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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉 -藤堂side-(20)



 藤堂の顔を見た途端、談笑していた職員の笑顔が消えて、会話も止まる。
 この雰囲気も久しぶりだな――そう思いながら、藤堂は都市政策部のカウンターをくぐった。 
「ああ、藤堂さん」
 即座に痩身の豊島課長が立ち上がる。しかしその目色には、はっきりと迷惑だと書いてあるようだった。
「春日局長に聞きました。私の仕事をサポートしてくださるようで」
「サポートなんてとんでもない。ただ、お役に立てることがあれば、お手伝いさせていただこうと思っているだけです」
 穏やかだがどこか棘のある豊島の言葉を受け流し、藤堂は課内に視線を巡らせた。定時を過ぎているのだから当然といえば当然だが、半分以上の職員が帰宅している。
 しかしそれは、ほぼ全員が残業していたこの課では逆に異例のことである。
 課長補佐席に座る三田村が、一度も顔を上げないことにも、異常さを覚えた。この気のいい男は、いつもきさくに「藤堂さん、困ったことがあったら何でも俺に相談してくださいよ」と声を掛けてくれていたからだ。 
「私が外に出てばかりだから、こんな時間にわざわざおいでくださってすみません。でも、今夜は特段何もないですから、お帰りいただいて結構ですよ」
 言葉遣いこそ丁寧だが、ひどく素っ気なく言って、豊島は再び自席についた。
 課内は水を打ったように静まりかえり、黙って席に座る職員が全員、二人の会話に神経を尖らせているのがよく分かる。
 ――これは……想像以上に難しい仕事だぞ。
 そう思いながらも、藤堂は屈託など何も知らない人のように笑って見せた。
「そうですか。でも、他局では、今日から徹夜態勢で市長提出資料の精査に入っているようですよ。特にここは、ベテランの職員が皆さん揃って退職されたら大変でしょう」
 藤堂の言い方が勘に障ったのか、豊島の細い眉がぴくりと震える。
「ご心配なく、長年監査畑にいましたから、書類の精査は得意です」
「もちろんそれはよく知っています。ぜひそれを、若輩の僕にも勉強させていただけないかなと思いまして」
 藤堂は丁寧に言って頭を下げた。
「明日から時間外は、こちらに詰めようと思っています。よろしくお願いします」
「――つまり春日局長は、私じゃ役不足だと、そう判断されたんですね」
 豊島の言葉で、踵を返そうとしていた藤堂は足を止めた。
「だったら最初から、藤堂さんをこのポジションにつければいいのに、春日さんも人が悪いな。――お好きにどうぞ。ただ私は私のやり方でやらせてもらうので、藤堂さんにお知恵をお借りすることはないと思いますよ」


 *************************


 ひどく疲れた気持ちで総務課に戻ると、待ってくれていると思っていた大河内の姿がない。課内には帰り支度を済ませた笹岡しか残っておらず、笹岡はひどく申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「大河内主査なんですが、家で急用ができたとのことで……、係長に申し訳ないと伝えてくれと仰っていました」
「そうですか」
 平静を装いながら、さすがにため息がひとつ零れた。今日に始まったことではないが、明らかに二人になることを避けられている。大河内にその気がない以上、仮に今夜膝をつき合わせて話しあったとしても、本心を話してはくれないだろう。  
「今日は、計画係の飲み会があるんで皆さん早くお帰りです。僕も、水原さんに誘われたのでお邪魔しようかと……。係長も仕事が終わったら来られませんか」
 一瞬、空席の入江耀子の席を見て、藤堂はすぐに微笑んだ。
「多分遅くなるので、遠慮しておきますよ。笹岡君は楽しんできてください」
「そうですか……」
 笹岡は明らかに落胆した表情を見せてから、どこか名残惜しげに一礼した。
