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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉 -藤堂side-(22)



「これが、僕が再提出を求めた資料です。今日の5時までに全て揃えて、総務の僕の所に持ってきていただけますか」
 翌日――切り口上でそう言った藤堂を、言われた豊島課長だけでなく、都市政策部全員が驚いたように振り仰いだ。
「ちょっと待って下さいよ」
 真っ先に立ち上がったのは、神経質そうに眉をひくつかせた豊島だった。
「どうして、係長の藤堂さんに私が指示されないといけないんですか」
「繰り返しますが、期限は今日の5時までです。6時には市長に提出するので、一切の猶予はありません」
 藤堂は事務的な口調で遮った。
「だから、あんたになんの権限があるのかと言っているんだ!」
 豊島がさすがに言葉を荒げる。そこで課長補佐の三田村も溜まりかねたように立ち上がった。
「藤堂さん、もう余計な口を挟まないでもらえますか。うちにはうちのやり方があるんですよ!」
「生憎、僕にも局の庶務担当としての責務があります。市長の指示は絶対です。いい加減なものを出して、春日局長に恥をかかせるわけにはいかない」
 藤堂も一歩も引かずに言い放つ。にらみ合う3人の剣幕に呆然としていた職員らが、ようやく弾かれたように声をあげた。
「藤堂さんよ、何も俺らは市長や局長の顔色を窺って仕事をしているわけじゃないんだぞ」
「どれだけ出世したいのか知らないが、上のご機嫌をうかがってばかりの、あんたとは違うんだよ」
「そうですか。だったらすぐに辞表を出して仕事をやめたらどうですか」
 藤堂は冷めた目で言い捨てた。さっとその場が殺気立つ。
「なんだと?」
「えらそうに、たかが庶務係長が何の権限でそんなことを言ってんだよ!」
 もはや政策部では課長をはじめ全員が気色ばみ、怒りを漲らせた目で藤堂を睨みつけている。
 通りかかった他課の職員がカウンターの外で凍り付く。いまだかつて都市政策局でここまで険悪かつ深刻な状況になったことはない。
「勘違いしているようなら、はっきり言ってあげますよ。僕らはしょせん組織の一員であり歯車です。一番に窺うのは市長の顔色であり、次に窺うのが局長です。それができないというなら、役所を辞めて起業すればいい」
 反論を遮るように、強い口調で藤堂は続けた。
「ご自身の矜恃に従って仕事をするなら、それなりの責任を負う立場に立つべきだ。そんなこともできないあなた方が自分のやり方を主張されても、僕には我が儘にしか映らない。――僕の背後には局長がいることをお忘れなく。いつだってここの職員全員を外に出すこともできるんですよ」
「……、それは露骨な脅しだぞ、藤堂さん」
「どうとでも」
 愕然とした口調で反論した豊島に、藤堂は冷ややかな目を向けた。
「では、用件は最初に伝えたとおりです。本日5時まで。どうぞよろしくお願いします」


 *************************

 
 その日の7時過ぎ、藤堂が庁内食堂で遅い夕食をとっていると、ポケットの携帯が着信を告げた。
「藤堂さん、私です」
「ああ」
