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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(17)



 果歩は言葉が出てこなかった。
 あまりに重すぎて、あまりに衝撃的な真鍋の過去に、すぐには気持ちが追いつかなかった。
 ただ、8年前、彼が時々、ひどくぼんやりしていた理由がようやく分かったような気がした。
 彼がふっと遠くを見つめ、心ごと静止してしまうような瞬間を、あの日、果歩は何度も見た。しばらくして我に返った真鍋はひどく辛そうで、しばらく声をかけるのさえためらわれるほどだった。
 あの時も彼は、何かの弾みで蘇りかけた記憶に、のみ込まれそうになっていたのだ。
「妻とは……しほりとは、おそらくその頃、この別荘で初めて顔を合わせた」
 しかし顔を上げた真鍋は、気持ちが落ち着いたのか、最初の冷静さ取り戻していた。
「僕が5歳なら、彼女は8歳くらいだったのかな。以前この別荘で、母の友人や役員の子供たちを集めて、キャンプのようなことをしていたと話したね」
 果歩は小さく頷いた。つまりそこに、彼の妻――芹沢しほりもいたのだろう。
「当時から彼女は身体が弱くて、……いつも木陰で車椅子に乗って、付き添いの医師と一緒に僕らが遊ぶのを見つめていた。当時は僕も、内向的な上に、あまり身体が丈夫ではなかったからね。彼女と一緒に折り紙を折ったり、本を読んだりしていたらしい。それは結婚後に、彼女から聞かされた話だが」
 彼の声に時折滲む優しさが、果歩の胸を締め付ける。
「知らずに見合いした相手がその時の彼女だったと分かった時、すぐに思い出したのが、彼女がいつも僕を可哀想と言ってくれていたことだ。――泣きながら僕を抱き締めて、何度も優しく頭を撫でてくれた。可哀想、可哀想な雄さん。――今も、その時の彼女の声が耳に残っているよ」
「……どういう、意味なんですか」
「別荘から滅多に外に出なかった彼女は、……きっと、見ていたんだろうと思う。あの部屋で、僕が母に、……そう、ひどい暴力を受けていたのを」
「…………」
「僕がそれを忘れたように――実際は本当に忘れていたんだが、そんなことは何もなかったように生きていることを、彼女は何年も気がかりに思ってくれていたようだった。うまく言えないんだが、彼女の僕に対する気持ちは、本当に姉のような……肉親のような、温かなものだったと思う」
 果歩は小さく頷いた。
 胸が切り裂かれそうなほど辛い彼の過去に、そんな人がいてくれたことが、心の底からよかったと思っていた。
「僕との見合いも決して彼女の意思ではなく、彼女の主治医が、余命や……病気の進行などを慮って勧めてくれたことらしい。ただ束の間でも婚約者のように振る舞ってもらえればそれでよかったと、後で主治医の先生に打ち明けられたよ」
「……それでも、結婚することにしたんですね」
「……うん。僕が、そうしたいと思った」
 少しためらった後に真鍋はそう言い、果歩は、もうその言葉に傷ついていない自分を感じた。
「彼女がそう長く生きられないことも承知していたよ。そこに同情がなかったかと言えば嘘になるが、――以前、君にしおりを見られたことがあっただろう?」
「……四つ葉のクローバー?」
「そう。葉っぱを二つに割いてくれたのも、実は彼女だったんだ」
 果歩は黙って頷いた。
 母親のために、一生懸命四つ葉のクローバーを探していた幼い真鍋が愛おしかった。でも、彼の一番切なくて美しい思い出の中には、最初からしほりさんがいたのだ。
「……運命とでもいうのかな。そんなセンチメンタルな感傷とは無縁な人生だと思っていたが、あのしおりは、色んな意味で僕には大切な思い出だったからね。――もちろん当時、会社の経営状態が思わしくなかったこともある。色々な状況を勘案して、……彼女と結婚するのが一番いいだろうと……、そう思った」
「……話してくれたらよかったのに」
 少しの間黙ってから、果歩は言った。そしてグラスを持ち上げて、少しだけ多めにワインを飲んだ。
「今となっては、それだけがちょっと……腹立たしいです」
「それは素直に謝るよ」
「謝るよは、謝った内に入らないって知ってました?」
 真鍋が何か言う前に、顔をあげて果歩は首を横に振った。
「もういいです。もういい。話してくれて、本当にありがとうございました」
