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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉 -藤堂side-(19)



 瑛士君、人を好きになるのって、心に棘が刺さったようなものよ。
 それはね、心のすごく深い場所にあるから、自分の力じゃ絶対に抜けないの。
 それを抜くためには――
 
 
 その続きはなんだったろう。
 不思議だな。記憶力はいいはずなのに、その先がどうしても思い出せない。

 
 *************************


「あ、それ、確認しておいてもらえます? 私は今別の仕事をやってるので」
 パソコン画面に視線を向けていた藤堂は、その声で顔をあげた。
 5月中旬――新体制になった都市計画局総務課。
 席の配置も代わり、正面を向く藤堂のデスク前には、2人の主査――大河内と入江耀子の机が向かい合って並んでいる。その大河内の隣には新人の笹岡が。耀子の隣には臨時職員の女性が並ぶという配置だ。
 その入江耀子のデスクの前に、大河内主査が立っている。立ったままの主査に、パソコンから顔もあげずに耀子が続けた。
「あと、申し訳ないんですけど、引き継ぎの書類が分かりにくくて。何件か私ではできかねる案件があるので、それ、メールしておきますね」
 上品なグレーのスーツはモスキーノ。細い喉元を飾るディオールのネックレス。
 さりげないが、公務員の給料ではとてもまかなえない衣服に身を包んだ耀子は、市税を支える三輪自動車の会長を祖父に、現社長を父に持つ、灰谷市生粋のサラブレッドである。それだけでなく、公務員としての身分自体も特別だ。
 本省霞ヶ関、国土交通省からの人事派遣。彼女が25歳の若さで主査――部下のつかない係長級についているのはそのせいである。
「分かりました。じゃ、私がやっておきますよ」
 その耀子に、淡々と答える大河内。もう諦めきっているのか、耐えることに耐性ができているのか、穏やかな表情のままである。
 しかし、そこでやめればいいのに、耀子は鼻で笑ってから大河内を見上げた。
「私がやっておきますって、もともとそれ、主査の仕事ですよね。いかにも代わりにやりますって言い方、不愉快なんですけど」
「ああ、それは失礼しました」
 笹岡は気まずげにうつむいているし、隣の係でも水原がちらっちらっと藤堂を見ている。「何やってんですか、何か言ってやってくださいよ」という目だ。
 しかし、会話に入るタイミングをみはからって大河内主査を見上げたものの、大河内の方が、藤堂と目が合うのを避けるように視線を下げる。
 ――まいったなぁ……。
 さすがにため息をもらした藤堂の前で、自席に戻った大河内が飄々とした顔でパソコンに向き直った。ややあってその大河内から藤堂にメールが届く。
『私なら平気なんで、気にしないでください』
「…………」
 いくらなんでも、そういうわけにはいかないだろう。
「大河内主査」
 藤堂は立ち上がり、なんでもないことのように大河内に声をかけた。
「今、少しいいですか、来月の会議のことで、相談したいことがあるのですが」
「すみません。できたら後回しでお願いできますか。ちょっと手が離せないので」
 穏やかだがとりつくしまもない返答に、なおも言葉を続けようとしたところへ、
「藤堂君、ちょっと来てくれ」
 と、局長室から顔をのぞかせた春日の声がする。
「すぐ行きます」
 春日に言葉を返した藤堂は、改めて大河内に向き直った。
「じゃ、夕方にでも、時間がとれた時に」
 うなずいたものの、大河内の目は伏せられたままで、あからさまに「ほっといてください」オーラを出している。その時、入江耀子がすっくと立ち上がった。
「係長、私、これから県庁にいってきていいですか」
「……県庁?」
「ええ。新しく国から来られた都市計画課長に一度挨拶に行っておきたいんです。国への顔つなぎにもなりますし」 
「それは」
 計画係の仕事――と言いかけたところに、その計画係の補佐になった窪塚が、被さるように声をかけた。
「ああ、いいね。藤堂係長、ぜひ入江主査に行ってもらってよ」
 その窪塚の冷めた目が、言外に「邪魔だからとっとと出て行ってもらってよ」と言っている。   
「……分かりました。戻りはいつになりますか」
「その後食事をすると思うので、直帰します」
