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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(15)



「……真鍋さんは、どこにいるんですか」
 その翌々日の日曜日、小雨が降る朝に、果歩を迎えに来てくれたのは片倉だった。
 車が通り過ぎる道端にはアジサイが咲き乱れ、この地方も梅雨入りしたんだなと改めて実感できる。
「まだ、銃撃事件の余波が収まっていませんので」
 運転しながら、片倉が口を開いた。
「マスコミを避けて姿を隠しておられます。6月議会の初日まで、雄一郎様が表に出ることはないでしょう」
 昨日、果歩の方から、片倉の携帯に連絡を入れた。
 真鍋さんと話がしたい。そう伝えて欲しいと片倉に頼んだ。
 きっとそれだけで、真鍋には果歩の真意が分かるはずだった。
 なぜなら彼もまた、銃弾が打ち込まれたあの日、頑なに被り続けていた仮面を脱ぎ捨ててしまったからだ。
「でも、市長がそんな真似をして大丈夫なんですか。決裁とか色々……議会に向けての打ち合わせもありますよね」
「全てデータでやりとりしています。市役所のやり方が旧態依然なだけで、リモートで片付く仕事はいくらでもありますよ」
 仕事ができる人にそう言われたら、二の句が継げない。が、それでもやはり、市長という立場は――灰谷市のシンボルとして、常に人目にさらされなければならないという気もする。
 いつまでも、人目を避けているわけにはいかないだろう。
「……真鍋さん、このまま市長を続けるつもりはあるんですか」
 それには片倉は答えず、視線を道路の方に向けながら車線を変えた。
「もうすぐ着きますよ。雄一郎様が先にそこでお待ちになっておいでです」
 どこだろう――。少し不安に思いながら、果歩は視線を巡らせた。
 市内北部。どこか寂しい灰色の田舎道、周囲には見たこともない風景が広がっている。
「今日は、片倉さんがずっと一緒にいてくださるんですか」
「いえ」
 答える片倉が、しばし意識を耳につけたイヤホンに集中させているのが分かった。
「私が言いつかっているのは、的場様の送迎だけです。現地では雄一郎様と2人でお過ごし下さい。雄一郎様もご自身の車で来ておられますので」
「……、大丈夫なんですか?」
「警備という意味では、万全を期しているつもりです。――もちろん万全というものはこの世にはありませんが」
 それが先日の銃撃事件のことだと分かり、果歩もなんとも言えなくなる。
「とはいえ、2日前より状況は随分とよくなりました。だから過剰に恐れなくても大丈夫ですよ」
「襲撃犯が捕まったってことですか?」
「そちらの方はまだです。――おそらくなかなか尻尾を見せはしないでしょう。私が言うのは、2日前の状況が100なら、今は10になったということです」
 果歩は眉をひそめていた。
「……それ、なんの数字ですか」
「雄一郎様を殺してでも、あの方がされようとしていることを止めたい連中の割合です」
 さすがに、その物騒な言い方には息をのんでいた。なに、それ……。
「ただ、その10が厄介なので、あまり油断されないように。我々も連携をとって監視していますが、今日は、何があっても雄一郎様から離れないようお願いします」
 果歩は黙ってうつむいた。ただ彼と会うと言うだけで落ち着かないのに、そんな風に言われたら余計に不安が募ってくる。
 無意識に指輪をかけていない胸の辺りを探っている自分に気づき、果歩は急いで手を離した。今日は――今日だけは、藤堂さんのことは忘れて、真鍋さんのことだけを考えていよう。そうでなければ、自分の本心は絶対に見えてこない。
「こちらになります。現地までご案内しましょう」
 気づくと車が停まっている。
 雨が少しずつ激しくなる中、傘を手にした片倉が車を降りた。
 
 
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「悪かったね、こんな場所にまで呼び出して」
「いえ……話がしたいと言ったのは私ですから」
 少し離れた場所で傘を差す真鍋は、暗い色のスーツをまとっている。    
 一瞬喪服かと思って怯んだ果歩だっが、ネクタイがグレーだったので、正装ではないと気がついた。
