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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉 -藤堂side-(21)



「係長、国土交通省の課長補佐がご挨拶したいと仰っておられるのですが」
 翌日――都市計画局総務課。
 笹岡の声で、パソコンに向き合っていた藤堂は顔を上げた。
 大河内は体調不良で一日休み、入江耀子は朝から関係省庁の知り合いに私用電話ばかりしている。「そうなんですよ。また都市計画局に逆戻りです。ええ、張り合いのある仕事です。今度一度、飲みにお誘いしてもいいですか?」さっきからそのセリフを何度も聞いた。
 水原は朝から妙に刺々しい。つい先ほど、局長決裁を取りに来た都市政策部の職員に二度見されたから、多分、昨夜の噂が――夜間、給湯室で耀子と抱き合っていたという噂がすでに広がっているのだろう。 
 ――最悪だな……。
「大丈夫ですか?」
 電話の転送に備えていた藤堂は、「え?」と顔をあげた。みれば受話器を手にした笹岡が、どこか心配そうな目で藤堂を見ている。
「いや、今朝から少しぼうっとされているようでしたから。余計なことだったらすみません」
「大丈夫です、電話を」
 藤堂は微笑んで、転送を促した。――まずいな。新人にまで見透かされている。
 まだ昨日から、上手く気持ちが切り替えられていない。入江耀子への対処法も考えられないままだ。
 この繁忙期に、大河内が休みを取っているのも気にかかる。電話を受けた笹岡によると、口調は普段通りだったというが、体調不良でなく精神的にダメージを受けている可能性も否めない。
(二人で話をしていた時、いやらしい目で私の匂いを嗅いでたから。今、私にセクハラしましたよね。それ、全局に言いふらしましょうかって)
(そしたらあのおじさん、びっくりするくらい従順になっちゃった)
 それはいつの話だったのだろう。すぐにでも相談してくれればいいのに、やはり僕が年下だから頼りなく思われたのだろうか。
 セクハラ云々は間違いなく言いがかりだろう。こういっては悪いが耀子の匂いは――香水の匂いが駄目な人にはスメルハラスメントの域である。
 ただ、噂が広まってしまえば、ダメージを負うのは耀子ではなく大河内だ。
 ――ひょうひょうとしていらっしゃるが、昨年の出来事が負担になっていないはずがない。当時の騒ぎがまた蒸し返されれば、大河内さんも辛いはずだ。
 なんとかしなければ――しかし、もう藤堂に、入江耀子に対抗できる切り札はない。二宮の後継者が決まったことは、すでに政経界に広がっているだろう。元々二宮の養子で、今はその関係さえなくなった藤堂が、今後一切二宮家とは無関係になることも。
 ――いや、切り札はまだあるか。
 彼女の言い方を借りればステイタスだ。元後継者で、現当主の甥だという社会的地位。(私が欲しいのは二宮の元御曹司を落としたって言うステイタス。――私、係長のこと大嫌いだし、係長も私のこと嫌いでしょ? 絶対に恋愛関係にならないんだから、恋人のふりくらい簡単じゃないですか)
 どうでもいいか、その程度のことくらい。
 たったそれだけのことで、大河内さんが楽になるのなら。――
「お電話代わりました。係長の藤堂です」
 気持ちを切り替えて転送された電話に出ると、向こうから数秒の沈黙が返される。
「……? もしもし? 庶務係長の藤堂ですが」
「瑛士君?」
 ――……はい?
