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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(16)



 別荘に着く頃には雨は小降りになって、車が駐車した時には、すっかり上がっていた。
「少し歩こうか」
 真鍋に言われて車を降りた果歩は、周囲の景色の変わりように思わず眉をひそめていた。別荘に続く海岸沿いの目抜き通り。8年前、真鍋と2人でここを歩いたとき、周囲は土産物屋やカフェなど、可愛らしくてキラキラしたもので溢れていた。
 今は、閉鎖した店舗がうら寂しく並び、時代遅れの洋品店や弁当屋のチェーン店などが、ぽつりぽつりと店を開けている。
「……なんだか随分……、雰囲気が変わりましたね」
 思わずそんな感想を漏らすと、少し前を歩いていた真鍋が歩調を緩めた。
「もう別荘ブームも下火だし、この辺りも随分地価が下がったからね」
「そうなんですか?」
「君は市役所の人なのに、あまり市のことを知らないんだな」
 少し馬鹿にしたような口調だったのでむっとしたが、ずっと同じ局で庶務ばかりしていた果歩に、市政にさほど感心がなかったのも本当の話である。
「何年か前にひどい豪雨があって、別荘地の一角で土砂災害が起きたんだ。幸いけが人は出なかったが、この辺り一帯の地価が下がった。別荘も――うちを含め、もう無人の建物ばかりだよ」
 また小雨が振り出し始める。傘を開いた果歩は、真鍋の方にそれをかざした。
「ありがとう」
 真鍋が傘を受け取り、2人でひとつの傘に収まるようにして歩き始める。
「すみません。さすがに災害のことは覚えてましたけど、あまりここと――関連付けて考えてはいなかったです」
「それはそうだろう。君には一度しか来たことのない場所だ」
 真鍋はおかしそうに苦笑した。
「でも俺には、子供の頃からの思い出がある場所だからね。別荘は、いずれ手放すか解体するつもりだったけど、それでも心は痛んだよ」
 彼と自分の道が8年前から別れてしまったことが、改めて思い知らされるような言葉だった。
 この8年、果歩の関心事は少なくとも真鍋ではなかったし、真鍋にしてもそうだったはずだ。
 今、当時と同じ道を、同じように2人で歩いていても、互いの心に蓄積された思いは全く別のものなのだ。
「思い出すよ」
 しかし真鍋は、懐かしそうに続けた。
「君とここを歩いた時、僕は君のご機嫌をとりたくて、目についた可愛いものを片っ端から買ったような記憶がある。――本当は、君が困っているのも、少しだけ分かっていたんだ」
「えっ、私、困ってなんかなかったですよ」
「そうかな――」
「そうですよ。嬉しかったです。そんな風に見えてませんでした?」
 果歩は慌てて言い添えた。それだけは真鍋の勘違いだ。困った顔なんて絶対にしていない。
 確かに、付き合い始めたばかり人に、こんなに買ってもらっていいのかな、とは思ったけど。
「だったら僕の気の回しすぎかもしれないね」
 真鍋はあっさり、自分に持論を取り下げた。
「7歳も年下の君の思考は、僕にはいつも謎に満ちていて、あの時も、……正直言えば、どう振る舞っていいのかさっぱりだった。今思うと、滑稽なくらいだな」
 そうだろうか。言う気はないけど、私は、そんな真鍋さんの不器用さが愛おしかった。一生懸命私を喜ばせようとしてくれているのも分かっていたし、それに上手く答えられない自分がとてももどかしかった。
 それに、本音を言えば、あの時はまだ少し怖かった。
 この人と結ばれた後、自分がどうなるのか分からなかったから――
「実はあれ以来、僕は年下が駄目になった」
「ええっ?」
 果歩は意外さに目を見張った。そんなことって――、でも、そうだ。
「そういえば私も、……偶然ですけど、年下の人とばかり、付き合うようになりました」
 実際は、晃司と藤堂さんの2人しかいないけど。
「まぁ、僕も偶然だけどね」
 真鍋はおかしそうに笑った。「妻がそもそも、僕より3歳年上だ。――正直、君より、気が楽だったのかな、一緒にいて」
 また胸のどこかがズキリと痛んだ。けれどそれは、最初の痛みより随分軽い。
 果歩は目を閉じ、また無意識に自分の胸に手を当てた。
 大丈夫――きちんと向き合えば、この痛みは必ず消える。
 それまでに、どれだけ辛い思いをすることになっても、逃げずに現実に向き合おう。
「……奥様のこと、聞いてもいいですか」
 思い切って、果歩は言った。
 真鍋は前を見たまま、同意するように小さく頷く。しかしその横顔は、どこか辛そうにも見えた。
「……妻のことも、当然君に話さないといけないことのひとつだ。……彼女もまた、亡くなった義母と同様に、僕の幼少時代の登場人物の一人だからね」
 車に戻ろうか。そう言った真鍋が、元来た方に視線を戻した。
「本当は君に何かプレゼントして、ご機嫌をとるつもりだったんだ。でも、何もなかったね」
 そんなことを冗談めかして言われたが、真鍋は最初からこの道に何もないことを知っていて、あえて果歩を連れてきたような気がした。
    

