市長室に入室する許可が下りたのは、耀子が予告したように、その翌々日のことだった。 耀子を伴い、階段を使って市長室のある10階に向かいながら、藤堂はずっと抑えてきた憤りが、再び全身を満たしていくのを感じていた。 折しも昨夜、憔悴しきった的場憲介から電話があったばかりである。 (――娘が本当に馬鹿な真似をした。君にはなんと言って謝っていいのか……、俺もう、情けないやら、悔しいやら) (――マスコミが会社にまでやってきたよ。あれだけ派手に騒がれれば、もう果歩はまともな家には嫁にいけまい。役所も、おそらくだが辞めることになるだろう) (ただ、ひとつ言い訳させてもらえれば、果歩はあいつとよりを戻したわけじゃない、あれは仕事の延長だったと、頑なに言い張っていたよ。相当に悔しそうだったから、また今度もあいつに欺されたんだと俺は思っている) (君に、果歩を信じて欲しいとはさすがにもう言えないが、それだけを伝えたくて電話をしたんだ) 「――係長」 背後の耀子の声で、藤堂ははっと我に返った。 気付けば目の前に、市長室の透明な自動扉が迫っている。扉の向こうには大理石のカウンターがあり、その奥に、うつむいている果歩の姿があった。 「驚いた、もう堂々と仕事に出ているんですね」 背後の耀子の声が、自分の鼓動の音で聞き取れない。 ほんの一ヶ月前、毎日のように顔を合わせていた人と会うだけだ。その人を新しい職場に送り出した時、次に会うときは友人になっているかもしれないと――そう覚悟を決めていたはずの人である。 なのに、こうも緊張するものなのかと、藤堂は内心、自分の反応に呆れていた。 自動扉が開き、果歩がそれにつられたように顔を上げる。 「失礼します。都市計画局総務課です」 目を見張った果歩が、そのままの姿勢で動かなくなる。 明らかに4月の頃より痩せた。表情は固く強張り、まるで断罪される罪人のような顔で藤堂を見上げている。 ここ一週間の彼女の心境が全てその顔に表れている。胸を引き裂かれそうになりながら、それでも藤堂は、精一杯平静を装って微笑した。 「お久しぶりです。真鍋市長と4時半にアポをとっておりまして」 「……は、はい」 「市長室にお邪魔してもいいですか」 果歩が慌てたように受話器を取り、市長室の内線をコールした。 「へぇー、的場さん、休んでるって聞いたけど、仕事復帰してたんですね」 隣から耀子の声がした。顔を上げた果歩の目が耀子を捉え、明らかに不安そうな眼差しになる。しかしそこで電話に応答があったのか、果歩は急いで視線を伏せた。 「……あ、的場です。都市計画局総務課の方が来られていますが」 やがて受話器を置いた果歩は、どこか固い笑顔で藤堂を見上げた。 「確認いたしましたので、お入り下さい」 「ありがとうございます」 一瞬だけ絡んだ視線はすぐに解け、藤堂は意識的に果歩のことを頭の中から追いやった。 これからしようとしていることが、あるいは彼女を、もっと苦しめることになるかもしれないと思ったからだ。 果歩が決して幸福でないことは、顔を見ただけですぐに分かった。 その憤りは真鍋に向き、同時に自分にも向いている。 ―― 一体、どうしてこんなことになったんだ。 ――僕は、的場さんを苦しめるために手放したわけじゃない。雄一郎さんを信じたから、彼女とあえて離れたんだ。 なのに今の真鍋は、彼女を幸せにするどころか、彼女の居場所や大切にしているものを、根こそぎ奪おうとしている。 3月まで幸せそうだった果歩を、こんな風にしてしまったのは自分の判断の誤りのせいなのか――最初から真鍋を信じるべきではなかったのか。 「入江さん、ここで引き返してもらえますか」 市長室の手前でそう言うと、「ええ?」と耀子が不服そうな声をあげる。 「それ、話が違いません? なんのために私が」 「戻ってください」 前を見たままで藤堂は言った。「将来局長になるあなたを、警察沙汰に巻き込みたくないので」 ************************* 「――瑛士か」 藤堂が入室すると、パーティションの奥にある市長の机から声がした。 