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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(30)



「実は、結構大きな仕事を残していて」
 振り返った藤堂は、どこか言いにくそうな口調で言った。
「ゆっくり話がしたいんですが、あまり時間がありません。もし、……時間がかかる話のようなら、また日を改めて、別の場所で話しますか」
「……あ、……そうですね」
 時間ってどれくらいかかるだろう。というより、何をどこまでこの人に話したらいいんだろう。
 真鍋から聞いたことを、一言一句伝えることなんてできないし、そんなことをしていたら、何時間経っても話なんて終わらない。
 明日まで待つのが惜しくて、危険を冒して役所まで押しかけたのに、こんな尻切れトンボで終わるなんて――
 いつもの癖で、無意識に胸のあたりを手で探った果歩は、ふと気がついて手を離した。
 確かこういうの、昔のドラマで見たことがある。
 意を決して藤堂の傍に歩み寄った果歩は、その正面で足を止めた。
「藤堂さん」
「……はい」
「実は、スカーフが、絡まっちゃって」
「……、はい」
 返事まで数秒の間があった。藤堂が戸惑っているのがよく分かる。
「ちょっと、……解いてもらえません? 藤堂さん、手先が器用そうだから」
「……?」
 不審そうに眉を寄せながら、藤堂が果歩の襟元に手を伸ばす。けれどその手は、戸惑ったように直前で止まった。
「どう見ても、絡まっているようには見えませんが」
「――、か、絡まっているんですよ。中の方でこんがらがってるんです。とにかく、解いて」
「はぁ」
 首をかしげた藤堂が、それでも果歩に不用意に触れないように、そっとスカーフを持ち上げ、首からするっと抜き取った。  
 スカーフの下。大きく開いた襟の間にあるものに気がついたのか、彼が驚いたように目を見張る。
 果歩は、スカーフを掴んだままの彼の手を取って、自分の胸にかかる指輪の上に持っていった。
 彼の手の温みの下で、心臓がドキドキ鳴っている。
「……指輪、直しに行きたいです、今度こそ」
「…………」
「もういい加減、待つのは終わりにしませんか」
「…………」
 黙ったままの藤堂が、喉を微かに鳴らすのが分かった。
 彼は何か口にしかけて、唇を閉じ、しばらく黙ってからまた開いた。
「雄一郎さんとは、話をしたんですか」
「昨日一日……一晩中、2人で一緒にいて、話をしました」
 後からそれを知られて不愉快にさせるのも嫌だったので、果歩は素直に打ち明けた。
 それでも藤堂が、その刹那表情を微かに強張らせたのが分かった。
「2人で色々なことを話しました。8年前に別れた時の気持ちや、亡くなられた奥様のこと……。最後はお互い納得して――納得っていうのもおかしいし、こんな言い方をしたらあれですけど、お互いが持ってた未練みたいなものを、きちんと整理できたような気がします」
 正確に言えば、真鍋さんのは未練というより、麻子さんに対する複雑な思いだったんだろうけど。  
「だからもう、本当に大丈夫なんです。私……認めます。確かにずっと真鍋さんから逃げ回ってました。顔を合わせたらまた好きになるかもしれないと思って怖かった。だから藤堂さんにも八つ当たりしたんです。向き合ってくださいと言われたとき、すごくいやなことを指摘されたような気がしたから」
 彼は答えず、ただ眉を微かに寄せる。果歩は続けた。
「でも、言いたいことは全部言ったし、真鍋さんの話も全部聞きました。……思い出の品も今日全部整理して……本当に8年ぶりに、心の重荷が取れた感じなんです」
「……的場さん」 
「さ、3月のホテルでは本当にすみませんでした」
 遮るように言って、果歩は自分の両手を握りしめた。
「……今思い出しても、私の態度は最悪だったと思います。でも藤堂さんもひどかったし……、そこは、おあいこなんじゃないでしょうか」
「あの日は」
 藤堂が、掠れた声で口を開いた。
「……雄一郎さんが、的場さんを秘書課に異動させるつもりだと知って、……4月以降、2人が近づくのは覚悟していたはずなのに、それでも、僕が勝手に思い詰めてしまった」
