その翌々日、灰谷市に戻った藤堂には、さっそく慌ただしい仕事が待っていた。 午後1時から、灰谷プラザで全国政令指定都市局長会議が開かれる。その準備と当日の進行管理である。 その日ばかりは大河内も兼務から戻ってきて、水原と谷本主幹を計画係から借り受け、11時には全員で会場に移動した。 「水原さんと大河内主査は受付、谷本主幹はエレベーターで会場案内をお願いします。藤堂係長と笹岡さんは会場のチェックをしてください」 そう指示する入江耀子の準備は想像以上に完璧で、藤堂が口を出す必要はほとんどなかった。 「知らなかった。入江主査って、実は仕事ができる人だったんですね」 テーブルが並ぶ会場に入った時、笹岡がぼそりと言った。藤堂がいない3日でげっそりとやつれた感のある笹岡は、相当耀子にこきつかわれたのだろう。 しかしそれは悪い意味ではない。藤堂も大河内もいない総務課で、彼女が統括しなければならなかった仕事は会議の準備だけはないのだ。だから春日は、藤堂の東京行きに激怒したし、窪塚補佐も最後まで反対していた。誰も耀子に、藤堂の代役が務まるとは思っていなかったのである。 しかし、昨日の夜遅く、東京から戻ってきたばかりの藤堂が役所で進行をチェックしたところ、仕事は全て滞りなく進んでいた。もちろん修正しなければならない箇所はいくつかあったが、耀子が着任したばかりだということを考えれば、ほぼ完璧だといっていい。 ――仮に僕がいなくなっても、入江主査がいれば問題ないな。ただし、後は彼女のやる気の問題だが。…… 卓上の配布物を最終チェックしながら、藤堂はホテルのスタッフと打ち合わせをしている耀子に目をやった。 その視線に気付いた耀子が、つんっとした目を横に向ける。 もちろん、怒っているのだろう。今朝からつっけんどんな物言いしかされないから、それはよく分かっている。 「藤堂係長、今、春日局長から来られました」 大河内の声がしたので、藤堂は急いで会場を出た。 昨日までの3日間、登庁しなかった春日は、今日の段取りをほぼ知らない。それを一から説明するのが藤堂の主な役割である。 扉から出た直後、すれ違った耀子が藤堂にしか聞こえない声で言った。 「約束、守ってもらいますからね」 藤堂が答える前に、耀子はさっさと会場の中に入っている。藤堂は嘆息してから歩き出した。 ――見合いを壊すために、つきあっているふりか。 確かにやるとは言ったが、面倒なことになる予感しかしない。 それに、この話が万が一的場さんの耳に入ってしまえぱ―― そこまで考えた藤堂は、苦笑して首を振った。 それは、今、僕の考えることじゃない。彼女が今、自分の問題に立ち向かっているように、僕は僕で、自身の問題に立ち向かう時だからだ。 ただ、耀子が本当に困っているなら、どんな形であれ力になるつもりではいた。 それは、部下のプライベートに土足で踏み込んでしまったことへの贖罪の気持ちでもある。 ************************* 「藤堂係長、お疲れ様でした」 会議の後に行われる親睦会は、灰谷プラザ上階にあるレストランで行われた。 貸し切りになった広い会場には、幾つもの円卓が並び、各都市の局長との担当者が着席して歓談してる。怜がそう言って藤堂の席にやってきたのは、司会を終えた藤堂が、自分の席についた時だった。 同じテーブルには、耀子と大河内と笹岡、そして他の都市の担当者が座っている。春日局長は所用で退席。今夜は藤堂一人が、明日の視察に備えてホテルに泊まることになっていた。 「ああ、これはすみません」 藤堂は立ち上がって、グラスを差し出した。ビール瓶を持つ怜が、そのグラスにビールを注ぐ。飲むつもりはない藤堂は、すぐにグラスを置くと、怜の手からビール瓶を受け取った。その時には「補佐、こちらに」と大河内が立ち上がり、新しいグラスを怜の手に渡している。 「おかまいなく。私ならもう帰るところです。最後にご挨拶に寄っただけですから」 にこやかに微笑む怜に、さしもの大河内も、赤くなって視線を泳がせる。それはそうだ。本省の課長補佐という肩書きもさながら、怜の美貌は、一般人の持つそれではない。 素人集団の中に、芸能人が一人混ざったようなもので、今日の会議でも集まった全ての者が憧憬の眼差しを向けていた。 しかも全ての議題に添えるコメントが的確で、改めて藤堂は、彼女のスキルの高さを実感した。