ペンを置いた真鍋が立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。 目元には微笑が浮かび、藤堂の怒りは知っているだろうに、不思議なくらい落ち着き払っていた。 「決裁だったな。どうせそれが本題じゃないんだろう? 説明するよ。突っ立ってないで座らないか」 「失礼します」 藤堂は静かに答え、持ってきた決裁文書を応接机に置いた。そのまま身を翻し、驚いたように立ちすくむ真鍋の襟を掴みあげる。 咄嗟に顔を庇うように腕を上げた真鍋を、その腕ごと殴っていた。殆ど無抵抗に殴られた真鍋が、腰を背後の机にぶつけ、そのまま床に崩れ落ちる。 「――っ、……」 よほど痛かったのか、腰を落としたままで、真鍋が歯を食いしばる。藤堂は大股で歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。 「何故、的場さんを巻き込んだ」 懸命に感情を堪えたが、それでも抑えきれない怒りが唇を震わせた。 「自分がどれだけ危険なことをしているか分かっているはずだ。なのに、何故的場さんを巻き込んだ。写真をわざと撮らせてマスコミにばらまいたのは知っている。どうしてそこまでする必要があった!」 真鍋は答えず、まだ痛みに耐えるような表情をしている。 「他に方法がなかったとは絶対に言わせない、――どうして彼女を、ここまで追い詰めるような真似をした!」 「雄一郎様!」 異変を察した片倉が飛び出してくる。 「いい、来るな!」 鋭く片倉を制すると、雄一郎は、どこか寂しげな目で藤堂を見上げた。 「……全部、彼女を守るためにしたことだ」 意味が分からず、真鍋の襟を掴んだままで藤堂は眉を寄せる。 「世間の注目は諸刃の刃だ。それは彼女を切り裂きもするし、同時に盾となって守りもする。……なにより俺は、彼女を安全な場所に閉じこめておきたかった」 藤堂から目を逸らすと、真鍋は微かな苦笑を唇に浮かべた。 「俺よりお前の方が、彼女の気性に詳しいだろう? 彼女は、決して俺の言いなりにはならない。婚約は俺に脅迫されて付き合わされた芝居だし、彼女にそんな気はさらさらない。……そんなことくらい、お前だって分かっていると思っていたよ」 「馬鹿げてる……」 藤堂は言葉を途切れさせた。 「あなたがしたことで、的場さんとその家族は、名誉や自由を奪われたんだ。何をしたって取り返しのつくことじゃない、本当に、他にやりようがなかったんですか」 「瑛士、今の状況は彼女やお前が思っている以上に危険なんだ」 藤堂の腕を払いのけ、真鍋は痛みに耐えるように眉をしかめた。 「彼女を守るには二宮の力を借りるのがベストだと思っていたし、本来ならその役目をお前に担ってほしかった。……まぁ、逃げてばかりのお前には無理だと思っていたけどな」 それには藤堂が言葉に詰まる。 「少なくとも交渉がまとまるまでのこの一時期、無理にでも彼女を安全な場所に閉じ込めて監視させる必要があった。お前の推察通り、写真はそのために撮らせて、俺自身がマスコミに流したものた。……ただ、それでも思うようにはいかなかった。今、秘書課で彼女に会っただろう?」 「……一体」 言葉を切り、藤堂はごくりと唾をのんだ。 「一体誰と、なんの交渉をしているんですか」 「それは言えない。言えばお前まで巻き込んでしまうことになる」 「…………」 「でも、薄々は分かっているんだろう? 大丈夫だ。勝算はあるし、全てプラン通りに進んでいる。そろそろ彼女を家に戻してもいいと思い始めていた頃だよ」 立ち上がった真鍋は歪んだネクタイを直すと、決裁文書を取り上げてから市長印を押した。 「写真週刊誌の件も、対策は打ってある。お前、週刊誌を見ていないのか」 「……見てしまえば、とても平静ではいられないので」 「もう彼女の噂は下火だよ。職場に戻ったら俺の名前で検索してみろ。いくらでもすごいのが出てくるはずだ」 どういう意味だろうと思ったが、まだ胸にくすぶったままの怒りは収まっていない。 