 しかし、そこで去るかと思ったら、思い詰めた目で藤堂を見上げる。
「前の職場ではみんな仲がよかったので、こんなの想像してもいませんでした。大人の社会でも、イジメってあるんですね」
「……というと?」
「入江主査が大河内主査にやってるのが、完全にそれじゃないですか。――見てるだけの自分もなんだか卑怯なようで情けなくて……でも、水原さんに、入江さんには逆らわない方がいいって言われて」
「…………」
「それに、口出ししたら、次は僕がイジメの……なんといいますか……」
 暗い目でうつむく笹岡の肩を、歩み寄った藤堂は軽く叩いた。
「話してくれてありがとう。でも責任を感じるのは僕であって、笹岡君ではないですよ」
 薄々そうではないかと疑っていたが、やはりそうか。ただの仕事のいざこざではないと思っていたが――まさか、入江さんが、父親ほども年が違う大河内主査にそんな子供染みた真似をしていたとは。
 職場復帰した百瀬乃々子や今年新しく配属された女子職員に対しては警戒していたが、係内は全く無警戒だった。迂闊だった。入江耀子にとっては、性差も年も関係なかったのだ。
「――水原さんが、藤堂係長なら必ずなんとかしてくれるって言ってました」
 席に戻ろうとした藤堂の前で、笹岡は期待をこめた眼差しで顔を上げた。
「これまでだって、もっと面倒な問題を、係長が一人で解決してきたって。だから今回もお願いします。早く、的場さんがいた頃みたいな、楽しい職場に戻して下さい」


 *************************


「係長、はいこれ、お土産です」
 入江耀子がほのかに顔を赤らめて戻ってきたのは、8時を過ぎた時刻だった。近づいてきた彼女からは、仄かにアルコールの香りがする。
「時間外勤務命令申請は、僕が取り消しておきますよ」
 デスクに置かれたケーキの箱を手で押しやりながら、藤堂は努めて冷静に言った。
「今夜はもうお帰り下さい。勤務中の飲酒は服務規程違反です」
「ええ、そうしてください。どうせ今日は仕事なんてしないつもりだったし」
 春用コートを脱いで、それを無造作に課長席に置くと、耀子は藤堂の背後に立った。
「なんの仕事をしてるんですか」
「今日、入江さんにやってもらおうと思っていた仕事です」
「ああ、――政令指定都市なんたら会議。税金を使って国を呼んで、楽しく歓談会ってやつですね。くっだらない」
 耀子が藤堂の椅子の背に手を置いてパソコン画面をのぞきこむ。香水の匂いが強くなり、落ちてきた彼女の髪が肩に触れたので、藤堂はさすがに嘆息して席を立った。
「僕ももう帰るので、どうぞお先に。それから何度もいっていますが、人目がないからと言って、あまり職場で馴れ馴れしく異性に近づくのはどうかと思いますよ」
「ええ? もしかして照れてるんですか、係長」
 酔いの回った女を無視して、藤堂はカップを持って給湯室に向かった。
 待っていた自分が愚かだったのか。春日の言うように、端から放置しておくべきだったのか。
 いずれにしても、酔った状態で職場に戻ってくるなど常軌を逸している。我が儘でプライドが高いとは認識していたが、ここまで無軌道な人だったとは――
 昨年に引き続き、灰谷市に幹事役が回ってきた政令指定都市都市計画担当局長会議。南原から大河内に引き継がせた仕事を、5月から入江主査に引き継がせたのだが、その殆どが手つかずか、大河内が代わりにやっているかのどちらかだった。
 フォルダの全部を精査した藤堂は、改めて仕事配分を見直すしかないと理解した。
 希望してうちの局に戻ってきたというが、入江耀子の仕事ぶりはあまりにいい加減すぎる。昨年都市政策部にいた頃だって、こうもひどくはなかったはずだ。
 そもそも、彼女のような立場の人に、全うに仕事をやらせようとした自分の判断が間違っていたのだろうか。――
「どうしたんですか? 今夜は珍しく切れてるんですね」
 耀子が給湯室にまで追いかけてきたので、藤堂は意図的に距離を開けた。
「別に切れてはいませんよ。入江主査、うちの仕事は面白くないですか」
「え?」
「もし他にやりたい仕事があるなら、一度時間をつくって話をしてみませんか。何かお役に立てることが」
