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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(3)

 

「……嘘、わざわざ来てくれたんだ……」
 玄関から顔を出した沙穂は、果歩が驚くほど憔悴していた。
 部屋の中からは幼い子供が騒ぐ声が聞こえてくる。子供さんがいるんだな、と果歩は改めて2人の間に流れた年月のことを思っていた。
「ちぃちゃん。ちょっとなお君のこと、見ててね」
 そう声を掛けてから、沙穂はサンダルをひっかけて外に出た。
 毛玉だらけのトレーナーにくたびれたジーンズ。垣間見えた玄関もちらかっていて、職場での沙穂のお洒落な姿を知っているだけに、何か見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。
 沙穂はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……私のしたこと、的場さんも知ってたんだ」
 七階建てのマンションの最上階。通路に立つ2人の背後を、親子連れが会釈して通り過ぎていく。
「いえ。……それは」
 言葉に迷ったが、果歩は正直に言うことにした。
「でも、嫌われていたのは後になって知りました。仲がいいと思ってたから、それはかなりショックでしたけど」
「…………」
 うつむいた沙穂は、色のない唇を噛み締めた。化粧気のない頬には、加齢に伴う染みが浮き、口の周りには役所では気づかなかったほうれい線が刻まれている。
「うらやましかったの」
 糸のように細い、頼りない声だった。
「旧姓が同じで、名前も一字ちがい。私だって独身の時はもててたし、的場さんのことしか見てないジュニアも、私が若かったら私を見てくれたかもしれない。――ずっとそんなことを考えてた」
 胸を衝かれるような思いで、果歩は背中を丸めて語る沙穂を見た。
「ずっと秘書課希望だったのに、異動できたと思って喜んだら仕事は庶務。それでも今の秘書の子が異動したら、次は私なんだって勝手に思ってた。なのに、秘書に抜擢されたのは新人で、私と名前が一字違い。どう思う。――なんかもう、何もかも嫌にならない?」
 うつむいた沙穂の目から、涙がぽつりと足下に落ちた。 
「しょうもない男と妥協して結婚して、的場って名前から安田って名前になっただけで、人生の運の全てを使い果たしたような気がしてた。だから的場さんが羨ましくて、妬ましかった。本当はあの頃、顔を見るのもいやだった」
「…………」
「……ずっといなくなればいいと思ってた。死んじゃえばいいって思ってた」
 果歩は瞬きをして動揺を堪え、視線を別のほうに向けた。
 去年、同じようなことを流奈に言われたことを思い出す。
(的場さんは……、なんでも持ってるじゃないですか)
 その時も思った。一体私が何を持っているというのだろう。
 若くもない。仕事だって自慢できるようなことは何もしていない。りょうみたいに素材が美人というわけでないから、そう見せるために毎朝必死で努力している。
 その時も、流奈の慟哭が理解できたようで、あまり理解できていなかったのかもしれない。今だって果歩は、自分に自信なんて全く無い。22歳の時はどうだったかと言えば、今よりますます自信がなかった。
 それでも、他人をそこまでうらやんだことはない。
 りょうと一緒にいて、少しばかり周囲から言われる嫌味も、全く気にならなかったのは何故だろう。
 ふと思った。多分自分は、本質的なところで自分を信じているのかもしれない。
 自信もなくて臆病で、いつもりょうや藤堂さんを頼っていたけど、それでも根底では、自分を信じていたのかもしれない。
「今、私、あの頃の安田さんより年上ですよ」
 少し苦笑して果歩は言った。
「見ての通りまだ独身で、実は先月も、すごく好きだった人と微妙な関係になったばかりです。本当は20代のうちに結婚したかったけどそれもとうに諦めて……。どう頑張っても、年内は厳しいかな」
「真鍋ジュニアは、もう駄目なの?」
 やはり苦笑した沙穂の口調に嫌味なものがなかったので、果歩も素直に笑っていた。
「いやー、無理でしょ。もう私には敷居が色々高すぎて」
「私が言うのもなんだけど、お似合いだと思うよ」
「イケメンですけどバツイチですよ? やっぱ、結婚するなら初婚の人かな」
「言えてるね。しかも性格、あんなに悪い人だったっけ」
「今だから言いますけど、最悪でした」
 2人して声を出して笑い、照れ隠しのように夕暮れの濃くなった空を見上げた。
 私は大丈夫だけど、そうじゃない人もいる。
 そういう人の心の声を、私は今まで、ひとつも拾ってこなかった。
 この年になって、こんなことを言うのも恥ずかしいけど、安田さんを許せたことで、少しは私も大人になれたのかなという気がする。――
「的場さんの好きな人って、どんな人」
 帰り際、どこか優しい声で沙穂か言った。意表を突かれた果歩が思わず口ごもると、
「なんだか的場さん、昔と違ってすごく雰囲気が柔らかくなったから。こんな言い方したらごめん。実は、すごくいい恋愛してるのかなって思ったんだ、再会した時」
「…………」
「言いたくなかったらいい。微妙だって言ってたもんね。また明日。――正直言えば、まだ市長の前に出るのは怖いけど」
「それは大丈夫です。市長には私がきっちり話をしておきますから」
 果歩は笑顔で会釈して、沙穂のマンションを後にした。
 ――私の好きな人はね、安田さん。
 年下なんだけどすごく大人で、焦れったくらい我慢強くて、強情で。
 でも、何があってもしっかり受け止めてくれる人で。――
 視界に広がる夕空が滲んでいる。果歩は、指で目を拭って顔を上げた。マンションの下には、車をつけた片倉が立っている。
「どうぞ、ご自宅までお送りします」 
 でもなんでだろう。今は藤堂さんを、どうしてだかすごく遠くに感じるの。――  