そんな汚い真似をするくらいなら、何故彼女に本当の気持ちを打ち明けない。何故一方的に、彼女の気持ちを置き去りにして全てを進めてしまうんだ。 だったら最初から、的場さんに近づかないでほしかった。彼女を悩ませ、苦しめるためだけの再会になると知っていたなら、どんな手を使ってもそうさせはしなかったのに。―― 「――そこまで、的場さんのことを心配しているのなら」 藤堂は、懸命に感情を堪えて言葉を継いだ。 「いっそのこと、彼女に近づくべきではなかったとは思わないんですか。誰が見たって、雄一郎さんが彼女に特別な思い入れを持っているのは明白だ。彼女が危険だというなら、それは全部、今の自分の振るまいのせいだとは思わないんですか」 「何もかも、俺の振るまいのせいだというのはその通りだ。でもそれは、何も昨日今日始まったわけじゃない」 藤堂から背を向けると、真鍋は窓辺に立った。 「去年の10月、お前も花織さんから話を聞いたはずだ。彼女が何を言ったのかは想像がつくよ。的場さんと別れてからの俺が、ボロボロだったとでも聞いたんだろう」 「…………」 「それでお前は、的場さんから身を引いて松平香夜と婚約しようとした。ここまでは合っているか?」 合っている。去年の10月、藤堂が都英建設を辞めて以来初めての再会だった。 突然灰谷市まで藤堂を尋ねてきた芹沢花織は、初めて雄一郎が来春の市長選に出るつもりだと打ち明けてくれた。 (――瑛士君に言うつもりはなかったし、私が話したと知れば雄一郎さんは怒るでしょうね。その時、雄一郎さんは市政の大改革に取りかかるつもりでいるの。ただ、彼はそこに、あなたを巻き込むつもりはない。――雄一郎さんの本音は、どこまでいってもあなたが二宮家に戻ることなのよ) 二宮家を継ぐというより、二宮の伯父と向き合ってほしい。それが花織の話してくれた雄一郎の真意だった。それをクリアした上でこの先の人生を決めるべきだと。 その頃、水面下で香夜との婚約話が再燃していた藤堂には、今のタイミングでそれを言われても、素直に受け入れがたい状態だった。言葉に詰まる藤堂に花織は続けた。 (――雄一郎さんは何も言わないけど、あなたが的場さんとお付き合いをしていることに関しては、内心かなり動揺しているわ。……雄一郎さんとあの人の過去は知っているでしょう? 雄一郎さんはこの8年、ずっと彼女を引きずって生きてきた。それは……今も変わらないのよ) その時感じた驚きは、今でも昨日のことのように思い出せる。 8年前、真鍋と果歩が互いに想い合いあっていたことも、その時の幸福が真鍋の女性観を変えたことも、藤堂は知っていた。けれど真鍋はその翌年に別の女性と結婚し、果歩はその年の4月まで別の男と付き合っていた。――というよりその頃の藤堂は、真鍋と芹沢花織がいずれ再婚するものだと思い込んでいたのだ 真鍋が、たった数年で凄腕の禿鷹として名を馳せるようになったのは、花織と芹沢家のバックアップがあったからだ。特に花織は、真鍋のビジネスパートナーとして、公私にわたって真鍋を支え続けてきた。当然、双方そのつもりだと思っていたのだ。 (――雄一郎さんは、私には本当の弟のようなものよ。彼とは色々なことがありすぎて、いまさら恋愛感情なんて持ちようがない……。というより私は子供の頃から妹が大好きでね。好きすぎて好きすぎて……そう、一時期は雄一郎さんを本気で憎んでいたくらいなのよ) (――妹が亡くなった後の雄一郎さんの8年は、筆舌に尽くしがたいわ。私は全部知っているけど、死ぬまで彼の胸ひとつに収めておきたいことだってあるでしょう。だから、私の口からは死んだって言えないけれど……) (――ただ、的場さんと再会した後の雄一郎さんが、精神的に不安定になることだけは間違いないと思っているの。最初にも言ったわ。雄一郎さんは市の大改革を行おうとしている。今は詳らかにできないけれど、それはなまはんかな覚悟では挑めないものなのよ) (――4月になれば、雄一郎さんと的場さんは嫌でも顔を合わせることになるでしょう。