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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉 -藤堂side-(26)



「藤堂君、ほら、もっと飲みたまえ」
 いや明日はまだ平日で――と言っている間に、グラスにビールが注がれる。
 藤堂はそれを一口だけ飲みと、すぐに自分もビール瓶を持って、中津川のグラスに注いだ。
 午後8時。役所近くの居酒屋。
 久しぶりに総務課に顔を出した中津川と飲みに行こうという話になって、課長以外の全員が、同じ座敷で顔を揃えた。
「まぁ、元気そうで何よりだ。市長が変わって随分と苦労しているようだと聞いていたからな」
「僕なら大丈夫です。係の皆さんがよくやってくださいますから」
「謙遜するところも相変わらずだ、……相当大変そうだという噂は聞いているよ」
 ビールを飲み干した中津川が声をひそめて、テーブルの向こうに座る入江耀子に目を向けた。
「ああやっているところを見ると、案外いい子のように思えるがね」
 この場に、耀子が同行を申し出たのがそもそもの驚きだったが、今、水原や窪塚と楽しげに話している耀子の姿が、なお藤堂には信じられなかった。
 元々外面はよかったのだから、飲みの席で楽しげに振る舞うくらいわけもないだろうが、なんとなく彼女は、総務課に馴染むこと自体を拒否していたように思えていたからだ。
「まぁ、君が的場君とうまくやっていると分かってよかったよ」
 不意に相好を崩した中津川が、しみじみと呟いた。逆に藤堂が箸を止めてむせている。
「な、中津川さん、今の話は」
「わかっとる。誰にも言わんよ。しかしまさか、あんな頑固で物わかりの悪い男が、的場君のお父さんだとはなぁ」
 多分、的場憲介も同じように思っているのではないだろうか。それを想像すると、少しだけおかしくなる。
「わしはてっきり、秋に東京から来た女の子の父親だと思ったんだ。余計なこととは思ったが、なんだかむしょうに腹が立ってね」
「……腹が立つとは?」
 空になった中津川のグラスにビールを注ぎながら聞くと、中津川は顔を赤くして苦笑した。
「いつの間にやら、わしは君と的場君の父親のような気持ちになっていたんだなぁ。秋に来た女の子のことで、的場君は随分気を揉んでいたようだし、わしが代わりにガツンと言ってやろうと――いや、しかし、まさかその的場君の父親だとはなぁ」
「…………」
 藤堂は温かな気持ちで、自分もグラスに唇をつけた。
 今の言葉を的場さんに聞かせてあげたいなと、ふと思った。
 最初は犬猿の仲だった。自分と中津川さんもそうだが、彼女と中津川さんはそれ以上だ。
 中津川は女性は家にいるものだと頑なに思い込んでいるような男だったし、果歩を頭から戦力外扱いしていた。
 果歩はその境遇に表向き笑顔で耐えながらも、じりじりと神経をすり減らし、同時に社会人としての自信も失いかけていた。中津川に対しては、相当にストレスをためていただろう。でも、その中津川が課内で孤立しかけていた時、そっとコーヒーを煎れてあげていたのも彼女だった。
 そういう彼女の優しさを、中津川は受け取ってくれていたのだ。
(さっきの男は、いかにも自分の娘と君が結婚するようなことを言っていたぞ。お前、俺も果歩も欺しているんじゃないだろうな)
「…………」
 中津川は、1人娘を海外で亡くしている。果歩をその代わりだと思っているわけではないだろうが、それに近い親しさを感じてくれているのかもしれない。
 それがなんだか、自分にも彼女にも、とても幸せなことのように思える。
「係長」
 ふと気付くと、隣に大河内がビールを注ぎに来ていた。藤堂は急いでグラスに口をつけ、半分ほど開けたグラスを大河内に差し出す。
「すみません」
「いえいえ、お疲れ様でした。今回も、ですが、また係長には助けられましたね」
「いや、僕は何も……」
 藤堂は恐縮しながら急いで大河内に返杯した。実際藤堂がしたことといえば、大河内を課から離脱させたことくらいだ。耀子が今後何を言い出すか分からないし、根本的な問題は何も解決していない。
「先ほど……市役所を出る前でしたか、入江さんから謝罪されましたよ」
「えっ?」
 思わずグラスを落としかけていた。
「あの日は、気持ちがむしゃくしゃしていたんだ言われましてね。大変失礼なことをしたと……そう言って頭を下げられました」
 数秒、言葉が出てこなくなった藤堂は、視線だけを耀子が座るテーブルに向けた。今耀子は、笹岡と2人で笑いながら何かを話している。
「そうですか、入江主査が」
 そうか――
 大河内さんに、謝ってくれたのか。
「どういう心境の変化かは分かりませんがね。でも……、どうせ係長が何か仰ったんでしょう?」
 そこで大河内が意味ありげに笑ったので、藤堂は大慌てで手を振った。
「いえいえ、今回僕は、本当に何も」
 佐倉補佐の名前を使って脅しをかけたのは事実だが、それが実効性のない脅しだというのは、耀子にも分かっているはずだ。
「どうだかな。――まぁ、私にはどうでもいいことですが、的場さんをあまりやきもきさせないであげてくださいよ」
「はいっ?」
 どうしてそこに的場さんが出てくるんだ?