「…………」
 何度も唇を噛み、珍しくところどころ言葉を詰まらせながら、藤堂は続けた。
「……僕はどこかで、……それでも、あなたの一番近くにいるのは僕なんだという、……おかしな、自分勝手な自負があって、……その優位性が、5月以降、全くなくなって……そういったものも、全部雄一郎さんのものになるんだと思ったら、……おかしいくらい、自制がきかなくなっていました」
 ――藤堂さん……。
 彼の苦しい本心が、胸を温かく、そして切なく満たしていく。
「あなたが謝ることはなにもない。……あの夜、あなたがどんな態度を取ろうと、結局は同じことになっていた。……どこかで僕が、耐えられなくなっていたはずなんです」
「…………」
「理由は……、改めてお話しするまでもないと思います」
 同じホテルで、真鍋と待ち合わせをしていたという、藤堂らしからぬ残酷な仕打ちに、果歩は咄嗟に、どう言葉を継いでいいか分からなくなっていた。
 ただ、それでも、あの日一番悪かったのは自分だったと思う。
「……そうかもしれないですけど、……分からないですよ。もし私があんな態度を取らなかったら、どうなっていたかなんて」
「それだけじゃない。……あの日は市長選の告示日で、お互い胸に隠していた色々なことが、もう限界まできているのを、僕自身がよく分かっていました」
 藤堂は苦しげに言葉を切った。
「いつ、それが堰を切ってもおかしくはない状態でした。義父があなたを後継者候補選びの条件にしようとしていることも含め……あの頃の僕は、何日も前からとっくに破綻していた僕自身の世界を、必死で見ないようにしていたんです」
 それは私も同じだった。りょう曰く、ずっと2人の関係を曖昧にして逃げてきた。
 きっと私も藤堂さんも、今の状況が一番心地よかったのだ。ただの上司と部下ではなく、さりとて恋人でもない、その曖昧な関係が。  
「ただひとつ、言い訳のようにはなりますが……、僕があのホテルを選んだのは、雄一郎さんとは無関係です。甚だ勝手な理屈にはなりますが、僕にも僕で、あの場所を勝負の場所に選びたい理由があった」
「……どういう、理由だったんですか」
 藤堂は何か言いかけたが、思い直したように唇を閉じた。
「……それは、先ほども言ったように僕の勝手な理屈で的場さんには関係のない話です。……でも結局、僕は勝負の土俵にも上がれなかった。あの夜、僕はあなたに人と会う約束があると言ったし、それが雄一郎さんだったのも事実ですが、本当のことを言えば、僕は雄一郎さんとは会わずに帰るつもりだったんです」
「……え?」
「いくら切羽詰まっていたとはいえ、あなたにも雄一郎さんにも僕はひどい裏切りをした。2人の思い出をあんな形で汚した以上、二度と、雄一郎さんには顔が合わせられないと思っていましたから」
 あのホテルと真鍋との思い出を、誰から耳にしたか知らないが、なんでそんなに大げさに考えるんだろうとふと思った。
 ただそれも、真鍋が二宮脩哉に似ているからだと思うと、逆に果歩が重苦しい気持ちになる。
 ここからは私ではなく、藤堂さんと脩哉さん、そして真鍋さんの問題だ。私ではなく、藤堂さんが乗り越えるべき問題なのだ。
 彼はそれを、乗り越えてくれたのだろうか。
「……勝負の土俵に上がれなかったって」
 少しためらってから、果歩はようやく口を開いた。
「殴ってくれたじゃないですか。言っては悪いですけど思いっきり」
「……、あれは」
 藤堂が、戸惑ったように視線を逸らす。
「さすがに暴力はやりすぎだとは思いますけど、聞いた時は嬉しかった。もう十分、勝負してくれたじゃないですか」
 何かを言いかけた藤堂を遮るように首を横に振り、果歩は、胸に置いたままの藤堂の手を握りしめた。
「もう真鍋さんのことは、お互い忘れることにしませんか。私の答えは出ているんです。藤堂さんだって言いましたよね。僕の気持ちは変わらないって」
 黙って唇を引き結ぶ彼が、微かに喉を鳴らすのが分かった。
「だったらもう迷わないで。もう、……もう余計なことは考えないで、私と約束した通りにしてください」
 もし4月になって、お互いの気持ちが変わらなかったら。
 僕の恋人になってください。
「……いいんですか、本当に、僕で」
