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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉 -藤堂side-(25)



「行政管理課で、間違いないんですね」
「ええ、間違いないわ」
 2人で並んで階段を降りながら、リサーチ不足だな。と藤堂は思った。
 柏原明凛で正解だろうが、彼女は今年の1月に道路管理課に移り、4月には本省に帰っている。とんだ無駄足というやつだろう。
 それを知りつつ口にしないのは、この人の性格上、自分の目で見るまで引き下がらないと知っているからだ。
「ちなみに聞きますが、会ってどうするつもりなんですか」
「どうも――ただ顔を見ておきたいだけ」
「見て、それで?」
「意地悪ね」
 含むように怜は笑って、自分の胸を指でつついた。
「棘を抜くためにきたのよ。まだここに、ちょっと引っかかっているから」
「恋敵の顔を見れば、棘は抜けるものですか」
 それは意地悪ではなく、素直な気持ちで聞いたものだった。
 自分の心にも深く刺さった棘がある。それを抜く方法はあるのだろうかと思いながら。
「恋敵……ではないわね。もう私、彼のことは諦めているから」
 静かな口調で怜は続けた。
「強いて言えば、彼が選んだ人を見て、それで全部終わりにしたいの。そうね。恋の儀式みたいなものよ。卒業式みたいなもの」
 僕はどうだろう、と藤堂は思った。真鍋の顔なら昔からよく知っているし、あらゆる面で敵わないことも知っている。今さら顔を見たくらいで、とても卒業できるとは思えない。
 この1年、果歩とは色んな話をした。家族のことや学生時代のこと、初恋の人のことまで彼女は忌憚なく話してくれた。でもその話の中で、たった一つだけ、不自然なほど避けられていた話題がある。
 それが、真鍋のことだ。
 それだけでなく、真鍋市長の顔を見る度に怯えていた。
 いつも驚くほど積極的なのに、時々火が消えたように臆病になって、逃げるように心を閉ざしてしまうこともあった。
 そんな時の彼女は、藤堂を決して自分の中に入れようとしない。自分の中で懸命に色んなことを考えて考えて――そしてようやく、そっと扉を開いてくれる。
 彼女は何に怯えているのだろうと、最初は逃げ腰になる彼女の気持ちが分からなかった。
 やがて気付いた。この人は、幸福を失うことを畏れているのだ。それが深ければ深いほど、失った時の悲しみも深くなる。一度その経験をしているから、ひどく臆病になっているのだ。
 前園晃司との恋愛を――それが破綻しかけていたにも関わらず、いつまでも引きずっていたのはそのためだ。できることなら失いたくないと思っていた。だから裏切られていることを薄々知りつつ、しがみついていたのだろう。
 でも、もう完全に壊れていると分かった瞬間、自分からきっぱりと断ち切った。
 強さと弱さが、あの時の彼女からは見え隠れしていた。どちらが本当の彼女なのか、最初はよく分からなかった。
 でもこれだけははっきりと分かった。きっと本来強かった彼女を弱くしたのは――雄一郎さんだ。
 真鍋麻子の葬儀の日、泣き崩れた彼女を抱き締めた時、彼女の中に、まだ真鍋が色濃く残っていることを、残酷なほどはっきりと思い知らされた。
 その時から、少しずつ別れの時を意識していたのかもしれない。
 彼女との時間があまりに愛おしすぎて、時に現実を忘れそうになったけれど――
 今でも彼女は、自分の過去から雄一郎さんを消し去ったままでいるのだろうか。
 本当は消えていないと分かったとき、ようやくこの1年の自分が、現実とは違う場所で生きていたことに気がつくのだろうか。
 そうなったら――僕はもう、彼女の前にはいたくない。
 そして今度は僕が、抜けない棘を抱えたまま、彼女を忘れたふりをして生きていくのだろう。多分。――
 8階のフロアにある行政管理課に着いた時、隣に立つ怜がひどく緊張しているのが分かった。――ああこの人でも緊張するんだなと、どこか親しみを感じながら、藤堂は怜を振り返った。
「僕が、適当に用事を作って呼んできますよ。なんという名前の方ですか」
 カウンターの中では、二つの係が並列して並んでいる。ほぼ全員が机についているようだが、噂に聞いていたとおり誰も顔を上げないし、席も立たない。
 市の頭脳と呼ばれる行政管理課は、とにかく来客に塩対応の職場であるらしい。
「日高さん」
「え?」