「係長はもてるからなぁ」
「も、もてませんよ。何言ってるんですか」
「その無自覚さがまずいんですよ。自覚しないと、今に女で痛い目に合いますよ」
 もうなんと言っていいか分からず、藤堂は閉口しながらビールを飲んだ。
 それでも大河内が楽しそうなので、自然にこちらも肩から力が抜けている。そうか――入江さんが大河内さんに。
「藤堂さん、今南原さんから電話があって、今からこっちに来るっていうんですけどいいですよね!」
 隣のテーブルから水原の弾んだ声がした。藤堂の斜め前では、中津川が窪塚と楽しそうに話している。
「今年も1年、なんとかやっていけそうですね」
「そうですね」
 大河内とグラスを傾け合い、藤堂はひどく穏やかな気持ちで、周囲に視線を巡らせた。
 ――的場さん、僕らの1年は、無駄ではなかったようですよ。
 色々なことがあったし、色々な選択をした。それが全部、正しかったわけではないことは分かっている。今回だって、多分そうだ。
 去年は、絶対に正しい答えを出さなければいけないと焦っていた時期もあった。そんな時、彼女がこう言ってくれたのだ。
(藤堂さんが一番したいようにされたらいいんじゃないかと思います。どうせこの手の問題に、正解なんてないんですから)
(だったら私が採点します。そういうことにしましょうよ。藤堂さんの採点者は私です) 迷った時は、いつも僕の指針は彼女だった。今回も、これからも。
 ――的場さん、今回僕は何点でしたか。
 胸の内でそう呟くと、ここにはいないはずの彼女の声が、あの日の潮風と共に蘇るような気がした。
(――百点です)
 

 *************************


「じゃあ、皆さんお疲れ様でした」
「また明日」
 店の前で口々にそう言って別れ、臨時の飲み会は散会となった。
「係長は、タクシーですか」
「いえ、自転車があるので、押しながら歩いて帰ります」
 藤堂が答えると、「若いねぇ」「さすがは倹約家の藤堂君だ」と冷やかしだか嫌味だか分からない声が飛ぶ。
 上着に入れていた携帯が鳴っていることに気がついたのは、その時だった。
 ――春日局長?
 画面に表示された文字を見た藤堂は、驚きながら時計を見た。午後10時半。こんな時間にかかってくるということは、間違いなくいい話ではない。
 ここまで一緒に歩いてきた大河内や中津川に片手を挙げて別れを告げると、藤堂は軒下に入って携帯を耳に当てた。
「はい、藤堂です」
「すまないね。飲み会の最中に」
 声が暗いのはいつものことだが、それよりひどく疲れたように感じられるのが気になった。
「いえ、今終わったところですから。何かありましたか?」
「君は、豊島君と話をしたかね」
 ――豊島課長?
 春日の第一声に、藤堂は戸惑って瞬きをした。都市政策課の豊島課長。
 市長に提出する資料の件で口を聞くようにはなったが、話というのは一体何を指すのだろう。
(藤堂さん、実はその時、お話しておきたいことがあるんです。今回の……)
 ――ああ、そう言えば……。
 忙しくてあれきりになっていたが、豊島は何かを話したそうだった。つまり自分の知らない何かを、春日と豊島は知っているのだ。
「特に話というほどの話はしていません。何か気になることでもありますか」
「いや、だったらいいんだ。この電話は別件だ。……、よほど明日にしようかとも思ったが……」
 そこで言葉をきった春日が、深いため息をつくのが分かった。
「いや、やはり今にしよう。たった今、私のところに中上総務局長から電話があった。市長の記事が、今週発売の写真週刊誌に出るらしい。発売日は金曜日だから明後日だ」
「……、どういう記事ですか」
 藤堂は眉をひそめた。総務局長といえば、この春退職した藤家の後任だ。というより、そんな電話が総務局長から春日に入った意味が分からない。
「市長が、市職員の女性とデートを楽しんでいる写真が出る。もう分かったと思うが、その相手が的場さんだ」
 数秒、春日が何を言っているのか分からなかった。
 ――……え?