言っては悪いが省庁の総務課などに置いておくのは惜しいくらいだ。 その怜が、藤堂に丁寧に頭を下げる。 「本日は大変お世話になりました。生憎私は、今日の便で東京に戻りますが、一言藤堂係長にお礼が言いたくて」 「いえ、こちらこそ、大変お世話になりました」 ビール瓶をテーブルに置くと、藤堂もまた一礼した。 明日は市内視察の予定が入っているが、怜は最初から不参加で、今日、東京に戻ることになっている。 正直いえばほっとした。彼女を見ると、どうしても果歩と真鍋のことを考えてしまう。どこかで冷静に振る舞いきれない自分がいるからだ。 「ところで、こちらに入江さんという女性がいるでしょう。以前国土交通省の地方再生課にいた」 「ああ、そういうば紹介がまだでしたね」 藤堂が視線を巡らせる前に、耀子が弾かれたように立ち上がった。 昨年まで同省にいた彼女にとっても、佐倉怜の存在は憧れだったのか、今日一日、怜の近くに行く度にひどく緊張しているのが藤堂にも分かっていた。 「入江耀子です。――佐倉補佐のお噂はかねがね。今日は、お会いできて光栄でした」 「そう。実は私も入江さんの噂はよく聞いているのよ」 怜はにこやかに答えてから、微笑するように目を細めた。 「あと、少し心配もしていたの」 「……、心配、ですか?」 話の意味が分からないのか、耀子が戸惑ったように瞬きをする。 藤堂は嫌な予感を覚えた。笑っているように見える怜の眼差しが、ひどく冷淡だったからだ。 「うちの省に地方から派遣された職員を、入江さん、片っ端からいじめては、病休にさせていたでしょう? 今度は入江さんが同じ目にあっているんじゃないかと思って」 大河内が喉でつかえたような声を出し、笹倉がぎょっとしたように固まった。 「だって市役所じゃ、あなたが派遣されたよそ者でしょう? いきなりあなたみたいな何もできない女の子が管理職だなんて、部下もあなたも可哀想。私が部下だったら、市役所を辞める気になるまでいじめたおすけど」 立ちすくむ耀子は蒼白になっている。 テーブルはしん……と静まりかえり、その中で怜は悠然と微笑んだ。 「ああ、そうか。そもそもここはあなたのテリトリーだったわよね。灰谷市を拠点にした企業のお嬢様だっけ。――本当ならもっと田舎に飛ばされるところを、お父様の口添えで、灰谷市に派遣されることになったのよね」 「……、あの、私」 青ざめた顔で口を開きかけた耀子に、怜は厳しい目を向けた。 「まさかまだ、いじめみたいな低俗な真似をしているんじゃないでしょうね。もう国土交通省には二度と戻ってこられないでしょうけど、灰谷市で同じことを繰り返しているなら、やめた方がいいとだけ警告しておくわ。――私のところで押さえているけど、訴訟にしてもいいような案件はいくらでもあるのよ」 「佐倉補佐」 藤堂はたまらず口を挟んだ。耀子はうつむき、喉だけを鳴らしている。 彼女が、佐倉補佐の好みなども全て調べて今日の食事のメニューを決めていたことを知っている藤堂は、たまらない気持ちになった。 「酔っているようなら、タクシー乗り場まで一緒に行きましょうか」 「ありがとう。でもいいわ。一人で帰れるから」 あっさりと怜は遮った。 「藤堂さん、どこにもこういう、人の足を引っ張るだけのゴミみたいな存在っているけど、庇ったところで無意味なだけよ。困ったことがあったらなんでも私に言ってちょうだい。彼女だって、いい縁談が舞い込む前に、訴訟沙汰に巻き込まれるのは嫌でしょう」 「お気持ちはありがたいのですが、そういったことは僕の下ではありませんので」 藤堂は怒りを堪え、感情を抑えた口調で言った。 「それから、そういったセンシティブな話は、きちんと裏付けをとってからにしていただけませんか。そしてこういった場所で話されるのもやめてください。僕の部下を一方的に悪く言われるのは不愉快です」 「……あら、まるで私が悪者みたいね」 怜は、さも意外そうに眉をあげた。 「この市でも、彼女が色々やらかしていると聞いて助けてあげようと思ったのに、余計なことだったのかしら。でも藤堂さん、これからは自分の立場をわきまえてものを言った方がいいわよ」 つっと怜がきびすを返す。それまで呆然と突っ立っていた大河内が、弾かれたようにその後を追った。 