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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(13)

 
「これは、いったん返すということでいいのかね」
 春日が差し出した辞表届を、藤堂はしばらく見つめてから首を横に振った。
「もうしばらく預かっていただいてよろしいでしょうか」
 都市計画局長室。
 局長席に座る春日は、苦い目になって、封筒を再び引き出しにしまった。
「そろそろ何があったのか話してくれないか。今朝は、今日にでも退職するような勢いだったが……」
「市長を殴ってしまいました」
 さらっと言った言葉に、数秒してから春日が、かつてないほど大きく目を見開いた。
「……っ、今、君は……、え? 今、なんと?」
「最初からそのつもりでアポを取ったので、今朝、辞表を局長に預けました。ただ逆に、市長にはしばらく現職にとどまるように言われました」
 ようやく事態をのみ込んだのか、春日はぱくばくと口を開け閉めしている。
「これからどうなるかは分かりませんが、当面、辞表はお預かりいただけると助かります」
「それは、――とどまれとは、市長に直接言われたのかね」
「そうです」
 その時のことを思い出し、藤堂は苦く眉を寄せた。
「僕と市長は昔なじみなので、そのよしみということだと思います。――ご迷惑をおかけしました」
 どうやっても連絡が取れなかった真鍋と、ようやく今日、職務上とはいえ会う約束を取り付けた。 
 どうしても――それが真鍋であっても、どうしても許せないことが藤堂にはあった。
 真鍋のスキャンダルに、あんな形で果歩を巻き込んでしまったことだ。
 ここ数年、真鍋が自分の身辺に、神経質なほど気を遣っているのは知っている。あの人がマスコミにうかうか写真を撮られるようなミスをするとは思えない。しかも自分の城であるあのホテルで。
 間違いなく意図的だった。――理由はいくつか推測できたが、そんなことはどうでもよかった。
 もう彼女が今まで通り役所で仕事をするのは難しいだろうし、その迷惑は家族にまで及んでいる。個人情報がまたたく間に世界中に知れ渡る時代だ。場合によっては、もう元の家に住み続けることも難しくなるかもしれないのだ。
 それだけは――真鍋の言い分を聞きたかったし、聞いたところで許す気もなかった。
(――瑛士……、8年前、俺にとって)
 しかし今は、逆に魂が抜かれたような気持ちになっている。
 ずっと覚悟してきたことがいざ現実になろうとしている重さに、打ちのめされそうになっている。 
「藤堂君、人事課の皇主査が退職したという話は聞いているか」
 春日の声に、退出しようとしていた藤堂は足を止めた。
「いえ、初耳です」
 人事部人事課の皇康介。
 昨年起きた大河内主査の事件で、過去の汚職疑惑が明るみに出た人事部長が転出後、実質灰谷市の人事の全てを掌握していた男だ。
「……初耳か」
 少し疲れたように言って、春日は椅子に背を預けた。
「皇君は、元々大手ヘッドハンティング会社に勤める凄腕のマーケターだ。その人物を、真鍋現市長が引き抜いて、灰谷市に転職させた、そうではないのかね」
「……そう、聞いています」
「そして、そういう人物は、皇君だけではないのではないのかね」
 藤堂は、春日に向き直った。しかし口を開く前に、春日が続けた。
「真鍋雄一郎は、もう何年も前から市役所の中に、自身の目となり、手となる人物を送り込んでいた。昨年、藤家さんと那賀さん――元局長2人のトップダウンで決まった、都市計画局の業務改革のために登用された君も、もちろんその一人だ」
「…………」
「君はその目的を、真鍋市長から聞いたことがあるのかね」
「僕はありません。今日も市長に言われました。自分のしていることに僕を巻き込むつもりはないと」
 藤堂は春日に向き直った。
「春日局長は、それをご存じなんですね。だから僕に、都市政策課の仕事の手伝いを命じたのではないですか」 
 黙り込み、春日は険しい目のままで立ち上がった。
「市長が君に言わない以上、私から言うべきことは何もない。君自身が組み立てたであろう仮説が真実に近ければいいと願うばかりだ。――というより」