 当然のように言って微笑むと、耀子はさっさとパソコンを閉じて立ち上がった。
「入江主査」
 ――またこのパターンか……。
 そう思いながら、藤堂は諦めて立ち上がった。
「今日中にやってほしい仕事があるので、必ず戻ってきて下さい。お戻りは何時になりますか」
「え? どう考えたって5時過ぎになりますよ? まさか部下のプライベートにまで、ここでは係長が口を挟むんですか?」
「では時間外勤務命令だと思って下さい。事前申告は僕が回して起きますよ。何時までにしましょうか」
「じゃ、10時でお願いしまーす」
 にこっと笑うと、耀子は軽い足取りで執務室を出て行った。

 
 *************************
 
 
「さしもの君も、入江君には相当まいっているようだな」
「はぁ」
 5時前の次長室――もとい、局長室。
 4月からこの局のトップになった春日要一郎は、もう何年も前からこの部屋にいたかのような落ち着きぶりだった。
「ま、気にせずやり過ごすことだ。厳しいだろうが一人減になったと思うしかない。その代わりに、庶務係長のポストに君を残したようなものだからな」
 冷めた口調で言って、春日は藤堂にソファに座るように促した。
 その春日が、席についた藤堂を細い目でちらっと見上げる。
「納得できないようだな」
「――いえ、そういうわけでは」
「部下の指導育成という観点で、自分を責める必要はない。最初にも言ったが、入江君は特別なのだ」
 どこか苦々しく、春日は続けた。
「ご実家の方でも、見合いさせて早々に役所を辞めさせる意向のようだ。まぁ……いくらなんでも体裁が悪いのだろう。大企業の娘が、一地方の市役所勤務なのではな」
 長くて半年、しょせん数ヶ月の辛抱だ。そう締めくくって、春日は改めて藤堂に向き直った。
「そんなことより、まずは局の現状について君の所感を聞かせてくれ」
「わかりました」
 素直に頷きながら、藤堂はここ数日、春日の髪に白髪が急激に増えていることに、ふと眉を寄せていた。
 心なしか、4月の終わりより一回り小柄になったようにも思える。市長が替わったことで――また、その市長が市の慣習を一切無視していることで、局長を始めとする市幹部が相当激怒し、また苦労しているのは知っている。しかし春日の変化は、それよりなお深刻なもののように思えた。
 ――連休もずっと仕事に出ておられたようだな。だいたい何かあれば、僕に一番に話してくれるのだが。……
 気のせいかもしれないが、5月に入ってから、春日と微妙な距離感がある。それまで、同じ歩調で挑んでいたものが、気付けば足並みがずれているといった感じだ。
 ただ、それが本来の春日と藤堂の立場といえばそれまでで、本来局長と係長が、こうして2人で協議するという事態がそもそもおかしいのだ。
「5月当初は色々なところでひずみが出ていましたが、今は、一応回っています。ただ、都市政策部が未だぎくしゃくしているようですね」
「……まぁ、新市長の登場で、一番大波をくらった部署だからな」 
 新市長就任に伴う局の大改革で、局内の事業担当課――特に大型事業を抱える都市政策部は恐慌の極みにあった。
 後は市長のGOサインを待つばかりとなっていた駅前再開発事業がストップしたのはもちろん、それに携わっていた都市政策部の部長、課長、五条原補佐が揃って5月に異動した。3人とも10年以上都市政策部に在籍し、同事業に携わっていたベテランである。
 間が悪く、同事業の主担当前園晃司もロサンゼルスに異動したとあって、残された者たちは、地元調整だけで右往左往している状態だ。
「新任課長の豊島君の様子はどうだ。私が見た限り、相当やりにくそうだったが」
「そうですね……。今は地元調整で外に出られてばかりなので、なかなか顔を合わせる機会はないのですが、そつなくやっておられる印象です」
 都市政策部の新任課長は、監査指導部の課長だった豊島一樹。49歳、課長級にしてはかなり若い部類に入る。
 監査指導部とは、市の財政運営にミスがないか、監査勧告する部署だ。
 いわば、内部自浄のための組織である。もちろんその役柄上、監査される部署からは敵対視されている。豊島は、入庁以来ほぼ監査畑で過ごし、最速で課長にまでなった優秀な男だった。
 しかし、市の大型事業を抱える事業課に、豊島のような畑違いの未経験者が配属されるなど、これまでなかったことである。
 異例な――いや、異常な人事といってもよかった。