 藤堂は携帯を耳に当てて席を立った。食堂は閑散としているが、人に聞かれていいような話ではない。
「今日は……本当にありがとうございました。おかげさまで、なんとか職員が動いてくれまして」
 声は豊島課長のものだった。外からかけているのか、雑踏の音が声に混じっている。
「でも本当によかったんですか。うちの職員は血の気が多いですから、今夜にも藤堂さんを待ち伏せて、刺しかねない剣幕でしたよ……」
「まぁ……、いいとは言えないですが、でも、うまく収まってよかったです」
 藤堂は苦く笑って周囲を見回した。もちろん、誰も待ち伏せてはいない。 
 今朝藤堂は、豊島課長と三田村補佐を電話で呼び出し、14階の会議室で話をした。
 薄々分かっていたことだったが、課長補佐に昇格したばかりの三田村は上司命令と部下の反発の板挟みで苦しんでおり、豊島もそれは同じだった。
 基本技術職が多い都市政策部で、監査出身の豊島は全くの門外漢だ。仕事に口出しするたびに馬鹿にされて反発され、ほとほと弱り切っていたのである。
(……実は、五条原課長補佐から、余計な資料を出すなと言われているんです。……今の市長は、どうせ夏まではもたないだろうからと)
 この半月でげっそりと痩せた三田村が、苦悩を告白するように打ち明けてくれた。
(腹心の何人かに、資料の改ざんも指示しているようなんです。藤堂さん、僕らは天地神明に誓ってやましいことはしていません。なのに改ざんなんてそんな真似をしたらどうなるか。――下手したら、懲戒免職になるかもしれないでしょう)
(一体五条原さんが何を隠そうとしているのか、僕にはさっぱり分からないんですよ)
 2人の本心が分かったところで、藤堂は提案した。僕を悪者にして、課をまとめてみてはどうかと。
 藤堂が徹底的な悪役になり、豊島課長と三田村補佐の立場の弱さを見せつける。昨日の大河内の振るまいから学んだことだが、多分、それが落としどころだ。
 三田村が吐露したような不安は、多分全員が抱えている。だからといって、どこで自分の矜恃をねじ曲げていいか分からないでいるのだ。
 結果、それは上手くいった。今日一日、すれ違う都市政策部の職員からは敵意を超した憎悪を感じたし、「春日局長の威を借る狐」と陰口をたたかれたが、まぁ――それもいずれは消えるだろう。
「藤堂さん、もしよかったら、今度飲みに行きませんか」
「え、僕とですか」
 豊島の誘いに藤堂は面食らって瞬きをした。
「いや……でも、僕と一緒のところを見られると、あまりよくないんじゃないですか」
「そんなことは気にされなくても大丈夫です。皆、大人ですから、本当を言えば、今日のからくりも薄々分かっていたような気もしますし」
「そういうことなら、ぜひ」
 実は、昨日も大河内と飲みに行く約束をしたばかりである。
 昨日、さすがに自分の服装を気にした大河内は藤堂の誘いを固辞し、また別の機会にという話になったのだ。ただ――話だけはその夜にした。
「藤堂さん、実はその時、お話しておきたいことがあるんです。今回の……」
「え?」
 そこで不意に声をひそめた豊島が何を言ったのか聞き取れず、藤堂は携帯を耳に当て直した。
「あ、すみません。そろそろ戻らないと――、じゃ、藤堂さん。また都合のいい日を教えて下さい、じゃっ」
 慌ただしく通話が切れる。
 ――今回の……?