「君も記憶に新しいだろうが、親子対決だの病気の妻を看取っただのが話題になって、選挙の時は、芸能ワイドショーまでが一地方の市長選を取り上げた。あの時は皆が真鍋市長を持ち上げ、虚像をつくりあげて人気者にした。――今度はその逆風が吹くというわけだ」
「待ってください」
 混乱しながら、藤堂は春日の言葉を遮った。
「その記事というのはどういう――、一体どういう内容なんですか」
「中上さんが言うには、ホテルの中で撮られた、言い逃れのしようのない写真らしい」
「…………」
 全く予想していない展開ではなかったのに、その刹那、頭を背後から殴られたような衝撃があった。
 ホテルの中で、雄一郎さんと的場さんが。
 自分の喉が、痙攣でもするように微かに鳴る。 
「とはいえ、市長も的場君も独身でいい大人だ。写真を撮られたところで客観的にみればどうということもない話だ。ただな、藤堂君。――あの時と同じなんだ」
 ――あの時……?
「昨年の秋、大河内君の事件を、東京キー局や在京五紙がこぞってとりあげただろう。あの時と同じだ。たかが一自治体の市長の醜聞に、あらゆるメディアが興味を示している。おそらくだが、来週には想像を超えた騒ぎになるだろう」
 懸命に冷静さを取り戻しながら、藤堂は携帯を強く握りしめた。
 ――あの時と同じ? あの時と……同じ?
「市長のダメージも相当だが、市長選は4年後で、今回の醜聞で政治生命に傷がつくことはないだろう。ただ、気の毒なのは的場君だ。彼女はしばらく自宅に帰れないと思う」
「どういうことなんですか」
「マスコミが、彼女の自宅にも押しかけている。的場さんは、今夜から真鍋市長のリザーブしたホテルに身を隠すそうだ」
 
 
 *************************
 
 
「は? どういう意味ですか」
「言葉通りの意味です」
 そう言って藤堂が机の上に新しいファイルを置くと、耀子は「えっ、まだあるの?」と言いたげな目になった。
「今日から一週間で、僕の仕事を全部入江さんには理解してもらいます。申し訳ないのですが、時間外にここで引き継ぎをさせてもらってもいいですか」
 午後6時。主が不在のままの局次長室。
 椅子に腰掛けた耀子は、ぽかんとした顔で山積みのファイルを見つめている。
「――……つまり、どういう意味ですか」
「言ったままの意味です」
「それ、今朝の騒ぎと関係あります?」
 皮肉めいた耀子の質問を無視して、藤堂はファイルを開いた。
 今朝、マスコミが押しかけた庁舎玄関は大騒ぎだった。その最中、タクシーで出勤してきた果歩には無数のフラッシュが浴びせられた。
 うつむいて小走りに庁舎に駆け込む果歩を、藤堂は遠くから見ることしかできなかった。彼女の側に片倉がいることだけが救いといえば救いだったが、ただその片倉も、役所に広まった噂だけは、どうすることもできないだろう。
(――元都市計画局の的場さん、市長とつきあってるらしいよ)
(――呑気にデートしてるところを写真に撮られちゃったんだって。役所の中をかき回すだけかき回して、自分は何やってんだよ、あの馬鹿市長)
(――どうせ最初から口説くつもりで、元カノを秘書に抜擢したんだろ? 公私混同も甚だしい。的場っていう女も、たいがい馬鹿な女だよ)
「――私の仕入れた情報じゃ、仕事を休めと言い張った市長に、的場さんが真っ向から反論したみたいですよ」
 笑うように言って、耀子は肩をすくめた。
「馬鹿みたいな痴話げんか。的場さん、さっさと仕事なんか辞めちゃえばいいのに。市長だっていずれ二宮の後継者になるんだから、」
「まずは局の予算のことから説明します。5ページ目に概要がありますので、一通り目を通してください」
「――ちょっと、本気で続けるつもりなんですか」
 耀子はうんざりした声で藤堂を遮った。
「冗談じゃないですよ。そもそも、なんで来たばかりの私が、係長の仕事を引き継がないといけないんですか。こんなことで時間外に部下を拘束するなんて、横暴にもほどがあるんじゃないですか」
「このファイルが経常費の予算で、今年度変更になった部分に付箋がついています。赤の付箋が削減されたもので」
「――ねぇ、私の話、聞いてます?」
 説明を続ける藤堂を遮るように、耀子はぱしんっと机を叩いた。
「どうしちゃったんですか、係長。ショックで頭がおかしくなったんですか? まさか仕事を辞めるつもりだとでも言うんじゃないでしょうね」
 藤堂が黙っていると、耀子は苛立ちもあらわに髪をかきあげた。