 無理矢理引き裂かれたんじゃないだろうかとか、心の病気のせいだったのかとか、理由を悶々と考えて、別れが納得できないまま、長い間未練と後悔に縛られていた
 最初から、自分ではなくその人を選んだのだと、――そこに打算があったとしても、そう男らしく説明してくれていれば、たった一回の失恋を、こんなにも長くこじらせることはなかったかもしれない。
 それは、やっぱり少し腹立たしい。
 それでも、どこかすっきりした気持ちで、果歩は真鍋を見上げていた。 
「……で? そこまで私をズバズバ傷つけておいて、今さら未練があるとか、そういう話をするつもりはないですよね」
「実はするつもりだったんだ。しまった、順番を間違えたな」
 軽く返してくれた真鍋も、今はすっきりした顔で微笑している。
「……でもここからが本題だ。君が、俺にとって、……そう、それでも少しばかり特別な存在だった理由だが」
「……はい」
 もう何がでてきても大丈夫だと思ったが、それでも果歩は少しだけ緊張していた。  


 *************************


「さっきも言ったが、僕には5歳より以前の記憶がない。――前後の記憶も曖昧だから理由は定かではないが、6歳の時、随分長い間学校を休んでいたようでね。おそらくだがその頃、生死に関わる何かがあったんだと思う」
「……生死に関わることって?」
「だから分からない。でもその頃に家から母がいなくなったから、何かしらの事件が起きて、母が僕にしていることが父の耳に入ったのではないかと思う」
 二杯目のワインをグラスに注ぎ、真鍋は落ち着いた口調で話し始めた。
「以来、僕の傍には義母が――まだ光彩建設で父の秘書をしていた麻子さんがついてくれるようになった。……明るくて気性がさっぱりして、ユーモアもあって、……僕は彼女が大好きだったんだ」
 意外な言葉に、果歩は思わず目を見張った。
 真鍋はてっきり、真鍋麻子を嫌っているものだとばかり思っていたからだ。
「まるで僕を守るように――実際、母から僕を守っていてくれたんだが――麻子さんは、昼も夜も、ずっと僕の傍にいてくれた。僕は彼女がいないと何もできないという有様だったから、当時は心にも身体にも、かなりのダメージを負っていたんだと思う」
 それほどのダメージとは何だったんだろうと思ったが、それは真鍋が記憶の底にしまいこんでいる出来事だ。もう思い出すこともないだろうし、思い出したとしても、彼を余計に傷つけるだけだろう。
「初恋というにはあまりにも年が離れすぎているが、そう……僕はこの人に、ずっと傍にいて欲しいと思っていたし、実際そうなるものだと信じていたよ。ボロクズのように捨てられた犬が、新しい飼い主に可愛がられたようなものだ。僕は彼女にすっかり依存して、彼女がいないと生きていけないというくらい、彼女にべったりくっついていた。それが6歳から、母が自殺した7歳の終わり頃までだ」
 平静を保っているように見えても、真鍋の額には薄く汗が浮いていた。彼が、さきほどしほりのことを打ち明けた時よりなお緊張していることが分かり、果歩も少し不安になる。
「その当時……今でも公にはされていないが……母は施設に入っていた。病気だと聞かされていたが、実際は違った。自宅では母の代わりに麻子さんが家事の一切を取り仕切るようになり、7歳のキャンプも、母ではなく麻子さんが主催した。――分かるだろう? その時、僕の知らないところで何が進行していたのか」
 果歩は黙って頷いた。それは後日、麻子が真鍋家の後妻に収まった事実が、何より雄弁に物語っている。
「そういう意味では、麻子さんはあの頃からとてもやり手の人だったんだろうね。父と一緒に会社を大きくさせただけはある。精神的にもタフで、間違いなく父より心の強い人だった。……とはいえ、そんな風に俯瞰して彼女のことを考えられるようになったのは、ここ数年の話だが」
 真鍋は言葉を切って、グラスのワインを飲み干した。
「飲み過ぎじゃないですか」
「大丈夫、このくらいじゃ、全く酔えないんだ」
 思わず口を挟んだ果歩の前で、真鍋はグラスに再びワインを継ぎ足した。実際彼の顔色は青白く、少しも酔っている風ではなかった。
「この家に、最後に子供たちが呼び集められた夜……、僕は意識的に記憶から排除していたが、初めて父が参加した。さきほど四つ葉のクローバーの話をしたが、それを探したのは母のためではなく、麻子さんのためだった。でも喜び勇んで持ち帰ってみれば、君にも話したように三つ葉でね。……僕があまりにしょげてしたので、それをしほりさんが、四つに切り割けてくれたんだ」