「法規係の日高成美っていう女の子。去年入庁したらしいから、22歳?」
「……?」
 聞き間違いか? と藤堂は思った。
 氷室課長は課長としては相当に若いが、もう30を超えている。それがうちの水原君と同期の子と? いや、まさか。
「もう一度聞きますが、日高さん?」
「ええ。でも見る限り、年配の女性しかいなさそうだから、もしかして外に出ているのかしら」
「……ええと、誰かに聞いてみましょうか、もう一度聞きますが名前は」
「だから日高さんよ。ねぇ、そんなに記憶力の悪い人だった?」
 むっと唇を尖らせた怜が、藤堂を小突いた時だった。
「あの、私のことですか」
 藤堂と怜は、びっくりして同時に振り返っていた。
 かなり下の方から、目元のくるっとした可愛らしい女性が不審そうに見上げている。
 下――というのは失礼な言い方だった。藤堂が185センチで、怜が175センチだから、彼女が小さいのではなく、2人が大きすぎるのだ。 
「日高は私ですが、何か、私にご用でしょうか」
「あ、すみません、都市計画局の藤堂です」
「はい」
「実は、ここにははじめて来たのですが、書庫に過去の判例書があると聞きまして。――うちの水原から、日高さんに聞けば分かると」
 咄嗟に考えた言い訳を口にすると、成美は親しげな笑顔になって頷いた。
「書庫の本のことなら、誰に尋ねられても大丈夫ですよ。ご用意します。本の題名は分かりますか」
 記憶にある判例書の名前を言うと、成美はすぐに書庫の方に駆けていった。
 そこでようやく怜の存在を思い出して振り返ったが、もう怜の姿はどこにもない。
 ――やっぱり、人違いだったのかな。
 怜が、柏原と日高の名前を混同していた可能性もある。まぁ、彼女に限って記憶違いはあり得ないとは思うが――
 やがて本を持って戻ってきた成美を見て、改めて藤堂は人違いだろうと思っていた。
 可愛らしい女性だし、人当たりもいいが、取り立てて目立つ美人というわけではない。ここで比べてしまうのも失礼な話だが、怜が洗練された都会の女性なだけに、彼女の朴訥さというか、平凡さが際だって見える。いや、これは本当に失礼な話なのだが。
 氷室課長が美男子を絵に描いたような男性だけに、2人のイメージも全く重ならない。「おい日高、お前、まだ管理課の法令チェック終わらせてないのかよ」
 貸し出し書の説明をしている成美の背後から、ひどく剣呑な声がした。
 コンプライアンスに厳しいはずの法規担当者にしては、ひどく乱暴なものいいだ。藤堂は内心驚きながら、声のする方に目を向ける。
「まさかあんな簡単な仕事に半日かけてんじゃないだろうな。お前のせいで、こっちはずーっと残業なんだ、どう責任をとるつもりなんだよ」
「っ、す、すみません。あと1時間で、必ず」
「30分、いや、15分だ」
「えええっ、なんで15分刻みなんですか」
 横柄な物言いをするから、どんな上司かと思ったら、これまた小柄で、愛らしい顔をした男性である。ああ、彼が雪村さんかと、それはすぐに得心がいった。
 雪村脩二。都市計画局を担当している法規担当者だ。おそろしく頭が切れるという噂は再々耳にするが、その口の悪さも有名だ。
「ほんっと横暴なんだから……、あ、すみません。独り言です」
「いえ、お気になさらずに」
 むしろそんな忙しい折に不要な仕事を頼んだことが申し訳なくなって、藤堂は視線を下げた。
 とはいえ、2人の会話に、どこかくすりとさせられるのは何故だろう。雪村の暴言にも、隠しようのない親しさを感じるし、それに応じる成美にも、慣れ親しんだ男への甘えが感じられる。
 氷室課長と違って、2人のイメージはぴったりと重なる。――
「さっきの女性は、都市計画局の方ですか」
 不意に聞かれ、その言い訳を用意していなかった藤堂は一秒詰まった。
「いえ、業者さんです」
「……、ああ」
 さまざまな疑問が浮かんだであろうが、話を打ち切りたい藤堂の気持ちを察したのか、成美はそれ以上聞かず、事務的に作業を終えてくれた。
 本を持って執務室の外に出ると、怜の姿はどこにもない。不審に思いながら階段の踊り場まで戻ると、そこに、背を向けて立っている。
 藤堂はため息をついて、その方に歩み寄った。
「やっぱり人違いでしたか」
「……ううん、本人。名札の名前が一致してたから」
 そう言って振り返った怜の目が、明らかに泣いている人のそれだったから、藤堂は驚いて言葉をのんだ。
「ごめんなさい。悲しいんじゃなくて――滑稽で」