その時、2人にどんな反応が起こるか私には想像もつかないし、的場さんは彼のことなんてすっかり忘れてあなたに夢中なのかもしれない。でも、それを押してお願いしたいの) (ほんの少しでいいから、雄一郎さんに的場さんを返してあげて。どんな結果になっても、雄一郎さんにはあの人と向き合う時間が必要なの。そうしないと雄一郎さんが本当に駄目になる) 衝撃だった。けれど自分の中で結論を出すのに、そう時間はかからなかった。折しもさまざまな誤解が重なって果歩とは話しあうこともままならない時期――彼女の一方的な誤解から、須藤流奈とつきあっていると思い込まれていた時期だった。 今ならまだ、引き戻せるのではないかと思った。自分も彼女も、まだ恋の入り口に立ったばかりだ、今ならまだ最初に戻れると――そんな風に思って、決心した。 彼女とはこのまま別れて、二宮に家に戻ろうと。 しかし、それから起きた様々な出来事によって結論は4月に先延ばしになり、その前に真鍋が、藤堂に会いに灰谷市に戻ってきた。それが今年の1月のことだ。 (――俺だよ。悪いが番号は芹沢さんから聞いた。どうしているかと思ってな) その夜、電話を受けた時から、真鍋が怒りを抑えているのが藤堂には分かっていた。おそらくだが、その頃になって花織が藤堂に会っていたことを知ったのだろう。 真鍋の追求に、藤堂は最後まで本当のことを言わなかった。花織から聞かされた話については、市長選のこと以外何一つ認めなかった。 最後に真鍋は、諦めたようにこう言った。 (――瑛士、的場さんのことで俺に遠慮する必要はない。もう無関係だし、過去を蒸し返されるのは俺にも彼女にも迷惑なだけだ。ただひとつ、これだけは言っておく) (――花織さんに何を聞いたのかは知らないが、それを一言でも彼女の耳に入れてみろ、俺はお前を許さない) (いいな、瑛士。その約束を違えたら、俺はお前を絶対に許さない) 「……花織さんが、お前に何を言ったのかは想像がついている」 真鍋の苦しそうな声が、現実の藤堂の耳に戻ってくる。 「――俺の振るまいが間違っていたというなら、それはもう、8年前から続いている。俺が、叔父である吉永冬馬の言いなりになってしまった時からだ」 背を向けたまま、真鍋はしばらく黙っていた。その背中が何かの感情に耐えていることが分かり、藤堂は何も言えなくなって、彼の言葉の続きを待つ。 「……瑛士、8年前、俺にとって最大の弱点は彼女だった」 振り絞るような声だった。 「彼女を押さえられたら、俺はもう身動きとれない。言われるがままだ。結婚もしたし、男とも寝た」 「…………」 「何年も、そうやって俺は叔父の言いなりであり続けた。俺がどう否定しようと、俺の弱点は誰にだって推察がつく。実際叔父はすぐに的場さんに目をつけたし、彼女に狙いをつけたのは叔父だけじゃない」 衝撃で動けない藤堂を振り返ると、真鍋は苦い微笑を浮かべた。 「俺は、その挑発に馬鹿みたいに過敏に反応したよ。そうだ、何もかも俺のせいだ。だから全力で守りたかったし、俺にはこれ以外の方法を思いつけなかった」 気付けば、歩み寄ってきた真鍋に、肩を軽く叩かれていた。 「お前、役所を辞めるなよ。この俺を殴ったんだ。責任をとって今年1年は残ってくれ」 そのまま踵を返した真鍋は、自分のデスクの方に戻る。 何か言おうとしたが、言葉が何も出てこなかった。振り返った真鍋が笑う。 「まさか、お前に殴られるとはな」 「…………」 「ようやく俺が、お前の大好きな脩哉君ではないと分かったか? ――生憎だったな、俺はお前の優しいお兄ちゃんじゃない。お前にとっては、最悪の恋敵で、邪魔者だ」 「…………」 「分かったら帰れ。的場さんなら、直にホテル暮らしから解放されるし、俺の婚約者という立場からも解放される。というより、俺がもう限界なんだ」 何が限界だとは真鍋は言わなかったし、藤堂も聞かないままに退室した。 市長室を出ると、秘書課に果歩の姿はなかった。