「馬鹿馬鹿しい――。失恋したくらいでヒステリーを起こすなんて、係長を見損なってました。そもそも辞めるつもりなのは私ですよ? なんにしても、こんな馬鹿げたことにはつきあえませんから」
 立ち上がった耀子の背に、藤堂は冷ややかに言い放った。
「僕に、絶対服従なのでは?」
「……、はい?」
「僕があなたの弱味を握っていることをお忘れなく。あと、お見合いを壊せというなら、いくらでも協力します。この話はもうこれでいいですか」  
「――、は……」
「では、時間がないので説明を続けます。席についてください」 
 唖然と突っ立っていた耀子が、釈然としない表情で椅子に座り直す。
「……本当に、どうしちゃったんですか」
「では、説明を続けます」
 藤堂は事務的に口を開いた。


 *************************


 窓の外から雨音が響きはじめる。その音にぼんやりと聞きいっていた藤堂に、過去の一場面が蘇ってくる。
(――瑛士……)
 まっすぐにこちらを見ている美しい双眸から、雨とも涙ともつかない雫が落ちる。
 10歳のあの日、瞬きもせずに自分を見ている脩哉が、何故泣いているのか分からなかった。
 ただ美しいと思った。そして胸が締めつけられるような悲しさを覚えた。
 あの日から、藤堂の心の中には、雨と脩哉が棲みついてしまったのかもしれない。雨は、いつまでも止むことはない。脩哉がそこから立ち去ることもない。
 でも脩哉、君が見ているのは、君が想う人じゃない。君が見ているのは、僕に似た別の人だ。
 それを伝えたいのに、いや、一生懸命伝えているのに、雨の向こうにいる脩哉は、まるで声が聞こえない人のように、そのままの姿で立ち尽くしている―― 
 その時、雨音と重なるように現実の音が戻ってきた。
「――係長、仕事やめるつもりなんですか」
 休憩から戻ってきた耀子がバンッと乱暴に扉を閉める。そして席に着くと、買ってきたペットボトルに口をつけた。
 2人て引き継ぎ作業を始めて今日で一週間。季節は5月から6月に変わり、梅雨のただ中、今週は毎日雨が降っている。
 藤堂が黙っていると、耀子ははぁっとため息をついた。午後10時、2人の他に都市計画局に残っている人はいない。
 耀子には大きい仕事を任せるつもりだと説明しているし、周囲もそれと信じているから、ある意味、藤堂の異変を察しているのは耀子しかいない。
「私、土日も出てきたし、毎日この馬鹿げた茶番につきあっているんです。ねぇ、いい加減本当のことを話してくれてもいいんじゃないですか」
「辞めると思います」
 視線を窓に向けたままで藤堂は答えた。
「……思います?」
「強行突破して市長室に入るつもりなので。――その時点で、局長には辞表を預けるつもりです」
 ぶっと耀子が咳き込んだ。
「は? 強行突破って……まさか、市長を殴るとか、そんな漫画みたいな展開を考えてるんじゃないですよね」
「…………」
「嘘でしょ……」
 耀子は、心底呆れたように呟いた。
「あなたのこと、もっと頭のいい人だと思ってました。そんな馬鹿な真似をして、何になるっていうんですか」
「…………」
「てゆっか脇役感丸出し。引き際が悪いって言うか、それ通り越して情けなくないですか? そんな真似をすれば、ますます的場さんと市長の仲が深まるだけですよ」
 そんなことはどうでもいい。
 藤堂は黙って視線を窓に向け続けていた。
 今の藤堂に、真鍋と連絡をとる術はない。市長室には真鍋の私設秘書の許可がないと入室できず、正式ルートで提出した面会申請は一向に許可されない。もちろん個人電話にも出てもらえない。
 芹沢花織も同じことで、会社を通したアポイントメントもずっと無視され続けている。
 あたかも、二宮の後ろ盾をなくした藤堂には、もう用がないといわんばかりで、実際、一公務員の藤堂には、今の事態をどうすることもできないでいた。
(私の主は、瑛士様ただ一人。私はもう一度、瑛士様にお仕えしたいのです)
 最後まで、片倉の期待に藤堂は応えなかった。その片倉を頼れない今、藤堂が真鍋に会うには、ある種非常識な手段を取るしかない。
 どうしても真鍋に問い質したいことがある。
 その答え如何では、藤堂は強引にでも、果歩を真鍋から引き離すつもりでいた。彼女の気持ちがどうであろうと関係ない。このまま、真鍋の側に居続けるのは危険でしかないからだ。
 春日局長から「豊島君と話したか」と言われた翌日、藤堂は豊島を誘い出して食事に行った。
 そしてようやく、あえて豊島課長の手助けをさせた、春日の真意を知ったのだった。