「っ、し、下までお送りします」 耀子は強張った表情で立ち尽くしている。 「入江さん」藤堂は咄嗟に声をかけた。 「すぐにホテルに言ってタクシーを下に付けさせてください。それから、先に二次会の場所に移動をお願いします。僕が随行して皆さんをお連れしますから」 「あ、はい、分かりました」 はっと我に返ったように、耀子がばたばたと駆けていく。 藤堂はすぐに、席に残ったまま固まっている他都市の担当者に向き直った。 「どうやら女性同士、色々あるみたいですね。本当のところは分からないですが」 「……あ、まぁ、そうですね」 「いや、一体何が起きているのかと、びっくりしましたよ」 「まさか佐倉補佐が、あんな感情的な物言いをされるとは……」 ほんの数分だけ巻き起こった嵐は、そこに居合わせた人の気持ちに暗い影を落としたものの、全員が大人で、それをさらりと受け流す術を心得ている。 ――まいったな。 談笑しながら、藤堂は心の中でため息をついた。 国土交通省で入江耀子が色々問題を起こしていたのは本当のことだろうし、灰谷市で厄介者扱いされているのも本当のことだ。情報通の怜がそれを知っていたとしても不思議ではない。 しかし、怜の真意はそういったことに対する報復でも嫌味でもない。彼女は多分、藤堂に助け船を出してくれたのだ。藤堂がかつて、豊島補佐に出した助け船と同じで、自身が悪者になって耀子をコントロールしやすくしてくれたのだろう。 そうでなければ、最後に藤堂を恫喝するような言い方をするわけがない。 ただ、それは藤堂が望む方向とは少し違うような気がした。 ************************* 「――入江さん」 懇親会の二次会が散会になったのは、午後10時過ぎのことだった。繁華街の通りでタクシーを拾おうとしている耀子に、ようやく追いついた藤堂は声を掛けた。 二次会の席からずっと藤堂を避けていた耀子は、案の定不愉快そうな目になって顔を背ける。 会の始め、彼女の目元のメイクがきつくなっていたから、きっとアイメイクを直したのだろう。決めつけたくはないが、もし泣いていたのだとしたら胸が痛むし責任を感じる。 灰谷市では女王様の耀子も、実はまだ25歳の若手職員なのだ。 「すみません。どうしても一言謝りたくて」 駆け寄った藤堂は、息を切らしながらそう言った。 「僕が意図したわけではないですが、――佐倉補佐があんな言い方をされたのは、僕のことを慮ってのことだったと思います。実は昔、彼女は僕の上司だったんです」 「別に、係長が謝る必要はないと思いますけど」 顔を背けたまま、冷めた口調で耀子は口を開いた。 「全部本当のことですし、以前服務管理課にいた佐倉補佐なら、あるいは私がやったことを知っているんじゃないかと、それは最初から覚悟していましたから」 それには、藤堂がわずかに眉を寄せた。 つまり耀子が怜の前で見せていた緊張は、憧憬からくるものではなかったのだ。 「……もしかして、それで大河内さんから仕事を引き継ぎたくないと言ったんですか」 耀子は黙って顔を背けている。藤堂はうつむいてため息をついた。 「それならそうと、最初に言ってくれればよかったのに」 「今日、私をここまで追い込んだ張本人が、どの面を下げてそんなことを言ってるんですか」 耀子は、怒りを押し殺したような目で藤堂を見上げた。 「何もかも知っているくせに、善人のふりがお上手なんですね。私の義理の兄の店に行ったでしょう。翌日には姉から電話がかかってきて、何もかも聞きました」 はっと胸を突かれたように、藤堂は言葉をのみこんだ。 「あのタイミングで黒崎さんの店に行ったのは、大河内主査からセクハラの原因を聞いたからですよね? 係長にケーキを渡したのは私の痛恨のミスでした。係長が何を推測されたのかは知りませんけど、そういうのなんていうか知ってます? ゲスの勘ぐりっていうんですよ」 「……それは、申し訳なかったと思っています」 「言っておきますけど、何も私、姉と黒崎さんのために見合いを決めたわけじゃないですから」 耀子は憤りを堪えるような口調で続けた。 「それで係長が、私の馬鹿げた――もちろんあんなの冗談ですけど――要求をのんでくださるのなら、本当に余計なお世話です。というより、もう私のことは放っておいてもらえません? どうせ役所は辞めるんです。