 そこで弾かれたように耀子が笑い出したので、藤堂は驚いて手を止めた。
「ていうか、この世に面白い仕事なんてあるんですか? あったら逆に教えてくれません?」
 答えないでいると、耀子はシンクに背中を預け、藤堂の顔をのぞきこむようにした。
 整った綺麗な顔だ。骨格がしっかりしているから、意思が強く頭もよさそうに見える。「質問です。係長って、もしかして童貞ですか」
「その質問はセクハラにあたりますよ」
「随分長く、海外で暮らしていたんですよね。その時、つきあっていた人はいたんですか」
 一瞬、頭に今朝見た夢がよぎったが、それはおくびにも出さず、藤堂はカップを水切り籠において、ハンカチで手を拭いた。
「ご想像にお任せします」
「その言い方、絶対にいましたよね。それ、的場さんは知ってるんですか? その人と結婚できなかったのは、やっぱり二宮に反対されたんですか?」
「さぁ」
 耀子の傍らをすり抜けて外に出ようとすると、側面からいきなり抱きつかれる。さすがにびっくりして藤堂は立ちすくんだ。その時だった。
「わっ、す、すみませんっ」
 泡を食った声で謝ったのは藤堂でもなく、耀子でもない。折悪しく給湯室に入ろうとした他課の男性職員だ。それが、都市政策課の職員だと分かった藤堂は、今度こそ「まいった」と思っていた。考え得る限り、最悪のタイミングだ。   
「ふふっ、見られちゃったですね」
 男性職員が慌てて駆け去ると、耀子はぱっと手を離して、おかしそうに笑った。
「何がしたかったんですか」
 藤堂は努めて冷静に聞いた。とはいえ、さすがに怒りが理性を上回りそうになっている。
「係長なら、そんなのとっくにお見通しだと思ってました。つきあってください。私と」
「お断りします」
「それは、市役所の係長としてのお返事ですか、それとも二宮の後継者として?」
「そこに、一個人としての僕も付け加えさせて下さい。お断りします」
 正確に言えば、自分は二宮の後継者ではない。
 18歳で家を出たときからずっとそうだ。香夜と結婚しようと決めていた時でさえ、伯父の喜彦は藤堂を後継者だと宣言しなかった。――伯父は、誰より深く人の心を読む人だ。仮に香夜と結婚したとしても、義理の息子が後継者の座を頑なに拒むことを知っていたのだろう。
 しかしもちろん、そんな複雑で繊細な話を、目の前の女にする気はない。
「実は私、お見合いしろって言われてるんです、父から」
「そうですか」
 冷淡に答えて歩き出した藤堂の背後を、耀子は楽しげな足取りで追ってきた。
「役所を辞めて結婚するか、養子縁組を解くかの二者択一です。あ、前話しましたよね。私養女なんです。係長と一緒で、母の姉夫婦と養子縁組したんです。高校生の時に」
 席に戻っても、耀子は藤堂のデスクに寄りかかって話し続ける。
「ちなみに両親は健在です。姉夫婦に子供が生まれなかったから、次女の私が売られたんです。大げさな言い方じゃないですよ。うちの養親がお金持ちなのは知ってますよね。その時、かなりの不動産がうちの両親に流れたって話ですから」
 よほど無視して帰ろうかと思ったが、藤堂は机を片付ける手をとめて、顔を上げた。
「それで?」
「なんのための養子縁組かといえば、もちろん義父の仕事に役立つ婿を取るためです。だから――分かりますよね。見合いを断るためには、義父のお眼鏡にかなう男を、自分で見付けるしかないんです」
「僕では、完全に役不足ですよ」
「何言ってるんですか。係長ほどぴったりの人材はいませんよ!」
 耀子は目を輝かせて、ぱちんと両手を胸の前で叩いた。
「何も本当に恋人になろうなんて思ってません。ほんの半年かそこらでいいから、私とつきあっていることにしてもらえません? 親も喜ぶし、友達にもうらやましがられるし、私が満足したところで、解放してあげますから」
「ほかをあたってください」
 パソコンを閉じて、藤堂は立ち上がった。「話がそれだけなら、これで」
「もしかして明日には、係長が私にセクハラしたって噂が、局中に広がっているかもしれませんよ」
 ――え……?