 そこでふぅっと息をつき、春日は窓の方に視線を向ける。
「正直に言おう。私自身も、市長が何を考えておられるのかいまひとつ分からないのだ。ある種の正義を実行されようとしているのだと、私はそう信じていた。しかし藤家さんといい皇君といい、市長のブレーンと期待された人間が、今次々と市を去っている。それを、どう解釈したらいいのか」
 ひどく苦い口調が、5月からの春日の苦悩を物語っているような気がした。
「君は市長と親しい仲だと思っていたよ、藤堂君。市長は君にも、いまだ本心を明かさないのかね」
「あの人は……雄一郎さんは、大切な人にこそ絶対に本心を明かさない」
 言葉を切り、藤堂は軽く唇を噛んだ。
「僕がそうだとうぬぼれているわけではありませんが、僕がこの市に入庁した理由は、春日次長がご存じの通りです。庁内一保守的な局の業務改革と人事の刷新。そこに、当時僕がお世話になっていた雄一郎さんの勧めがあったのも間違いありません」
 春日は黙って、元の椅子に座り直す。
「雄一郎さんが灰谷市に特別の思い入れがあることは承知していました。ただ当時の僕は、それを父親である元市長のためだと思っていた。……僕は、何年も海外にいたので、市長と父親の関係性について、それほど深くは知らなかったんです」
「……では、真鍋雄一郎が、自身が灰谷市長になるつもりで動いていたことも知らなかったと?」
「僕がそういった動きを知ったのは昨年の秋頃です。驚きましたが、それならそれで役に立ちたいとも思いました。ただ、僕も今は春日局長以上に先のことが見えないでいます」
 春日は黙って、回転椅子を窓の方に向けた。
「しかし市長は今日、君にしばらくこの職にとどまるように言った」
「……その通りです」
「だとしたら、きっとそれが答えなんだろう。――分かった、もういいよ。下がりたまえ」
     

 *************************


「だから市長は不在です。本日は夜まで外出の予定なんです。行き先は申し上げられませんよ」
 少し苛立った声をあげた尾ノ上が、叩き付けるようにして受話器を置いた。
 翌日――秘書課。
 その日、職場に本格復帰したばかりの果歩は、また取材の電話かと思って尾ノ上の傍に駆け寄った。
「課長、申し訳ありません」
「いや、違うよ。脅迫電話だ。念のため今から警察に連絡する」
 ――え……?
「市長への殺害予告だ。どうせ愉快犯だろうが、――これもいずれニュースになるのかと思うと気が重いよ」
 ブツブツ言いながら、尾ノ上は名刺ファイルを開いて番号をプッシュした。
「ああ、後藤さんですか。市役所の尾ノ上です。実は内々でご相談が――ええ、ひとまずアドバイスをいただきたいと思いまして」
 どうやら県警の知り合いに電話をしているようだ。秘書課は全員が静まりかえり、課長の声に耳をそばだてている。それは果歩も同じだった。
 電話する尾ノ上の声で、脅迫電話の概要もおのずと全員に伝わった。
 電話の主は年齢不詳の男――市長の行き先を執拗に聞いてきて、尾ノ上が理由を問い質すと、あんな男は灰谷市の恥だから殺してやると言われたらしい。
「いずれこんなこともあると思ってたよ」
「インターネットじゃ、もっと滅茶苦茶言われてますからね。そっちも警察に相談した方がいいんじゃないのかな」
 庶務の間で、そんな囁きが交わされている。
 果歩は落ち着かない気持ちで、市長室の方を窺った。
 今日真鍋は一度も登庁していない。公室に片倉だけを残し、2人の秘書を伴って外出している。行き先は、いつものことだが誰も知らされていない。
 現時点で灰谷市に副市長は存在していないため、この5月から、市長への表敬訪問や感謝状贈呈などの定例的な行事は全て延期になっている。毎年市長が出席していたイベントの挨拶なども、今では各局長が代わりに行っているという状況だ。
 だからマスコミも、市長を容易に捕まえられない。
「今日も1日暇ね。いっそのこと、午後から早退して、買い物にでも行っちゃわない?」
 冗談めかして沙穂が言った。「いいですね」と果歩も笑い、電話を切った尾ノ上も、「私もいっそ早退したいよ」と疲れたようにぼやいた。