 藤堂は呟き、混乱と喜びを目に宿したまま、視線を伏せた。
「本当に雄一郎さんではなく、……僕を選んでくれるんですか」
「私こそ……、藤堂さんの方こそ、気持ちは変わってないですよね」
「答えるまでもありません」
 けれど、果歩の方をまともに見ようとしない藤堂は、まだ迷いの底に沈んでいるように見えた。
「……ただ僕は、正直、こういう展開は……、予想してもいなかった。すみません。まだ……上手く、頭が整理できなくて」
 果歩は彼のためらいと困惑を、少しだけ寂しい気持ちで見守った。
 やっぱり私が真鍋さんを選ぶことが前提か。
 前から不思議に思っていたことだけど、どうしてこうも藤堂さんは悲観的なんだろう。この1年の私との積み重ねを、この人はなんとも思っていなかったのだろうか。
「予想していないって、じゃあ私のこと、全く信じていなかったんですか」
「いや、そういうことではなく」
「藤堂さんが信じてくれてると思ったから、私は思いきって真鍋さんと向き合うことにしたんです。なのにそんな言い方をされると、また分からなくなるじゃないですか」
「……そういうことではなく、……僕はあなたを信じるとか信じないとか、そんなことが言えるような立場ではないので」
 藤堂は、困惑したように言葉を切った。
「少し……、冷静になる時間を僕にください。……やっぱり僕には想定外で。すみません、まだ上手くまとまらないな」
 果歩の脳裏に、どうしてだか南原と乃々子が指輪交換をしている場面が蘇った。
 もたもたしている南原に、微笑しながら目に苛立ちを宿らせていた乃々子。
 あ、多分今、その乃々子と同じ気持ちになっている。
 ――うん、藤堂さん。
 どこまでも悲観的だったあなたが、今、混乱している気持ちは分からないでもないですけど、そろそろ……。そろそろ話を先に進めませんか。
「というより、雄一郎さんはあなたに何を話したんですか? もし、」
 それ以上の言葉を遮るように、果歩は背伸びをして彼の唇にキスをした。
「もう、おしゃべりはいいですか」
「…………」
 驚いたように目を見張った藤堂は、ホテルで自分が言った言葉をそのまま返されたことに気がついたのか、少しだけ目元に苦笑を浮かべた。
 自分からキスした恥ずかしさで、果歩は耳をほのかに熱くする。そして指で包みこんだ彼の手を、ぎゅっと強く握りしめた。
「そうやってふりだしに戻されるのは慣れてますけど、もう……勘弁してください」
「…………」
「じ、じれったいにもほどあります。何回好きっていったら、腹を括ってくれるんですか」
 うつむいた藤堂が、果歩の手を指輪ごと自分の手で包み込んだ。
 そのまま黙ってしまった彼が、それでも深い懊悩の中にいることが果歩には分かった。
 ――この人は、一体何を迷っているんだろう。
 それが彼の秘密の部屋に住む脩哉さんのことなら、私とこの人の壁は、永遠に壊れないのかもしれない。
 真鍋さんと脩哉さんが似ているから。
 たったそれだけの理由が、彼をこうも臆病にさせているのなら。
「分かりました。……また、日を改めて出直してきます」
 果歩は小さく息をついてから、言った。
 本当、私って悪い意味で大人だな、と諦めの中でふと思った。そういうところが、いつまでもこの人と先に進めなかった最大の原因だったのかもしれないけど。
「どうせ私も、6月議会までは真鍋さんに拘束されるんです。そう言う縛りが全部なくなってから、改めて話をしましょうか」
「…………」
 黙ったままの藤堂から、そっと手を離す。
「……じゃ、今夜はひとまず帰りますね」
 身を引こうとした次の瞬間、いきなり腕を掴まれた。えっと思った時には抱き寄せられ、大きな胸の中で抱きすくめられている。
 驚く間もなく唇を塞がれて、息もできなくなった。
「……と、」
 どうして? なんで? と思ったのは一瞬で、一気に深い場所に落ちていくような感覚に、頭の中が真っ白になった。目がくらむような情熱的なキスが、息をつく間もなく、角度を変えて繰り返される。
 ただただ乱暴で、痛みさえ伴うほど強引なキスなのに、いつも以上に胸が熱くなり、その奥にあるものが苦しいほど甘く痺れてくる。
 懐かしい彼の匂いがした。胸から伝わる鼓動の音――息づかい――