(――私の死んだ父親は警官でしてね。それで、こういった事情に詳しいとお察しください)
 随分酔いが回った後、その前置きを言ってから豊島は話し始めた。
(実は、今回市長が提出を求めてきた資料を精査している内に、監査時代に感じたある疑問に行きついたんです。――藤堂さん、うちの市に、かつて暴力団がいたのはご存じですか)
(湊川会。今は東京に本拠を移して侠生会の下部組織になっています。ご存じでしょうが、侠生会は日本最大の暴力団組織で、公表されている構成員は6千人。暴対法が施行されてもなお警察が踏み込めない、反社会的勢力最後の砦です)
 たまにニュースに名前が出てくる侠生会のことは、藤堂もそれなりに知っている。というより、その知識の殆どは二宮家にいた頃に学んだものだ。
 侠生会が、暴対法ショックを乗り越え、今もなお勢力を広げているのは、昭和の頃から政経界と深い繋がりを持っているからだ。総理経験者でもある大物政治家をバックにつけているから、現政府や官僚には絶対に手が出せない。いわば隠れた治外法権区である。
 そうした異常な状況を、伯父はこともなげに笑ってこう言った。
(瑛士、世の中とはそういうものだ。白いものだけでは回らず、黒いものだけでも回らない。そのバランスをとっているのが、うちや侠生会といった、決して世の中に出てこないアンダーグラウンドな存在なのかもしれないな)
 自分の家がヤクザと同列に表現されたことはショックだったが、伯父の言葉の正しさは、大人になってから理解できた。
 たとえば侠生会がなくなれば、彼らの支配下にあるいくつかの反社会勢力が暴走する。そしてアジアやロシアなどから流入してくるマフィアや黒組織をコントロールできなくなる。
 すでに日本経済の一角にがっちりと根を張った経済力も決して無視できるものではなく、侠生会の支配下にある会社全てが洗い出されれば、関連企業が雪崩的に倒産するだろう。
 一方で二宮家は、そういった全ての情報をコントロールしているのだ。
 数百年にわたって、政府の機密も裏社会の機密も当主しか知り得ない場所に蓄積している。いわば生きたデータバンク。それが政経界と裏社会両方の抑止力になり、互いを上手く牽制させながら絶妙なバランスをとり続けてきた。
 ――が、それはもう過去の話だ、情報化社会が極度に発達した今、二宮家を守っていたヴェールが徐々に剥がれかけているのも事実である。
(湊川会は表向き灰谷市から消えましたが、地元企業に巧妙に食い込み、利益の一部を資金源にしているのではないかというのは、昔から噂になっていました。真鍋元市長が現役の間は誰も口にしませんでしたが、その筆頭企業が光彩建設であることは有名な話です)
(もっとも、そういった会社の全てが暴対法が施行される前後に、権利をほかに譲ったり、代表取締役を解任したりなどして粛正を済ませています。すでに湊川会との繋がりは断たれたとみなされており。むろん警察の反社チェックにも引っかかりません。今となってはその全貌を洗い出すことは不可能でしょう。仮に可能であったとしても、湊川会のバックには侠生会がついている……その意味が分かりますか)
(そのような形で経済が回っていることを警察が――いや、国家が黙認しているということなんです。その闇をつつくことはいわばパンドラの箱を開けるようなものだ。ただ、藤堂さん……)
(……あるいは市長は、その箱を開けるつもりなのではないかと思いました。だとしたら、今市長が異常に身辺警備を固めている理由も判るような気がしましてね。――普通に考えれば、企業に巧妙にとけこんだ暴力団の存在を我々行政が暴くのは不可能です。でも、今の市長は、元々光彩建設の常務だったんですよ)
 ――そういうことか、雄一郎さん。 
 真鍋が、いずれ父親の会社を告発するところまでは、藤堂も予測していた。
 市と光彩建設との間には明らかな癒着が生じており、そこに前市長への忖度があることは、市の幹部なら誰でも薄々察していたことである。
 だから反市長派が生まれ、新たな市長を担ぎ出して市政から光彩建設を閉め出そうとした。それは――反発と混迷を極めつつも、ひどく乱暴な形で進められつつある。
 しかし仮に真鍋の真意がそこにとどまらず、光彩建設と湊川会のつながりまでも暴こうとするものなら、豊島の言うように、それはおそろしく危険なパンドラの箱だ。
 開けてしまえば、真鍋も決して無傷では済まないだろう。