 彼の前には、淡いピンク色の石に白の文字を刻んだ、西洋風の墓石がある。真っ白な百合の花で囲まれたそれが、真鍋麻子の墓標だというのはすぐに分かった。
「義母は生前、熱心なキリスト教徒でね」
 膝をつき、墓石に新たな百合を一差し供えながら、呟くように真鍋が言った。
「自分が死んだ後、仏葬にされるのを随分と嫌がっていたようだ。父は、しかしそれだけは義母の遺言に逆らった。葬儀があった寺院は、父の選挙地盤を支えるひとつだったからね」
 傘を叩く雨音が激しくなり、時折真鍋の言葉が聞き取れない。
 果歩は彼の傍に近づき、自分の傘を濡れる彼の肩にかざしてあげた。
「葬儀の時は、ありがとう」
「…………」
「君が来ていたと、後日御藤補佐に聞かされた。嬉しかったよ」
「……言ってくださったら」
 真鍋が立ち上がり、不思議そうに目を細める。声が聞こえなかったのだと分かり、果歩は少しだけ声を高くした。
「ここで会うと言ってくださったら、私も、お花を買ってきたのに」
「気にしなくていいよ、……を、嫌うんだ」
 今度は果歩が、言葉が聞き取れずに瞬きする。口を開き掛けた真鍋は、言葉をのむようにして傘を閉じ、驚いて立ちすくむ果歩の傘を手に取った。
「こうしていよう。雨の音で、君の声が聞きにくい」
 不意に縮まった距離に戸惑いながら、果歩はぎこちなく頷いた。
 雨に混じってよく知った真鍋の匂いがする。それが心地いいのか不安なのか分からないまま、果歩は視界に映る真鍋の指を見つめた。この人の手が好きだった。――手だけでなく、何もかも好きだった。
 それは、今の感情だろうか、それとも昔の感情だろうか。
「義母は、気を遣われるのを何より嫌う人なんだ。入院していたことも、周りにずっと伏せていたようだしね」
「そうなんですか」
「ああ、僕が知ったのも臨終の間際だよ」
 果歩は、真鍋の影になった横顔を見上げた。
 義母のことを語る彼の穏やかさが少しだけ嬉しかった。でも、何故彼は、2人で話す場所にわざわざここを選んだのだろう。
「……ご臨終には?」
「間に合わなかった。その時僕は海外にいてね」
 やはり穏やかな声で、真鍋は続けた。
「義母とは何年も音信不通だったから、僕のことなどとうに忘れたまま亡くなったんだろうと思っていた。だからあの時は本当に驚いたよ。二宮の叔父さんとそんな手紙のやりとりをしていたなんて」
 それを聞いた時の真鍋の反応を思い出し、果歩は眉をひそめていた。
 彼の心が現実を離れて過去を彷徨い始めたのを、あの夜、果歩は感覚として感じていた。8年前、2人で初めて過ごした夜。彼が時折、そんな風になったことを今でもよく覚えている。
「的場さん」
 墓標を見つめたまま、どこか思い詰めた口調で真鍋が口を開いた。
「……僕の中で、君という人を語るとき、義母は切っても切り離せない存在だ」
「…………」
「だから今日、ここを選んだ。僕の、この人に対する執着が整理できたら、ようやく君をすっきり忘れられそうな気がしてね」
 真鍋は微笑んだが、それはどこか緊張をはらんだ笑顔だった。
「でも誤解しないでくれ。僕は何も、君への未練に縛られて8年を過ごしたわけじゃない。妻との結婚にしても、最後は自分の意思で決めたことだ」
 果歩は頷いたが、彼がさらりと「妻」と口にしたことに、胸がえぐられるような痛みを感じていた。
 そう――まだその程度には、当時負った傷は癒えていないのだ。果歩自身も。
「ただ、……ひとつだけ後悔していることがあるとすれば、その時君と、きちんと話をして、互いにけじめをつけるべきだったということだ。そうしていれば、まさかあんな迂闊な真似をすることもなかっただろう」
 それは、秘書課が襲撃された日のことだろう。
 血相を変えて戻ってきた真鍋に、衆人の前で抱き寄せられた時のことだ。
「よりにもよって、あの男の前で……」
 真鍋は口惜しげに呟いたが、やがてそれを振り切るように顔を上げた。
「まぁ、もう終わってしまったことだ。君にはもらい事故のようなもので、本当に申し訳なかったと思っているよ」
 あの日、市長室で緒方さんとは何の話をしたんだろうと思ったが、それは聞かないことにした。今は、彼の話を脱線させたくない。
 雨がまた少し激しくなる。真鍋は手にした傘を果歩の方に寄せた。   