「正式に被害届を出すんですか?」庶務の清水主幹が聞いた。
「いや、もう少し様子を見てもいいと言われたよ。本気で市長を殺そうって連中は、予告なしにズブリといくだろうからな。――私設秘書に一応警告だけはしておくか。的場さんは、警備員室に電話をしておいてくれ」
「あ、はい」
 果歩は急いで受話器を上げ、地下の警備員室に脅迫電話があった旨報告を入れた。
 現在、マスコミを警戒してか、警備員は通常の倍に増員されている。
 正面と裏の玄関と一階のエレベーターホール。そして秘書課がある十階のエレベーターホールに、それぞれ2名の警備員がいて、特に秘書課の入室は、事前に許可を得た者しか許されないという徹底っぷりだ。
 予告もなしにズブリ。尾ノ上が口にした笑えない冗談が、果歩の中に重く尾を引いていた。
 もちろんそんなことは早々ないと思うが、真鍋が大型事業を次々と凍結したせいで、受注企業から相当恨みを買っているという噂は耳にしている。
 そのため、真鍋が居住場所を転々と変えて、誰にも居場所が分からないようにしているということも知っている。
 母がいつだったか言っていた。灰谷市には今でもその筋の人が残っていると。
 果歩も役所に入るとき、そんな話は耳にしたことがあるし、新人研修でも暴力団応対マニュアルが配られていた。
 実際、果歩が入庁する何年か前までは、市の窓口にそういった人たちが来て、おおっぴらに騒いだり利益供与を求めたりする事例もあったらしい。でも、近年そんな話はさっぱり耳にしなくなったし、役所だけでなく灰谷市全体でも、暴力団絡みのニュースなど聞いたことがない。
 が、目には見えないがそういった人たちは確かにいて、一般市民と同じ顔で社会に溶け込んでいるのだろう。
 そういう連中と人知れず戦っているのが、緒方のような、暴力団専門の警察官なのだ。
(いってみればね、こう……夜道を歩くでしょう)
(そこにはね、目に見えない落とし穴が、実はたくさん掘ってあるんです。君ら一般人は、そこを非常に危なっかしく……僕らの目から見たらですが、歩いている。落ちないのは運がいいだけで、落ちてしまえば救いのない地獄が待っているんですよ)
「…………」
 緒方という人がどういう人なのか――正直言えば、果歩にはよく分からない。
 警官という立場上無条件に信頼していたが、男としては多少警戒心を覚えていたのも事実である。とにかくつかみどころがなくて、果歩には全く手に負えないタイプだからだ。
 でも、あの夜は助けてくれた。もし緒方の助力がなかったらどうなっていたか――考えただけでぞっとする。もしかするとあの夜果歩は、緒方のいうところの「地獄」に落ちていたのかもしれないのだ。
 なのにその緒方を、真鍋がひどく警戒している。
(――僕は知らなかったが、相手は僕に何年も執着している。それだけで察してくれないか)
 おそらく2人の間には、果歩の知らない因縁があるのだろうが、執着しているというのは、一体どういうことだろう。
 ――つまり……緒方さんが真鍋さんを好きだということ? 
 真鍋は綺麗だし、同性にそういう感情を抱かれたとしても不思議はない。でもそれだけで、ああも警戒するものだろうか。
「そろそろお昼だけど、的場さん、何かコンビニで買ってこようか」
 沙穂の声で、果歩ははっと我に返った。
「いいんですか」
「いいよ。いつもホテルのお弁当ばかりで飽き飽きでしょ。それ、尾ノ上課長に食べてもらえば」
「おいおい、妻の弁当を残したら、私が大変な目にあうんだぞ」
 尾ノ上が珍しく冗談を言い、課内が和やかな笑いに包まれた時だった。 
 エレベーターホールとの間の自動扉が開いて、品のいいスーツをまとったいかにも会社役員風の男が2人入ってきた。
 ホールには警備員が2名常駐しているから、身分などをはっきり名乗った上で、私設秘書の了解を得て入室を許可されたことになる。
 一瞬誰だろうと思ったが、果歩は立ち上がってお辞儀をした。
「失礼します、我々、こういう者です」
 前に立つ男がにこやかに微笑んで、内ポケットから名刺を取り出すような仕草を見せた。 けれどそれは、名刺ではなく、奇妙な形態をした黒い塊だった。
 ――拳銃……?
