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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(28)



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 ひどい喉の渇きを覚えて目を覚ました果歩は、あっと声を上げて周囲を見回した。
 早朝の朝の日差しが、室内を青白く包み込んでいる。
 広い間取り、高い天井。優しいバステルの色使い。眠る前の現実が、ようやく果歩の胸に落ちてきた。
 ――……私、あのまま寝ちゃったんだ。
「うっ」
 思わず目を覆って呻いたのは、ゴロゴロした目の痛みがいきなり両眼を襲ったからである。
 コンタクトを装着したまま、何時間も熟睡していた。――最悪だ。
 とにかく顔を洗おうとソファから起き上がった果歩は、そこで初めて自分の身体に掛けてある夏用のタオルケットに気がついた。
 ――真鍋さん……。
 今さらのように、眠る直前まで彼が同じ部屋にいたことに気がついて、改めて室内に視線を巡らせる。真鍋の姿はどこにもない。
「真鍋さん……?」
 何度か声を上げても、どこからも返ってくる声はない。
 ――どこに行ったの?
 不意に不安が込み上げてきて、果歩は立ち上がってカーテンを開いた。
 雨は上がり、窓の向こうには朝日に照らされた海沿いの景色が広がっている。
 何故だか8年前と同じように、真鍋があの場所に向かっているような気がして、果歩は急いで玄関に駆けていった。
 
 
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「真鍋さん!」
 果歩が遠くから声を掛けると、一面の緑の中に立っていた人は、ゆっくりと顔を上げた。
 8年前と同じ、せせらぎが途切れた小高い丘の傾斜一面が、深緑色のクローバーで埋め尽くされている。
「びっくりした、急にいなくなったから」
 駆け寄った果歩が言うと、真鍋は少し笑って、「歩きたくなったんだ」と遠くに目をやった。
 果歩同様に、彼は昨日と同じ服を着ていたが、上着を脱いでネクタイを外し、両袖もまくっている。
「そんなことより、君が家を飛び出したことの方が、片倉を驚かせていると思うけどね」
「離れるなって言われたんです」
 真鍋の呑気さに腹が立って、果歩は少し口調をきつくした。
「急に1人になったから……不安になりました」
「そう」
 昨日と同じように興味なさそうに相づちを打つと、真鍋は先に立って歩き出した。
「何もかも変わってしまったけど、ここだけは変わらないな」
「…………」
「昔のままだ」
 昨夜の雨に濡れたクローバーの葉が、朝日を浴びてきらきらと輝いている。
 8年前、この場所で真鍋と会ったのが最後になったことを思い出し、果歩はまた少しだけ不安になった。まさかまた、あの時のように姿を消そうとしているわけじゃないとは思うけど。――
「真鍋さん、ひとつ聞いてもいいですか」
「何?」
「……8年前、どうして何も言わずにいなくなっちゃったんですか」
 昨日も思ったが、どうして説明のひとつもしてくれなかったんだろう。
 もちろん言いづらかったのは分かるけど、親にまで会いに行ってくれた真鍋さんが、どうして私には、何も……。
「その方が、君のためだと思ったんだ」
 真鍋の声は穏やかだった。
「私のためって?」
「俺が君の元を去る理由を、君は最初から分かっていた。……そうだろう?」
「…………」
 女の人を本当の意味で愛せない。自分のものになったら飽きてしまう性癖――
「そう思ってくれた方が、君も気持ちの整理がつきやすいと思ったんだ。――まぁ、その何もかもが言い訳で、俺にその勇気がなかっただけなのかもしれないが」
「……逆に、こじらせちゃいましたけど」
「悪かったよ。今度はちゃんと謝罪する。……悪かった」
 果歩は唇を引き結んだまま、何度か小さく頷いた。
「まぁ、許すかな」本当はとっくに許していたし、今、ちょっと泣きそうになっているけど。
「我が儘な真鍋市長が、本気で反省してるみたいだし」
「反省してる。もう君の言いなりだ」
「あはは、そんな風に言われたら、何かすごいこと頼んじゃいますよ」
 真鍋が、驚いたように果歩を見る。果歩も少しびっくりして、顔から笑いを消して真鍋を見上げた。
「え……? 私何か、驚くようなことを言いました?」
「いや、そうじゃなくて」
 そうじゃなくて?