 泣き笑いのような表情を浮かべ、怜は目の端の涙を指でぬぐった。
「ずっと、彼が好きになるのは、私より何倍も理想的な女性だって想像してたから。――ていうか私、ずっと彼の理想になろうと努力して努力して……それがなんだったのって思ったら」
 一瞬唇を震わせた怜の目から、涙が一筋頬をつたった。
「なんかもう、笑えてきて。――彼の奥様、モデル顔負けの精巧な美人なのよ。ねぇ、それがどうして、今はあんな小さな、どこにでもいるような普通の女の子なの?」
 言葉を切り、怜は乱暴に目元を拭った。
「メイクもへたくそ。髪型はダサいし、服のセンスも全くだめ。靴なんて……何あの安物。それで本当に氷室さんの彼女なの?」
 藤堂は、それには何も言えなかった。安物というが、公務員の給料で今怜が履いているような靴はとても買えないだろう。市役所の中では、そこまであしざまに言われるほどひどいとは思わない。というか、それが普通だ。
「なんだかまた未練が出てきちゃったじゃない。ねぇ、彼、もしかして悪い夢でも見てるのかしら。その夢が覚めたら、私のことを見てくれると思う?」
「どうなんですかね」
 彼女がいつまでも指で目をこすっているから、藤堂は自分のハンカチを取り出して差し出した。
「場所を変えますか」
 2人の背後を、階段で移動する職員が、何人か通り過ぎていく。怜が人目につく美人なだけに、不審そうな目を向けてくる人もいる。
 藤堂は怜の手を引いて、荷物搬送用のエレベーターに乗り込んだ。業者が荷物を搬入するために使うエレベーターだが、幸い誰も乗り込んでくることなく、目的の最上階につく。
 休憩スペースのベンチに腰掛けた怜は、ハンカチで目元を押さえ、しばらくの間無言だった。
 同じように黙って隣に座った藤堂は、これが現実なんだなと改めて思っていた。
 いくら綺麗な言葉で幕引きを図ろうとしても、傷ついた心はそう簡単には癒やされない。心に刺さったままの棘は、残酷なまでに気持ちをえぐって傷つける。
 ――本当に、最悪の呪いだな。
 それでも恋をしてよかったと、いつか自分もこの人も、思える時が来るのだろうか。
 それでも、恋をしてよかったと。
「前、佐倉さんがおっしゃってましたよね。恋は、心のひだに吹くそよ風だと」
 藤堂が言うと、怜は黙ったままでハンカチを持つ指に力をこめた。
「もし氷室課長が本当に先ほどの方とお付き合いをされているなら、そういうことなんじゃないですか」
「……そういうことって?」
 僕の心に、彼女が入り込んだ時のように。
 佐倉さんの心に、氷室課長が入り込んだ時のように。
「氷室課長が一番辛い時に、あの人が春の風のように心の中に入ってきたんです。――残酷なことを言うようですが、それを刺さった棘だと表現するのなら、抜くのは佐倉さんの役目ではないような気がしますよ」
「じゃあ、それはあの子の役目?」
「どうなのかな」
 藤堂は苦笑した。
「多分僕の心にも、佐倉さんと同じように棘が刺さっているんです。でもそれは、彼女を好きでいる間はとても幸福な痛みのような気がします」
「…………」
「忘れようとした途端、痛みは辛く耐えがたいものになる。問題は棘ではなく、僕の気持ちのありようなんです」
「…………」
「僕の好きな人の心にも、多分棘が刺さっています。僕は――僕のことより、彼女がその痛みを幸福だと感じられるようになってほしいと、そう願うばかりです」
「あなたが、抜いてあげるんじゃなくて?」
 藤堂は笑って、自分の胸を手で押さえた。
「僕自身が、それを抜きたくないと思っているから」
 彼女との日々を忘れたくない。たとえ二度と会えない場所に行ったとしても。どれだけ痛みに苛まれようと。
 そしてこの棘には、誰にもふれてほしくない。
 たとえ、この先誰と恋をしようとも。誰にも。
 藤堂はようやく、果歩がこれまで真鍋のことを、一言も話さなかった理由が分かったよような気がしていた。それは彼女にとって辛い思い出であると同時に、誰にもふれさせたくない大切な宝物だったのだ。――多分。
「人の心とは難しいですね。痛みと一緒に、前を向いて生きていくことができるのなら、それが一番いいのかもしれません」
 

 *************************
 
 
 怜と別れ、都市計画局のフロアに戻った藤堂に、また別の驚きが待ち構えていた。
「だから、あんたはなんなんだと聞いておる!」
「いや、あなたこそなんなんだ。言っておくが藤堂君は、うちの娘の婿になる男だぞ!」
 ――はっ?