 *************************


 別荘の周辺は思ったより綺麗だったが、庭の草木は綺麗に刈り取られ、白い鉄柵には人が入れないように鉄条網が張り巡らされていた。
「月に一度は、掃除をお願いしているからね」
 玄関の鍵を開けながら、真鍋が言った。
 そのエントランスも、昔は美しい薔薇の枝葉に囲まれていたが、そういったものは一切なくなり、ひどく無機質なものになっている。
 扉の格子窓にかかる蜘蛛の巣を、どこか寂しい気持ちで果歩は見つめた。
「それほどひどいことにはなっていないと思う。ただ、……まぁ、もう人が住めるような場所ではないよ」
 軋むような音を立て、果歩にとって、ある意味禁断の扉が開いた。
「どうぞ、玄関でスリッパに履き替えてくれ」
 自分の心音がひどく重たく感じられたし、前へ進もうとする足はどこか強張っている。
 大理石の三和土。清潔感があって広々としていたリビングキッチン。
 グレーのソファ、グリーンとイエローのクッション。
(新居に越してきたみたいだね)
(いつか本当にそうなればいいね。二階に荷物を運ぶよ)
 ここは、果歩が一番見たくない過去だった。
 彼と2人きりで夢のような楽しい時間を過ごし、初めて同じベッドで朝を迎えた。
 自分の人生に他人が刻みこまれる不思議を生まれて初めて知った夜。それは同時に、初めて異性の肉体を自分の身体に受け入れた夜でもある。
 その夜、たった一度だけ真鍋が見せてくれた眼差しや吐息、囁きは、その後何年も果歩を苛み、苦しめた。
 それは4年後に晃司と付き合い始めた時にも尾を引いて、すっかり忘れたはずの今年の3月にもまた現れた。
 はらってもはらってもつきまとう、まるで亡霊のような過去の幻影。今果歩は、その夜と同じ場所に立とうとしているのだ。
 しかし果歩は、入ってすぐに、部屋の雰囲気が大きく違っていることに気がついた。
 室内の全ての家具にビニールが被せられているが、壁紙も家具も、カーテンの色さえも、8年前とは全く違う。前はおしゃれで格好いい印象だったが、柔らかくて女性的な、優しい色味で統一されている。
「結婚してすぐに、妻をここに連れてきたんだ」
 果歩を見ないままに、真鍋が言った。
 果歩はさすがに、言葉を返すことができなかった。胸の奥深くて柔らかな場所が、鋭い刃で容赦なくえぐられていくのを感じる。
「8年も前のことだが、さすがに君も、……不愉快な気持ちになるだろうね。でもこの別荘は、妻にとっては、僕以上に思い入れのある場所だった。そういえば、僕の気持ちも分かってもらえるだろうか」
 強張った首を動かし、果歩はかろうじて頷いた。うまく笑えているかどうか自信がなかったが、今は、落ち着いた気持ちで彼の話を最後まで聞きたいと思っていた。
 真鍋は、ソファを覆うビニールのカバーを取り外した。
 その下から、色褪せてはいるが、上品なアイボリーの、座り心地の良さそうなソファが現れる。
「座らないか」
 果歩は微笑んだが、足は動かなかった。彼が妻のためにあつらえた椅子に、今、彼と2人で座ることに、気まずさ以上の残酷さを感じている。
「昔のことを、君がどこまで覚えているかどうかは知らないが」
 真鍋はソファに腰を下ろすと、立ったままの果歩を見上げた。
「部屋の内装を変えてくれたのは妻なんだ。この部屋だけじゃない、2階も全て、昔とは赴きが違っている」
「……奥様が」
 うん、と真鍋は果歩から目を逸らして頷いた。「でも、完成した部屋を、見ることはできなかったけどね」
「…………」
「君が気にしているのなら……、また僕が気を回しすぎているだけかもしれないが、……君をここに連れてきたことを、妻は気にしないと思う。どう言えば理解してもらえるか分からないが、……まず遡って、彼女との出会いを話すべきなんだろうが――」
 真鍋の眉根に、どこか苦しげな縦じわが寄った。
 しかし、すぐに目に優しさを戻して果歩を見上げる。
「無神経だったかな」
「……いえ」
 いったんは否定しようとしたものの、しばらく迷ってから果歩はうなずいた。
「無神経、だったと思います」
「そうだね」
 真鍋は苦笑して立ち上がり、閉めていた窓を開け放った。
「何か、飲み物くらい買ってくればよかったね」
「もうお昼になるし、いったん外に出て、食事にします?」
 正直言えば、もうこの家の中にいたくなかった。それが現実逃避だと分かっていても、できれば外で話がしたい。  
「電気はまだ通っているから……、地下のワインセーラーを見てくるよ。まだ何本か残っているかもしれない」
「お酒はさすがにまずくないですか」
「問題ないよ。帰りは別々だ」
 果歩は言葉をのみ、真鍋は階段に向かって歩き出した。
「その間、家の中を見て回るといいよ。もっとも全ての部屋がここと同じように、家具に埃除けが掛けてあるけどね」
「……なんで、今さら?」
 少し皮肉な気持ちで果歩は言った。
 泊まるわけでもなく、そもそも来客を迎えるような雰囲気でもないのに、なんの意味があって、部屋を見て回る必要があるのだろう。
「退屈だろうと思って」
 足を止めて、真鍋は微笑した。
「もうこの家に、昔の面影はどこにもない。以前……君に入って欲しくない部屋があったのを覚えているかな」
 覚えている。白とベビーピンクで統一されたアンティークで乙女な部屋。
 そこに真鍋と、彼の母親の写真があって――もう一枚、幼少時の彼と笑い合っている女性の写真が飾られていた。
「もう、そんな部屋はこの家のどこにもない。だから、どの部屋も自由に見てもらって大丈夫だよ」