 硬質な、それでいてあえて相手に隙を見せるようなハスキーな女性の声。
「――私、忘れた? 佐倉よ、佐倉怜」
 記憶がその女性の名前をはじき出す前に、答えが本人から提示される。
 いきなり目が覚めたようになって、藤堂は受話器を持ち直した。
「佐倉さん? 驚いたな 今どちらからお掛けですか?」
「取り次いだ人から聞いていないの? 国土交通省都市局総務課。今私、そこで働いているの」
 驚いたな。再度同じ言葉を胸の裡で繰り返しながら、藤堂は昨日見た夢を思い出していた。
 何年かぶりに夢で見た人と、こうして電話をしているのは、どういう偶然なのだろう。
「……そうだったんですか。いや、全く知りませんでした。いつ入庁されたんですか」
「帰国してすぐだから、7年前ね。私こそ資料を見て驚いた。まさか瑛士君が地方公務員になっているなんて。それ、普通に考えてあり得ないでしょ」
「……いや」
 ふと視線に気づき、藤堂は周囲を見回した。電話を回した笹岡ももちろん、耀子ですら興味深そうな目でこちらを見ている。
「――すみません。つい懐かしくて業務を忘れていました。それで、僕になんのご用でしょう」
「掛け直してもいい? 正直言えば、仕事より昔の話をしたいから。携帯の番号、よかったら」
「……ああ、じゃ後でメールします」
 電話を切ると、すぐに笹岡が興奮気味に駆け寄ってきた。
「係長、もしかして佐倉補佐とお知り合いだったんですか」
「以前、少し一緒に仕事をしたことがあるだけです」
「ええーっ、一体どうやったら国土交通省のキャリアと仕事ができるんですか。藤堂係長って、以前はどこで仕事をしてらしたんですか?」
「それを言うと、佐倉補佐の個人情報まで話してしまうことになるので」
 藤堂はさらっと言って、会話を打ち切ろうとした。
「佐倉補佐の前職は、マッカーザック・カンパニーのマネージャーですよ。もちろん聞いたことがあると思いますけど、アメリカにある、世界1の経営コンサルタントファームです」
 耀子が楽しそうな声で言って立ち上がった。
「つまりそこに、藤堂係長もお勤めされていたってことなんですね。すごーい。世界中から頭脳エリートが集まる会社ですよ? 日本人の採用枠は年に1人か2人なのに」
「仕事で一緒だったと言っただけですよ」
 藤堂はやんわりと遮って、パソコンに視線を戻した。
 今月開催予定の政令指定都市局長会議。国土交通省から、来賓として佐倉補佐が来るのはその会議だ。フォルダの中には、参加者の名簿と連絡先が収められている。
 名簿には目を通していたはずなのに見落としていた。担当補佐が男だと思い込んでいたのと、――そう、まさか彼女が国家公務員になっているとは想像してもいなかったからだ。
 そこで耀子の、からかうような声がした。
「やだ、もしかして誤魔化してます? そういえば昨日の夜言ってましたよね。海外に長くいた頃、つきあっていた人がいるとかいないとか……、もしかしてその相手が、佐倉補佐だったりして」
 言ったのは入江さんであって、僕じゃない。
 答えずに、新規メールを開いていると、遠慮がちな笹岡の声がした。  
「入江主査は、佐倉補佐をご存じなんですか」
「そりゃ、私も国土交通省にいましたから、噂くらいは知ってますよ。彼女、本省じゃ有名な人なんです」
「そんなにすごい人なんですか?」
「若手ではダントツで、事務次官候補の筆頭です。ただ、政治家一家のご令嬢だから、いずれ退職して議員夫人になるんじゃないかしら」
 メールを打ちながら、耀子の話を聞き耳を立てていた藤堂は、彼女が肝心なことを知らないと分かって少しだけ安堵した。
 メールすると、ややあって携帯にショートメールが返ってくる。
『今週末、所用で灰谷市に行く予定なの。よかったらどこかで会えない?』
「――係長、私今日も県庁に行ってきたいんですけど」
 耀子の声に、顔も上げずに藤堂は応えた。
「どうぞ」
「直帰でいいですか。もうこっちには戻らない予定なので」
「わかりました」 
 勝利者のように微笑んだ耀子は、堂々とバッグを持って離席する。
 それに異議を唱える者は誰もいない。それどころか、笹岡など露骨にほっとした顔をしている。
「藤堂君、みょーな噂が広がってるけど、大丈夫?」
 コーヒーを煎れに席を立ったとき、同じタイミングで立った計画係の窪塚補佐が、隣でそっと囁いた。
「妙な噂とは?」
「入江女史とつきあってるって噂。どうせデマだろうけど、都市政策部じゃ藤堂君、いかにも女ったらしみたいな言われ方されてるよ」