「ただ、一度地元町内会の陳情のことで話しをしたのですが、実情をご存じない様子でした。あるいは部下の方が警戒して、情報を課長まで上げないようにしているのかもしれません」
「……ありうる話だな。新任補佐は昇格したばかりの三田村君か。――前任の五条原君に随分と長く仕えていた男だ……」
 春日は苦く呟き、藤堂は外郭団体に異動になった都市政策課の五条原補佐のことを考えていた。
(――ここだけの話だけど、真鍋さんは夏まではもたないよ)
(最大の後ろ盾だった藤家局長が退職したのが痛かった。ブレインが一人もいないんじゃ、改革が行き詰まるのは目に見えてる。ま、この騒動も、あの色男が勝手に自滅するまでの辛抱だよ)
 とは、五条原補佐が異動のあいさつに来た時、藤堂に囁いた言葉である。
 その時は、真鍋が獲得した過去最大得票がむしろ話題になっており、藤家の退職がそこに水を差していたものの、真鍋市長の先行きに不安を持つ者はいなかった。
 それを、ああもはっきり断言されたことに、妙だなと思ったのを覚えている。
「藤堂君。君が、今、……係内の――まぁ、はっきり言えば入江君のことで、色々難しい立場なのは分かっている。が、何度も言うが、この際入江君のことなど放っておけ」
 春日は顔をあげ、どこか苦々しい口調で続けた。
「実は今日の幹部会で市長から直々に通達があった。一週間以内に、今年度執行予定の一千万円以上の事業について、データあるいは書面を全て市長室に提出するようにと」
「……、全局にですか」
 幹部会とは、毎週月曜日に開かれる、市長、局長、部長の会議だ。
「知ってのとおり、うちの局でいえば都市政策部にその事業が集中している。政策部長からすでに豊島課長に指示が下りているだろう。――問題は、豊島課長の指示で部下が動くかどうかだ」
 藤堂は黙って眉を寄せた。その市長命令に、そもそも政策部が素直に応じるだろうかと思ったが、どちらにせよ、豊島課長が相当苦しい立場になることは間違いない。
「そこで、君に豊島課長のサポート役を任せたい。速やかに市長の求めに応じ、適切に資料提出できるよう政策部全体をフォローしてくれ。三田村補佐が、あるいは五条原補佐に何か入れ知恵されているようなら、それも、戒めてやらねばならん」
 さすがに意表を突かれた思いで、藤堂は返事に窮した。
 ――それを、僕が。
「むろん君に、局のとりまとめ役ということ以外になんの権限もないことは承知しておる。が、同時にこの難局にうまく対応できるのも、君しかいないというのも分かっている」
 それは藤堂に、都市政策局の憎まれ者になれということを意味している。
 ――これは……去年の4月以上の難題だぞ。
 去年の4月も、藤堂はこの春日から直に呼び出され、思わぬことを指示された。
(うちの局は異動者が極端に少なく、また男女比率が歪なせいか、業務の妨げとなる悪しき習慣が多々残っている。また、私が強権を持って命じたところで、それを簡単にどうにかできる状況でもない。――何故だか分かるか、藤堂君)
 しばらく考えてから、藤堂は答えた。
 それは、制度の問題ではなく、人の心の問題だからではないですか。
 その刹那、警戒心と冷淡さしかなかった春日の目に微かな驚きが広がった。――大分後になって実感できたことではあったが、おそらくその時、春日は藤堂を試し、藤堂はその試験に合格したのだろう。
 そうか、と鷹揚に頷き、数秒の沈思を経てから、春日は続けた。
(――藤堂君、君の経歴は人事部から聞いている。いわば経営のスペシャリストの君が、内部監査的な役割を担ってこの局に配属されたことは承知しているつもりだ。私は助力も邪魔もしないから、その辺りは好きにやりたまえ)
(――が、単なる監視役では君のキャリアが泣くというものだ。君自身の手で、今私が言った問題点を洗い出し、速やかに業務改革を断行したまえ。――これは上司命令だ)
 その時も、まいったなというより、話が大分違うなと思ったのを覚えている。しかし今春日が口にしたのは、それ以上の難題だ。
「分かりました。僕に何ができるか分かりませんが」
 それでも藤堂は、迷いをおくびにも出さずに言って、微笑した。
 春日が1人で抱えているものを、少しでも楽にしてやりたいと思ったからだ。
「ありがとう」
 春日はあるかなきかの微笑を口の端に浮かべ、しかしすぐにそれを消すと「もういい、仕事に戻りたまえ」と片手を上げた。
 
 
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「では真鍋市長は、灰谷市の公共事業を、一から精査するおつもりなんですか」