 奇妙な気がかりを感じながらも、藤堂は携帯をポケットに滑らせた。
     
   
 *************************
 
 
「あんまりくっつかないでくださいよ。こんなところ、もし亮輔さんに見られたら」
「……、すみません。いつ僕がそんな真似をしたんでしょうか」
 ややむっとしながら、藤堂は隣を歩く南原乃々子と距離を開けた。
「藤堂さんはそうでなくても、亮輔さんが嫌がるんです」
 声をひそめ、乃々子は周囲をいぶかるように視線を巡らせた。妊娠五ヶ月、とはいえ体型に目立った変化はない。踵の低いパンプスと控え目なメイクが、妊婦らしいかなと思える程度だ。  
 ただ3月と比べると明らかに痩せた。休んでいた4月はつわりがひどく殆ど食べられなかったらしい。
「それにしても知らなかったですよ。南原さんはそれほど嫉妬深い性質だったんですか?」
 北区。ここは南原と乃々子が暮らすマンションがある区で、この辺りが丁度、南原が勤務する北区役所がある界隈だ。午後6時、帰宅時とあって周囲は駅に向かう会社員や市職員でごったがえしている。
 藤堂と乃々子は今日、揃って市役所を出て駅に向かい、北区役所前駅で電車を降りた。
 2人で、北区のとある店に向かうためである。 
「嫉妬深いというか……、相手は藤堂さん限定ですよ」
 ようやく区役所前の通りを抜けたせいか、表情に安堵を滲ませて乃々子は口を開いた。
「結婚するまで、ここまで深刻だったなんて私も知らなかったんです。彼、私と藤堂さんのこと、ずっと気にしてたじゃないですか。その、私が一時期、藤堂さんに……」
「僕は、最初からなんとも思っていませんでしたよ」
「……、」
 一瞬、唖然としたように口を開けた乃々子が、むうっと唇を尖らせた。
「もちろん分かってましたけど、普通、そこまではっきり言います?」
「いくらでも言いますよ。こんなことで南原さんに疎まれても面白くないですから」
 藤堂は憮然と言い返した。
 全く――結婚して子供まで生まれるのだから、いい加減昔のことは忘れてほしい。
 とはいえ、妊娠騒動の時にはっきり否定しなかったことは、確かに自分の責任なのだが。
「とにかく、今日のことは事後報告でいいので、ちゃんと南原さんに話して下さい。下手に隠されると、余計に面倒なことになるでしょう」
「ひっどい……。今日私が、一体なんのために藤堂さんと付き合っていると思ってるんです?」
「僕は1人で行くといったのに、ついてくるといったのはあなたですよ」
「だって、そんな話を聞いたら、気になるじゃないですか」
 不服そうに乃々子は呟き、藤堂は軽く嘆息した。――まぁ、喋った僕が悪かったな、今回は。
 大河内と話をしたのは、2日前――水曜日の夜のことである。
 入江耀子とのトラブルについて問い質した藤堂に、大河内はしばらく唇を引き結び、なかなか話し出そうとはしなかった。
(――すみません。ご心配をおかけしているのは分かっていたのですが、……そうですか、入江さんがそんな話をしましたか)
 諦めたように嘆息した大河内は、しばらく逡巡した後に話し始めた。
(――政策部にいた頃から彼女の悪評は聞いていましたし、仕事については、端から私がやるつもりでした。なのでそこは全く気にしていません。……仕事の引き継ぎも、係長には申し訳ないのですが、そこまで真剣にはしていませんでした。どうせ私がやることになるだろうと思っていたので)
(――彼女の機嫌を損ねたのは、私の些細な言動がきっかけですが、……なんていうんですかね。イジメといってもしょせん子供のすることなので、さほど気にしてはいませんでした。――ただ、係長に申し訳ないと思いまして)
 ――僕に。
 話を聞いていた藤堂は驚いて瞬きをした。   
(私は昨年、あんな騒ぎを起こしたばかりです。それがまた似たような騒ぎを起こしてしまうと、課の皆さんに多大なご迷惑をかけることになる。――入江さんの立場が立場だけに、係長もお困りになるでしょう。それなら、いっそのこと自分一人で被った方がいいと思ったんです)
 では、僕のために、黙っていたと言うんですか。