 真鍋の父親が、湊川会の力を借りて息子の選挙妨害をしているという話は、この3月に片倉から打ち明けられた。
 光彩建設のなりたちを知る者にはさほど意外な話ではなかったが、藤堂が想像していた以上に、真鍋前市長と闇社会のつながりは深いようだった。
(――どうやら元副社長だった梶川という男が、湊川会の関係者だったようで、雄一郎様の母親とは長年愛人関係にあったともいわれています。その梶川を追い出すために、真鍋元市長は湊川会の別流派と手を結んだ。それが、今の湊川会と光彩建設の蜜月につながっているのです)
(――梶川と前妻を追い払うために、真鍋元市長は相当に汚い真似をしたそうですから、どうにも湊川会に頭が上がらないのでしょう。そんな人間が市長にまでなったんですから、湊川会にとっては最高の金のなる木ですよ)
 そして、藤堂が一番疑問に思っていた、果歩への過剰なまでの警備について、片倉の推測を語ってくれた、それは――真鍋麻子、雄一郎の義母の身に起きたことが原因の一端ではないのかと。   
 真鍋の叔父である吉永という男が、麻子の実子ではないかという噂は、藤堂も耳にしたことがあったが、その出生に関わるいきさつにはさすがにショックを覚えずにはいられなかった。実際にその直後、果歩の身にも、紙一重でそうなってもおかしくない出来事が起きたのだ。
 その時も、否応なしに果歩が危険に巻き込まれていることに憤りを覚えはしたが、同時にこの騒ぎは、真鍋の当選とともに終息するだろうとも思っていた。 
 それまで均衡を保っていたある関係が壊れる時、そこには様々な軋轢や小爆発が起こるが、やがて自ら新たな均衡を取り戻す。双方にとっての落としどころともいえる場所を見つけて着地していくはずなのだ。
 真鍋は自らの父親の不正を質して一市町村の安寧を得るだろうが、代わりに湊川会には別の狩り場を与えてやることになるだろう。暴力に屈する屈しない以前に、この世の中はきれいなものだけで回っていないし、そうするにはもう手遅れだからだ。
 マッカーザック時代に世界中の企業のデータを収集していた藤堂には、この異常な状態がむしろ世界の正常であることが分かっている。小さな曲線をいくつも描きながら、俯瞰的に見れば同じ形になっていくフラクタル曲線のようなものだ。
 そうやって、過去何百年にもわたり、世界の政治と経済は白と黒をのみこみながら回り続けてきた。黒が侠生会に一極化されている日本がどれだけコストパフォーマンスよく回っているか――どの経済書にも出てこないが、それが日本の現実だ。
 おそらく真鍋は、そのバランスを崩そうとしているのだ。
 きっと春日は、何らかのルートで真鍋の真意を知ったのだろう。しかし立場上、藤堂にそれを言うわけにはいかなかった。だから警察の裏事情に詳しい豊島と藤堂を接触させたに違いない。
(春日局長が会っているのは藤家さん。元灰谷市役所総務局長だった人よ)
 となると、情報の出所は藤家元局長か。藤家と真鍋が決裂したのはそのからくりを知ったためか。元市長を追い出すだけのつもりが、思わぬ怪物を新市長にしてしまった。その責任を取ったのか――
 いずれにしても、豊島の言うところのパンドラの箱に手をかければ、侠生会が黙ってはいない。絶対に阻止しようとするはずだし、今も真鍋は、水面下で激しい駆け引きを政府や侠生会相手に行っているはずだ。
 ようやく藤堂は理解した。真鍋はそのために、二宮家の後継になることを望んだのだ。
 湊川会の上部組織である侠生会と、引いてはその侠生会をアンダーコントロールしている政府と対等に駆け引きをするために。
 あるいは真鍋なら上手く立ち回るかもしれない。この不可能なミッションを完璧にやり遂げるかも知れない、――が、それが恐ろしく危うい、薄氷の上を歩くような危険を伴うことも間違いない。
 その危険に、あんな形で、あえて的場さんを巻き込んだ。
 密会場所となったホテルは、真鍋がオーナーも同然の場所だ。警備も万全だったろうし、そもそも用心深い真鍋が、あんなプライベートな場面を写真に撮られるはずがない。
 写真は、わざと撮らせたのだ。
 記事を見た瞬間、藤堂はそう確信した。
 それだけでなく、意図的にマスコミに拡散させた。
 果歩には絶対に言う気はないが、昨年大河内が起こした事件が全国ニュースで取り上げられたのも、裏で真鍋が手を回していたからだ。そのことについては、1月――正月休み最後の日に、真鍋本人から説明を受けている。
(――俺も俺で、お前には多少罪の意識を感じているからな。色々、面倒なことになっているんだろう?)