「ええ。今、全事業の資料を、各局から市長室に集めさせているところです」
 夕方、食堂に入ると、テレビが夕方のローカルニュースを流していた
 節電のために半分照明が落ちた夕方の食堂で、テレビの前には数人の人だかりができていた。
 向かい合って喋っているのは、市では有名な名物アナウンサーと、4月の終わりに市長になったばかりの真鍋である。
「真鍋市長は、経営者として非常に優秀な方なんですよね。あのリッツロイヤルホテルを再生させたのも、市長の手腕だと伺っていますが」
「優秀かどうかはともかく、これまでと違う視点で、市の歳入歳出を精査できるとは思っています」
「これから灰谷市はどうなっていくと? 公約では随分と物騒なことを言われていましたね。財政破綻がどうとか」
「――一度、膿を出し切ることだと思っていますね」
 真鍋の端正な顔が、その刹那に大写しになる。
「僕のやり方に、役所では不満がくすぶっていますが、僕の仕事は、その大手術をすることです。誰に何を言われようと、一歩も引く気はありませんよ」
 テレビがお天気ニュースに切り替わった途端、「俺たちゃ膿かよ」と誰かが冷めた声で呟いた。
「もっともそうなことを言ってるようで、よく聞いたら具体的なことは一言も言ってないよな、この人。実は無能なのが見え見え」
「光彩建設で専務をしていた頃は、女遊びばかりで、ろくに仕事もしていなかったそうだ。――優秀な経営者が聞いて笑える。どうせ選挙向けの虚像だろ」
「一歩も引かないって、さすがに若いな。まぁ、直に分かると思うが、市の組織っていうのは複雑で、市長一人があがいたところで、どうなるものでもないんだけどね」
「一人で全部できると勘違いしてんじゃないの?」
 テレピの前から人だかりが消え、知らず立ちすくんでいた藤堂も、我に返ったように配膳口に向かった。
 既知の、しかも極めて優秀な人をこうもあしざまに言われるのはさすがに腹が立ったが、ある意味彼らの囁きは真実でもある。
 市の組織はあまりにも巨大で、扱う事業も多岐に渡り、なお厄介なことに、それらが全て電子で公開されているわけではない。
 人の思惑や業者の思惑、さらには国、県、県市会議員、国会議員の思惑が幾重にも重なり、複雑に絡まり合っている。
 課ごとに隠された情報などいくらでもあるし、金の流れも複雑怪奇だ。外部委託された仕事や、そのために作られた組織――役職。それらが長い市の歴史の中で積み重なり、変遷し、携わった職員は異動を繰り返して退職する。公文書すら5年おきに廃棄されているのだから、全て遡って追うには、果てしない労力を要するのだ。
 藤堂にしても、1年都市計画局の心臓部に在籍してもなお、局の全てが分かったわけではない。この1年、無駄な事業や危うそうな案件は即座に訂正を入れたものの、最初は猛反発をくらい、一気に情報が上がってこなくなったのをよく覚えている。その筆頭が、先ほど春日にフォローに入れと言われた都市政策部なのである。
 一度隠されてしまうと、たとえ市長であっても、それを精査するのは困難だ。より強い権限――たとえば警察のような法的権限のある機関が介入しない限り不可能だと言ってもいい。
 特に都市政策部は、15年以上に渡って、同課生え抜きの職員が部課長の座についていた。当然のことながら団結力も高いし、職員の口も堅い。市長に提出する書類など、肝心な部分をいくらでも抜くことができるし、下手すれば改ざんもやりかねないだろう。
 だから春日も、ひどく難しい顔をしていたのだ。
 ――……雄一郎さんは、市の暗部にメスを入れるつもりなんだな。
 その暗部の正体は、漠然とだが藤堂も知っている。
 それがいかに危険な挑戦であるかということも知っている。だからこそ慎重にことを進めるべきだし、真鍋もそうするものだと思っていたが、今の動きは間違いなくそれとは真逆だ。
 着任早々全局から大型事業の資料を提出させるなど、敵に分かりやすく挑戦状を叩き付けているも同然だ。――そこに、なんの意図があるのか。
 しかし、一見無軌道にしか見えない真鍋が、優秀な経営者であり、企業再生のプロであることは間違いない。その才能は、光彩建設時代は真鍋自身が招いた醜聞で埋もれ、同社を退職後、3年もしてから花開いたものだ。
 その間藤堂は仕事をしながら学生として海外にいたから、日本を発った後の真鍋の3年を知らない。