 藤堂が驚いて問うと、大河内は少し迷ってから頷いた。
(去年は、私にとっても死ぬか生きるかの選択でした。それに比べたら、この程度のトラブルなんて些細なものです。――私一人のことならどうにでもなる。でも係長は……私と違って将来のある人ですから)
 入江耀子に逆らって市の上層部に睨まれれば、藤堂の将来が危うくなる。大河内はそれを危惧していたのだ。 
 大河内の思いやりに、藤堂は胸が熱くなった。そして改めて、この人のことで、自分があれこれ心配する必要はないのだなと思った。
 この人は大人で――僕よりずっと冷静な判断ができる人だ。
 ただ今回は、それでも藤堂は自分の意思を貫くつもりでいた。
「それにしても、やっぱり藤堂さんの考えすぎなんじゃないですか」
 隣を歩く乃々子の声で、思考が現実に引き戻される。
「考えすぎとは?」
「入江さんの反応がおかしかったとしても、そこにケーキ屋さんを結びつけるなんて……、単にお気に入りのお店ってだけなのかもしれませんし」
「そうかもしれませんが、まぁ、少し気になったので」
 入江耀子が「私の匂いを嗅いでいた」と藤堂に訴えたのは、全くの作り話ではなかった。
 実際に大河内は、耀子の身体に染みついた匂いに気づき、それを口にしてしまったのである。
(もちろん私にセクハラという認識はなかったんですが、入江さんが赴任して3日目か4日目か……朝、席に着かれたとき、すごくいい匂いがしたんです)
(なんていうのかな。時々娘が休みの日にクッキーだのケーキだのを焼くんですが、その時と同じ、甘いお菓子の匂いがしたんですよ)
(それでつい微笑ましくなって、いい匂いですね、お菓子でも作られていたんですか。と、うっかり聞いてしまったんです。その途端、入江主査がひどく怖い顔をして、ぱっと席を立たれてしまって)
「…………」
(ああ、言ってはいけないことを言ったんだな、と。――女性の気持ちは私にはいまひとつ判りませんから、それをセクハラだと言われるならそうなんでしょう。もう彼女には謝罪しましたが、どんな罰でも受けるつもりでいますよ)
 その程度でセクハラだと認定されるのなら、何を言ってもセクハラだろう。というより、入江耀子は、セクハラを気にするような立場でも性格でもない。  
 市の女王である彼女にとって、大河内は僕も同然だ。強いて言えばその僕が出過ぎた口をきいたことが気にいらなかったという可能性はある。
 とはいえ、その程度の指摘に顔色を変えて立ち上がるなど、全く耀子らしくない。
 彼女の肝はいい意味でも悪い意味でも図太く、どれだけ自分が不利な立場に立たされても絶対に動じない。常に優位性を保とうと、頭の中で冷静に計算しているような女である。
 それがどうして、顔色を変えて立ち上がったりしたのだろう。よほど嫌なことを指摘されたか、それともまずいことを知られてしまったか……。
 そこでふと思い出した。月曜日、県庁の職員と会食をして戻ってきた耀子が、土産として買ってきたケーキである。
 その時も、なんでケーキなんだ? と奇妙に思った。しかも購入したのは北区にあるスーツ店だ。市役所からも県庁からも、電車で8駅も離れている。
 その時もらったケーキは、いったん冷蔵庫に入れて、翌朝ここにいる乃々子にこっそり持って帰ってもらった。小さなタルト型のチーズケーキだったが、課内で配るほどの数もなく、誰にあげても面倒なことになる予感しかしなかったからだ。
 菓子の匂いを指摘されたくらいで飛び上がった入江耀子が、ひどく不自然なタイミングで菓子を買ってきた。
 それに違和感を覚えた藤堂は、すぐに乃々子に電話して、ケーキの箱がまだあるなら、捨てずに持ってきて欲しいとお願いした。店名も住所もうろ覚えだったからだ。
(このお店、うちの近所で、最近できたばかりのスイーツ店ですよ。――あ、そう言えば、入江さん以前もここのシュークリームを買ってきて、局の女性に配ってました。すごく美味しいお店だからよろしくねって)
 乃々子の話で、余計に藤堂は奇妙に思った。結局入江耀子は、スイーツが好きなのか? 好きなのに、それを他人に指摘されるのが不快なのか? 