 あの夜、百瀬乃々子を自宅まで送った後、藤堂は約一年ぶりに真鍋と会った。
 それ以前も何度か顔を合わせる機会はあったが、藤堂の方が真鍋を避け続けていた。果歩のことを、真鍋にどう説明していいか分からなかったからだ。
 けれどあの日、藤堂ははじめて正面切って真鍋に聞いた。
(今でも、的場さんのことが好きなんですか)
(義姉さんと、同じことを聞くんだな)
 真鍋は、おかしそうに苦笑した。
(全くの誤解だとだけ言っておくよ。瑛士、お前10月に義姉さんと会っただろう。その時、彼女に何を聞いた?)
 それが、わざわざ藤堂に会いに来た真鍋の本題だった。
(――何も、ただ、雄一郎さんが市長選に出るつもりだとだけ聞きました)
 藤堂は嘘を言い、真鍋もそれ以上問い詰めなかった。
 いずれにしても、その夜2人は互いの本心を頑なに隠したままで別れ、以来3月の終わりまで一度も顔を合わせていない。
 大河内の事件を、真鍋がマスコミを使って拡散させたのは、そこに、次の選挙で対立候補になるであろう長妻元局長が絡んでいたからだ。真鍋にとってはまさに追い風で、事件を大きく報道させ、その上で元々用意していた長妻と元部下の汚職疑惑をリークさせた。
 今回も、真鍋は意図的にマスコミを利用している。
 今、果歩は家族ともどもマスコミに追いかけ回され、自宅にも帰れない状況だ。真鍋の恋人だと全国に存在を知らしめられ、役所では嘲笑されている。
 それだけではない。もし侠生会が真鍋と対立姿勢を強めたとき、果歩もまた、その格好のターゲットになるだろう。
 ――……許せない。
 いくら雄一郎さんでも、絶対に許せない。
 藤堂は膝に置いた拳を握りしめた。 
 真鍋の真意は憶測するしかないが、二宮の家に入ることを果歩が躊躇ったのは容易に想像がつく。あるいは二宮の伯父に佐倉怜との結婚を強要され、その対抗策のためにあえて2人の関係をリークさせたのかもしれない。
 それでも、的場さんの逃げ道を勝手に塞いでいいはずはない。
 彼女やその家族から、平凡な幸福を奪い取る理由にはならない。
 雄一郎さんは、そうまでして、あの人を自分のものにしたかったのか。――
「係長でも、そんな怖い顔をするんですね」
 耀子の声に、藤堂ははっと我に返った。いつのまにか、この場に耀子がいることを忘れていた。
「僕は、どんな顔をしていましたか」
「真鍋市長を殺してやりたいとでも言いたげな顔です」
 冷めた声でそう言った耀子は、足下に置いていた紙袋を取り上げる。
 藤堂は、自分がそんな顔をしていたということに、内心微かに動揺していた。
「これ、食べません? 少しは気持ちが落ち着くと思いますけど」
 ふわっと甘い、バニラの匂いが鼻をついた。――紙袋は、彼女の姉夫婦がやっているスイーツ屋のものである。
「新作のシュークリームです。あとマカロンもありますけど、どっちがいいです?」
 藤堂が黙っていると、耀子は包装紙を破って、半分ほど顔をのぞかせたシュークリームにかぶりついた。
「甘っ、昔から甘過ぎだって文句言ってるんですけど、全然聞いてくれないから」
 あっという間にひとつを平らげ、もうひとつに手を伸ばす。それも一気に食べて、もうひとつ。藤堂は呆気にとられたまま、耀子が4つ目のシュークリームに手を伸ばすのを見つめていた。
「なにも、ずっと片思いだったわけじゃないですよ」
 耀子が不意に言い、藤堂は微かに眉を寄せた。
「大学生だった時かな。姉が海外に留学することになって、その時、ちょっといい感じになったんです。――私と彼」
 彼というのは、パティシエの黒崎のことだろう。耀子にとっては隣に住んでいた幼馴染みだ。
「姉と彼、子供の頃から相思相愛だったくせに、お互い遠慮しあってなかなかくっつかなかったんですよ。まぁ、うちの親は姉をもっといい所に嫁がせるつもりでしたし、黒崎さんは専門学校卒だから。どう見ても不釣り合いってやつで」