義父から、7月までには絶対にやめるように言われているので」 「お見合いをされるという意味ですか」 「それもありますけど、灰谷市役所にいても、私の経歴に傷がつくだけだって言われました。何か大変なことをしでかすみたいですよ。あなたの従兄弟の真鍋市長が」 ――雄一郎さんが……。 藤堂は眉を寄せた。先日、怜も似たようなことを言っていた。真鍋はこの市で、何をするつもりなのかと。――当然怜自身は、その答えを知っているのだろう。 「だから係長も、面倒なことになる前に役所をやめた方がいいと思います。で? 話がそれだけなら、もう帰ってもいいですか」 「……僕は、辞める時は、僕の意思で辞めたいと思っています」 「ああそうですか。お好きにどうぞ。何も私、そこまで真剣に忠告したわけじゃないですから」 耀子が道路の方に視線を戻す。藤堂は辛抱強く続けた。 「入江さんが退職されたいなら、僕に何も言うことはありません。明日にでもその旨を係に伝えて、退職の準備に入ってください。でももしそうでないなら――いえ、僕はそうではないと確信しているのですが」 「確信?」 耀子が苛立ったように振り返る。「すみません。あなたに私の気持ちの何が分かると言うんでしょうか」 「先ほど冗談だと言われましたが、僕にはそんな風には思えなかった。酔っていたのも、お姉さんがお勤めの店のケーキを買って帰ったのも、あなたが追いつめられているからだと理解しました。――それは、もちろんお姉さんとお会いしてから思ったことですが」 耀子が目元を険しくさせる。 「お見合いのことで、僕に力になれることがあればなんでも言ってください。なんだったら僕が、入江さんのお父さんと話をしますよ」 「はい? 父と何を話すんですか、まさか私と結婚するとでも?」 「そんな嘘はつけません。――入江さんはとても優秀な人材で、今仕事を辞めるのはあまりにもったいないと、そう言います。役所がこれから大変な事態になるなら、なおさらです」 「……は?」 耀子は、心から理解できないという顔になった。 「もっとも人格的な問題はあるかと思います。過去に人を傷つけたことも、反省して償って欲しいと思います。その上で、もう1年、僕の部下として仕事をしてもらえませんか」 たっぷり1分は、耀子はぽかんと口を開けていた。 「……まさか本気で言ってるんじゃないですよね」 「もちろん本気で言っています」 はぁっと脱力したように、耀子は額に手をあてた。 「私が、あなたの大切な的場さんや、百瀬さん……、須藤流奈。それから大河内さんに何をしたか全部知ってるくせに、何偽善者ぶったことを言ってるんですか。そういうの、一番苛々するんですけど」 藤堂は黙って、耀子が話すのに任せている。 「話せばわかり合えると思ってるなら大間違いです。言っておきますけど、私の性格の悪さは、昨日今日できあがったものじゃないですよ。いじめだって中学からずーっとやってます。そもそもクラスに弱い奴がいたらいじめるのって、もう人の本能みたいなものですよね? お金持ちの家の養女になった途端、みんな奴隷みたいにペコペコして馬鹿みたい。養親は私の言いなりだし、先生だって見て見ぬ振り。それで余計に苛々して――ていうか……、私、何言ってるの?」 はじめて耀子は、迷うように言葉を詰まらせた。 「何度反省したって……、いえ、もちろん反省なんて、まともにしたことないですけど」 初めて聞くような、頼りない声が風に流れた。 「だって反省したところで意味なんてないし、結局は同じことになるんです。他人を見下す癖のは子供の頃からだし、人が自分の思うように動かないと腹が立って叩き潰したくなります。弱い相手を見ると苛々して……私の世界から排除したくなるんです」 「…………」 それはきっと自分の弱さの裏返しだ。 半年前に彼女と接して来た時からずっと感じていたことだが、この人の他者への攻撃は、自分に対する病的な自信のなさと、それが理解できない他者への苛立ちから生まれている。 きっと激しい競争社会で、常に現状を否定されつつ、ひたすら上を目指してきたのだろう。今回の会議で彼女が作成した資料は、どれも異常なまでに細かく、不必要なものまで入念に揃えられていた。そこにかつての脩哉の性癖と似通ったものを感じ、ふと精査する手が止まってしまったのを覚えている。 