 *************************


 真鍋が地下に消えた後、しばらく石のように固まっていた果歩だったが、やがて勇気を振り絞るようにして歩き出した。
 さっきの反応は、私が完全に間違っていた。真鍋が無神経なのは間違いないにしても、彼は私がどんな思いで別れた後の数年を過ごしたのかを知らないのだから、仕方がない。 この家で過ごした2日間は、もう彼にとっては過去のことで、それは私にも、……そうでなければならないのだ。
 それでもおそるおそる階段を上がった果歩は、壁紙の明るさや、そこに飾られた絵画の優しさに、目を留めずにはいられなかった。
 8年前、2階には使われていない客室が何部屋かあったはずで、その一つが果歩に用意されていた。
 どこか怖いような気持ちで、最初の扉を開けた果歩の視界に、やはり温かな色彩が流れ込んでくる。
 柔らかなパステルで統一されたシンプルな部屋は、家具にカバーこそかけてあるが、それを取ってしまえば、今すぐ客室して利用できそうだった。
 壁紙、カーテン、家具の色合いと天井の装飾。どの部屋も、作り手の優しさが滲み出るような温かみが溢れている。   
 ――真鍋さんの奥様……、とても優しい人だったんだな。
 辛い現実に傷ついた心が、少しずつ癒やされていくような気持ちで、果歩は素直にそう思っていた。
 政治家の娘だというから、勝手に高飛車な人を想像していた。繊細な真鍋が辛い目にあっているのではないかと、余計な心配をしていた自分が馬鹿みたいだ。
 御藤は、結婚生活が不幸だったというようなこと言っていたが、真鍋が、亡き妻を大切に思っていたことは、彼の言動や態度からもよく分かる。
 完成をみることなく亡くなったという彼の妻は、一体どういう思いで、この別荘を改装しようと思ったのだろうか。――
 かつて書棚で埋められていた部屋には、やはり本棚が並べられていたが、そこに本は一冊も収められていなかった。代わりに小さなテーブルと可愛らしい椅子が何脚か置いてあって、まるで、子供向けの小さな図書館のようにも見えた。
 それを、家族の――生まれてくる子供のために用意していたのだとしたら、あまりにも残酷すぎる。
 部屋を見て回るのが、別の意味で辛くなってきた果歩は、最後の勇気を振り絞って、真鍋の――彼がかつて隠そうとした秘密の部屋の扉を開けた。
「えっ……」
 思わず声が出てしまったのは、そこには何もなかったからだ。
 家具は何ひとつない。変わりに鮮やかな空色の壁紙と、そこに描かれた白い雲と太陽が、立ちすくむ果歩を見下ろしている。
「驚いた?」
 背後で真鍋の声がして、果歩はびくっと肩を震わせた。
 振り返ると、扉に手をかけた真鍋が、穏やかに微笑して立っていた。
「この部屋に入ると、不思議に笑い出したい気持ちになる。改装後、実は僕も、なかなか家に足を向けることができなくてね」
 彼はその笑顔のまま、室内に視線を巡らせた。
「何年か経って、思い切って……多分今の君と同じように、おそるおそる扉を開けたよ。見た瞬間、彼女らしくてびっくりした。――その時、何年かぶりに笑ったかな」
 自分の中で、寂しい気持ちと、温かな気持ちがないまぜになっている。
 その時、果歩はようやく気がついていた。
 ――私が、この人と一緒になったらやってあげたかったことを、この人の奥さんがやってくれたんだな。
 この家は、真鍋にとってはある種の呪いだ、何があったのか果歩には想像もつかないが、ここに、彼がひどく辛い思い出を閉じ込めてしまったことだけは分かっている。
 亡くなられた彼の奥様は、多分、私より深く彼の過去を知り、彼の苦しみも理解していたのだろう。
 ――悔しいけど、私は、負けてしまったんだろうな。
 真鍋自身も言っていたように、私より、その人と一緒にいた方が気持ちが安らげたのかもしれない。
 どれだけ背伸びをしたところで、22歳だったあの頃の果歩に、真鍋の全部を理解して癒やすことなど、とてもできたはずがない。
 だから彼も、最後まで自分が抱えているものを打ち明けようとしなかったのだ。
「……奥様の名前、なんて言われましたっけ」
 ようやく果歩は、本当に彼の妻のことが知りたいと思っていた。
 

