ひとしきり泣いた涙がようやく収まった後、掛け時計を見上げた果歩は、ベッドに腰掛けて、深呼吸をした。 藤堂に電話をする前に、どうしても連絡しておきたい人がいる。まだ午後5時を少し過ぎたばかりだから、電話に出てくれない可能性の方が高いけど―― 「よっ、果歩」 しかしりょうは、ワンコールで電話に出てくれた。 懐かしい声を聞いた途端、果歩は胸がいっぱいになっている。 「……い、今、大丈夫なの?」 「大丈夫じゃないけど、とりあえず出ちゃった」 笑うような声の向こうでは、忙しない人の声が飛び交っている。 「で? 過去の旅からは、無事に戻ってこられた?」 「…………」 なに? 何なの? なんでそんなことが、ずっと離れていたりょうに分かるの……? 目の奥に熱の塊がこみあげて、いきなり涙が溢れ出た。 もともと壊れかけていた涙腺はあっという間に決壊し、涙があとからあとからとめどなく溢れてくる。 「……う、うん」 ぽろぽろ泣いて、子供みたいにしゃくりあげながら、果歩は喉にこもった声を飲み込んで頷いた。 「……、戻ってきた……、だから、りょうに、電話した」 「楽しかった?」 「……、苦しかった……」 言葉を震わせて、果歩は溢れる涙をのみこんだ。 「辛かった……、でも、もう……、大丈夫みたい」 「そう」 どこまでも優しいりょうの声が、苦しいくらい胸に染みる。 ティッシュで何度も鼻をかんだ果歩は、ようやく呼吸を整えて、電話を持ち直した。 「もしかして、エスパーの力も身につけた?」 「前から持ってたの。でも果歩限定よ」 周囲が静かになったから、きっと場所を移動してくれたのだろう。忙しいりょうのことを思うと申し訳なくなったが、まだ電話を切りたくなかった。 「なんで私が、過去をうろうろしてるって分かったの?」 「まぁ、例のあの人が出てきたらそうなるだろうなっていうのは、なんとなく」 電話の向こうで、りょうが頭を掻いている仕草まで想像できた。 「果歩の中で、全然消化されてなかったからね。生木が引き裂かれて、そのままになってたようなものよ。そこに引き裂かれた片割れがでてきたら、もう一度くっつきたいって思うじゃない、普通」 否定しようとした果歩は、黙ってそれを聞き流した。まぁ――本音を言えば、そういう気持ちもあったのかもしれない。 「でも、8年たった生木は、もう元の木じゃないのよ。お互いにね」 「…………」 「果歩にはそれが分かると思ってたけど、正直、ちょっと自信がなかった。果歩は、案外お人好しだから」 「案外って何? それにお人好しは関係ないでしょ」 「……どうなのかしらね。まぁ、なにはともあれ、正解よ。果歩は絶対間違わないって分かってたけど、ほっとした」 「まぁ、そう言ってもらえると、なんだかちょっと嬉しいけど」 学校の――しかもとびきり厳しい先生に、「よくできました」と褒められた気分だ。 とはいえ果歩には、ひとつ親友に謝らなければいけないことがある。 「……あの、りょう。実は、ひとつ……黙っていたことがあって」 「もしかして流奈ちゃんが、ロスに飛んじゃったこと?」 ぐっと息をのみ、果歩は気まずく視線を彷徨わせた。 そうか、やっぱり知っていたか。 「ごめん。……もっと早くに言えばよかったのかもしれないけど」 あのときは、流奈の一生懸命さに胸を打たれて、自分のような第三者が口出しするようなことではないと思ったのだ。 「で? それが?」 ――で、それが? あまりにあっけない返しに、果歩は思わず瞬きする。 「……え、と、……まぁ、それだけなんだけど」 「ふふ……、もしかして、私がめそめそ泣いてるとでも思ってた?」 「それは夢にも思ってなかったけど」 「当たり前よ。別れた男がどうなろうと知ったもんですか!」 強い口調にドキッとした時、けらけらっとりょうが笑い出した。 「なーんちゃって。一度はそんな昼ドラみたいなセリフ、言ってみたかったのよね」 笑い声の後に続くりょうの声は、本当に楽しそうだった。 「ま、私にはよくも悪くも初めての男だったのよ」 「……晃司がその相手だなんて、今でも信じられないけど」 「私もよ。でも、果歩のお古はもうこりごり。だってきっかけも果歩なら、関係ができてからも果歩のことばかり。――誰とつきあってるのか、途中からよく分からなくなってきてたから」 晃司との最後の別れを思い出して、軽いほろ苦さとりょうへの――多分意味のない申し訳なさが込み上げる。 ごめんっていうのも違うな、多分。でも、言う気はないけど、晃司は本気だったと思うよ。ある意味私の時以上に。 だってりょうのことを話している時の晃司、なんだかすごく可愛くて、悔しいけどかっこよかったもん。 「にしても、晃司が私のお古って、その言い方はちょっとひどいんじゃない?」 「そう? じゃ果歩のリサイクル品にしとこうか」 「それ、もっとひどい。