そのことに心のどこかで安堵しながら、藤堂はエレベーターホールに出た。 頭の中には、雄一郎の言葉が焼きついたように残っている。 (彼女を押さえられたら、俺はもう身動きとれない。言われるがままだ。結婚もしたし、男とも寝た) 何を言われなくてもよく分かった。それは今でも変わらないのだ。 だから真鍋は、強硬な手段を使って彼女を安全圏に置こうとした。―― それほど強い真鍋の思いに、果たして自分は立ち向かうことができるのだろうか。脩哉の時と同じように、最も大切にしているものを、そんな雄一郎から奪うことができるのだろうか。 うつむいて階段を上っていると、上階から人の影と靴音が近づいてくる。無意識に顔を上げた藤堂は、そのまま息をのんでいた。 降りてきたのは果歩だった。藤堂の姿を見て同じように驚いたのか、目を見張ったままで足を止める。しかしその表情は、驚きというよりは恐怖に近いように見えた。 「……今、終わったので」 ぎこちなく声を発したのは、藤堂だった。 どうしてだか、果歩の顔が正視できない。ひどく後ろめたい気持ちだった。 「秘書課にいなかったので、もう帰宅されたのだと思っていました」 「……ちょっと、外に出たくなって」 同じくらいぎこちない固い声で、果歩が返した。 「今、秘書課に戻るところです」 「そうですか」 それきり会話は途絶え、気まずい沈黙が2人の間に落ちる。藤堂は無理に微笑をつくって再び階段を上がり始めた。何か口にしなければ――このまま別れてしまったら、余計に彼女を悩ませてしまう気がした。 もし、果歩が真鍋を選ぶつもりでいるなら、なおさらだ。 「今度来るときは、何かお菓子でも持ってきますよ」 無理に明るい声で言うと、果歩が訝しげな表情になる。 「……お菓子、ですか?」 「ええ、最近美味しい店を見付けたんです」 今度は果歩が微かに笑ったが、藤堂がその顔を正視できずに視線を伏せた。 こんなに近くにいるのに。 触れることも、本音を話すこともできない。 こういうことか。 これが――恋を失うということなのか。 この感情を、雄一郎さんは8年も抱き続けてきたのか―― 「少し痩せたようだから」 やはり無理に作った明るい声で言うと、藤堂は再び階段を上がりはじめた。 「元々あまり食べない人だったから。それが少し心配です」 階段の途中で、軽く会釈してからすれ違う。 「じゃ、また」 そのまたは、もう永遠にないのかもしれない。 そう思いながら、藤堂は彼女の気配が消えるまで、振り返らずに歩き続けた。 ************************* 「ニュース速報です。東京地検特捜部は今日の午前9時、国土交通省の元事務次官、西東晋太カを収賄容疑で逮捕しました。繰り返します。東京地検特捜部は」 ラジオから流れるアナウンサーの声に、書類に目を落としていた藤堂は顔を上げた。 翌日――市の北西部にあるその国土交通省灰谷事務所に春日と共に赴いた帰りだった。市役所まではあと少しだが、タクシーは渋滞に巻き込まれ、先ほどからずっと停止している。 (もう直、うちの省は大変なことになるから。今のうちに会っておこうと思って) ――佐倉さんが言っていたのは、これか。 さらりと挟み込まれていた言葉を、むろん藤堂は覚えていた。後で聞きただすつもりだったが、その後感情的になった怜が泣き出したので、そのままになっていたのだ。 昨年、同じ罪で国土交通省の青柳総括審議官が逮捕された。企業へ入札価格を漏らし、その対価として金品を得ていた公務員収賄容疑だ。ただし警察の本当の狙いは同省トップの西東だと囁かれており、いずれ逮捕されるのだろうという噂は、昨年からずっと燻っていた。 いずれにせよ、怜がそんな極秘情報をうっかり口にするはずがない。口にした以上それは、彼女がくれたヒントのひとつだ。 どういう因果関係があるのかは分からないが、これから灰谷市に起ころうとしていることと、このニュースは無関係ではない。 「国土交通省は、これから大変なことになりますね」 あえて春日の反応を見るためにそう言うと、どこかぼんやりしていた春日は、弾かれたように顔をあげた。 