 *************************
 
 
「最初にひとつ、君に打ち明けなければいけないことがある」
 1階に戻ると、どこか苦しそうな口調で真鍋はそう切り出した。
 ようやく素直な気持ちで、ソファに腰を下ろした果歩の前には、グラスに入った白ワインが置かれている。さすがに空きっ腹で飲む気にはなれなかったが、緊張を解すために、一口だけ口をつけた。
「……実は僕には、5歳より前の記憶がない。うっすらとは覚えているんだが、思い出そうとすると灰色の靄に覆われて、何も見えなくなってしまう」
 思いがけない告白に、果歩は驚いて目をみはった。
「……そういう時、僕はとても不安で、……息苦しくて、怖くて、何も考えられなくなってしまう。フラッシュバックのように蘇る景色の中に、必ずあの部屋がある。――今は空色になった、ピンク色のあの部屋だ。……そして、いつも考えることを放棄する。恐怖に心が負けてしまうんだ」
 果歩は眉を寄せて、隣に座る真鍋を見上げた。
「……今も、そうなんですか」
「正直に言えば、そうだ」
 彼は、気持ちを落ち着かせるように、グラスのワインを一口あおった。
「ただ以前よりは、自分を上手くコントロールできるようになった。いや、……それもあるが、灰色の景色の向こうを僕はもう見てしまったんだ。だから、そこにあるものを恐れて、不安に思うことはない」
 そして、言葉を切ってこう続けた。
「的場さん、……妻は、その景色の向こうにいた人なんだ」
「…………」
「だから、彼女と出会った時のことを、僕はあまりはっきりとは覚えていない。正直言えば、こんな話を今さら君にしたくもなかった。ただ……妻と僕、そして義母との関係性を正確に知ってもらうには、そう……この話を避けて通ることはできなかった」
 思わず真鍋の手を取りたい衝動に駆られたが、それをのみ込み、果歩はそっと彼を見上げた。
「その景色の向こうには、何があったんですか」
「…………」
 しばらく気持ちを落ち着かせるように、真鍋は呼吸を繰り返していた。
「僕が7歳の時に、母が自殺したという話は聞いたね」
「……聞きました」
「僕は、母に……ひどい虐待を受けていた」
 振り絞るような声だった。
「ネグレストが虐待だというなら、毎日がそうだったし、母は僕が何か……そう、些細な失敗をしたら、必ず僕を浴槽に引っ張っていって、気を失うまで顔を水に押しつけるんだ」
 言葉を切って真鍋は両手で顔を覆った。その指が微かに震えている。
「苦しくて、怖くて、頭の中が灼けそうになる。泣いて謝っても、母は絶対に許してくれない。気を失う間際、色んな色彩が頭に浮かんで、最後はそれが灰色になる。――それが、灰色の靄の正体だ」




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