「…………」
「何があったか知らないけど、入江さんみたいな人間とは、あまり深く関わらないことだよ。真面目に考えるだけ時間の無駄だ」
 窪塚に目礼だけを返し、藤堂は微かに嘆息した。
 改めて思わざるを得なかった。この職場で、耀子にまともに仕事をさせようとしていたのは、自分一人だったのだ。 

 
 *************************


「聞いたか、入江主査と藤堂さん」
「藤堂さんも真面目そうな顔をして、案外、女関係が派手な人だよな。――去年だってうちの須藤さんと人目も憚らずにいちゃついてたしな」
 聞こえよがしの声は、実際聞かせるために言ったのだろう。
 午後6時。
 藤堂は聞こえないふりで、都市政策部の執務室を突っ切って、奥に設けられた会議室に入った。誰もいない室内には、市長に提出する書類が積み上げられている。
 早速席に着くと、昨日の続きのファイルを開いた。
 この作業は今日で2日目だが、この部屋に誰かがいた試しはない。不足の書類について、追加提出するように言っているが、それについてものらりくらりとかわされ続けている。
(それなら、今、さがしてる最中です)
(業者から、まだ出てきていないのかもしれませんね)
 今も、前夜指示した修正は、ことごとく無視されている。
 全ての書類のチェックを会えた藤堂は、疲れた目に手を当てて、背もたれに背を預けた。
 ――かなり、重要な部分が抜けているな。
 それだけではない。過去の書類に、藤堂が見ただけで即座に分かる改ざんが、数カ所なされている。
 ――こんな迂闊な真似をして、ばれないとでも思っているのか。それともこの課では、こういったことが恒常的になされていたのか……。 
 他局から得た情報では、市長室に上げられた資料は、真鍋が雇った私設秘書が精査しているらしい。
 特別任用公務員――昨年任用された藤堂と同じ立場だ。おそらくだが、その内一人は経営のプロだ。素人の小細工など簡単に見抜かれてしまうだろう。
 なんにしても、このまま資料を提出させるわけにはいかない。
 いくら内部調査とはいえ、真鍋は市の膿を出し切ると言っているのだ。真鍋の意向次第では、即座にマスコミに発表し、関係者を告発する流れになるかもしれない。
 この改ざんが過去のものなら見過ごせないが、今回市長に提出するものに限ってなされたのなら修正はきく。というより、絶対に直させなければいけない。
 立ち上がった藤堂は、会議室を出て政策部の執務室に向かった。
 執務室には、人がまばらに残っている。今年来た者は気まずそうにうつむき、長くこの課にいる者は、冷めた目で藤堂をチラ見してから、顔を背ける。
「三田村補佐」
 藤堂が声をかけると、今年課長補佐になったばかりの三田村は、びくっと肩を震わせた。
「市長に提出する資料の件で、ご相談したいことがあるのですが」
「それについては、課長が責任者になっていますので」
 顔も上げずによそよそしい口ぶりで三田村が答える。
「……では、豊島課長は?」
 答えは分かっていたが、藤堂は聞いた。豊島の机はきれいに片付けられている。この二日間、藤堂は何度か豊島と話そうとしたが、それを避けるように豊島は外に出てしまうのだ。
「今週はずっと地元調整で、今日はもう、こっちにお戻りにはなりません」
「では、三田村補佐にお聞きしてもよろしいですか」
「……いや、私はちょっと手が取れなくて」
 また、この堂々巡りの問答だ。
 次に、では他に分かる人はと聞けば、もう帰宅したと返される。朝訪ねていけば、すでに外に出ていると言われる。
「――三田村補佐、期限は二日後ですが、あの資料をそのまま出せば、大変なことになりますよ」
「……はぁ」
 やはり顔を上げずに、居心地悪そうに三田村は答える。
「とにかく一度、会議室で、資料を一緒に見ていただけませんか」
「いやぁ……、今はちょっと、手が離せなくて」
 事態の深刻さがまるで伝わっていないことに、藤堂はさすがに苛立ちを覚えた。 
「三田村さん、真鍋市長の本業は、投資ファンドです。市長が任用した秘書にも経営のプロがいる。市職員の小細工など、プロにかかれば簡単に見透かされてしまいますよ」
「そりゃ、聞き捨てならないな」
 背後で、明らかに怒りを滲ませた声がした。
「市長はプロで、俺たちは素人ですか。さすがは民間さんは言うことが違いますね」
 藤堂は眉を寄せて、背後を振り返った。