 足を止めた藤堂を、耀子はどこか挑発的な目で見上げた。
「さっきの現場、とりようによっては、係長が私に抱きついていたように見えるかもしれませんよね。一瞬だったんだもの、何を見たのか本人にもよく分からなかったんじゃないかしら」
「…………」
「私が色んな人に顔がきくのは知ってますよね。全局の局長を呼んで、飲み会をセッティングすることだってできるんです。その場で言っちゃいましょうか。藤堂係長に言い寄られて困ってますって」
「……言ったらいいんじゃないですか」
 馬鹿馬鹿しいというか、いっそどうでもいいような気持ちになって、今度こそ藤堂は歩調を速めて歩き出した。
「ただ、僕も僕で、それなりに反撃はしますけどね。何か勘違いされているようですが、僕はそれほど寛容な人間ではないですよ」
「実家に権力がある係長はそれでよくても、大河内主査はどうでしょう?」
 カウンターを出ようとしていた藤堂は、その場で足を止めていた。
「去年、相当大きな騒ぎになりましたもんね。女子高生に痴漢……。吐き気がしそう。あんな変態と一緒に仕事なんて冗談じゃないって感じ」
「冤罪ですよ。それはもう証明されています」
「みたいですね。でも私が知る限り、結構な人が、実は本当にやったんじゃないかって思ってますよ」
「…………」
 それが、残酷な現実であることは間違いない。マスコミが大々的に報じたのは痴漢事件が起きた時だけで、それが冤罪であったという結末は、一社として報じることがなかったからだ。    
 和解したから示談になっただけで、本当はやっている――そんな風に思っている人が少なからずいることは藤堂も知っている。
「もしかして」
 感情をのみこみ、藤堂は耀子に向き直った。
「今、僕に言ったのと同じようなことを、大河内主査にも言ったんですか」
「言いました、二人で話をしていた時、いやらしい目で私の匂いを嗅いでたから。今、私にセクハラしましたよね。それ、全局に言いふらしましょうかって」
「…………」
「そしたらあのおじさん、びっくりするくらい従順になっちゃった」
 ははっと楽しそうに耀子は笑った。他人をいたぶることになれきった、人としての感情が欠落した笑い方だった。
「怖い顔。まさかまた、二宮の力を借りて口封じをするつもりですか? いいですよ。その時は私が役所なんて辞めますから。でも、大河内主査の悪い噂だけは、確実に庁内に広がると思いますけど?」
 藤堂は黙って息を吐いた。
 そういうことか。――それで大河内さんの、あの態度か。
「入江さんは、一体何がしたいんですか」
「もう言いました。二宮の御曹司の恋人、そのステイタスが欲しいんです」
 僕が言いたいのは――そう口にしかけて、藤堂は言葉をのんだ。
 もう、本気でどうでもよくなりかけている。
「僕は二宮の家を出ています。戻ることは絶対にありませんよ」
「知ってます。私たちの界隈じゃ、真鍋市長が二宮家を継ぐって噂がありますけど、それ、本当の話なんですね」  
 藤堂は黙って背を向けた。これ以上冷静に話を続ける自信がない。
「二宮を誰が継ごうと、私には関係ないし、正直どうでもいいんです。あんな厄介な家に入りたいとも思わないし、興味もないです。私が欲しいのは二宮の元御曹司を落としたって言うステイタス。――私、係長のこと大嫌いだし、係長も私のこと嫌いでしょ? 絶対に恋愛関係にならないんだから、恋人のふりくらい簡単じゃないですか」
 黙って更衣室に向かう藤堂を、耀子が少しむっとしながら追いかけてきた。
「じゃ、もうひとつ取引材料をあげます。知りたくないですか、的場さんが秘書課でどうしているか」
 それでも足を止めない藤堂の前に回り込み、耀子は更衣室の前で両手を広げた。
「秘書課の清水主幹。奥さんが三輪の社員だから、私の頼みはなんでも聞いてくれるんです。真鍋市長、就任早々課長と喧嘩したり女性職員を恫喝したりで、秘書課は大混乱だったそうです。――で、的場さんが職員を代表して、真鍋さんと話しあうことになったんだって」
「…………」
「その話しあいが今夜で、的場さん、6時前に私設秘書の車で帰宅したそうですよ。清水主幹は的場さんに感謝している風でしたけど笑っちゃう。一体なんの茶番なんですか? 2人、もう元サヤに戻ったんですよね」