「……てゆっか藤堂さん、今は他に気にしないといけないことがあるんじゃないですか」
 役所を出た時から、何かもの言いたげだった乃々子が、ついに我慢が切れたとばかりに口を開いたのは、目的の店の看板が見え始めた頃だった。
「入江さんのことなんか、はっきり言えばどうでもいいじゃないですか。今日私が、なんで危険を冒してまで着いてきたか分かります?」
「……話を聞いて気になったからと、先ほどそう言いましたが」
「あのですね。気になったのは、そんなことばかり気にしている藤堂さんの神経です。今、入江さんのことを気にしてる場合です? 的場さんのことは、一体どうするつもりなんですか」
 乃々子がそれを言い出すことは薄々予感はしていたが、それでも藤堂は言葉をのんでいた。
「どうかしてるんじゃないですか? それとも、両思いだからって安心しきってるんですか? 的場さん、今元カレのところにいるんですよ? しかも超イケメンな上に市長って……、どうやって対抗するつもりなんですか」
 藤堂が黙っていると、乃々子は苛立ったようにまくしたてた。
「電話とかメールはしてます? 行き帰りは、車で送るくらいしてもいいんじゃないですか? 自分が彼氏だって、ちゃんと周囲にアピールしなきゃ駄目ですよ。――でないと」
「でないと?」
 逆に問うと、乃々子が窮したように言葉に詰まる。
 藤堂は苦笑して、乃々子を促して歩き始めた。
「……ま、言いたいことは分かります」
「分かってるなら」
「心配していただけるのはとてもありがたいです。でも今は、……そうですね、僕のことも彼女のことも、放っておいてもらえますか」
 しばらくの間、乃々子は不服そうに黙っていたが、やがてうつむいたままで口を開いた。
「的場さんと、別れるつもりってことですか」
「別れるもなにも、ちゃんとお付き合いしていたわけじゃないんです。それは、的場さんも分かっています」
「――そんなのただの詭弁です。誰が見たって2人は恋人同士だったじゃないですか」
「そうですね。……だったら僕らは」
 ――いや、僕は。
「その詭弁を一年間通し続けてきたんです。僕は彼女を好きだけど、恋人というわけじゃない。そして彼女には」
(――ごめんなさい……)
 ホテルで泣き出した果歩を思い出し、藤堂は一時言葉に詰まった。
 市長選の告示日だった。きっとあの日、彼女の心はずっと雄一郎さんでいっぱいだったんだろう。それが分かっていてあんなひどい真似をしてしまった。
 もう二度と、あんな辛そうな彼女の涙は見たくない。
「……彼女には」
 きっと、昨年の僕と同じように。
「過去と向き合う時間が必要なんです。多分、彼女もそれに気がついている。だから僕に連絡してこないんだと思います」
「そんなの、的場さんが強情なだけだと思いますよ」
「……そうですけど、そうでもないですよ」
 ふと藤堂は苦笑した。その時々でひどく怒るけど、結局最後は許してくれる。僕が心を閉ざしてしまっても、彼女から仲直りのきっかけを作ってくれる。
(藤堂さん、少し2人で話しませんか?) 
