それでも私、的場さんがどんな道を選んでも、全面的に的場さんの味方ですから。そのことだけは絶対に忘れないで下さいね」


 *************************


 乃々子と別れて1人になった果歩は、ぼんやりと階段を降り始めた。
(的場さんには、過去と向き合う時間が必要なんだって言われました)
 それは――真鍋さんと向き合う時間ということだろうか。
(1年をかけて、僕は、僕という人間をあなたに知ってもらうことができた。それと同じだけ、今度は雄一郎さんのことをあなたは深く知るべきです。――どれだけ怒られようと、僕はそう思っています)
 それで?
 それで藤堂さんは本当にいいの?
 真鍋さんと向き合って、私が過去の思い出にのみ込まれてしまっても、本当にそれでいいと思ってるの?
 男なら――本当に私のことが好きなら、どんな卑怯な手をつかっても引き留めない?
 いっそあの夜、怯む私をねじ伏せて強引に抱いてくれたら良かったのに。
 私の胸の底にすくっていた過去への未練を、断ち切ってくれたらよかったのに。――
 階下から人が上がってくる気配がして、果歩はいそいで泣きそうになっていた顔をうつむかせた。
 けれどその人の影を視界に捕らえた時、本能的にそれがよく知った人のものだと分かって顔を上げる。
 数段下から、藤堂が少し驚いた顔でこちらを見上げていた。
 果歩もまた喉を鳴らして表情をとめ、数秒、互いに足を止めたまま動けなくなる。
「……今、終わったので」
 先に声を出したのは、どこかぎこちなく視線を逸らした藤堂だった。
「秘書課にいなかったので、もう帰宅されたのだと思っていました」
「……ちょっと、外に出たくなって」
 果歩もまた、ぎこちなく視線を逸らしながら、固い声で返していた。
「今、戻るところです」
「そうですか」
 それきり会話はなくなり、気を取り直したように、藤堂が再び階段を上がり始めた。
「今度来るときは、何かお菓子でも持ってきますよ」
「……お菓子、ですか?」
「ええ、最近美味しい店を見付けたんです」
 藤堂の声は優しかった。
「少し痩せたようだから。――元々あまり食べない人だったから。それが少し心配です」
 穏やかな微笑を浮かべてそう言うと、すれ違い様、藤堂は軽く会釈した。
「じゃ、また」
 じゃ、また。
 それっていつ?
 もう4月は終わりましたよ、藤堂さん。
 今は、真鍋さんとのおかしな約束にしばられてますけど、あなたは私に、なんの約束もくれないんですか。
 7月でも8月でも、来年の4月でもいいから、もう一度――もう一度私に、……。
 遠ざかる足音を振り返った途端、ずっと堪えていた涙が頬にこぼれた。
 今すぐ追いかけて、彼にすがってこう言いたかった。
 入江さんの言ったことは嘘ですよね? 
 藤堂さんのお義父さんには、欺されて会わされたようなものだし、あの夜、真鍋さんとは本当に何もなかったんです。
 私が好きなのは、今でも藤堂さんなんです。
 なのに足は一歩も動かないまま、やがて遠ざかる足音も聞こえなくなる。
 果歩はぼんやりとしたまま涙を拭い、力ない足取りで階段を降りていった



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