「……僕が、……そう、君のこととなると、多少平静でいられないのには理由がある。君には話していなかったが、叔父の吉永はそれをよく知っていたから、8年経っても君をつけ狙おうとした。全ては、僕の心の弱さの問題だ」
 言葉を切り、真鍋は苦しそうに眉を寄せた。
 その時、果歩は初めて思っていた。
 真鍋さんの心にも、多分秘密の部屋がある。
 今日、彼はそれを開けようとしているのだ。
「君は、他の人より少しだけ特別で……、それは義母に対する僕の気持ちと無関係ではない。……今日は、それを話そうと思って君を呼んだ。僕もそろそろけじめをつけないといけない。そうでなければ、いつまでも前に進めない」


 *************************


「……私、本当のことを言うと、少しだけお話を伺っています。お義母様のこと」
 真鍋の運転する車の助手席で、果歩は思い切って口を開いた。
 灰色の街。土砂降りになった雨の中、2人が向かっているのは、かつて一緒に過ごした別荘だった。
 行き先を告げられた時は驚いたが、真鍋が、始まりの場所で終わらせようとしていることが、果歩にもよく分かっていた。
 互いがまとった緊張はまだ解けないままで、真鍋の態度も、穏やかではあるがどこかぎこちない。
「伺ったって、誰に?」
「……8年前、吉永さんに」
 てっきり不愉快な顔をされると思ったが、真鍋の表情は不思議と静かなままだった。
 ある意味8年間抱え続けた重荷を下ろせたことで、果歩は少しだけほっとしている。
「叔父はなんて? 察しはつくが、一応聞かせてくれないか」
「真鍋さんは、……後妻に入った今のお義母様が許せないんだというようなことを、聞かされたと思います」
「……義母と父が、元々不倫関係にあったことも?」
「聞いたと、思います」果歩は少し迷ってから言葉を継いだ。
「真鍋さんの本当のお母様が亡くなった理由も、お聞きしました。そういった様々な事情があって、光彩建設の中で、真鍋さん1人が孤立しているようなことも、聞いたと思います」
「……他には?」
「お義母様が、本当は真鍋さんの幸せを願っているとも、聞かされました。……私、一度だけ、真鍋麻子さんと直接お話したことがあるんですけど」
 果歩にとっては忘れようにも忘れられない、ホテルリッツロイヤルの立食パーティの席で。
「その時感じた印象からも、吉永さんの言っていたことは、本当なんだと思いました」
「……そう」
 静かに答え、真鍋はしばらく無言になった。彼の心中が分からないままに、果歩もそのまま口をつぐむ。
 雨がまた少し激しくなる。交差点で車を停止させた真鍋が、ようやく溜め込んだ感情を吐露するようなため息をついた。
「――8年前か」
 そして、ステアリングを軽く叩いた。
「君は本当に、俺に何も言わない人なんだな」
 ――え……?
 その苛立った口調に、果歩は驚いて真鍋を見上げた。
「つくづく、呆れた。感情を整理するのに、かなりの時間を要したよ。迂闊にも叔父と2人で再々会っていたのは知っていたが――」
「ちょ、ちょっと待ってください。もう8年も前の話ですよ」
「どう考えたって、すぐに俺に話すべきだった。大事なことだし、叔父の一方的な主張でもある。前から思っていたことだが、君は少し馬鹿じゃないのか? その時知っていたら、ある意味あっさり君を嫌いになれていたのかもしれないよ」
「…………」
 果歩は唖然として口を開けた。
 ずっと落ち着いた雰囲気だったし、今日は2人にとって特別な日だから大丈夫だと思っていたが――そう、真鍋はこういう人だった。
 穏やかな態度で人を安心させておいて、聞き出すだけ聞き出したら怒る。そういう人だ。
「そうですか、じゃあ気を遣わずに話しておけばよかったです」
「ああ、そうすべきだった」
「その時の私には、大人の真鍋さんとそういう話をするのに、とてつもない勇気がいったんですけど、そういったことは考慮してくださらないんですね」
「俺より7歳年上の叔父と話をしておいて、その理屈を通そうとするのが不思議だよ」
「……吉永さんと話すのに、勇気なんていらないですから」
 怒りをもてあましたまま、果歩は視線を窓の外に向けた。
「もういいです。やっぱり話すんじゃなかった」