「さぁ」
 冷めた声で言い、藤堂は耀子の側をすり抜けて更衣室の中に入った。


 *************************


 15階の自販機で水を買った藤堂は、屋上に続く階段を上がった。この時間は立ち入り禁止だが、顔馴染みになった警備員が特別に鍵を貸してくれている。
 13階で、コートを羽織って更衣室から出ると、もう入江耀子の姿はどこにもなかった。なんとなく彼女が1階で待ち受けているような予感がして、それもあって久々に屋上に行ってみようという気になったのだ。
 冷たい水を飲み干すと、藤堂は疲れた目を夜に向けた。
 ――正直、どこから手をつけていいかも分からないな。
 入江耀子が部下としてやってくると知った時、正直いえばさほど気にもとめなかった。やりにくいと思ったのは確かだが、それは素性を知られていることからきた、ごく些細な感情にすぎない。
 彼女が都市政策部にいた頃の悪評は知っていたが、藤堂が見る限り、仕事は人並み以上にできている。――当たり前だ、国家公務員一種試験は、コネや家柄で合格できるものではない。入江耀子は、ある側面では紛れもなく優秀な女性なのだ。
 ただその能力を、自ら放棄しているだけで。
 ――春日さんの言うように、親は本気で仕事を辞めさせる気でいるんだろうな。だから、本人もやる気をなくしているんだろうが……。
 耀子と入れ違いに果歩が異動する際、「落としどころがなくもない」などと適当なことを言ったが、それは果歩を安心させたかったからだし、心のどこかで、自分には刃向かってはこないだろうという過信があったからである。
 実際、入江耀子には昨年きっちり釘を刺している。彼女が皮肉めいた口調で言ったように、実家の威光を使ってだ。
 あの時は他にやりようがなかったし、果歩の窮地に、切羽詰まっていたという事情もある。いずれにせよ、藤堂の機嫌を損ねない方が得策であることを――この灰谷市で好き勝手に振る舞えば、痛い目にあう可能性があることを、その時耀子は十分に理解したはずだった。
 が、それは本当に過信だったようだ。
 5月以降の耀子の態度は、藤堂には全く謎だ。
 そもそも仕事をしなくても遊び暮らしていける立場の耀子が、一体なんの目的があってさほど給与がよいわけでもない市役所に在職し、ただただ周囲に迷惑を撒き散らしているのか。それを悪意と呼ばずになんと呼べばいいのか。
 そんな人間相手に、まともに仕事をやらせようとしている自分が馬鹿だったのか――
(水原さんが、藤堂係長なら必ずなんとかしてくれるって言ってました)  
「…………」
 ――僕は……。
 その時、スーツの上着に収めていた携帯が不意に鳴った。もしかしてといつも思ってしまうのは、未練なのか、みっともない過信なのか。
 でもいつものように、表示された番号は待っている人のものではない。
 ――……片倉か。
 藤堂は携帯を耳に当てた。二宮家にいた頃の専属執事で、今は真鍋市長の秘書として、市に特別任用されている男である。
「瑛士様、すみません、夜分遅くに」
「いや、いいよ。何の用だ?」
 なんとなく用件は分かっているような気がしたし、今、それだけは聞きたくないような気もした。
「今夜、雄一郎様と的場様が、ホテルリッツロイヤルで御前様と奥方様に婚約の報告をなさいました」
「…………」
 一瞬、胸を衝かれたような動揺で言葉を失ったが、頭の中にある情報を処理する前に、片倉の声が響いた。
「これをもって、二宮家の後継者は正式に雄一郎様と決定しました。それが、御前様から瑛士様へのご伝言です」
 二度目の深い衝撃の後、藤堂の喉から出たのは一言だけだった。
「……正式に、決定した」
「御前様と奥方様は、ただちに退去の手続きに入られ、約定どおり、一月の後には国外に移住されます。――ご承知でしょうが」
「分かっている。僕もかつては後継者候補だった。説明は不要だ」
 急すぎる展開に混乱しながらも、藤堂は片倉の言葉を遮った。
 この瞬間、17年にわたって続いた二宮家と藤堂の縁は本当に切れたのだ。