 おそろしく優秀なハゲタカ(買収した企業を、企業価値を高めて売却する投資ファンド)が日本にいるという噂を聞いたのが今から4年前で、それが真鍋だと知った時は驚きもしたし、嬉しくもあった。
 ただ、その年、久々に再会した真鍋からは、昔にはなかった暗い澱のようなものが感じられた。それは真鍋の奥底に幾層にも沈殿し、すでに彼の人格の一部になっているようにも思えた。
 真鍋が家のために政略結婚したことは、風の頼りで知っていた。その妻が病死していたことは再会して初めて知ったが、そういった一連の悲しみが、真鍋の中に深く根を下ろしてしまったのかもしれない。
 8年前、日本で一緒に過ごした最後の数日、藤堂は真鍋の幸福を垣間見ている。
 その数日のできごとは、藤堂自身が新しい人生を踏み出すきっかけにもなったのだが、真鍋に幸福をもたらした女性もまた、今の真鍋と同じ悲しみを背負ってしまったのだろうか――
 そんな風に思っていたその時は、想像してもいなかった。それから3年後に、まさか自分がその女性と同じ職場になり、運命のように恋に落ちることになるとは。
(手伝います、係長)
(慣れない環境で、大変じゃないですか)
 自分の記憶力のよさが嫌になるのはこういう時だ。
(ベルボーイさんは、エントランスに立っているのがお仕事なんじゃないですか)
(もどって、きちんとお礼を言わせてください。ちょっとだけ、そこで待っていてくださいね)
 彼女と出会った最初から、そして最後の言葉まで、全ての情景と言葉を、藤堂ははっきりと覚えている。忘れようにも忘れられないし、忘れたいとも思っていない。それは、まるで消せない呪いのようでもある。
(――瑛士君、人を好きになるのって、心に棘が刺さったようなものよ)
 ――……ああ、また今朝の夢だ。 
 配膳台で定食のトレーを受け取った藤堂は、窓際の空いている席についた。
 いつもの悪い癖で、また思考が果歩に流れていこうとしている。一度そこにはまると、あとは無限のループの繰り返しだ。
 ちゃんと食べているかな。
 新しい職場で、辛い思いをしていないかな。
 雄一郎さんへの誤解はとけたかな。
 僕がいなくても――
「…………」
 藤堂は首を振るようにして、現実に意識を戻した。そう――今は雄一郎さんのことだ。 真鍋が断行しようとしている、トップダウン方式の改革の成功例は、他都市ではある。
 何年か前、某政令市のワンマン市長が行政改革を断行し、未だ道半ばではあるが成功させた。ただその成功の原因は、勢いのある議会の最大会派が市長の後ろ盾になったからだ。それと圧倒的な世論の支持。その両輪を得て未曾有の改革は実行された。
 今の真鍋政権は、世論と人気に支えられたものだ。が、庁内の味方となると、驚くほど少ない。
 藤堂の知る限り、総務局の藤家局長が真鍋を後押しし、反前市長派をとりまとめていたはずだが、その藤家は、あたかも真鍋と決裂――むしろ追い出されるような形で退職してしまった。それで、まとまっていた反勢力もバラバラになってしまったのだ。
 そうなると真鍋が次に打つ手は、議員を味方につけることだが、そこでも真鍋は真逆の対応をとり続けている。 
 就任以来、真鍋は議員と個人的な面会を一切遮断しているのだ。彼らの招きに応じることもなければ、要望を聞くこともしない。その態度は当然のことながら全議員の反感をくらい、当選後わずか十日余りにして、新市長は全くの孤立無援になろうとしている――
 今回ばかりは、真鍋の真意が分からない。
 一体何がしたくて市長になったのか。それとも藤家局長と決裂したことで、改革のよすがを見失ってしまったのか。
 ――いや……。そもそも僕に、あの人の気持ちが分かっていたことなどあっただろうか。
(――瑛士、彼女のことで俺に遠慮する必要はない。もう無関係だし、過去を蒸し返されるのは俺にも彼女にも迷惑なだけだ。ただひとつ、これだけは言っておく)
(いいな、瑛士。その約束を違えたら、俺はお前を絶対に許さない)
「…………」  
 今年の初め、あれは真鍋の義母が亡くなる少し前だった。今思えば義母の葬儀のために灰谷市に戻っていた真鍋と1年ぶりに再会した時も、やはり真鍋は肝心なことは何も話してはくれなかった。
 しかしこれだけは藤堂にも分かった。
 この人の心には、まだ的場さんが棲んでいるんだ。
 彼女の心にも、まだこの人が棲みついているように――






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