 彼の双眸に一瞬優しさのようなものが掠めたが、それはすぐに強い緊張に上書きされる。
「僕はそれを持って……、麻子さんの部屋に行った。彼女は自宅でも別荘でも、当然のように母の部屋を使っていてね。母の写真立てから僕と母の写真を抜き取り、代わりに僕と自分の写真を入れるほど業腹な人だった。ある意味凄まじいまでの女同士の戦いだ。――もちろん当時の僕に、そんなことまで知るよしはなかったが」
「……それで」
 思わず先を促した果歩に、真鍋はしばらく何も答えようとしなかった。
「……その夜は父も別荘にいた。それで察してくれないか」
「…………」
「ショックだったよ。ショックというより、目に見えるもの全部が反転したような気持ちだった。それでも自分の目で見たものが信じられず、僕は……懸命に、あれは何かの間違いで、夢でもみたんだと思い込もうとした。そう思い込むことで、様々な疑惑から目をつむって、麻子さんを信じようとしていたんだろうね」
 一気にそこまで言うと、真鍋はうなだれ、自分の髪に指を差し入れた。
「母が施設で病死したと知らされたのは、それからしばらくしてのことだ。――そう、その時の僕には、母の死は病死としか知らされていなかった。それが自殺で――しかも、世田谷の、すでに麻子さんのものになっていた自分の部屋で遺体が見つかったと知ったのは、10歳になった時だ。同時にもうひとつ、衝撃的な事実も知った。母は病気などではなく、強制的に措置入院させられていたんだ」
「…………」
 措置入院とは、果歩も詳しくは知らないが、精神の病などにかかった人を、自治体が強制的に入院させることだ。
「……実際、母は心を病んでいたんだと思うが、それが措置入院が必要なレベルだったのかといえば、僕には知るよしもない。――いずれにせよ、10歳だった僕は、その事実を教えてくれた人の言葉を全面的に信じてしまった。以降、僕は父と麻子さんに対して心の一切を閉ざした。……そう、話し合いの土壌にすら、立とうとはしなかった」
 真鍋は顔を上げ、自分を落ち着かせるように深呼吸をした。
「僕はまだ子供だったから、一方的に麻子さんを悪者にすることで、心の決着をつけたんだと思う。母に虐待されていたことも、それを麻子さんが庇ってくれていたことも、全部、その時の僕は忘れてしまっていた。俯瞰的にみれば、麻子さんと母の間に起きたことは、どちらかが一方的に悪いという話ではなかったはずだ。……男と女のことだからね。母も母で……相当ひどいことをしていたんだと思う、……麻子さんに、対して」
「……それでも、真鍋さんが責任を感じることじゃないですよね」
 最後のくだりで、真鍋があまりに辛そうだったから、果歩はつい、彼の腕に手を添えていた。
「だって真鍋さんは被害者じゃないですか。悪いことなんか何もしていないじゃないですか」
「……そうだね、それは、よく分かっている」
 真鍋は笑ったが、それはどこか力ない笑みだった。 
「……僕の中で、女性に対する病的な嫌悪が始まったのは、その時だ。この世でもっとも大好きだった人が、母を殺したと思い込んでしまった時。ただその憎悪は、裏を返せば、麻子さんに対する僕の執着だったようにも思う。……僕は……多分、どこまでも彼女に愛されたかったんだ。男としてではなく……人間として」
 果歩は黙って、真鍋の腕に置いた手に力を込めた。
 彼は少しだけ顔を上げると、果歩の手に自分の手を添えて、それをそっと引き離した。
「君を市役所で初めて見たとき、――今まで落としてきた女性とは明らかにタイプが異なるのに、僕は一目で君が欲しいと思った。それは恋でも愛でもなかったが、僕は最初から君に執着し、自分のものにしたいと思っていたんだ」
「…………」
「僕自身が全く気がつかなかったその理由を、ある時叔父に指摘された。君は、昔の麻子さんに似ているんだ。もう僕の記憶の中にしかない、僕が一番大好きだった頃の麻子さんだ。……ショックだったよ。すっかり忘れていたと思っていた過去に、知らず知らずの内に引き込まれていたんだから」
 驚きを通り越した感情の中で、果歩はただ眉を寄せた。私が、麻子さんに。
「白状すれば、それを知ってしまったことも、君から離れたいと思った理由のひとつかもしれない」
「…………」
