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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(4)

 

「失礼します」
 トレーを持って市長室に入ると、真鍋は執務スペースにあるソファに座り、書類に目を落としていた。いつも傍にいる秘書の3人はいない。
 この数日で、真鍋は市長室の隣に小さな執務スペースを作り、そこに電話を引かせて私設秘書に応対させている。3人の秘書は、おそらくそっちにいるのだろう。
「座って」
 書類から目もあげずに真鍋が言ったので、果歩は彼の前にコーヒーを出してから、その対面に腰掛けた。
 彼が、ようやく顔をあげる。
「素直だね」
「え?」
「いや」微かに苦笑し、真鍋はコーヒーに視線を向けた。「君の分は?」
「いえ私は」果歩は急いで手を振った。「この豆は来客応対用の経費で買ったものですから」
「そんなもったいぶったものでもないだろう」
 不思議そうな目で立ち上がり、真鍋は執務机の傍に置いてあるコーヒーサーバーに歩み寄った。
「あの、私なら本当にいいですから」
「気にするな。僕が一人では飲みにくいというだけだ」
 立ち上がって自分でやりますと言いたかったが、ここで距離を詰めるのも危険な気がして、果歩は仕方なく座り直した。
 危険――別に、おかしな意味で真鍋を警戒しているわけではない。多分それは、私の心の問題だ。
(素直だね)
 彼がそう言った瞬間に、すぐに2人がまだ付き合っていなかった頃のやりとりを思い出してしまったからだ。
 当時、来客として来た真鍋にお茶を出した果歩に、彼は座って話をしようと持ちかけ、果歩は頑なに立っていた。その時のやりとりを。
「どうぞ」
「……、ありがとうございます」
 プラスチックの容器を受け取った果歩は、それを机に置いてから、改めて真鍋に向き直った。白いシャツにチャコールのネクタイ。あれから8年も経っているのに、こうして既視感のある場所で向かい合っていると、あの頃に戻ってしまったような錯覚を覚える。
 そのくらい真鍋の容姿は昔のままだった。もともとおとぎ話の住人のように綺麗な顔をしていたが、それがやや人間社会に馴染んだのかなというくらいだ。
 ずっと掛けていた眼鏡を、もう掛けなくなったのは何故だろう。 
 昔は自分の目が嫌いだと言っていたけど、今は好きになったんだろうか?
「悪いがあまり時間がないので」
 真鍋の事務的な声に、一時過去をさまよっていた果歩ははっとして顔を上げた。
「話は要点を簡潔にまとめてくれないか。まず、君の要望事項はいくつある」
「え、数ですか?」
 しかも要望事項って――果歩は急いで頭の中で、言いたいことを数え直した。尾ノ上課長、安田さん、先日の拉致事件。それから……
「五つ、くらいでしょうか」
「多いね」
 真鍋はわずかに眉を上げた。
「ゆ、優先事項に絞ってお話しましょうか。お時間はどのくらいいただけるんですか」
「この場所のことを言うなら30分かな」
 真鍋は腕時計を見た。
「今夜はプライベートで予定があるんだ」
 一瞬、芹沢花織のことが頭をよぎったが、果歩は急いでそれを頭から押しやった。
「分かりました。じゃあ、重要なことからお話します」
 果歩は急いで、秘書課がすっかり機能不全に陥っていることと、それが庁内で噂になっていること――このままでは職員にとっても真鍋にとってもいいことはないという話をした。
「市長にとっては信頼がおけないのかもしれませんが、身近な人間を敵に回しても、余計面倒なことになるだけです。市長のお考えが正しいのかもしれませんが、尾ノ上課長の顔も、少しは立てていただけないでしょうか」
 真鍋は黙ってコーヒーを飲んでいる。そして言った
「次は?」
 話があまり通じていないことに失望しながら、果歩は安田沙穂の話をした。
「市長のお怒りはごもっともだと思いますし、安田さんのしたことは、とても許されることではないと思います。……それでも、職場でああいった言い方をするのは……市長の立場では、やっぱり間違っているんじゃないでしょうか」
「…………」
「どうしても許せないと思うなら、せめてこの職場を異動させてあげてください。これは安田さんのためではなく、市長のために言っています」
「僕のため」
 真鍋が初めて意外そうに眉をあげた。「というと?」
「仮に安田さんが病休に入ってしまえば、市長のされたことが噂にならないとも限らないからです。今の秘書課のメンバーだって当然面白くないでしょうし、市長に恨みを抱くようになるかもしれませんから……」
「――君は」
 不意に呟くように言って、真鍋は立ち上がった。
「昔からそうだが、とことん僕の助力を嫌うんだな」
「え?」
「8年前もそうだ。君は一言も僕に相談せず、僕が事態を知った時にはもう君の悪評は全庁に知れ渡っていた。あの時の俺がどういう気持ちだったか、君には永遠に分からないんだろうな」