 そして僕は今も、――
 感情とともに言葉をのみ込み、藤堂は微笑して顔をあげた。
「いずれにしても、今、僕に言えるのはそれだけです」
   
 
 *************************
 
 
「いらっしゃいませ」
 店内に足を踏み入れた途端、藤堂も乃々子も息をのんだ。
『パティスリーアマンテ』
 アンティークな店内には、白いエプロンをつけた背の高い女性が立っていた。
 ちょうど、棚に置かれた菓子箱の位置を直していたのか、その手を止めて、愛想の良い笑顔で振り返る。
 誰が見ても、十人が十人こう思うだろう。――入江さんのご親族ですかと。
 きりっとした目鼻立ち、額でわけた長い髪。バランスのいい長身――どこを見ても入江耀子とそっくりだ。
「……双子……?」
 藤堂の隣で、乃々子が小さく呟いた。藤堂は聞こえないふりで、ケーキが並ぶケースの方に歩み寄る。
「何をお探しでしょう。この時期は、苺がお薦めですよ」
 歯切れのいい爽やかな声音まで、入江耀子とよく似ている。
「じゃあ、お薦めを何点か、みつくろっていただけますか」
「はい。お食べになられるのは、おいくつくらいの方ですか」
 藤堂はちらっと女性の胸元を見た。ピンバッチの名札が着いている。――入江遼子。もうこれは、勘違いのしようがない。
「あの、30歳くらいの女性です」
 そこで乃々子がいきなり口を挟んだ。
「体型を気にしている人なので、あまりカロリーのないものをお願いします。あ、でもきっと、ストレスがたまっているので、3つか4つ、美味しそうなのをお願いします」
 ――的場さんのことか……。
 勘弁してくれと思ったが、ここで言い争っても仕方がない。藤堂もそれでいいというように頷いた。買ったケーキは、どうせ乃々子に持って帰ってもらうのだ。
「奥様のお友達への贈り物ですか?」
「はいっ?」
「ええっ?」
 2人同時にぎょっとしたので、何気なく尋ねてくれた入江遼子の方が驚いた顔になる。
 彼女は、みるみる綺麗な瓜実顔を赤く染めると、丁寧に頭を下げた。 
「すみません。余計なことを言いました。まだ新人で、接客に慣れていないものですから」
 顔は似ていても、耀子と違って気取ったところがどこにもない。人柄の良さが滲み出るような態度である。
「実は今週見習いに入ったばかりなんです。粗相がありましたら、申し訳ございません」
 見習い――
 藤堂は頷きながら、内心感じた驚きをのみこんだ。
 入江耀子の祖父は三輪自動車の会長で、父親もその代表取締役の座についている。養女だという話ではあったが、その親族ならたいがい裕福な家だろう。――それが、小さなケーキ屋の見習いか。
「パティシエの見習いということですか」
「いえいえ、とんでもない。レジ打ちとか掃除とか、私にはその程度しかできません。パティシエは店のオーナーが」
「そうなんですか」
 本当にただの見習いか――まぁ、だからといってどうだというわけではないが、いずれにしても、入江耀子とは性格も価値観も随分違う人のようだ。
「よろしければ呼んでまいりましょうか。丁度手も空いていますし、お薦めを選ぶのもパティシエの方が適していますから」
 にこやかに微笑むと、遼子はレジの奥にあるガラスで仕切られたスペースに顔を向けた。
「パティシエ、今、よろしいですか」
 ややあって、扉の向こうから、白のコックコートと背の高い帽子を被った長身の男が現れる。あ、と乃々子が思わず小さな声をあげたように、一瞬目を奪われるほど綺麗な顔をした、しかし肩幅の広い男らしい体格をした男性だ。年は20代後半くらいだろうか。
「いらっしゃいませ、パティシエの黒崎です」
 穏やかな笑顔、柔らかな物腰。遼子が歩み寄ってオーダーの内容を告げるのを、うんうんと優しい目で聞いている。
 その時ようやく、鈍い藤堂にも理解できた。見習いというのはそういうことか。この2人は、おそらく近々結婚する予定なのだ。
「カロリー少なめですか。なかなか難しいオーダーですね。ではクリームのあまりかかっていないものを選びましょうか。遼子、トレーを持ってきてくれる?」
「はい」