 18の時からそれを望んでいたはずなのに、今、不思議な寂しさしかないことに、藤堂はひどく戸惑っていた。しかし――
「片倉、では雄一郎さんは、早い段階で市長を辞めるつもりなのか」
「その時期につきましては、もはや雄一郎様お一人で決められることではございません。しかるべき筋と協議の上、然るべきタイミングで辞職されると思います」
「…………」
 もちろん市長と当主の両立など不可能で、それは、真鍋が「勝負」を持ち出した最初から分かっていたはずだった。真鍋がどこまで後継者争いに本気だったかどうかはともかく、二宮の伯父が後継者を正式に決めるのは、それでも一年は先だと藤堂は内心思っていた。
 そうでなければ、3月の終わりにほぼ当確を収めていた真鍋を後継者候補にしたりはしない。いや――そこでも自分は、伯父が自分を切り捨てるはずがないと、どこかで過信していたのだ。
 とはいえ、市の改革に取りかかったばかりなのに、半ばどころかとっかかりの段階で辞職など、そんな無責任な真似を雄一郎さんがするだろうか。
 それとも市長になったのは単に父親への意趣返しで、8年前に灰谷市から追いやられたことへの復讐が全てだったのだろうか。
 いや、そもそも本当に、あの人は二宮の後継者になるつもりだったのだろうか。
 根源的な疑問は、なにひとつ解決されないまま今に至っている。そして砂時計は逆転した。もう二度と元には戻らない。――1ヶ月後には、二宮には新しい当主がいなければいけないのだ。絶対に。
「瑛士様、ご承知でしょうが、私もその折には決断を下さなければなりません」
 片倉の沈んだ声が、藤堂を現実に引き戻した。
「以前申し上げた通りです。私は――御前様の引退をもって、二宮の家を辞去いたします」
「…………」
「失礼します」  
 わずかな間の後、通話が切れる。
 藤堂は黙って、携帯を持つ手を下げた。
 片倉が、ひどく思い詰めた顔で藤堂を訪ねてきたのは4月半ばのことである。その日、藤堂は東京の義父の元に向かうつもりで、帰宅してすぐに家を出たばかりだった。
 後継者争いの真偽について、義父の真意を確認しておきたかったのだ。そして、もしこれが、藤堂を釣り出すための余興なら、無関係な的場さんを巻き込むような真似だけはやめと欲しいと頼むつもりだった。――が、その前に片倉が立ち塞がった。
(――御前様は本気です。私を雄一郎様に付けたのがその証。もうご承知でしょうが、私は二宮家の後継者に仕えるために、教育され、訓練された人間です)
 知っている。正確には、脩哉が死んだ後に知らされた。
 つまり伯父は、最初から後継者を藤堂に決めていたのだ。決めていながら争わせた。――おそらくは藤堂を成長させるため、そして脩哉に男としての生を諦めさせるために。
 初めて見るような沈鬱な顔で、片倉は続けた。
(瑛士様がこの争いに参加されないことも、当然御前様には想定の範囲内でございましょう。――瑛士様、私は二宮の家をお暇しようと思っています。いくら御前様の命令とはいえ、これ以上は耐えられない。私の主は、瑛士様ただ一人。私はもう一度、瑛士様にお仕えしたいのです)
 何も答えられなかった。片倉の苦悩は分かるが、この争いに乗ることだけはできない。
 たとえ誰を悲しませようと、本来脩哉の座るべき場所に自分が居座ることだけは絶対にできない。そんな真似をするために、この9年生きてきたわけじゃない。
 その時、片倉の携帯に果歩を見失ったという報せが入った。真鍋が果歩を守らせるために編成したチームからだ。急ぎ出て行こうとした片倉に藤堂は同行し、車中で、思いもよらない事実を片倉の口から知らされた。以前から奇妙に思いはしていたが、真鍋がこうも果歩の警護に神経を尖らせている理由である。
 その夜、完全に物別れとなった果歩との話しあいの後、藤堂は片倉に頭を下げて頼んだ。「今、辞めるのだけは待ってもらえないか」と
 真鍋にも果歩にも、今は片倉が必要だ。逆に片倉さえいれば、自分は遠くから2人を見ていることができる。
(――分かりました。ただし、雄一郎様にお仕えする以上、私に瑛士様の味方はできません。それがいかに瑛士様に不利になると分かっていても、……警告ひとつ、お伝えすることはできないでしょう)