 *************************

 
「真鍋さんの指示ですか」
 帰りの車で、後部座席に座った果歩がそう切り出すと、片倉は特段迷うことなく「はい」と答えた。
「普段のルーティンと違う行動を取られるようでしたので。――以前、それでミスしているので、神経質になっておられるようです」
 隠さないんだ――とそれは少しばかり意外に思いながら、果歩は改めて、灰谷市では一度も口を聞いたことのない男を見上げた。
 一度車で掠われそうになった時、あの夜も自宅まで送ってもらったが、その夜は藤堂に突き放されたショックが大きすぎて、何も話すことができなかったのだ。
「いまさらお聞きするのも変ですけど、以前、二宮の家でお会いした方ですよね」
「はい」
 映画かドラマの中にしか存在しないと思っていた職業――執事。
「……どうして今は、真鍋さんの傍に?」
「御前様のご指示です」
 御前様。それは二宮喜彦、藤堂さんの義父のことだ。
「それは……真鍋さんが危ない真似をしているからですか?」
「申し訳ありません。それ以上のことは、私には」
 分かりませんにしろ言えませんにしろ、なんとなくそう返されることは予想がついていた。果歩はため息をついて視線を窓の外に向けた。
 まぁ、曲がりなりにも親戚なんだから、応援くらいはするんだろうな。
 そこはあまり、深く考えなくてもいいのかもしれない。
 それより気になるのは、先日藤堂が漏らした言葉だ。
(義父はこの件に絡んでいないし、いるとすれば、あなたを守る側に回るはずです。――今夜はそのことで義父に会うつもりでいましたが、話はできなくても、それだけは間違いない)
「先日、藤堂さんと一緒だったのは、彼がお義父様に会うからですか」
「瑛士様がそう仰られたのなら、その通りです」
「結局、お義父様とは会えたんでしょうか」
「瑛士様にお聞きになることかと存じます」
 腹が立つほどそつのない答えに、さすがに果歩は少しだけむっとした。
「そうですか、分かりました。じゃあこれが最後の質問です。真鍋さんは、一体いつまで私に見張りをつけておくつもりなんでしょうか」
 片倉は答えない。果歩は少しだけ不安になった。選挙が終わればそれで解放されると思っていたが、そういうわけでもないのだろうか?
 そもそも、今日果歩が沙織の家に寄ることに決めたのは、執務室で清水に頼まれたからだ。それが市長室につつ抜けになっていたということは――
 果歩は再びため息をついた。馬鹿じゃない? 真鍋さん。それがばれたら、それこそ大変なスキャンダルじゃないの。
「答えられないならいいです。明日直接真鍋さんに聞きますから」
「……直接ですか」
「ええ、つまり、片倉さんに伝言をお願いしているんです」
 正直言えば、真鍋に聞きたいことはいくらでもある。今片倉に質問したこともそうだが、あの夜、自分を掠おうとした人たちの正体だ。
 真鍋が、緒方と会おうとしていたところにやってきた理由も知りたい。彼ははっきり言わなかったが、後になって果歩もようやく理解した。おそらく真鍋にとって、緒方はかなりの危険人物なのだ。
 それが分かったから、果歩はあれから二度と緒方に連絡していないし、緒方からの連絡もない。三宅に近況を聞きたいところだが、その三宅すら、果歩には信じていい相手かどうか分からないのである。
 それから尾ノ上が危惧している、秘書課が機能不全に陥っていることや、安田沙穂に優しくしてあげてほしいということも言わなければならない。
 それから――
 果歩はほっと息を吐いて、額に手を当てた。
(雄一郎さんもそれなりに汚いことをしてここまできた。――それをマスコミにすっぱ抜かれたら、どこかでそのバブルも終わる。あの人にとって苦しいのはその後だよ)
 本当に言いたいことは、多分これだ。
 できればあまり、危ないことはしないでほしい――


 *************************


 翌日――果歩の卓上電話が鳴ったのは、あと少しで5時になろうという時刻だった。
 電話に赤いランプが灯っている。市長からの直接コールだ。
「的場さん?」
 受話器を耳に当てた途端に響く真鍋の声に、果歩は緊張して息をのんだ。
 電話で彼の声を聞くのは8年ぶりだ。少しだけ懐かしさで胸が詰まった。普段より低く、柔らかく聞こえる声。
「はい、私です」
 数秒、不自然な間があった。その沈黙の意味は、果歩には分からない。
「……片倉に聞いたよ。話をしよう」
「はい」
「今からコーヒーを持ってきてくれないか」
「分かりました。すぐにお持ちします」
 電話を切った果歩は、すぐに立ち上がって尾ノ上の席に行った。
「市長と、話してきます」
「すまない、頼んだよ」
 隣の島では、今日から復帰した沙穂が、両手を合わせて果歩に目配せを送ってくる。
 その2人だけでなく、全員の重たい期待を背中に感じながら、果歩はコーヒーを煎れるために給湯室に入った。



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