 あまりに現実感のない光景に、思わず訝しく瞬きした時、ドンッと足下が揺れるような衝撃あった。


 *************************


 数時間後、灰谷市役所周辺は前代未聞の騒ぎになっていた。
 上空をテレビ局のヘリが飛び交い、周辺は警察車両と救急車、おぴただしい制服警官、そして庁舎全体がキープアウトの黄色いテープで囲まれている。
「今、灰谷市役所から緊急で中継しています。今日の午前11時56分、10階の秘書課に警官を装った男2名が侵入し、銃弾を2発発砲。そのまま逃走するという事件がありました。負傷者は複数名いるとみられていますが、現在市役所の公式発表を待っている状況です。これは真鍋市長の方針に対する抗議とみられ――」
「今、県警本部の方が到着されました」
 テレビで、中継を見入っていた果歩は、その声で振り返った。
 同じようにテレビを見ていた沙穂や清水らも、一斉に扉の方に目を向ける。 
 全員が一瞬顔を強張らせたのは、まさにその県警本部の名を語って、暴漢が侵入してきたからだ。
 折しもその1時間前、秘書課に市長の殺害予告電話があり、警備員室にも警告を回したばかりだった。
 だから警官を名乗る男2人が偽造した警察手帳を持って現れた時、警備員は秘書課が呼んだものと誤認し、そのまま確認もせずに通してしまったのだ。
 どれだけ警戒し、準備していても、たった一つのミスから、牙城はあっという間に崩れてしまう。そう思うと、さすがにぞっとせずにはいられなかった。
 しかしもちろん、この状況で警察の偽者が来るはずもない。秘書課も市長室も、今は制服警官に占拠され、果歩たちはいったん会議室に閉じ込められている状況だ。
 秘書課では尾ノ上だけが、発砲時のショックでひっくりかえり、腰を強打して救急車で運ばれた。後は、警備員が犯人の逃走を止めようとして怪我をしたというが、その詳細までは判らない。
「いやぁ、今回は大変な目に遭いましたね」
 扉の向こうから場違いに明るい声がした。まさかと思ったが、管内で発砲事件が起きた以上、当然この男の出番なのかもしれない。
 果歩は緊張しながら立ち上がった。
 黒の革ジャンとジーンズ姿。よく似合っているが、堅苦しい制服警官の中では思いっきり浮いている。
「やぁ、的場さん」
 立ちすくむ果歩を見て、緒方は笑うように目を細めた。
「またお会いしましたね。よほど僕らは縁があるとみたがどうでしょう」
「あまり……」
 果歩もまた、不自然にならないよう強張った笑顔を返した。
「あまり、こう言う縁は、続いてほしくはないですけど」
「どうかなぁ。続くんじゃないですか。あなたには、どうにも厄介な疫病神がついているようだ」
 それは、真鍋さんのことを言っているのだろうか。
 さすがにどう答えていいか分からずに黙っていると、緒方は特に気にすることなく楽しそうに笑った。 
「ま、こんな時のために僕らがいるのでご安心ください」
 そして両手を広げると、果歩と同じように室内で身を縮めていた秘書課の面々に目を向ける。
「さて、皆さんはもうお帰りいただいて結構です。今、向こうでざっと詳細を聞きましたが、一番近くで犯行の瞬間を目撃したのが、的場さんのようですね」
「……ま、的場さんの、目の前でしたから」
 目を赤く腫らした沙穂が答えた。
 彼女はショックで放心状態になり、事情を聞かれている段階で泣き出して、会議室でもしばらく泣き止まなかった。
「わ。私たちは、そんなにはっきり見ていないんです。た、確かに入ってこられた時に顔は見ましたけど、一瞬だったので、人相まではあまりよく……」
「だいたいこういう時、ショックで何も覚えていないものですよ」
 緒方は気の毒そうに同調した。