 片倉は苦しそうだった。多分今夜も、表面に現れている態度以上に苦しかったのだろう。
(――ただ、これは御前様が当主でおられる間だけの約束です。そうでなくなった時、私は二宮の家を辞去します。――瑛士様の、ご決断をお待ちしています)
「…………」
 藤堂は、軽く唇を噛んでから携帯を上着に戻した。
 ――片倉……僕はお前に期待されるに値しない人間だ。
 伯父にもお前にも、それがどれだけ不義理だと分かっていても、ことこの件に関しては気持ちを変えることはできない。
 僕は――そもそも、二宮に相応しい人間ではなかったのだ。
 しかしそれでも、目を背けられない問題がある。――的場さんだ。
 婚約を表明したことで後継者争いには決着がついたのかもしれないが、二人が実際に結婚するかどうかは別問題だ。
 入江耀子から聞いた話と今の報告で、今夜のおおまかな経緯は把握できた。あのクレバーな雄一郎さんが、秘書課長と喧嘩して女性職員を恫喝するなどありえない。もしあり得たのだとしたら、何か別の目的があったのだ。
 それが、仲介役に立つしかなくなった的場さんから、なにがしかの譲歩を引き出すことだったのだろう。もう考えるまでもない、その答えが今夜の伯父夫妻との会食だ。
 彼女が、どこまで今夜のことを知っていたのかは定かではないが、肝要なのは、たった半月で真鍋がそこまでの展開に持ち込んだということだ。どんな手段を使ったのであれ、見事な手際だとしか言いようがない。
 ――……やっぱり敵わないな、雄一郎さんには。
 一度決めてしまったことは、どんな手を使ってもやり遂げる。どんな企業でも徹底的に手を入れて奇跡のように再生させる――海外のファンド市場でbeautuful valture(美しい禿鷹)と呼ばれていた頃の真鍋がまさにそうだった。
 その優秀さをよく知っているからこそ、市長としての真鍋の立ち振る舞いのまずさが分からないのだが……。
 いずれにせよ、真鍋が後継者になるなら二宮は安泰だ。おそらくは伯父もそう思ったゆえの決断だろう。むろん藤堂にも異存はない。ただ、どうしても許せないのが、そこに無意味に的場果歩を巻き込んでしまったことである。
(――これは雄一郎の提案だ。的場さんを伴侶にする者に、私は二宮の家を任せようと思う。雄一郎は、お前に勝って彼女も二宮家も手に入れたいと言っている。瑛士、この勝負に乗ってみる気はないかね)  
 伯父から電話があったのが3月の終わり、乃々子と南原の結婚式に向かう車の中にいた時だ。
 松平帝が役所に警告に来た時から、果歩が伯父の思惑に巻き込まれる予感はしていた。
 伯父が、果歩に関心を持っていたことは、2月に彼女が二宮家で受けた待遇から分かっている。甥の配偶者に相応しいかどうか――二宮家を任せるのに相応しいかどうか。あの時、伯父は香夜や果歩をあえて自由に動かせて、おそらくはそれを見定めようとしていたのだ。
 その結果、伯父がどのような感情を彼女に抱いたのかは分からない、ただ、藤堂に二宮家に戻る意思がない以上、伯父に出された条件は「的場果歩を雄一郎にとられたくなかったら、二宮に戻れ」という、暗黙の命令のようにしか思えなかった。
 即答で、そんな条件には応じられないと藤堂は答えた。
 誰を選ぶのか以前に、人生の選択として結婚するかしないかを決めるのは的場さんだ。そこに他人が上から口を挟む感覚がどうかしているし、もっといえば二宮を選ぶかどうかも的場さんが決めることなのだ。
 ずっと選ぶ立場だった二宮の感覚が、世間の常識と違っているのだろう。
 ただ二宮の伯父にそのずれを指摘したところで、なんの意味もない。そういう立場で生き、そういう立場で死んでいく人だ。つまり――的場さんとは永遠に相容れない。
 それでもその日、頭では分かっていても、動揺と焦りが、藤堂を思わぬ行動に駆り立てた。理由は判らないが、真鍋は、藤堂が逃げるしかない卑怯な勝負を挑んできたのだ。畳みかけるようにその同日、果歩の異動先が秘書課だと聞いていたことも心を余計に波立たせた。