「……、いや」
 真鍋は何故か、戸惑ったように目を逸らした。
「君の……、目が、すごく充血しているなと思って」
「はいっ?」
 今度こそ、果歩は本気でびっくりして顔を両手で覆った。
「コ、コンタクト、つけたままで寝ちゃったから」
「そういえば、君は目が悪かったね」
 嘘でしょ、鏡で確認した時はそんなに赤くなっていなかったのに。わー、もう恥ずかしくて顔が上げられない……。
「冗談だよ」
 くっくっと真鍋の笑う声がした。「ちょっとからかってみただけだ」
「――ひどい。本気にしたじゃないですか」
「でも、多少赤くなっているのは本当だよ。早く帰った方がいい。僕は用事があるから、やはり帰りは別々にしておこう」
 それでも果歩は、両目を気にしながら、彼の視界を避けるようにして頷いた。そしてふと、下に向けた目を見張っている。
「真鍋さん、手、どうしたんですか?」
「………」
 そう聞いた途端、真鍋は何も言わずに上げていた袖を下ろした。
「これも、瑛士に殴られた後遺症だよ」
「……、なんか、かなりひどかったんですね」
「君の方から、よく叱っておいてくれないか」
 手首のやや下の方についていた赤い痣が、シャツに隠れて見えなくなる。袖のボタンをきっちりと止めると、真鍋は果歩に向き直った。
「議会が終わる前には、課長から改めて異動面談があるはずだ。君の希望部署を聞いて……いや、それでも本音を言えば、退職して瑛士と一緒になるべきだと思っているけどね」
「…………」
 思わず表情を硬くした果歩を、真鍋は少し真剣な目で見下ろした。
「君を巻き込んでしまったのは本当に悪かったと思っている。君のお察しのとおり、雑誌に載った写真は僕が撮らせたものだ。理由はもう、説明しなくても分かっていると思う」
「……私を、安全な場所に、閉じ込めておくためですか」
「その通りだ」
 さすがにその件だけは、真鍋のしたことを全面的に許す気にはなれなかった。
 ただ、今さら怒ったところで、写真が出る前の世界に戻ることはもうできない。
 過ぎてしまえば二度と戻らないだけのこと――那賀の言葉を胸に、自分で次の道を決めるしかない。
「謝罪はしたが、自分のしたことを悔いてはいない。今でも僕にとっての最善手はあれ以外になかったと思っている。――ただ、これからは僕ではなく瑛士が君を守るべきだ。その上で言うが、君が役所に在籍している限り、守るといっても限界がある」
 ――それは……。
「もうすぐ、終わるんじゃなかったんですか」
「終わるが、それは君が完全に安全になることを保証するわけじゃない。僕のプランを正直に明かせば、6月には、君はいい加減結婚退職するものだと思っていた」
「――ひどい」
「分かっている。でもこればかりは、僕のコントロールが及ぶことでもないんだ」
 どこか苦しげに真鍋は続けた。
「とにかく瑛士と話してみるといい。君が仕事を辞めた方がいいことは、あいつもよく分かっているはずだから」
 果歩は黙って視線を下げた。それは私が退職すると同時に、藤堂さんが二宮の家を継ぐことを意味しているのではないだろうか。
 真鍋が今、どういう気持ちでそんなことを言ってくれたのかは分からないが、そんな風に――選択肢が他にないまま、なし崩しに藤堂と一緒になるのは違うような気がする。
 それ以前に、私の事情であの人の未来を縛りたくない。
「真鍋さん、私……私、藤堂さんのことが、その……やっぱりすごく好きですけど」
 言いながら、自分の頬が熱くなる。果歩は軽くその頬を叩いた。
「でも私の人生は、それでも藤堂さんのものじゃないんです」
「…………」
「藤堂さんの人生だって、どこまでいっても私のものにはならないから……。仕事をどうするかは私が決めることだし、藤堂さんも同じように考えると思います。ご心配いただいて、ありがたいとは思いますけど」