「……それで?」
「双方の両親の反対もあって、姉は泣く泣く海外留学させられたんです。黒崎さんも可哀想なくらい落ち込んじゃって。そんな時、姉とそっくりの私が目の前にいたら、どうなると思います」
「どうなったんですか」
「どうも?」
 耀子は肩をすくめ、ペットボトルの水をごくごくと飲んだ。
「どうもなりませんでした。というより、そうなるのが怖くて私が逃げたんです。だって、どうせ身代わりだし、姉が戻ってきたら捨てられるし、そうなったら立ち直る自信なんてなかったし、何をしたところでどうせ姉には敵わないし」
 どうしてだか、自分のことを言われているような気がして、藤堂は無意識に視線を逸らしていた。
「でも今は後悔してます。今はというより、先月の初め、かけおちしてでも黒崎さんと結婚するつもりだと姉から聞いて、死にたいくらい後悔しました。――あの時、どうして逃げたんだろう。どうして、私の人生に訪れたたった一度のチャンスに賭けなかったんだろうって」
 私の人生に訪れた、たった一度のチャンス――。
 たった一度のチャンスか。
「それが束の間の夢でも、一度でも……」
 そこで言葉を途切れさせた耀子は、目の端を指でぬぐった。
「……あの日は彼の誕生日で、私、朝から泣きながらケーキを作ったんです。15センチのホールケーキを1人で食べて出勤しました。それを大河内主査に指摘されてびっくりしたのと、……なんだろう。まるで父親みたいな言われ方をしたのにもカチンときたのかな。その時、もう何もかも壊しちゃいたくなったんです」
「…………」
「大河内主査には、本当に悪いことをしたと思ってます」
 藤堂は黙って、自分も袋に手を伸ばした。
「お姉さんは、あなたが自分のために見合いをするようなことを言われていましたよ」
「そんなのただの強がりです。姉より優位な立場に立ちたかっただけ。そうでもしなきゃ、余計に惨めな気持ちになりそうだったから」
 やがて、はーっと息を吐くと、耀子は視線を天井に向けた。
「でも、2人は無事に入籍したし、係長に恋人のふりをしてもらうプランも後が面倒そうなので、見合いははっきり断ってきました。だったら養子縁組を解くって言われましたけど」
「え?」
「もうそれでいいかなって。1人で生きていける収入もあるし、――このまま灰谷市役所で局長でも目指そうかなって」
「…………」
「そう思いました」
 耀子はもう一度長い息を吐くと、破った包装紙を拾って袋に詰めた。
「どうして、僕にその話を?」
「さぁ? 強がるばかりで何もしなかった私の代わりに、恋敵を一発殴ってきてくれないかなとでも思ったのかしら」
 ようやく耀子らしい嫌味を言うと、彼女は少し考えるような目になって藤堂を見上げた。
「強行突破なんて無理ですよ。今、市長室の警備がどれだけ厳重か知ってます? 真鍋市長ってよほど神経質なんですね」
「……、敵の多い人ですから。ただ、僕とあの人は友人でもあるので」
「行けばなんとかなりますか」
「まぁ、むげには追い出されないと思います」
 ふぅんと頷き、耀子は数秒、考え込むような顔になった。
「私がなんとかしてあげましょうか」
「というと?」
「私の人脈の広さは知ってますよね。決裁を持って市長室に入れるよう手を回してみます。ただ、ひとつだけ条件がありますけど」
 ――条件?    
「私も同行させてください」
 藤堂は眉をひそめて耀子を見下ろした。
「何故ですか」
「係長に興味があるから」
 耀子は笑った。
「それに、今辞められて、私に仕事が被さってきても嫌ですから。1日待ってもらえます? 必ず私がなんとかします」




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