 真鍋は、自分が持てるあらゆる力を使って果歩との距離を詰めようとしている。真鍋のために、4月まではと自分を抑えてきたことが不意に馬鹿馬鹿しくなったのだ。
 いや――本音を言えば、いきなり目の前に真鍋が立ち塞がったような気がして、怖くなったのかもしれない。心のどこかで、それでも的場さんは自分を選んでくれるかもしれないと思っていたことが、まるで夕べの夢のように頼りない幻想にしか思えなくなったのだ。
 だから強引にあんな真似をして、結局彼女を泣かせてしまった。
 その後に起きた不幸な邂逅は、全て自分の責任だ。あの夜、芹沢花織が意図的に果歩を傷つけたのは、藤堂が待ち合わせのホテルに果歩を同伴させていたからだ。花織は、果歩にではなく藤堂の無神経さに怒ったのだ。
 思わぬタイミングで真鍋に再会した果歩には、もっと耐えがたい苦痛の時間だったろう。怒るのは当たり前だし、もう許してもらえるとも思っていない。
 ただ、それとは別に、後継者争いに果歩を巻き込んだ真鍋の真意となると、藤堂には全く分からない。
 自分が勝負の対象になっていることを知れば――いや、もう知っただろうが、彼女は烈火のごとく怒るだろう。
 あの人は怒るとかなり意固地になるから、話が余計にややこしくなる。頭のいい雄一郎さんが、その程度の予想もできなかったのだろうか? 
 というより、そんな回りくどい真似などしなくても、たった一言で済むはずなのだ。
 彼女の、頑なに閉ざした心の扉を開くには。
「…………」 
 雄一郎さんは何を考えているのだろう。
 分かっている。それは僕が考えても、多分仕方のないことだ。
 5月から、僕はただの傍観者だ。
 あの2人が抱え、こじらせた問題は、しょせん2人にしか解決できない。
 僕が気にすることでも、口を挟むことでもないのだ。
 そして、今僕が考えなければならないことは他にある。どれだけ苦しい夜でも、朝は必ずやってくる。明日になれば、プライベートな悩みは全て忘れて、都市計画局の問題に挑まなければならない。――
(――わぁ、こんな時間に屋上ってありなんですか)
(本当はなしですよ)
 夜の空気に、もう一ヶ月も前に散った桜の残り香が交じっているような気がした。
 的場さん。  
 僕は、そんなに強くない。
 基本的に人と関わるのが苦手だし、何かあればすぐに心を閉ざしてしまうコミュ障だ。
 忍耐強いとよく言われるが、実際はそこそこ切れている。不意に何もかもがどうでもよくなって、後先考えずに大雑把な判断を下してしまうことなどしょっちゅうだ。
 嫉妬深いし、心も狭い。多分、独占欲も相当だ。自分の気持ちを他人に伝えるのが下手で、その上、誤解されていることにも気付けない朴念仁。
 それが――僕だ。
 そんな不完全な駄目人間が、僕という人間だ。
 藤堂は目を閉じ、フェンスに背を預けた。
(私は大丈夫です。それより今は、係長の方が大変なんじゃないですか)
(彼女の仕事ぶりは、今まで雇ったどんな臨時さんより確かなんです)
(藤堂さん、私、目撃者を探そうと思います)
 ――的場さん、君がいなくなって初めて気がついたことがある。
 君がいないと、僕は何もできそうもない。
 役所は、これまで僕がいた世界と何もかも違う。
 僕が何もしなくても、周囲は優秀な人ばかりで、その歯車の中で与えられた仕事をしていればよかった頃とは全然違う。
 非効率な慣習や、仕事のスキルが不十分な職員、感情に支配され合理的な判断力がなくなっている上司。業務の継続が困難になるほどのスキャンダルを起こした職員。
 民間なら即座に配置換えだが、役所は原則それができない。そういった問題を全て抱えて、仕事を回していくしかないのだ。
 君がいてくれたから、こんな不完全な僕でも、これまで曲がりなりにも上司としてやっていくことができたんだ。
 その証拠に、君がいなくなってたった10日で、もう何もできなくなっている。
 君に側にいてほしい。
 僕を見て笑って欲しい。
(――もう私、藤堂さんのことが分かりません)   
 もうそれは、どうしたって叶わない望みなのかもしれないけれど。――






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