 愕然とした藤堂は執務室に飛び込んだ。
「藤堂君!」
「藤堂君!」
 血走った目をした男2人が振り返る。一瞬藤堂には、その2人が誰だか分からなかった。あまりに、現実感がなさすぎて。
「この失礼な男は一体なんだ。いきなり来て、君を出せとの一点張りだ」
 ――中津川さん?
「こいつはなんなんだ、藤堂君。君を自分の息子も同然だと言っているが、まさかうちの娘を裏切っているんじゃないだろうな!」
 ――……ま、的場さん?
 的場憲介。いわずとしれた果歩の父親である。スーツ姿でブリーフケースを持っているから仕事帰りなのだろう。いや、そんなことはどうでもよくて。
 にらみ合う中年男2人の眼差しから、バチバチと火花が散っている。
「いっておくが、藤堂君にはもう決めた相手がいるんだ。なんの言いがかりか知らないが、顔を洗って出直してはどうだ」
「生憎、この男はうちの娘と付き合っていると言って、家に挨拶にまで来たんだよ。うちの婿も同然だ。横から手を出さないでもらおうか」
「外で話しましょうか!」
 藤堂は光の速さで的場憲介の腕を掴むと、執務室の外に引きずり出した。
 ちょっと待てちょっと待て。これは一体なんの悪夢だ?
 なんだって中津川さんと、的場さんのお父さんが総務課で言い争っているんだ。
 当たり前だが、男2人の言い争いは、フロア中の耳目を集めている。
 藤堂が目視した限り、庶務係と計画係のほぼ全員が唖然とした顔で立っているのはもちろん、局長室の前には春日局長が、少し離れた場所には、百瀬乃々子がぼかんと口を開けて立っていた。――最悪だ。
「おい、お前まさか、果歩を裏切っているんじゃないだろうな」
 エレベーターホールまで出ると、腕を振りほどいた憲介が、憮然とした顔で藤堂を睨んだ。
「さっきの男が、君を自分の息子同然だの、約束した相手がいるだの言っていたぞ。正直に言ってみろ。お前、二股をかけているのか!」
「…………」
 頭の中では今の状況が理解できているのに、想定を超えた展開に言葉が何も出てこない。
 異動した中津川が総務課にいるのはまだ分かる。本庁に寄ったついでに顔を見せてくれたのか、それとも仕事の引き継ぎにきたのかどちらかだろう。
 息子同然というのは、それが中津川の本心ならありがたい。昨年のクリスマス以来、中津川とは釣りに行ったり、元妻も交えて食事をしたりする仲になった。
 約束した相手がいるというのは、多分だが的場さんのことだろう。どういう状況でどういう誤解が生じたのかは知らないが、いきなりやってきた的場憲介を、恋敵の父親とでも思ったのかもしれない。 
 なにしろ、2月には百瀬乃々子の父親が「藤堂を出せ」と言って怒鳴り込んできたのだ。また同じような状況だと、中津川が早合点した可能性はある。  
「全くの誤解ですが、的場さん、――役所では、あまり果歩さんのことは」
「知っている。だから俺は、果歩の父親だとは一言も言ってはいない」
 やはり憮然としたままで憲介は答える。
 藤堂は胸を撫で下ろした。今、果歩は真鍋の秘書という立場で、――憲介に言う気はないが、二宮家を知る界隈では婚約者で知られている。
 8年前の悲恋が蒸し返された果歩は、新市長の秘書に抜擢されたことも相まって、役所ではかなり注目されている。ここで、妙な噂が立てば彼女にとってマイナスでしかない。「さっきの男は、いかにも自分の娘と君が結婚するようなことを言っていたぞ。お前、俺も果歩も欺しているんじゃないだろうな」
「……先ほどの方は僕の元上司で友人です。あの人に娘さんはいませんよ。多分、何か誤解されたんだと思います」
 一体中津川は何を言ってくれたんだろうと、半ば脱力しながら藤堂は事後策を考えた。