「そう」
 少し言い過ぎたかなと思ったが、真鍋は特にこだわることなく、頷いた。
「どちらにしても、早く瑛士と話をした方がいいよ。昨夜のことが、片倉から伝わる前に」
「――っ、そ、そうですね、それは確かに」
「あんな大男に、また殴られるのはごめんだからね」
 別に真鍋さんとの間にやましいことは何もないし、そもそも藤堂さんが、自分のことは忘れていいと言ったわけだから、ここで怒られる筋合いはないんだけど。
 でも今は――一秒でも早く、私の気持ちをあの人に伝えたい。
「帰ります」
「うん、気をつけて」
 ぺこりと頭を下げると、果歩は元来た道を駆け出した。
 途中でふと足を止め、真鍋がいた方角を振り返る。彼はまだそのままの姿勢で、果歩の方を見ているようだった。
 果歩はもう一度頭をさげてから、バイバイとでもいう風に手を振った。
 まるで幻影のように、シロツメクサの花と葉が舞い上がる。でも、もうその向こうに立っているのは8年前の真鍋さんじゃない。
 そしてそれを見ている私も、8年前の私じゃない。
 果歩はようやく、長くて悲しい夢から覚めたような気がしていた。
 
 
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 自宅には、片倉が電話を入れてくれていた。
 まさか真鍋市長の別荘で一夜を過ごしたとは、もちろん片倉も言っていないだろうし、果歩も言うつもりはなかったから、片倉と話を合わせ、事情があって急きょホテルに泊まることになったと説明した。
 昼過ぎ、入浴を済ませて部屋に戻った果歩は、少し気持ちを落ち着かせてから、クローゼットの奥にしまい込んでいた段ボール箱を取り出した。
 ガムテープでぐるぐる巻きにしてある箱は、8年前から一度も開封していない。思い出すのが怖くて、開けることも捨てることもできなかった。
 その中には、8年前の真鍋との思い出が詰まっている。
 何度か深呼吸してから、果歩は粘着部分が紙と同化してしまったガムテープを少しずつ剥がしていった。
 そして目を閉じたままで蓋を開ける。もう一度深呼吸をして、ゆっくりと中に収めていたアルミ缶を持ち上げる。
 床に置いてから缶の蓋を外すと、そこに、色鮮やかな色彩が現れた。
 手作りのキーホルダー、イヤリング、ネックレス。なんだかよく分からない人形。スカーフ、玩具の宝石みたいな石がついた指輪。
 どれも雑貨店で買ったものだから、素朴で、いかにも手作りといった感じだ。可愛らしくはあるが、少し子供っぽいものばかりで、今の果歩だったら親戚の子供のお土産に買おうかな――というくらいのラインナップである。
 こんなものを、当時29歳だった真鍋にねだって買ってもらったのかと思うと、思わず頬が熱くなる。彼からすれば、「なんでこんなものを?」だったに違いない。
 それでも、一緒に買い物できるのがすごく嬉しかったから、真鍋が「これが似合うよ」と言ってくれたものは、なんでも欲しいと言ったんだっけ。……
 あの日は、初めて人目を気にせずに2人で外を歩けたから、今思うと恥ずかしくなるくらいはしゃいだ記憶があるし、真鍋もよく笑っていた。
 そういえば、今日久しぶりに、真鍋さんの前で笑った気がする。
 まぁ、その直後に目が充血していると、からかわれたんだけど。――
 取り出したアルミ缶の下には、ビニールに包んだ白い衣服が収められている。
 さすがにそれを取り出す時、少しだけ指が震えた。
 手触りのいいコットンの、レースのひだのついた純白のインナー。初めて2人で泊まった夜、真鍋がプレゼントしてくれたものだ。