どれだけ努力しても自己肯定できない苦しさと、自分より遙かに下のレベルの人間が幸福そうに生きていることへの苛立ち。おそらくだがそれが彼女の攻撃性の原因だ。 ――この人の不幸は、そういった黒い気持ちを全部叶えられる環境で育てられたということなんだろうな。 それも、二宮家という狭い世界で王様のように育てられた脩哉と似ている。脩哉もその世界から逃げだして、新しい自分を得ようとした。でも、……できなかった。 今の耀子は、最後の正月休みの夜、藤堂の前にふらりと現れた修也と同じなのかもしれない。むろん脩哉の持つ深刻さとは比べようもないが、半分自棄になって、生まれ故郷に戻ってきた。そして、ますます自身の攻撃性を増して周囲を壊し、ついには自分までも壊そうとしているのだ。 もちろん藤堂に、耀子の全てが理解できているわけではないし、なにもかも勝手な推測にすぎない。彼女の攻撃性がいい方向に進む保証はどこにもないし、都市計画局にも市にも害悪な存在だけなのかもしれない。が―― (本当にいい子なんです) 人には色々な顔がある。その一つだけをとって、全てがそうだと判断したくはない。少なくとも彼女をそんな風に評価する人が1人でもいる以上、僕はその言葉を信じたい。 「では僕に、弱味を握られたと思ってはどうですか」 そう言った藤堂を、耀子はひどく訝しげな目で見上げた。 「……どういう意味ですか」 「僕は佐倉補佐とは旧知の間柄で、ある意味互いの弱味を握り合う仲です」 多少大げさだが、一番知られたくない弱味を双方握りあっているという点では嘘ではない。 「僕が望めば、彼女は必ずあなたに報復するでしょう。あの人の親戚は警察官僚ですからね。その気になれば、些細な罪も立件されて起訴されるんじゃないかな」 「……は、はい?」 ぎょっとしたように、耀子が一歩後ろに引く。 藤堂は心の中で手を合わせた。 すみません、佐倉さん。お気持ちに甘えて、利用させてもらいます。 「というわけで、今後入江さんは、僕に絶対服従でお願いします。次にあなたが何かよからぬ性格を発動させたら、僕が諫めさせてもらいますから」 「…………」 「そんな感じで、1年、やってみませんか」 「…………」 馬鹿じゃないの? やがて、そんな声が風に流れる。 その場に立ち尽くしたままうつむく耀子を、藤堂は初めて親しみを込めて見つめていた。 ************************* 「係長、カウンターにすごいお客様が来られていますけど」 水原に囁かれ、パソコン入力をしていた藤堂は、顔をあげた。 2日後――大都市局長会議が無事に終わった週の木曜日。大河内は今日まで兼務で、耀子と笹岡は支払い処理とお礼のために、会場のホテルに赴いている。 耀子の態度は、あれから何がどう変わったというわけではないが、仕事だけは滞りなく進んでいる。 大都市会議の件では、窪塚補佐も耀子の処理能力に感心していたらしく、それだけは今回の収穫だと藤堂は思っていた。窪塚もなかなかのくせ者で、とぼけたふりをして人を動かすのが実に上手い。耀子のことも、きっと上手く使ってくれるだろう。 耀子には、仕事は自身の意思で辞めるといったものの、自分が長くこの市にいるべきではないことを、藤堂は漠然と予感していた。 もともと芹沢花織に勧められて――そこに雄一郎の意向があることを知って、市の採用試験を受けたのだが、最初から短くて半年、長くて1年でいいと言われていた。 その時はまだ、藤堂は元の会社に戻るつもりでいたのだ。マッカーザック・カンパニーからは、いつ戻ってきても契約すると言われているし、年俸は市職員の六倍以上だ。母を早く楽にしてあげたいと願っていた藤堂には、比べるべくもない条件である。 香夜の出現により、真鍋と花織の真意が藤堂と二宮家の和解だと分かった時、母もそれを望み――何より花織から真鍋の8年を聞かされた時、一度は役所を辞めようとも思ったが、最後のところで思いとどまった。 理由は、自分に気持ちを向けてくれる果歩をまだ諦めたくなかったのと、――わずかでも希望があるなら、せめて4月、真鍋が市に戻るまでの間、彼女の側にいたいという気持ちが強くなったからだ。 ただ、その決断の底には、藤堂自身が、役所の仕事に魅力を感じ始めていたという本音もある。雑多な人種が集まる職場で、揉まれながら、リーダーとして仕事をしていくことにやりがいを感じてしまったせいだろう。 