ほんっとやめて。そこで笑う自分が性格が悪いように思えるから」 もしかして、流奈と晃司がどうなったのか、りょうは知っているのかもしれないなと、ふと思った。 でも、それは多分詮索しない方がいい。今は笑っているりょうに、葛藤がなかったはずがないからだ。 それでもりょうは東京にいて、今、笑いながら晃司のことを話している。それが全てだ。 「ま、なんにしても、その程度の隠し事なんか気にしないで。私なんて、もっと罪深いことを果歩に隠してるんだから」 「えっ」 さすがに果歩はぎょっとした。 「な、なんなの、それ。まさかと思うけど……」 「まさかと思うけど? ふふ……、絶対に当たらないと思うけど言ってみて」 「わ、私のリサイクル品がもう一品……」 電話の向こうから耐えかねたような笑い声が聞こえた。 「勘弁してよ。藤堂君は本当にごめんよ。天地がひっくり返ってもそんなことにはならないから」 が、その笑い声がふとやんで、「ああ……まぁ、確かにあれもリサイクル品か」と意味不明な呟きが聞こえた。 「なに、どういうこと?」 「独り言。それに――そんなに悪いリサイクル品でもないかもよ」 りょうが意味不明なことを言い出す時、絶対に説明しないと知っている果歩は諦めて嘆息した。 「で? そんなことより、藤堂君とは今、いわゆる喧嘩の後の燃え上がるような……?」 ぶっと果歩は噴き出しそうになった。 「いやいやいや。まだそんなのは全然。ていうか、今から何カ月かぶりに電話するところだから」 「はっ?」 数秒絶句したりょうは、「だったら私なんかにするより、さっさと藤堂君に電話しなさいよ」 呆れたように言って電話を切った。 ************************* 定時を過ぎた都市計画局は、6月議会が近いせいもあり、まだかなりの人が残っているようだった。 13階でエレベーターを降りた果歩は、隣に立つ片倉を少し申し訳ない気持ちで見上げた。 「すみません。完全な私用におつきあいいただいて」 「気になさらずに」 果歩の用件はだいたい察しているだろうに、片倉は顔色ひとつ変えずにそう答える。 「目下、それが私にとって一番大切な仕事ですので。それに庁舎内なら、警察の警備が厳しくなっているので、野外より安心です」 午後7時――藤堂とどう連絡を取ろうか、りょうとの電話の後ずっと悩んでいた果歩だったが、思い切って役所で会うことにした。 電話で済ませたくなかったし、明日まで待つ時間も惜しい。 藤堂の家に行くことも考えたが、彼が何時に帰ってくるか分からない上に、夜遅くなると果歩が家を出づらくなる。そんなこんなで悶々と迷った挙げ句、役所に行こう――という結論になったのだ。 藤堂には家を出る前に電話して、「今夜、話がしたいので、そっちに行ってもいいですか」と伝えた。 数秒の沈黙の後、「何時に家に帰ればいいですか」と彼が思い詰めた声で聞いてきたので、「そっちに行くから大丈夫です」とだけ告げて電話を切った。 なので藤堂は今、「そっち?」と困惑しているはずだ。もちろん話の内容にも、様々な想像を巡らせているだろう。 電話を切った後、少し意地悪い気持ちで、「少しは困ったら?」と思ったのも事実である。もちろん迷っていた自分が悪いのは百も承知の意地悪だが、――今回の藤堂に関して言えば、いくらなんでも放置しすぎだと思うからだ。 この2ヶ月の私がどんな目にあったかと思ったら、文句のひとつでも言ってやりたい気分である。 とはいえ、きちんとメイクして、自分が最も綺麗に見える白のアウターと、アイボリーの膝丈スカート。そして淡い金糸雀色のショールを首に巻いて、迎えにきてくれた片倉の車に乗りこんだ。 懐かしい執務室の扉をくぐると、中で残業していた人が、つられたように視線を向けてくる。 誰? みたいな目が、徐々に「的場さん?」に変わっていく。 さすがに、それが胸にチクチクささるのを感じながら、果歩はぎこちなくカウンターの前に立った。 その時には、入江耀子を始め、庶務係の全員の目が果歩に注がれている。 「ど、どうしたんですか、的場さん!」 「今、お仕事休まれてるって聞いてますけど!」 水原や笹岡が、まず素っ頓狂な声を上げた。 「……、あ、今日はちょっと、仕事とは別の用事で」 「別の用事?」 「的場さん、今、滅茶苦茶有名人なのに、出歩いて大丈夫なんですか」 その質問にはさすがに困惑して、果歩は助けを求めるように周囲に視線を巡らせた。肝心の藤堂はいないどころか、2人の大声で、果歩は局中の注目を集めている。 「――まさかと思いますけど、市長とデートの帰りですか?」 その時、意地悪い声がして、顔を上げると、耀子がカウンターまで歩み出てくるところだった。 果歩は思わず表情を強張らせた。いくらなんでもこの非常時に市長とデートなんて、果歩の立場を考えれば、ひどすぎる嫌味である。 