 都市政策部のベテラン職員二人が立ち上がり、剣呑な目つきで藤堂をねめつけている。
「そんなに俺らのやり方が気に入らなかったら、プロ同士、勝手にやってりゃいいじゃないですか」
 彼らに同調するように、他の職員も立ち上がる。
「何も知らないよそ者が、適当なこと言ってんじゃないよ」
「経営のプロだかなんだか知らないが、俺たちだって行政のプロだ」
 今はそういう、感情的な話をしているわけじゃない。
 どうしてこんな簡単なことが、分からないし伝わらないんだ。
「僕の言い方が、」
「というより、時間外に女といちゃつくようなだらしのない人に、えらそうに言われたくないですよ、俺らも」
 失笑が室内に溢れ、さすがにまずいと思ったのか、三田村だけが気まずげに咳払いをした。
「とにかく……、うちには今、時間がとれる者がいないので」
 どこか途方に暮れた気持ちで、藤堂は時計を見た。これから総務課に戻って、入江耀子が放棄した仕事をやらなければならない。
 大河内は今日も休みで、その分の仕事もある。休みが続いたので、念のため夕方携帯に電話を入れてみたが、電話は留守電につながり、本人とはまだ話せない。
 明日も体調不良が続くようなら、一度家を訪ねて話をしてみなければならないだろう。
 様々なタイムリミットが迫る中、問題はひとつも解決していない。
 そして自分は今、問題解決の方法を間違ってしまったのだ。――
「係長、そんなところにおられたんですか!」
 その時、素っ頓狂な声音が、その場の緊張に割って入った。


 *************************


「すみません、夕方お電話をいただいた時、実は、家族で食事に行っていたものですから。いや、もう風邪の方はすっかりよくなって、今日は昼からのんびり韓ドラを見ていました。ご心配をおかけして、本当にすみません」
 へどもどと言い訳しながらその場に入ってきたのは、大河内だった。  
 咄嗟に藤堂は、なんと言っていいか分からなかった。この緊張と大河内のいきなりの出現に、思考がフリーズしてしまったのだ。 
「? どうしました、皆さんそんな……、え? 私、何かまずいところに来てしまったんでしょうか」
 ようやく剣呑な空気に気がついたのか、大河内がびっくりしたような顔をあげる。
 ぼさっとしたトレーナーにジャージ。撫でつけていない髪が、余計に髪量の寂しさをかきたてている。
「いや……、韓ドラって、主査」
 最初に苦笑いをしたのは、聞き捨てならないなと言い放ち、今にも飛びかからんばかりの剣幕で藤堂を睨んでいた40代の主査だった。多分大河内と同年くらいだ。
「いい年して何見てんですか。それ、女の見るもんでしょ」
「いやぁ、なかなか面白いですよ。妻の勧めで見始めたら私の方がはまってしまって。冬のソナタってドラマなんですけど」
「……、え? 一体何年前のやつを見てんですか」
 緊張は跡形もなく解け、その場に、和やかな空気が広がった。
「確か今日は風邪でお休みでしたよね。まさかこんな時間に、そこの係長に呼び出されたんですか」
 そう聞いた誰かの口調も、皮肉っぽくはあったが、どこかジョークめいた響きがある。大河内は慌てたように両手を振った。
「とんでもない。係長はそんな人じゃないですよ。私が心配になって来たんです。今、うちは的場さんが抜けて大変な上、係長だってまだ入庁2年目の新人ですから」
 その場で藤堂を囲んでいた全員が、虚を突かれたような顔になった。
「こう見えて気のきかない人ですから、私がいないと、細かいところが上手く回らないんです。――すみません。それでも、どうしても39話まで見ておきたくて」
 そこで誰かが吹きだして、それがきっかけで全員が笑い出した。気まずさを意図的に払拭するような笑い方ではあったが、そういった幕引きは藤堂にもありがたかった。
 どうやってあの場を収めていいのか、正直、見当もつかなかったからだ。


 *************************


「すみません、主査、ありがとうございました」
 都市政策部のカウンターを出ると、藤堂はすぐに礼を言った。大河内の控え目な性格はよく分かっている。間違ってもうっかりあの場に顔を出して場違いなことを言うような人じゃない。
「いえ、たまった仕事が気になってきてみたら、水原君から、係長が大変なことになっていると聞かされたものですから」
 ――水原君が……。
 それにもまた驚いて、藤堂は足を止めかけていた。