 気がつけば、力が抜けた身体を、藤堂に抱き支えられていた。
「……的場さん」
 掠れた声で囁いた彼の唇が離れ、こめかみに、額に愛おしげにキスが刻まれる。
「……もう、改めなくもいいです」
「……え?」
 藤堂の大きな手が、ぎこちなく果歩の頬を包み、撫でた。
「僕の、恋人になってくれますか」
「…………」
 影を帯びた目で見下ろされ、思わず睫毛が震えていた。信じていたはずなのに、今耳にした言葉が信じられなくて、ものを言いかけた唇が震える。
「いいんですか、私で」
 ようやくそれだけが、まだキスの余韻の残る唇から漏れた。
 脩哉さんでもなく、真鍋さんでもなく、私を選んでくれるんですか。
「それは僕のセリフです。的場さんこそ、本当に僕でいいんですか」
 藤堂の手に自分の手を添え、果歩は大きく頷いた。
 この期に及んで、何を言ってるんだろう、この人は。
 いいも悪いも――そんなの、今の私の顔をみたら分かることなのに。
 双眸を潤ませた涙が零れる前に、もう一度唇が、今度は優しく塞がれた。
 背中が背後のフェンスに当たり、甘くて深いキスが、果歩の内側にあるものをとろけさせるように繰り返される。
 ――藤堂さん……。
 これまでにないキスの深さと、呼吸の熱さが胸を切なく疼かせた。
 衣服に隠れた肌の細胞のひとつひとつが、今、苦しいくらい目の前の人を求めている。それは藤堂も同じような気がした。
「……好き」
「うん……、僕も」
 やがて唇を離した藤堂は、未練のように果歩の瞼や額に口づけると、ようやく腕の力を緩めてくれた。
「すみません。こんな場所で」
 果歩は急いで首を横に振り、彼の胸に頬を埋めた。
 場所なんてどうでもいい。そんなことより、まだこの人と離れたくない。
 離れてしまうと――またこの人がいつもの慎重さを取り戻してしまいそうで。
 こんなにも幸福なのに、まだ振り出しに戻される不安を感じている自分がいる。
「……もう、お仕事に戻らないとだめですか」
 彼のシャツを握り締めながら呟くと、もう一度抱き締められ、唇に優しくキスされた。
 それが子供をあやすようなキスだったから、果歩は耳を熱くする。
「もしかして、誤魔化してます?」
「いえ、可愛いことを言うなと思って」
 ――はい?
 さすがに恥ずかしくなって顎を引くと、それを追いかけるようにもう一度、甘く口づけられた。
 きりのないキス――どこまでいっても終わりのない口づけ。もう、我慢する必要がないことを、教えられているような気がした。
 指と指を絡めて寄り添う2人の、互いの心臓の音が怖いほど速くなっている。幸福で体中が満たされて、いっそのこと朝までずっとキスしていたいとさえ思ってしまう。
「……もし、許されるなら」
 果歩の髪に顔を埋めながら、藤堂が思い詰めた声で呟いた。
「許すというのは、的場さんの家のことですが」
「……はい」
「先に帰って、僕の部屋で待っていてくれませんか」
 ――え?
 その意味が分かり、全身が熱を帯びたように熱くなった。
 そして同時に意外にも思った。
 何事にも慎重な藤堂は、まずは家族に挨拶してから――とか、そんなまだるっこしいことを言いだすような気がしていたからだ。 
「わ、私は大丈夫です」
 片倉さん、すみません。また嘘の共犯者になってください。
 というより、たとえ両親に猛反対されても、絶対にそうするつもりだけど。
「でも、藤堂さんはいいんですか」
「いいもなにも、僕がそうして欲しいんです」
 藤堂の言葉に、果歩は溢れそうな歓喜を飲み込んで頷いた。
 これ、本当に現実だろうか?
 もしかして数秒後に目が覚めて、何もかも夢だったってことはないよね?
「分かりました。じゃあ、何か食べるものを用意して待ってますね」
「夕食は食べてしまったな」
 藤堂は、初めて微かに笑った。
「でも、的場さんが作ってくれるなら、食べたいです」
 そのまま優しく抱き締められ、幸福で胸がいっぱいになった。
 私と藤堂さん、もう本当に……恋人なんだ。
 1年以上かかったけど、ようやく本当の恋人同士になれたんだ。――




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