「生憎係長なら不在ですよ」 「……不在?」 「ええ。今日は遅くまで会議の予定が入っているんです。周りの迷惑も顧みず、一体何しにこんな所まで来たんですか」 それを言われると、さすがに二の句が継げなくなる。 どうしよう――と、お伺いを立てるように背後を振り返ったが、上手く身を隠しているのか、片倉の姿はどこにも見えない。 「……真鍋市長は、市長辞任後に二宮家の後継者になって、その奥様が的場さん」 不意に耳元に口を近づけ、囁くような声で耀子が言った。 「政経界ではもうそれが定説になっていますよ。もちろんそのことは、係長もご存じです」 果歩から顔を離すと、耀子はにっこりと微笑した。 「ご用件があるなら、係長には私から伝言しておきます。――で? なんのご用ですか」 笹岡も水原も、耀子の剣幕に気圧されたのか、気まずそうに黙り込んでいる。局内はしん……と静まりかえり、さすがに出直そうかなと思った時だった。 局長室の扉が開いて、中から春日が顔を出した。 「一体なんの騒ぎだ」 ――しまった。 懐かしい春日の声に、さーっと血の気が引いたとき、その春日の背後から藤堂が飛び出してきた。 「すみません。彼女は僕が呼んだんです」 駆け足で果歩の前に近づいてきた藤堂は、少し緊張を浮かべた目で果歩を見てから、係の方に向き直った。 「少し外に出てきます。30分くらいで戻りますから」 藤堂と会った時の対応は、頭の中で百通りも思い描いていたはずなのに、その刹那、果歩の頭は真っ白になっていた。 「行きましょうか」 「あ、はい」 果歩は、ぎこちなく藤堂に頷くと、静まりかえっている総務課に向けて一礼してから、彼の後について外に出た。 ************************* 「すみません。てっきりもう一度電話があると思って、油断していました」 最上階でエレベーターを降りた2人は、屋上に向かって非常階段を上がっていた。 なんで藤堂さんが謝るんだろうと思いながら、果歩はその後をついて階段を上がっていく。 驚かせようと思って、不意打ちみたいに押しかけたのは私なのに、――結局詰めが甘くて、最後はいつものように助けられてしまったのに。 「片倉と一緒なんですか」 前を歩く藤堂の背中が言った。 「ええ。あの……出かける時は、いつでも声を掛けていいと言われているので、つい」 今さらだが、真鍋が雇っているはずの片倉に、こんな用事を言いつけてよかったのだろうかとふと思う。 「あまり、よくなかったですか」 「いえ、そうではなく」 藤堂はそこで言葉を切り、何かを言いかけたが口をつぐんだ。 「僕が、後で片倉と話がしたいというだけです」 藤堂の口調は沈んでいる。 その背中を見上げた果歩は、少しだけ不安になった。 もしかして、私がようやく結論を出したように、彼もまた、何かの結論を出してしまったのだろうか。 もしそれが、私が出したものとは真逆の結論だったら? 私と離れている間に、別の人に心を奪われてしまっていたら? …… 「……屋上、こんな時間に大丈夫なんですか」 不安を振り切るように聞くと、思いのほか穏やかな声が返された。 「警備員さんから鍵を預かっているので、少しの間なら問題ないです」 そう言えば、以前も同じことがあった。屋上は、午後5時以降は立ち入り禁止だが、藤堂が馴染みになった警備員から鍵を借りてきてくれたのだ。 屋上の出入り口は一つしかない。鍵さえかけてしまえば、――そして片倉がその扉の前を守ってくれさえいれば、危険もなく、また人目も気にせずに話ができる。 休憩スペースで話すつもりだった果歩には、2人きりになれるというのは、少しばかり嬉しい誤算だった。 「――わぁ、なんだか懐かしい。いつぶりくらいでしたっけ」 開放的な空間に広がる星空を見上げた果歩は、それまでの不安も忘れて声をあげた。 この2ヶ月ずっと牢獄にいたみたいだったから、この景色の新鮮さが目に染みる。 「夜に来たのは、秋頃でしたか」 「そうでしたっけ。なんだかすごく昔の話みたい」 藤堂は答えず、だまってフェンスの近くにまで歩いて行く。 彼の背中がひどく緊張しているのが分かり、ふっと胸が切なくなった。 ごめんなさい。―― この2ヶ月、ふらふらしていてごめんなさい。 藤堂さんばかりに責任を転嫁して、一方的に文句を言って、ごめんなさい。 でも藤堂さんも、少しばかり男らしくなかったんじゃないですか。 私の気持ちを尊重したいのは分かりますけど、あそこまで徹底的に放置されたら、普通の女はふらふらするし、自信だってなくなりますよ。 私だって……本当のことを言えば、どうなるか分からなかった。 その挙げ句、もし藤堂さんから別れたいって言われたら――本気で殴ってもいいですか? |
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