「あ……、ああ、そうだな」 「…………」 やはり何かある。が、それが市とどういう形で関係しているのかが分からない。春日が自分に何かを隠しているのは明白だが、一体何を抱え込んでいるのだろう。 それにしても、検察も思い切った真似をしたものだ。西東事務次官は政府与党とつながりが深く、その後押しもあって早くにトップにまでたどり着いたエリートだと聞いている。逮捕に至るまで、各方面から相当の圧力があっただろう。 昨年、青柳総括審議官が逮捕された時、検察はこれで事件の幕引きを図るつもりだろうと藤堂は内心思っていた。 汚いようだが、警察も政治と無関係ではいられない。西東より悪いことをしながら、政権に守られているがゆえにのうのうとその座に居座っている官僚はいくらでもいる。 つまり、政治上の何かのバランスの一角が崩れたか形を変えたがために、今回西東が逮捕されることになったのだ。 ――まさかと思うが、雄一郎さんが関係している……? ふとそんな疑問が頭をよぎったが、これ以上のことを推測するまでの情報は今の藤堂にはない。政府の人間関係も、それが湊川会や侠生会とどう関わっているかも分からない。 どちらにしても、それは今の藤堂が考えることではない。 二宮家を自らの意思で離れた以上、真鍋のすることに口を挟む資格さえない。 「ニュースです。たった今入ってきた速報です」 その時、にわかにアナウンサーの声が緊迫を帯びた。 「たった今、灰谷市役所市長室に拳銃を持った男が侵入、発砲後に逃走したというニュースが入ってきました。たった今、灰谷市役所市長室に」 藤堂は腰を浮かせていた。頭の中が真っ白になり、耳に入ってくる言葉が蒸発するように脳内から消えていく。 「市長は不在でしたが、居合わせた複数の市職員が負傷したとのことです。繰り返します。たった今、灰谷市役所市長室に――」 隣では、春日が即座に電話をかけている。藤堂は窓の外に目を向けた。 高層建物の向こうに市庁舎の影が見える。ここからは300メートルくらいだ。 「すみません。降ります」 「藤堂君!」 春日の制止を無視して、藤堂は運転手に声をかけた。 丁度歩道沿いを走っていたタクシーの扉が開く。飛び降りた藤堂の背後から、春日の声がした。 「藤堂君、的場さんは無事だ。負傷したのは警備員らしい!」 「――、ありがとうございます!」 声だけを返し、藤堂は駆け出した。一瞬、足から力が抜けるほど安堵したが、今は一刻も早く、自分の目で彼女の無事を確認したかった。 ――市長室に、拳銃が撃ち込まれた。 前代未聞の出来事だし、普通では考えられない事態だ。 その時、彼女はどこにいたのだろう。どこか別の場所にいて、怖い思いをしていなかったらいいが。―― 6月の初旬。その日は朝から高温多湿で、全速力で走った藤堂は汗みずくになって庁舎にたどり着いた。 玄関にはマスコミと警官が詰めよせ大騒ぎになっている。正面玄関にはロープが貼られ、中に入ることもできない。 そこに救急車のサイレンの音がして、藤堂は自分の身体から血の気が引いていくのを感じた。 「どいてください」 「今、担架が入ります!」 複数の救急隊が担架を担いで庁舎内に入っていく。一体負傷者は何人なのだろうか。いや、怪我をしたのは、本当に警備員だけなのだろうか。 「下がって下がって!」 「今、現場検証の最中です。中には入れませんよ、下がって!」 警察と、そこに突撃するマスコミとで、玄関前は騒然としている。 人の輪の中には、藤堂と同じように、タイミング悪く外に出ていたばかりに庁舎に入れない職員もいる。 「拳銃が撃ち込まれるとか、あり得ないだろ」 「市長に恨みを持つ女の仕業だったりしてな」 あり得ない事態に、皆、呆然としながらもそんな軽口をたたき合っている。焦りながら、中に入れないか模索していた藤堂の耳に、警備員の声が飛び込んできた。 「恐れ入ります。職員の方だけ、身分証を提示して東側の通用門から入ってください。