 そこで乃々子が、背後からそっと藤堂の肘をつついた。
「聞かないんですか。入江さんのこと」
「まぁ……、ここでどう切り出していいのか」
「ちょっと、何しにきたと思ってるんですか。言っときますけど、私、ケーキなんか食べられませんよ。妊婦の体重管理は厳しいんです」
 言い捨てた乃々子が、覚悟を決めたように前に出た。
「あの、最初から気になってたんですけど、もしかして市役所にお勤めの入江さんの、ご姉弟か何かですか」
 黒崎と遼子が驚いたように振り返る。
「えっ、じゃあ耀子の同僚?」
「やだ、最初から言って下ったらよかったのに」
 2人は目を丸くして、同じように驚いている。乃々子がややひるんだように言葉を継いだ。 
「こちらの男性が同僚で、私はただ同じフロアにいるだけです。すみません、すごくよく似てらしたし、お名前が一緒だったので」
「耀子は1つ違いの妹なんです。といっても昔からしっかりして、私の方が妹だってよく間違われるんですけど」
 遼子が嬉しそうに言い、隣の黒崎がうんうんと頷いた。
「子供の頃からめちゃくちゃ頭よくて、俺らとは違うって感じだったよなぁ。あ、僕は彼女の幼馴染みです。家が隣同士で――でも耀子は高校で親戚の家の養女になったんですけど」
「耀子ちゃん、役所で元気にしてますか?」
 矢継ぎ早に話す2人からは、耀子に対する純粋な好意しか感じられない。
「……入江さん、何度かこちらのスイーツを買って、職場で配って下さったんですけど」
 おずおずと口を挟んだのは乃々子だった。きっと藤堂と同じ疑問を感じたのだ。2人が、しばらく耀子と会っていないような口ぶりだったから。
「ええっ、そうなんですか?」
「うっそ。ユウちゃん、気がつかなかったの?」
 黒崎が眉をあげ、遼子がびっくりしたような声をあげて黒崎を見上げる。
「いや、俺はずっと奥にいるから気付かないだろ。店員さんも、先週までバイトの学生だったしさ」
「あ、そっかぁ」
「耀子も水くさいなぁ。来てくれたんなら、俺に声を掛けてくれたらいいのに」
「ねぇ」
 結局、選んでもらった3つのケーキに加え、ロールケーキ一本をサービスされて、会計を済ませた2人は店を出た。
「あの」
 見送りに出てきた黒崎と遼子に、藤堂は足を止めて声をかけた。
「妹さんも、もしかしてお菓子作りがお好きなんですか」
「耀子ちゃんは、何でも器用にできるから」
 即座に、笑顔で遼子が答える。
「うん、今はどうか知りませんけど、元々僕がお菓子づくりに興味を持つようになったのも、耀子の影響ですしね」
「美味しかったよねぇ、耀子ちゃんの作ってくれたクッキー。そういえば、ユウちゃんの誕生日にはいつもケーキを作ってくれたよね」
 藤堂は丁寧に頭を下げて、2人に背を向けて歩き出した。
 しかし数歩歩いたところで、「すみません」という声に呼び止められる。
 振り返ると、遼子が小走りに追いかけてくるところだった。
 彼女は藤堂の前で足を止め、恐縮したように頭を下げた。
「耀子ちゃんのこと、本当によろしくお願いします。ちょっと我が儘なところもありますけど、根は本当にいい子なんです」
 隣の乃々子が困惑した目で黙り込んでいる。入江耀子がしてきた様々なことを思えば当然の反応だ。
「養女だって、本当は私が行くはずだったのに、めそめそ泣いてたら耀子ちゃんが自分が行くって言ってくれたんです。黒崎さんと結婚できることになったのも、耀子ちゃんが見合い結婚するって言って両親を説得してくれたからで――あ、すみません。また余計なことを言ってますね」
「いえ……」
「とにかく、誤解されやすい子だから心配で。でも私がこんなことを言ったなんて、絶対に耀子ちゃんには言わないでくださいね」
 再び乃々子と肩を並べて歩きながら、馬鹿な真似をしたなと思っていた。
 無駄に部下のプライバシーを暴くだけの結果に終わった。ケーキの箱がやたら重い。ひどく後味の悪い思いだけが残っている。
「……すごく、お似合いのカップルでしたね」
 多分、乃々子も気持ちは同じなのか、沈んだ口調になっている。
「似たものカップルっていうか、……藤堂さんと的場さんを見てる感じでした」