「局長も課長もいないし、年齢的に私が行くしかないと思いましたが、こんな真似をしたのは初めてで……、焦りましたよ」
 大河内は、広い額を手で押さえてふーっと長い息を吐いた。
「先ほどは失礼なことを申し上げてすみません。もちろんあの場限りの抗弁です。係長には悪いと思ったのですが、誰かを悪者にしないと、向こうも振り上げた拳を下ろせないでしょう」
「……悪者、ですか」
「悪者というより、こっちが間違っていたと――もちろん間違いではないですよ。それはあの人たちだって分かっていたと思います。係長の言うことが正論だということは」
 大河内が慌てて言い添え、藤堂は黙って頷いた。
「係長の言うことが正論だから、怒るしかやりようがないし、振り上げた拳の落としどころも分からないんです。こういう時は、こちらがちょっと隙を見せて、引き下がった方が得策なんですよ」
(係長だって、入庁2年目の新人ですから)
(こう見えて気のきかない人ですから、私がいないと細かいところが上手く回らないんです)
 ――なるほど、つまり僕を弱く見せて、相手に立場的な優位を与えたのか。
 都市政策部の連中も、何も本気で藤堂を憎んでいるわけではない。藤堂が弱さを見せれば、人数が多い分だけ、弱い者をいじめているような罪悪感が生まれてくるはずだ。
「……ちなみに、冬のソナタとは?」
「いや、私もよくは知らないのですが」
 数秒の後、2人は顔を見合わせて笑っていた。
「助かりましたし、勉強になりました。ありがとうございます、主査」
「いえいえ、昔ちょっと地元交渉の仕事をしていたことがあるものですから、その時のやり方を思い出して、……でもいっぱいいっぱいですよ」
 大河内が照れたように頭を掻いた時、総務課のカウンターから、水原と笹岡が飛び出してきた。
「係長、大丈夫ですか?」
「け、怪我なんかしてないですよね。たまたま通りかかったら係長が囲まれていて、僕、慌てて応援を呼びに戻ったんですけど、生憎大河内主査しかいなくって!」
 ――応援って……。
 何も喧嘩をしていたわけじゃないぞ。
 その勘違いにふっと肩から力が抜けて、数秒不思議な感覚に見舞われる。藤堂は苦笑してから、カウンターの中に入った。
「危ないところでしたが、大河内さんの機転に助けられましたよ」
「ええっ、本当ですか? 一体主査がなんの力に?」
「水原さん、それは主査に失礼ですよ!」
 水原と笹岡が口々に言い、大河内が噴き出したのを機に、その場に笑いが広がった。
 まだ問題は何も解決していない。
 それでも不思議と気持ちが楽になったような気がして、藤堂も笑っていた。


 *************************


「よかったんですか。お休みなのにこんな時間に出てきて」
 やがて笹岡と水原が帰宅し、総務課は藤堂と大河内の二人になった。
 自席で仕事をしながら藤堂がそう言うと、大河内は「いやぁ」と苦笑いする。
「季節外れの風邪で、女房が大騒ぎしたから休んだだけで、本当は出てきたかったんです。仕事がたまっていたのも分かっていましたし、それを係長が一人で被られるのも分かっていましたから」
「僕なら、体力があるから大丈夫ですよ」
 藤堂は微笑して、キャビネット内のファイルを出すために立ち上がった。
 そうか――本当に体調不良だったのか。
 そのことへの安堵と、何日かぶりに見た大河内の明るい顔にほっとする。
「今日は時間外勤務手当もつきませんし、きりのいいところで帰宅されてください。休暇中の職員を呼び出したとなれば、僕が春日局長に叱られますから」
「夕方、電話がかかってきましてね」
「――え?」
 振り返ると、大河内はパソコンに視線を向けている。そして続けた。
「誰だと思います? 異動した中津川補佐――今は課長でしたね。中津川さんです。どこから聞いたのか、係長が今困った立場だというのを聞きつけたみたいで」
 どこから聞いたのか? それはもちろん、水原→南原→中津川のラインだろう。
 そこまでは分かったが、中津川がそこで大河内に電話する理由が分からない。
「……中津川さんはなんと」
「私が今、都市政策で言ったのと同じようなことです。――藤堂君はああ見えてまだ入庁2年目の新人だ。緩衝材だった的場さんがいなくなって、ギクシャクしているだろうから、しっかりフォローしてやってくれと」
 ――……緩衝材……。 
「なんだかこう、それを聞いて私もすっかり忘れていたことに気がつきましてね。係長がまだ新人で、私がベテランの域に入る職員だということを。――それで、居ても立ってもいられなくなって」