「拳銃を向けられるなんて、人生でそうそうあることじゃないですからね。どうぞ、気をつけてお帰り下さい。今夜は楽しいことでも考えてゆっくりと眠ることです」
 顔を見合わせた清水と沙穂が、戸惑いながらも立ち上がる。緒方は果歩に向き直った。
「的場さんには、もう少しお話をうかがってもよろしいですか」
「……はい、大丈夫です」
 身支度を始めた沙穂らを尻目に、果歩は緒方に誘われるようにして会議室を出た。
 弾丸が撃ち込まれた大理石のカウンターの前では、今も鑑識の人がしゃがみこみ、何かを探しているようだ。
「かなりの至近距離だったようですね」
 その刹那の恐怖を思い出した果歩は、手指が固まるのを感じながら、頷いた。
 正直言えば、最初の発砲の後は、頭が真っ白になってよく覚えていない。
 衝撃――というよりは凄まじい音に驚いて、弾けるように背後に重心が崩れていた。もしかして死んだかもしれないと思った時には、果歩は床に呆然と尻もちをついていて、男2人は逃走してしまった後だった。
「なのに思いのほか落ち着いていますね」
 不思議そうに果歩を見つめながら、緒方は続けた。
「普通はもっと、泣いたり放心状態になったりするものですが、先ほどの女性のように」
「そうしたかったんですけど……、その前に周りが大変なことになっていましたから」
 腰を強打して、痛い痛いと呻いている課長、立つこともできなくなった沙穂。清水など、机の下にもぐりこんでガタガタ震えたまま出てこようとしない。まさにパニック状態だった。
 片倉がすぐ飛び出してきて救急車や警察の手配をしてくれなかったら、果歩も同じようにおろおろするばかりだっただろう。 
 秘書課には、まだ数名の制服警官が残っていて、窓の周辺を調べている。そこに一度は救急車で運ばれた尾ノ上の姿を見つけ、果歩は驚いて目を見張った。
「課長、もう大丈夫なんですか」
「……なんとかな。いくらなんでも、この非常時に私が不在にするわけにはいかないだろう」
 腰に巻かれたコルセットが痛々しかったが、さすがに一人きりで心細かった果歩はほっとした。
「君は大丈夫だったのか」
「はい、課長以外は、幸い全員無傷です」
「市長との連絡は?」
「片倉秘書がしているはずです。私は、……すみません。それどころじゃなくて」
 沙穂がヒステリー状態になっていたのと、警察の現場検証に付き合わされていたため、まだ家族にも連絡が取れていない。ふと、先ほどのニュースで、負傷者の詳細が公表されていなかったことが思い出された。
 もしかすると、ニュースを見た家族が心配しているかもしれない。
「緒方さん、ちょっと私、自宅に電話してきてもいいですか」
「ああ、いいですよ」
 緒方がそう答えた時だった。
「――市長! そこは今、入れません!」
 そんな声がして、閉鎖してあった自動扉が開いた。
 血相を変えた真鍋が駆け込んできて、忙しなく視線を巡らせる。
 髪は乱れ、ネクタイも緩んでいた。目は恐怖に強張り、唇からも色が消えている。声を掛けようとした果歩は息をのんだ。これほどまで怯えをはっきりと顔に出した真鍋を見たのは初めてだ。
 その真鍋の目が果歩を捉え、一瞬大きく見開かれる。
「市長、」
 尾ノ上が、そう声を掛けたときだった。
 制止する秘書を押しのけるようにして、真鍋がカウンターの中に駆け込んできた。立ちすくむ果歩の腕を掴み、自分の方に引き寄せる。
 時が止まったような時間の中、果歩は彼の早鐘のような心音と、荒い呼吸を聞いていた。
 肩に回された腕は熱く、胸は呼吸するごとに上下している。真鍋は何も言わず、果歩もまた、言葉が何も出てこなかった。
 困惑でも混乱でもなく、不安でも戸惑いでもない。どこにも持っていきようのない感情を抱えたまま、真鍋の手を振り払うこともできず、半ば呆然と立ち続けている。