「僕自身の心の問題で、君には、……到底納得できないかもしれないが」
 真鍋麻子の若い頃の写真は、遺影にも使われていたし、この別荘にも置いてあったが、自分に似ているとは思ったこともない。彼と吉永が感覚的にそう思ったのかもしれないが、2人が同時にそう感じたということは、実際、表情や雰囲気に似通ったものがあったのだろう。
 ――そういうことか……。
 少し寂しいような、複雑な気持ちで果歩は自分の膝に視線を落とした。
 真鍋は話す順番を間違えたと言っていたが、最初にしほりさんの話を聞いていて正解だった。もし今のが、2人が別れた理由だとしたら、確かに納得などできなかっただろう。
「僕は今では、麻子さんに対して強烈な罪悪感を覚えているし、最後まで謝ることができなかった後悔もある。……何度も訪ねていこうとしたよ。でもできなかった。……怖かったんだ」
「怖い……?」
 それには答えず、真鍋は唇を引き結んで顔をあげた。
「君を見ると、冷静でいられないのはそういうわけだ。僕の、麻子さんに対する後悔や罪悪感。どこかでまだ引きずっている裏切られたという思い。――その裏返しの感情が、彼女に愛されたかったという僕の切なる願望だ。……僕が君を……どうしても放っておけなかったのは、昔も今も、君に麻子さんの面影を見ていたからなんだ」
「…………」
「叔父は、僕のそういう弱さをよく分かっていたんだと思う」
 果歩は黙って、グラスの中身を全部飲み干した。
 こういう時にポテトチップスのうま塩味があれば……と思ったが、もちろんそんなものがあるはずもない。
 そっか。
 そういうことだったのか。
 なんで真鍋さんみたいな人が、取り立てて美人でもない平凡な私を――とはずっと思っていたし、8年経ってもなお気にかけてくれることを疑問に思っていたけれど、そういう事情があったのか。
 彼は、最初から私を通して別の誰かを見ていたのだ。――なんとまぁ、それが私の心を8年間奪い続けた初めての恋愛の正体だったか。
 返してくれないかな、マジで。
 ま、それは冗談だけど……。
 今日、真鍋の口から語られた真実は、果歩には相当ほろ苦いものだった。
 もしかしたら、少し期待していたのかもしれない。
 今でも好きだとか、ずっと好きだったとか――そんな、ドラマチックな展開を。
 そうなったらなったで、今度は自分が地獄に落ちていたような気がするけれど。
 それでも今、自分がひどく冷静でいられることに、果歩はどこかで安堵していた。
「……今でも、似てると思いますか」
 2杯目を自分のグラスに注ぎながら、果歩は肩の力を抜いて真鍋を見上げた。
 見下ろす真鍋の目も、心なしか緊張を解いているように見える。
「どうかな。……何もかも話してすっきりしたせいもあると思うが、今はあまり、そんな風には思わないよ」
「だったらよかった」
 多分それは、真鍋の心の中の幻影だ。
 果歩がこの8年間、真鍋を忘れられずに苦しんで――実際に顔を会わせてそれが楽になったように、彼もまた、自分の中に果歩のイメージを作り続けて、現実から目を背けていたのかもしれない。
「でも念には念を入れて、明日からちょっとメイクを変えてみようかな」
「そういう割り切りの速さはよく似ているよ」
「……、だったら明日から、優柔不断な女になろうかな」
 真鍋の横顔がようやく微かな笑いを見せた。
「そういう、ああいえばこういうところもよく似ている」
「じゃ、無口になります」
「無理だと思うが、やってみたらいいよ」
 楽しそうに笑いを堪えている彼の横顔を見て、果歩も少しだけ嬉しくなった。
 今日彼は、すごく辛い話を沢山してくれた。
 私にも辛かったけど、この人にはもっと辛かったはずだ。そして私は――気持ちの整理がついたような気がするけど、この人は、大丈夫なんだろうか。
「……昔、……女性を本気で好きになれないって、言われてましたけど」
「うん、それが?」
「今でも、それは変わっていないんですか?」
「…………」
 真鍋は黙って、手元のグラスを唇につけた。
「……どうだろうな」
 それからしばらく沈黙があって、果歩の方が、その沈黙に耐えきれなくなる。けれど話題を変えようとした時、ようやく回答を思いついたように、真鍋が口を開いた。
「妻が亡くなって……その一周忌の時」
「…………」
「僕は、もう二度と結婚はしないと誓ったんだ。そういう意味では、この先も、女性を本気で好きになることはないと思うよ」
 8年も経ったのに……?