「……というと?」
「お人好しの鈍感同士……、天然同士って感じです。どっちも――すみません、そこに入り込もうとする恋敵にとっては腹が立つかな。お似合いすぎて」
「僕は、そこまで鈍感でも天然でもないですよ」
「どうでしょう。あんな風に、自分のことを好きな誰かの存在をきれいに忘れているか、そもそも気付いてない気がしますよ。藤堂さんも」
 藤堂は黙ってため息をついた。
 まぁ、それはあながち否定できないかもしれないな。今夜はその罪深さを嫌と言うほど理解させられたような気がする。
 甚だ勝手な想像だが、入江耀子は黒崎という男を好きだったのかもしれない。
 でも、黒崎が選んだのは姉の方で、きっと妹の気持ちには気づきもしなかったのだろう。
 だから店に行っても、黒崎と顔を会わさずに帰ったのか――会うのが辛くても、顔を見ずにはいられなかったのか――
 やがて、乃々子のマンションが見えてくる。分かれ道で、ケーキの袋を差し出した藤堂を、乃々子は首を横に振って断った。
「ケーキ、的場さんにあげてください」
「……じゃ、明日にでも秘書課に持って行ってあげてもらえますか」
「賞味期限、今夜の12時までですよ」
 どこか寂しげに笑い、乃々子はぺこりと頭を下げた。
「行ってください。藤堂さんが入江さんみたいになる前に」
「入江さん?」
「……気持ちを伝えられずに、好きな人に気づかれもしないって、あまりに辛すぎると思ったから。的場さんと市長があんな風に藤堂さんの話をする未来なんて、私、絶対に見たくないと思ったから」
「…………」
「……私、今日初めて、入江さんが気の毒だと思っちゃいました」
 もう一度深々と頭を下げると、乃々子は逃げるように駆け去っていった。


 *************************
 
 
 いつも見上げる窓に、ほのかな明かりが灯っている。
 しばらくその窓を見つめていた藤堂は、小さく息を吐いてから、手にしたままのケーキの袋に視線を向けた。
 ――まいったな、さすがに1人では食べられないぞ。
 というより、こんな姿を誰かに見られたら言い逃れができない。
 どこからどう見てもストーカーだ。
 好きな相手の家の前で、その人の部屋の明かりをこうして無為に見上げている。ただの、未練がましい情けない男だ。
 ――的場さんに見られたら、本当に失望されるな。
 あれだけきっぱりと「僕のことは忘れて構わない」と言い切っておいて、なんて様だ。まだあの日から、半月も経っていないというのに。
 もちろん彼女に会うつもりはないし、ケーキを届けるつもりもない。
 それでもついここまで足を運んでしまったのは、やはり今日目にした光景に、何か感じるものがあったからだろう。
(気持ちを伝えられずに、好きな人に気づかれもしないって、あまりに辛すぎると思ったから。的場さんと市長があんな風に藤堂さんの話をする未来なんて、私、絶対に見たくないと思ったから)
 乃々子に指摘されるまでもなく、自分もほんの少し、そんな未来を想像してしまった。
 彼女と雄一郎さんが楽しそうに僕のことを話している。ひどく幸福で、そして残酷な未来。
 ただ――
 ただその未来は、同時に僕の望む未来でもある。
 3人が3人ともに、納得できる結末を迎えられたらどんなにか幸福だろう。けれどそれが絶対に望めない以上、誰かが自分に嘘をつくしかないのだ。
 入江耀子の立場や内面は想像するしかないが、もし想いを伝えていなかったのだとしたら、その気持ちは痛いほど分かるような気がした。
 それが相手を悩ませ、苦しませてしまうからだ。
 それくらいなら、真実は永遠に自分の中にあればいい。――まぁ、全ては勝手な想像だけれど。
「…………」
 伝えれば、相手を困らせるだけの気持ち。
 だから会わずに帰るのか。会うのがいくら辛くても、顔を見ずにはいられないのか。
 ――呪いだな、本当に。
 まだ窓の明かりはついている。
 藤堂は未練を断ち切るように視線を下げると、踵を返して歩き始めた。





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