 室内は静まりかえり、その場に居合わせた全員が、この異常な状況にどう反応していいか分からないまま、真鍋と果歩を見つめている。
「……市長、場所を」
 唖然としていた尾ノ上が、ようやく我に返ったように小声で口を挟んだ。
「お気持ちは分かりますが、場所をお考えいただかないと」
 真鍋の肩に力が入ったのが分かり、彼は弾かれたように果歩から手を離した。
「……すまない、つい」
「いえ」
 果歩は真鍋の顔が見られないままにうつむいた。彼の顔を見たくない以上に、何故か自分の顔も見られたくなかった。
 互いにぎこちなく顔を逸らし合った時、緒方の笑いを堪えるような声が響いた。
「これはこれは、なんとも情熱的なことで」
 さっと横顔を強張らせた真鍋が、喉を鳴らして顔をあげた。彼がひどく緊張しているのが分かり、果歩も思わず不安を顔に出している。
 振り返った真鍋は、目の前に立つ緒方を見つめ、しばらく声も出ないようだった。
「……君が、来ていたのか」
「ええ。こういった時は、僕が一応責任者という立場になりますので」
 目元を険しくさせた真鍋は、明らかに動揺し、それを懸命に堪えているようだった。
 その傍に、緒方が軽快な足取りで歩み寄ってくる。
「お久しぶりです、真鍋市長、直にお会いするのは3年ぶりになりますか」
 真鍋は答えず、果歩を押しのけるようにして、その緒方の前に立った。
「……犯人の。目処は?」
 果歩からは、真鍋の背中しか見えなかったが、彼が怒っていることだけははっきりと分かった。
「日中、あれほど大胆な真似をされたんだ。当然、その程度の目処はたっているんだろうな」
「いい質問です。実はこれから、その心当たりを市長に聞こうと思いまして」
 逆に緒方は悠然としている。
「心当たりならいくらでもあるが、それは警察だって同じだろう」
「そう言われても……、まさか警察がワイドショーネタを信じるわけにもいかないですし」
「信じてもらって結構だ。世間で騒がれている以上に、僕が知っていることは何もない」
「そうですか。ではそこにいる的場さんに、もう少しおつきあいいただきましょうか」
 果歩はびくっと肩を震わせた。真鍋が黙り、緒方が笑った。
「なにしろ彼女は、唯一至近距離で犯人を見ていますからね。一度は署にお越しいただき、ゆっくりお話を伺わないと。――そうそう、似顔絵作成にもご協力いただかないといけない」
「……彼女には公務がある」
 苦い声で真鍋が言った。
「そういった場合は、彼女を連れて行くのではなく、警察の方からこちらに来ていただきたい。……そうだな、分かった。心当たりがいくつかある」
「ほう、思い出していただけましたか」
「話をしよう。公室に来てくれ」
 傍らにいた片倉に目配せをすると、真鍋は厳しい横顔のまま、先に立って歩き出した。
「またご連絡しますよ。的場さん」
 にこやかな笑顔で、その後を追う緒方が振り返った。
「そうそう先日はお会いできずに失礼しました。僕の方にも別の用事ができましてね。その話もいずれ、また」
 2人の姿が、市長室のある通路の向こうに消えていく。ぼんやりと立ちすくむ果歩の背後から、気まずそうな尾ノ上の声がした。
「……あの男は一体なんだ。警察のようだが、市長とは古くからの知り合いなのか」
「いえ……私も、詳しいことまでは」
 顔を上げると、会議室の前では、沙穂と清水が呆然とした顔で立っている。
 真鍋の不用意な抱擁を、彼らはどう思っただろう。
 果歩はなんとも言えない気持ちでうつむき、唇を噛み締めた。
 いや、周りがどう思ったのかではなく、私は――私自身はどう思ったのだろう。




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