 その言葉は、さすがに残酷すぎて口にすることはできなかった。果歩はまだ結婚したことがないし、愛する人との死別も経験したことがない。それは――そこに関してだけは、口の挟みようがない。
 それでも果歩は、真鍋にいつか、幸せになって欲しいと思っていた。
 もし自分に今、好きな人がいなかったら、自分が彼を幸せにしてあげたいと思っていたかもしれない。8年前と同じように、辛いだけの日々が待っていたとしても。
「まぁ、でも、色々話せて楽になったかな」
 真鍋は晴れ晴れとした顔を上げた。
「義母のことは、今まで一度も口にしたことがない。自分の中では、永遠に整理のつかない問題だった。でも、こうやって感情を言葉にして人に伝えるだけで、随分と気持ちが落ち着くものだね」
「……私……、聞くだけで、お役に立てることは、何も」
「そんなもの、最初から期待してはいないよ」
 苦笑すると「よかったよ」と呟いて真鍋は立ち上がった。
「最後に君にこの家に来てもらえて。実は来月には、家を取り壊す予定になっているんだ」
「……え?」
「買い手もつかないし、維持費だけがかかるからね。ずっと未練を引きずってきたが、そろそろ……けじめをつけないといけない時だ」
 果歩は、なんとも言えない気持ちで、もう何年も人が出入りしていないであろう室内を見回した。寂しさと切なさと、若くして亡くなった彼の妻の憐れさが胸に募ってくる。
「私にお金があったら買い取るのに」
「維持費だけでも相当だよ。――ああ、でも瑛士なら買えるかもな」
 不意打ちのように藤堂の名前が出てきたので、果歩は表情を繕うことも忘れていた。
 動揺する果歩を見下ろし、真鍋はわずかに苦笑する。
「まぁ、売らないけどね」
「……すみません。深い意味があって、言ったわけじゃないんです」
「分かってるよ。また雨が降ってきたね」
 室内が昏く翳り始めている。屋根を叩く雨音が、次第に強くなりはじめる。
 この家で、まだ唯一見ていない部屋があることを、果歩は意識の底で理解していた。その部屋だけは、多分どれだけ勧められても、見られないし、見たくはない。
 このリビングの隣にある、真鍋と2人で初めての夜を過ごした部屋だ。
「片倉を呼ぼう。そろそろ帰った方がいい」
 真鍋がそう言って携帯を取り上げる。果歩は腕時計を見た。往路にかかった時間を考えると、確かにそろそろ帰らなければまずい時間だ。
「真鍋さんは……、どうやって帰るんですか?」
「酔いを覚ましてから、車で帰るよ」
 果歩はテーブルに視線を向けた。ワインボトルは、もう殆ど空になっている。
「かなり、待たないといけないんじゃないですか」
「そうだね」
 そこで片倉と電話が繋がったのか、真鍋は果歩に背を向けた。
「ああ俺だ。今すぐ彼女を迎えに来てくれないか」
 電話を切った真鍋は、市長室で見せる顔になって果歩を振り返った。
「仕事を持ってきているから、ついでにここでやって帰るよ。じゃあ気をつけて、的場さん」


 *************************


 玄関に出ると、もう片倉が扉を開けて待っていた。
 外は大粒の雨が間断なく降っている。「どうぞ」と差し出された傘を受け取って、果歩は灰色にけぶる戸外に出た。それでも頭の中は、まだ真鍋のことを考えている。
 仕事があるなんて絶対に嘘だ。結構飲んでたし……、この時間から休んで帰るって、一帯何時まで、こんな寂しい場所に残るつもりなんだろう。
「車はすぐそこです。足下が悪いので気をつけて」
「あ、はい」
 今だって、きっと護衛の人がどこかで彼を守っているんだろうし、その気になれば、運転手はいくらでもいるはずなのに。
 なのに、なんで――
 今日彼は、彼自身にとって辛い話を沢山してくれた。
 きっと口にした以上に多くを思い出したはずだ。だから、1人になりたいのかもしれないし、その気持ちは判らなくはないけれど――     
 片倉が開けてくれた後部座席に乗り込んだ時、ふと先日、二宮夫妻と食事をした時の、真鍋の変化が思い出された。
 会話が麻子のことになった時、彼の心は一時現実を離れ、彼のいうところの灰色の世界に行ってしまっていた。その刹那、彼がとても辛そうだったのを、果歩はよく覚えている。
(そういう時、僕はとても不安で、……息苦しくて、怖くて、何も考えられなくなってしまう。フラッシュバックのように蘇る景色の中に、必ずあの部屋がある。――今は空色になった、ピンク色のあの部屋だ。……そして、いつも考えることを放棄する。恐怖に心が負けてしまうんだ)
「…………」
 真鍋さんのああいうところは、まだ、昔のままなんだ。
 私と話して気持ちが楽になったと言っていたけれど、苦しかった過去の何もかもを整理できたわけじゃない。
「片倉さん」
 車が走り出した直後、果歩は思わず声を上げていた。
「私、忘れ物をして――、すみません、もう一度戻ってもらってもいいですか」




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