ただしその際、警察から簡単な聞き取りがあります」 振り返ると、東側の玄関付近には、すでに市職員の列ができている。とてもすぐには中に入れそうもない。 その時、詰めかけたマスコミの背後に、黒塗りの車が激しい勢いで滑り込んできた。 「市長だ!」 「真鍋市長だ」 そんな声と共に激しいフラッシュが瞬いた。遠目から見る藤堂の前で、車から飛び降りた真鍋が、後から飛び出したボディガードの制止を無視して玄関を塞ぐロープをくぐる。 「市長、待ってください」 「まだ庁舎には入れません」 駆け寄ってきた警察に、真鍋が激しい口調で何かを言っている。そして彼は、警察の制止を振り切って庁舎の中に消えていった。 気付けば、ポケットの中の携帯が震えている。 半ば呆然と真鍋を見ていた藤堂は、たった今、現実に戻った人のように携帯を取りだした。 「藤堂君、私だ。今総務局長と連絡が取れた。秘書課は、尾ノ上課長が軽傷を負っただけで後は全員無事だそうだ」 「……そうですか」 「君が交通事故にでもあうんじゃないかと、そっちの方が心配だった。市役所の様子はどうなっている」 「今、中に入れるような状態ではないです。混雑が収まるまで、しばらく外で待機することになりそうです」 携帯を切った藤堂は、これからどうする当てもないままに、ぼんやりと真鍋が消えてしまった扉の辺りを見た。 自分には超えられない壁。 真鍋には超えられる壁。 それが、今の2人が手に入れた立場で、藤堂が自ら手放してしまったものなのだ。 その重さを、藤堂は初めて思い知らされていた。 ************************* 「――瑛士様」 片倉から電話があったのは、その翌々日のことだった。 自室のベッドでぼんやりと天井を見ていた瑛士は、少し驚きながら電話に出た。片倉とは真鍋が正式に後継者になったと知らされた時を最後に、一切連絡をとっていない。 気付けば都合のいい時にだけ片倉を頼っていた藤堂の、それがけじめだと思ったからだ。 窓の外は、今日も雨が降っている。 「ご報告があって電話をしました。今週末の日曜をもって、私は正式に二宮家を辞去することになりました」 しばらく何も言えずに、藤堂は電話から聞こえる雨の音を聞いていた。 「では、伯父さんと伯母さんは?」 「本日、お屋敷を退去して国外に発たれました。もう二度と日本に戻ってくることはないでしょう。歴代の当主がそうであったように、これから先の所在は決して公表されることはございません」 では、もう二度と会えないのか。 父親代わりだった伯父にも、決して親しくはなかったが善人だった伯母にも、もう二度と会うことができないのだ。 「……雄一郎さんは、いつ二宮の屋敷に入るんだ?」 「分かりません。もうそれを決めるのも雄一郎様だからです」 藤堂は黙って頷いた。その通りだ。 「すまなかったな、片倉」 「どうして瑛士様が謝るのですか」 「お前の期待に応えられなかった。――結局は、自分の責任から逃げたからだ」 「致し方ないことかと思います。二宮の家には、どこを見ても脩哉様の思い出しかありませんから」 そうだ。でもそれは、もう心の中で乗り越えたはずの思い出だ。 それでも自分は、二宮家に戻るのが怖かった。脩哉がいるべき場所に、自分がいることを想像するだけで苦しかった。 何故だろう。いや、答えは分かっている。 自分は脩哉から、これ以上何かを奪いたくないのだ。 彼の居場所、彼のものになるはずだったもの。彼の――本当に好きだった人。 「瑛士様、明日、雄一郎様は的場様と話しあいの場をもたれます」 一瞬、息がつまったような感覚になった。 「これは私の推測ですが、先日の銃撃事件で、もはやお気持ちを抑えておくのは難しいと判断されたのでしょう。――ホテルでの一件以来、的場様はずっと怒っておいででしたが、やはり、雄一郎様のお気持ちを理解されたのだと思います」 そうか。 ようやく2人が、本当の意味で話しあうのか。 だったらもう、結論は――出ているような気がする。 