でも、果歩が真鍋と一緒になる道を選ぶのなら、自分は2人の未来にとって心理的な負担でしかない。市を離れ、どこか遠くで別の仕事についた方が2人のためなのだろうという気がする。――いつか2人が、入江耀子の姉夫婦のように、僕のことを楽しく話せるようになる日まで……。 水原に声を掛けられたのはそんなことを考えていた時で、顔をあげた藤堂は、すぐにそれまでの感傷的な気分も忘れて立ち上がった。 これだけの美人が来訪したのだから、当然局中の注目を集めている。 立っているのは、先日東京に戻ったはずの佐倉怜だった。 「どうされました。何か、問題でも?」 駆け寄った藤堂がカウンター越しに問うと、怜はおかしそうに肩をすくめた。 「それが第一声? ちょっと所用があってこちらに来たから、ついでに挨拶に寄っただけよ」 耀子がいなくてよかったと思いながら、藤堂は課内に視線を巡らせた。課長は不在だが、局長は在籍している。 「それはどうも、お気遣いありがとうございます。もしよろしければ、局長室の方に」 「私用できたのよ。それくらい分からない?」 怜は笑いながら声をひそめ、藤堂はますます困惑した。 佐倉怜の顔を知っているはずの水原が、「すごいお客様が」という言い方をするはずだ。今日の怜は完全に私服で、ラベンダー色のワンピースと白のジャケットが、色白の肌とすらりとした長身によく映えている。リップの色も、先日のベージュとは打って変わって女性らしい薔薇色だ。 「私用と、言いますと」 「言葉どおり、プライベートな用事できたの。瑛士く」 「職名でお願いします」 藤堂は即座に遮った。 計画係では、水原と谷本主幹が仕事をするふりで聞き耳をたてている。2人は笹岡から親睦会でのいきさつを聞いており、佐倉怜と藤堂の関係に関心を持っているのだ。 その藤堂の焦りを察したのか、怜はいたずらっぽく微笑した。 「じゃ、藤堂係長に、お願いしたいことがあって来ました」 ――なんなんだ、一体。 もう当分会うこともないと思っていただけに、何をしに来たのかと不信感が募る。 藤堂は笑顔で「分かりました、いったん外に出ましょうか」と怜を促し、執務室を出た途端に笑いを消した。 「真鍋市長に会いたいのなら、僕に助力はできませんよ」 真鍋市長へのアポイントメントは、全ての局でNGになっている。決裁は全て電子で、議員が面会するのもままならない状況だ。はっきりいって、政令市の市長のあり方としては異常としか言いようがない。 「別に、真鍋さんに会うために来たわけじゃないわ。それに、本気で会うつもりなら、瑛士君ではなく」 「職名で」 「――藤堂係長ではなく、別のルートを使うから」 肩をすくめ、怜はちろっと舌を出した。 「真面目ね」 「あなたのような人と噂になると、後がひどく面倒ですから」 「あら? もうすでに色んな人と噂になっているんじゃないの? 若い順に、須藤さん、百瀬さん、松平のお姫様、それから的場さん」 最後の一言で、自分の表情が変わったのかもしれないが、気が付かなかったのか怜は何も言わなかった。 「よく僕のことを調べているんですね」 「そうね。せっかく再会するんだもの、徹底的に調べさせてもらったわ」 ならばむろん、果歩との関係も知られているのだろう。その果歩は今、真鍋の婚約者という立場にいる。だったら言動には気をつけなければいけない。 ひどく憂鬱な気持ちで、「で、何の用事なんですか」と藤堂は聞いた。 「実は、会いたい人がいるのよ」 「もちろん僕が案内する必要がある人なんでしょうね」 「そうね……、ある意味そう。というより、役所の中を私がうろうろしたら変に目立ってしまうじゃない」 「……? 役所の中にいる人なんですか」 「ええ。前も言ったわね。氷室課長の恋人よ」 ――…………。 「はい?」 今度こそ、藤堂は仰天した声をあげた。 「それは……つまり」 「そ、いよいよ私の恋敵の顔を見に来たのよ。もう直、うちの省は大変なことになるから今のうちに会っておこうと思って。もちろん案内してくれるでしょう、藤堂係長」 いやいやいや……。 何故僕が? 佐倉補佐の動機はさておき、なんで僕が、その案内人にならなければいけないんだ? |
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