「それで、来て下さったんですか」
 ええと笑って、大河内は頭を掻いた。 
「自分の仕事くらい自分で片付けようと思いまして。風邪はもうすっかりいいんです。だから、気を遣わないで下さい」
 自分の仕事というが、未処理の仕事の大半は入江耀子が残したものだ。
 その問題の解決法も、まだ糸口を見いだせない。
 ただ、大河内主査はベテランで、経験値では僕と比較にもならない。
 その主査が、一切彼女のしたことに触れないばかりか、こうして割り切った態度でいる以上、対応は任せておくべきなのか――
 自席に戻った藤堂は、消化されないまま頭に残っているワードについて、少し考えてから口を開いた。 
「的場さんは、緩衝材ですか」
 顔を上げた大河内は、おかしそうに笑った。
「傍から見れば非常に分かりにくかった係長の人柄を、彼女が周囲に分からせてあげていたんじゃないかと思いますよ。直接口に出して言うとかじゃなく、なんというか……お二人の関係性とでもいうのかな」
「関係性」
「的場さんを毅然と庇う係長を見ていると、ああ、いい上司だなと思いましたし、それに、係長の姿勢みたいなものは、的場さんを見ていると自然に伝わってくるんですよ」
「……姿勢ですか」
「ええ。あの大人しかった的場さんが、どんどん仕事に前向きになって。ご自身の意見をはっきり口にするようになったでしょう? 最初はね、よくある男女の色恋かとも思っていましたが、そうじゃなかった。係長はずっと上司として、的場さんを見守っていたんですねぇ」
 虚を突かれた思いで、藤堂は瞬きをした。
 ここで、どう言い訳すればいいのだろう。確かに上司として在籍している間は、男女の関係になってはいけないという矜恃はあった。
 あったが――それを守れていたか、どうか。
「……いや、大河内主査、僕は、……その」
「係長が、的場さんを好きだったのは分かりましたよ。ま、はっきり言えば、全員が分かっていたと思いますけど」
 思わず咳き込んだ藤堂を、大河内は優しい目で見てから微笑んだ。
「甘やかすでもなく、甘やかされるでもない。突き放すべきところは突き放して、必要な時は手助けする。――なかなかできるものではないですよ。互いに好き合っているなら、なおさら」
「いや、その……、互いというのは、その」
 まいったな。
 まさかこんな話を、大河内さんにされるとは。
「的場さんの人間的な成長が見えてきたから、係長の人柄や考え方も分かってきた。……少し回りくどい言い方になりましたが、緩衝材というのはそういう意味です。ああそうだ、映し鏡とでも言うのかな」
 ――映し鏡。
 はっと藤堂は息をのんだ。
「的場さんをみれば、係長の人柄が分かってくる。係長をみれば、的場さんの人柄が分かってくる。――そういう意味です」
「…………」
(瑛士、……俺とお前は映し鏡だ。まるで対になった車輪のように、同じ速度で走り続けている)
 二人で過ごした最後の夜、酔った脩哉に告げられた言葉。
 まさかそれと同じ言葉を、今、こんな形で耳にしようとは。
 藤堂の沈黙を、気を悪くしたとでも思ったのか、大河内が驚いた顔で立ち上がった。
「っ、すみません。余計なことを言いましたね。係長の気持ちも考えずに」
「――いえ、そういうわけじゃないんです」
 藤堂は慌てて振り返った。
 そうじゃない。
 今感じたのは、それとは真逆の感情だ。
「……そうじゃなくて……」
 僕は。いつも彼女を見ていた。
 目ではなく心の中で。いつもその存在を意識していた。
 今、何を考えているのか。
 僕のことをどう思っているのか。
 僕の考えや行動を、どう思っているのか。
 僕は彼女が好きだから。
 いつだって、彼女の好きな僕でありたいと思うから。――
(――だったら私が採点します。そういうことにしましょうよ。藤堂さんの採点者は私です)
「……係長?」
 不意に微笑した藤堂に、大河内は戸惑った目を向ける。
「いえ、ようやく答えが分かったので」
「――答え?」
 僕が、これからどうすべきなのかが。
 僕が、これまで、どうやってきていたのかが。
「大河内さん、よかったらこの後、飲みに行きませんか。僕の驕りで」
「えっ?」
「入江さんの話をしましょう。いえ、大河内さんのことは心配していません。――入江さんのために、話をしてくださいませんか」





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