 私から口火を切った方が、真鍋さんが話しやすくなると思ったのに――そんな風に気遣いをした自分が馬鹿みたいだ。
 車が再び走り出す。運転する真鍋が、微かに息を吐くのが分かった。 
「君はそれが嘘で、叔父が君を騙す可能性があることを、少しも認識できなかったのか」
「…………」
 顔をそむけたまま、果歩は小さく息をのんだ。
 当時の迂闊さが、結果的に真鍋と自分を困った立場に追い込んだことは知っている。
「……嘘、だったんですか」
「腹の立つことに、概ねで嘘ではないようだよ」
 怒ったように真鍋は言った。
「ただ、それで叔父が君の信頼を勝ち得たことが腹立たしくてたまらない。叔父は君と、俺に言えない秘密を共有しようとして成功させた。――つくづくその時、俺に話してくれていたらと思うよ」
「…………」
 果歩は、こくりと唾をのんだ。
 真鍋の怒りは理解できた。それは――でも……、やっぱり無理だったろうと思う。
「その時はまだ、……真鍋さんの気持ちも私の気持ちも、よくわかっていない時でしたから」
 真鍋もまた、わずかに黙る。「パーティの前か」
「はい」
「俺の気持ちは分からなかった?」
 その声が優しかったので、少しためらってから、果歩は前に向き直った。
「……あまり。というか全然」
「キスまでしたのに?」
 うつむいた自分の首筋に微かに血がのぼるのが分かった。
「……誰にでも、同じようなことをする人だと思っていたから」
 前を見たまま、真鍋が苦笑するのが分かった。
「違うと言いたいが、否定できないのが、辛いところだな」
「そこは嘘でも、否定するところじゃないですか」
 2人をとりまく空気が多少柔らかくなったのを感じる。
 また彼の罠かもしれないと思いながら、果歩は彼に気づかれないよう、そっと深呼吸をした。そう――今日はこんな風に、お互い素直な気持ちで話し合おうと思ってきたのだ。
「真鍋さんこそ、分からなかったですか」
「君の気持ち?」
「……そう。そういう駆け引きがお得意なんだと思ってました。これは、別に嫌味ではなく」
「断ってくれてよかったよ」真鍋は笑った。「僕も嫌味をお返しするところだった」
 果歩もつられるようにして微笑み、少しリラックスした気持ちでシートに背中を預ける。
「それで、どうだったんですか?」
「どうだろうな。……俺はあの時、君を落とすゲームに興じていたつもりで、自分一人が深みにはまっていったんだ。正直言えば、あまり冷静ではなかったかもしれない」
「……冷静ではなかったって?」
「君の気持ちを読む余裕がなかったということだよ。逆に興味深いな、一体いつから俺のことを好きになってくれたんだ?」
 ん……と、果歩は細い声をあげて言葉に窮した。それはすごく難しい質問だ。
 一目見たときから素敵だなと思ったし、ひそかに憧れを募らせていた。ただ、それを恋かと言われると、正直、よく分からない。
「……いつのまにか、かな」
「いつのまにか?」
「……ちょっと分からないですけど、……、でも、手帳を届けに行くときは、すごくうきうきしてました」
「へぇ」
 真鍋は驚いたように眉をあげた。
「意外だな。あの日は、俺が呼び止めてもさっさと帰ったくせに」
「は、恥ずかしかったんです。私、場違いな格好だったし、……なんとなく、秘書の人から牽制されたような気がして」
「…………」
 真鍋がそこで黙ったので、あ、その勘は当たりだなと思った。どういった関係だったのかは知りたくもないが、彼を訪ねてきた女性を牽制する程度の関係性はあったのだろう。
「結局は俺の自業自得か、……まぁ、文句も言えないな」
 彼は苦笑し、果歩は、話が元に戻ったことを察した。
 文句は言えない――それはきっと、果歩が吉永と会っていて、それを彼に打ち明けなかったことを指している。 
「それを、ご理解いただいてよかったです」
「ただ、それと君の迂闊さは、また別の問題だが――」
 なおも何かを言いかけた真鍋は、諦めたように口をつぐんだ。
「まぁいい。この話になると、俺は1日中君に説教してしまいそうだ」
「それも、ご理解いただけてよかったです」
 果歩は微笑し、真鍋の横顔も、どこか優しく微笑んだ。




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