(もっと早く渡そうかと思ったけど、下心ありと判断されるのも、癪だったしね)
(どんな顔して買ったんですか)
(至って真面目な……少しばかり、鼻の下は伸びていたかな)
 あの夜のたわいない会話が、切ないばかりの胸の痛みとともに蘇る。
 しばらく唇を震わせていた果歩は、自分の胸を突き上げた激情が少しずつ収まっていくのをじっと待った。    
 今はまだ、完全に忘れたといえば嘘になる。
 でも、こうやって、辛い過去と逃げずに向き合っていく度に、心は少しずつ耐性を得て強くなる。
 きっと、そうやって人は、過去と決別していくものなのだ。
 取り出したものを、ひとつずつ分別して袋に詰めた果歩は、人生の大仕事を終えたような気持ちで立ち上がった。
「あっ、いててっ」
 ずっと正座していた膝が、伸ばした途端に鈍く痛んだ。鏡に映る自分に目をやった果歩は、今の現実に少しだけ笑いたくなっていた。
 ジャージ。眼鏡。そして首に巻いたタオル。立ち上がると同時に膝の痛みに声を上げた果歩を見れば、真鍋も一気に現実に立ち戻るだろう。
 若かった2人のおとぎ話は、もう、とっくに終わっているのだ。
 果歩は気を取り直して、化粧品やアクセサリーをしまってある小さな収納棚の引き出しをあけた。
 そこに収めてあったものを2ヶ月ぶりに手にとり、少し息をつめて、目の高さまで持ちあげる。
 サイズの大きなシルバーのリング。
 どの指にはめてもぶかぶかだから、鎖にかけてネックレスにしていた。
 4月に、藤堂さんと一緒にサイズを直しにいくはずだった指輪。
「…………」
 指輪を握りしめ、果歩は自分の胸に押し当てた。
(ちょ、なんの真似ですか)
(どの指がいいかと思って)
 そんな風に言われて、何故かこの指輪は、最初親指に滑り落ちてきた。
(親指ですか)
(そうですね)
(それでも、かなり緩いんですけど)
(一番大きいのを買ったので)
 果歩の31歳の誕生日の前日だった。そんな真似をする人とは思わなかったから、あの時はすごく嬉しくて――4月まで待つという約束を破って、2人で唇を合わせるだけのキスをしたっけ。
 思い返せばそれ以来、約束を破るのはいつも藤堂だったような気がする。
 2月に彼の実家で交わしたキスも。
 灰谷市に戻ってきた夜に交わしたキスも。
(僕の部屋に来ますか)
 真鍋麻子の葬儀の帰り、あの時も、彼は自分から戒めを解こうとしてくれたのだ。
 そして、3月は――
(今、キスしたら、もう戻れなくなりそうなので」
(……4月まで……、僕が、馬鹿なのかもしれないですね。正直、今も、頭がおかしくなりそうです)
(……大丈夫、何も、しない)
(……このまま……もう少し……)
 ――馬鹿だな、私。
 果歩は鼻筋をつたった涙を指で拭った。
 藤堂さんの気持ちなんて、考えるまでもなかったのに。彼が私を好きなことなんて、疑う必要さえなかったのに。
 本当の意味でブレーキをかけていたのは私の方で、藤堂さんはずっと我慢してくれていたのに。
 あの日だって……。
(すみません。やっぱり僕の方が、無理でした)
 果歩は指輪を握りしめたまま、唇を震わせるようにして泣いた。
 傷つけたのも拒んだのも私なのに、自分を悪者にして身を引いてくれた。
 あんなに優しい人を、私……ずっと責めて……、子供みたいに罵倒して……。
「……ごめんなさい。藤堂さん」
 早く会いたい。
 声が聞きたい。
 もし許してもらえるなら、今夜にもひとつになりたい。
 私も今日、きっぱりと過去と決別したんです。
 もう私たち、何かを待つ必要はないんです――




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