「そんな話を、僕にしても構わないのか」 「瑛士様に伝達するよう言われたのは、雄一郎様ですから」 「…………」 「時間も場所も、全てお話するように言われています。その上でどうするかは、瑛士様のお決めになることですが」 「僕に、2人の時間を邪魔するつもりはないよ」 「そうでしょうね。――私も、その方がよいかと思います」 片倉の声が沈んでいる。ずっと雄一郎の側にいた片倉も、真鍋の心の闇が分かっているからだろう。それを救うことができるのが、果歩だけだということも。 「私にはなんとも申し上げられませんし、瑛士様の決められたことに間違いはないのでしょう。ただ、少しだけ皮肉な気持ちがいたします」 「……皮肉とは?」 「瑛士様のお父上も、苦悩の挙げ句、思い人との結婚を諦められたと聞いています。――その同じ轍を、瑛士様も踏むのかと思ったら」 「…………」 「それがとても、皮肉なことのように思えたのです。差し出がましいことを言って、申し訳ございません」 片倉との通話が終わった後、藤堂はぼんやりとベッドに仰向けになった。 このベッドに、ほんの数ヶ月前、果歩がいたことが遠い夢のようだった。 一緒に食事をして片付けをして、このベッドで抱き合っていたことの何もかもが、全て夢だったように思えてくる。 (2人になったら、もう少し広い家に、引っ越した方がいいですね) (え? 鈍いですか? 私が?) ぐっと目の奥が熱くなる。 今自分は、恋を永遠に失おうとしているのだ。 彼女の声も、髪も、唇も。笑顔も泣き顔も、怒った顔も。 全部、雄一郎さんのものになるのだ―― 突然胸を突き上げるほどの激情が押し寄せてきて、藤堂は息もできなくなった。 これが胸に刺さった棘の痛みか。 こんなにも苦しく、こんなにも絶望的なものなのか。 どうやったら楽になれるのかと考えても、答えはなにひとつ浮かんでこない。 この先、永遠にこの絶望感の中で生きていくのだと思ったら、死んでしまいたいような気持ちになる。この傷を抱えて生きていけると思えていた自分が馬鹿みたいだ。 しょせん、怜の言葉も自分の言葉も、きれいごとに過ぎなかった。 恋とはこうも生々しく、こうも残酷に心を切り刻むものだったのだ。―― (――あの時、どうして逃げたんだろう。どうして、私の人生に訪れたたった一度のチャンスに賭けなかったんだろうって) 入江さん以上の馬鹿は僕だ。 いくらでもチャンスはあったのに、その全てを自分から手放してしまった。 怖かったのだ。 脩哉から好きな人を奪ってしまうのが怖かった。 その相手が自分自身であることを、頭では分かっていてもなお、心のどこかで認めてはいなかったのだ。 だから、脩哉を雄一郎さんと置き換えた。 9年前、雄一郎さんの好きな人が、自分が心引かれた人だと知った時、その恋を諦めることが、18歳の藤堂にはむしろ救いだったのだ。 身勝手にも、脩哉から一方的に奪ったと思い込んでいたものを、そういう形で返せたと思うことで心の決着を付けていた。それはなんと、独善的な考えだったのだろうか。 雄一郎さんは脩哉ではない。 脩哉への罪悪感を忘れるために、自分の中でつくりあげた脩哉の、いわば幻影であり身代わりだ。 皮肉なことに、怒り任せに雄一郎を殴ったとき、ようやく藤堂は目が覚めた。 自分がずっと、この世にいない人の面影を追いかけてきたことを、その時ようやく知ったのだ。 跳ね起きて、彼女の元に駆けていきたい衝動が、頭の中で激流のように渦巻いている。 でも、今が決してその時でないことも分かっている。 ここから先は、過去から続く真鍋と果歩の物語だ。 2人にしか分からない、そして2人にしか決着が付けられない物語だ。 そこに、藤堂が入っていく余地はない―― 雨はまだ降り続いている。 でも、そこに立つ人は、もう脩哉ではない。いや、最初から脩哉ではなかったのだ。 雨の中で1人立ち尽くす自分の姿を見つめながら、藤堂は苦悩の中で目を閉じた。 藤堂side(終)、次回再び本編です。 |
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