(よほど悔しかったんじゃないのかな)
 うつむいた果歩の脳裏に、先日の御藤の言葉が蘇る。その時、私はなんて言ったんだっけ――
(その時真鍋さんが、私に何をしてくれたわけでもないのに)
 私、馬鹿だ。肝心なことをすっかり忘れていた。
 あの時真鍋さんがどれだけ大人げなく怒ったか、それを忘れていたわけじゃないのに。結婚して仕事を辞めさせることで解決しようとした彼に、仕事を続けたいと言ったのは私なのに――
「それで?」
 果歩に背を向けて窓辺に立った真鍋は、再び事務的に促した。
「あと三つは? できれば詳細に入る前に、要点を頭出ししてくれないか」
「……一つは、片倉さんにお聞きになっていませんか」
「聞いているよ。護衛の件だ。もう二つは?」
 果歩は少しだけ深呼吸した。
「先日、急に私の前に現れて、車に乗せていただいた日のことです。――あの日の事情を、ご説明いただきたくて」
「あとは?」
 あとは――それは私の個人的な要望だ。多分、こんな風に事務的な場所で伝えたところで、真鍋の心には届かない。
「それだけです」
「四つだな」
 話を切り上げるように言うと、真鍋は振り返って果歩を見下ろした。
「分かった。全部君の言うとおりにしよう」
「――、えっ?」
「尤も僕にも妥協できない部分はある。特に一番最初の要望だ。ただ尾ノ上課長の面子は立てると約束する、それでいいな?」
 果歩は混乱しながら頷いた。え? これは一体どういうこと? それまで、全然興味なさそうに聞いていたのに、一体どういう心境の変化?
「安田さんには謝罪するし、あとの二つも話せる範囲で説明する。ただしそれは、君が僕の出す条件を飲んでくれたらだ」
 ――そういうことか……。
 果歩は顔を強張らせた。
 道理で話が早すぎると思った。最初から真鍋は、何かしら私に要求があって今夜の話し合いの場を設けることにしていたのだ。
 彼の出す条件は全く予想できなかったが、自分が今後、ますます困った立場に追いやられる予感だけが重く立ちこめている。
「……なんでしょうか」
「二つある。君の要望より少ない」
「数の問題じゃないと思いますけど、……それで?」
 真鍋は、果歩の前に座り直した。ややうつむき加減になった双眸には、最初にはなかった暗い影が宿っている。
「今夜僕は、今後僕がやろうとしていることにとって、非常に大切な人物と会う約束をしている。大げさな言い方になるが、その人物が、僕の命運を握っているといっても過言ではない」
 果歩は黙って眉を寄せた。誰だろう。まさかと思うけど赤城総理とか――?
「君には、その場に同行してもらいたい。もちろんドレスコードがあるが、それにも一切の不服はなしで」
「――え?」
 数秒遅れてその意味を理解した果歩は、混乱して瞬きした。「ちょっと待って下さい、どうして私が」
「そして一切の詮索も質問もしない。それが一つ目の条件だ」
「待って下さい」
 果歩は動揺しながら額を押さえた。――どういうこと?
「もう一つ」
 真鍋は続けた。 
「その場で、僕は、君と結婚するとその人に言わなければならない」
「…………」
 ――はい?
 何かの聞き間違いかと思った。結婚?
「君はそれに、――おそらく全力で異議を唱えたくなるだろうが、一切の抗弁をせずに僕の顔を立てて笑っていて欲しい。それが二つ目の条件だ」
「ちょっと待って下さい、真鍋さん」
「何も本当に結婚するわけじゃない。いってみればその人物の前だけの口約束だ。もちろんその場限りと言えば嘘になるが、それも短い間だけのことだ」
「あのですね」
「断っておくが相手は父ではない、この灰谷市の人でもない」
「ちょっと……」
 果歩は額に手を当てたままでうなだれた。意味が分からないし、そんな茶番は8年前でうんざりしている。だいたい、そんなあり得ない嘘をついて、誰かを欺くなんて絶対できない。
「無理です」
「そうか。ではこの話はこれで終わりだ」
 真鍋はあっさり切り上げた。
「交渉は決裂だ。むろん君の条件をのむ気もない」
 果歩もまた、憤りを堪えて立ち上がったが、踵を返そうとして足が止まった。
 ――本当に……なんて卑怯で心の狭い人なんだろう。
「その相手は誰なんですか」
「詮索しない約束だ」
「真鍋さん」
「瑛士ではないよ」
「…………」
 果歩はそのままの姿勢で動けなくなり、真鍋は果歩を見ないままで立ち上がった。
「瑛士に言い訳したかったら、今の話をしても構わない。むろん僕の許可がなくてもするんだろうが――ただそれも、全て今夜が終わってからにして欲しい」
 ――それは……
 ようやく顔を上げた果歩を遮るように、真鍋は続けた。
「どうせ五つ目もあるんだろう?」
「…………」
「五つでも六つでも構わない。今夜が無事に終われば、その時は君の話を全部聞くと約束するよ」



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