 まずは水原と乃々子の口止めだ。とはいえ最低限南原に伝わることまでは覚悟しなければならない。
 的場憲介が果歩の父親を名乗らなかったのは正解だが、名乗らないままに藤堂のことを「娘の婿になる男だ」と宣言したのなら、藤堂1人が再び「二股」のレッテルを貼られることになる―― 一難去って、また一難か。
「いずれにしても、先ほどの人には僕の方から上手く説明しておきますよ。それで、今日は何のご用でしょうか」
「……まぁ、……あれだ、少し様子が気になってな」
 はじめて気まずげに、憲介は咳払いをした。
「お嬢さんのですか」
「娘の顔なら毎日見ている。毎晩毎晩、暗い顔でため息ばかりついているよ」
 一瞬胸が詰まったようになり、藤堂は視線を下げていた。
「気になったのは君だよ、藤堂君。――まさかあの男が、いけしゃあしゃあと娘を秘書にするとは思ってもみなかった。君が……その、さぞかし、気を揉んでいるんじゃないかと思ってな」
 ――え……?
「……、それでわざわざ?」
「わざわざじゃない。営業のついでだ。――まさかこんなことになるとは知らず、君にあの男と果歩のことを色々話してしまった。いまさらだが、余計なことをしたと思ったんだ」
 居心地悪そうに視線を逸らす憲介を、藤堂は意外さをこめて見つめた。
 そんなことを言うために、わざわざ尋ねてきてくださったのか。    
「僕のことなら大丈夫ですよ」
「果歩とは、うまくやってるんだな」
 どう答えればいいのか分からないままに、「変わらず、おつきあいしています」とだけ答えた。それは、ぎりぎり嘘じゃない。
「だったらいいんだ。俺が余計なことを言ったばかりに、君らに波風がたったら本末転倒だからな」
 憲介は安心したようにほっと息をついた。
「いずれにしろ、あの男が出てきた以上、俺は全面的に君の味方だからな、藤堂君。あんなふにゃけた色男が、もし娘をくれと言ってみろ、その場で殴り倒してやる」
「……そんなに真鍋市長がお嫌いですか」
「いわずもがなだ。顔を見るだけで、いや、声を聞くだけで反吐が出る。あいつが娘に何をしたか全部君に話したろう。何が市長だ。――俺は絶対に認めない!」
「…………」
「とにかく君には、しっかりしてもらわんと困るんだ。今日はそれを言いに来た」
 そこで、喉に何かが閊えたような咳払いをすると、憲介は藤堂から目を逸らした。
「――き、君には、外泊許可を出したんだ。それで、俺の気持ちは汲んでくれ」 
 憲介を送るために一階まで降りた藤堂は、玄関で憲介と別れてから、再びエレベーターに乗り込んだ。 
 胸に、不思議な暖かさと一抹の寂しさが淀んでいる。
 ――的場さんの言うように、短気だけど気の優しい人なんだな。
(言っておくが藤堂君は、うちの娘の婿になる男だぞ!)
 交際は3月に認めてもらったが、今、結婚まで認めてくれたことになる。
 売り言葉に買い言葉だったのかもしれないが、好きな人の父親にそう言ってもらえたことは、素直に嬉しい。ただ、その言葉が現実になる時は、多分ない。
 最初から夢でしかなかったし、今ではそれを夢想していたことが、遠い世界の出来事のようだ――。
 しかしその感慨も、8階の執務室が見え始める頃には現実に取って代わる。
「今のは一体なんだったんだ? もしかして前にちょいちょい来てた婚約者の父親か?」
「百瀬さんの時みたいに、妊娠させたのかもしれないですよ」
 いや、百瀬さんを妊娠させたのは、僕ではなく南原さんだろう。
「あっ、藤堂係長が戻ってきた」
 ――さて……。 
 この不名誉な誤解を、一体どう解くべきか。




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