「すみません。片倉さんに荷物持ちまでさせてしまって」 「いえ、大丈夫です。でも、これだけの食材を、今から料理されるのですか」 スーパーのレジ袋をテーブルの上に置きながら、片倉が訝しげな顔になる。 数ヶ月ぶりに訪れた藤堂の部屋には、相変わらず余計なものは何もなかった。いっそ清々しいまでに女の影のない部屋に、信じていたにもかかわらず、果歩は少しほっとしている。 「藤堂さん、よく食べる人だから」 「料理が、お得意なんですね」 片倉は優しく笑ったが、その実、張り切りすぎていることを見抜かれているような気がして、果歩は頬を赤らめた。 「あ、そうだ。もしよかったら片倉さんも一緒に食べて行かれませんか? お夕飯、まだでしたよね」 「私がそこまで無神経な人間だと思いますか」 大真面目に問われ、果歩はなんと答えていいか分からずに言葉に詰まった。 昨夜、真鍋に「片倉さんといても退屈なだけ」と嘘を言ったが、退屈ではないにしろ、やや気詰まりなことは間違いない。 この上司にしてこの部下あり――ではないが、この人と藤堂は思考回路がよく似ていて、会話については明朗簡潔。遊びの部分が殆どないのだ。絶対に藤堂の人格形成の一部は、この人に影響されたに違いない。 「いつものように、車で待機しています。何かあれば連絡してください」 いや……、いいんだけど、それはとてもありがたいんだけど、今夜泊まるってことは、当然片倉さんも承知していますよね。 一体朝、どんな顔をしてこの人の車に乗ったらいいんだろう。 「あ、あの、……藤堂さんが」 「瑛士様が?」 玄関で靴を履いていた片倉が顔を上げる。 「片倉さんと、後で話がしたいって言ってました。せめて藤堂さんが戻るまで、部屋の中で待ちませんか」 「瑛士様が、私に何をおっしゃりたいのかは分かります」 片倉は静かに答えた。 「お気持ちはありがたいのですが、外にいた方が全方面に目を配れるので。――失礼します。何かあればご連絡を」 ************************* 鍵が回る音がしたのは、それから一時間もした頃だった。まだ台所に立っていた果歩は、急いで火を止めて、玄関の方に駆けていく。 どうしよう。気合いを入れすぎて結局作りきれなかった。藤堂さん、お腹を空かせてなきゃいいけど。 「帰りました」 扉を開けて入ってきた藤堂が、微笑してそう言った。あ……、と果歩はうろたえて言葉に詰まり、みるみる耳まで熱くなる。 「的場さん?」 「あ、いえいえ、お帰りなさいっ」 ――な、なんてレアな光景だろうか。 夢にまでみた新婚風景。藤堂さんが帰ってきて、私がエプロン姿で出迎える的な。 が、靴を脱ぐ藤堂から鞄を受け取ろうとすると、彼は少し訝しげな目で顔をあげた。 「すみません。仕事を一部持ち帰っているので」 「え……、はい」 「鞄には触れないでもらえますか」 「…………」 一瞬唖然としたものの、果歩はすぐに「はい」としおらしく頷いた。 ――まぁ、そういうところが藤堂さんかな。 空気が全く読めないところ。とはいえ、私のやってることも大概昭和で、彼には意味が分からないのかもしれないけど。 それでも、彼が普段以上に彼らしいので、どこか緊張していた気持ちも解けていった。 ずっと離れていたから忘れていたけど、これが自分と彼の空気感なんだと、嬉しさと共に関係性が戻ってきた実感が込み上げてくる。 「……もしかして、雨ですか?」 すれ違いざま、藤堂の肩から雨の匂いを感じたので、果歩はふと言っていた。 「ええ、少し。でも、朝には晴れるようですよ」 今日が初めてではないけれど、彼の体から雨の匂いを感じる度に、不思議な既視感に見舞われる。 どうしても思い出せない過去の一場面で、今と同じような感覚になったような――そんな、不思議な気持ちになる。しかし果歩はすぐに我に返り、散らかったままのキッチンに目を向けた。 「っ、すみません、実はまだ全部できてなくて」 「ああ、いいですよ」 台所に目をやった藤堂は、テーブルの上に並べられた料理を見た時と同様に、少し驚いているようだった。 「さすがの僕も、こんな時間からそんなには食べられませんから。……的場さんは」 「あっ、私も9時過ぎの飲食はNGです」 「だったらなおさら、できているものだけいただきます」 藤堂は上着を脱いで、それを自分でハンガーにかけた。う……手伝いたくてうずうずする。これは昭和生まれの、やや昔気質の両親に育てられた習性だ。 「でも、あの、実は一番の自信作がまだできていないんですよ」 「……自信作?」 ラム肉のポワレ、バルサミコソース。一体何故、こんな手の込んだものを作ろうとしてしまったのか。 多分、スーパーで買い物をしながら、頭の中は相当にてんぱっていたのだ。嬉しさと、信じられなさと、女子力を見せつけたいという女の見栄や諸々で。 「あと15分くらいでできますから、よかったら先に、お風呂に」 「……ああ、まぁ、じゃあお言葉に甘えて」 「お湯は張ってありますから」 もちろんそこも、準備は万端である。 とはいえ、藤堂が浴室に消えた後、ちょっと気が早すぎたかしらとそわそわした気持ちになった。 別に結婚をせがむ気持ちはないけれど、そんな風にとられてしまったらどうしよう。 晃司にもそれで、重たいと思われていた。藤堂はその晃司より2歳も年下で、しかも2人は、今日ようやく両思いになったも同然なのだ。 それを、とんでもなく手の込んだ料理を振る舞い、いかにも新婚の妻みたいに部屋に上がり込んで、お風呂まで沸かして待っていたのだから―― どうしよう、初っ端から重たいって思われちゃったら。 恋愛する度に思うことだけど、両思いって難しい。そうなった途端にどう振る舞っていいか分からなくなる。 藤堂さんは落ち着いているのに、4歳も年上の私一人がなんだか空回りしているみたいで恥ずかしい。 「できましたか?」 フライパンの前で難しい顔をしていた果歩は、近くで聞こえた声にびっくりして顔を上げた。 狭い台所。隣に立った藤堂が、果歩の手元をのぞきこんでいる。髪はまだ生乾きで、Tシャツに7分丈のパンツというラフな格好だ。 近くで香るシャンプーの匂いにドキドキした。とはいえ、まだ料理の方は仕上げの工程が残っていて、火に掛けたフライパンの中では、ソースがパチパチと爆ぜている。 「ごめんなさい、あと少し……、ていうか、お風呂早すぎません?」 「ああ、すみません。あまり長風呂したい気分でもなかったので」 長風呂以前に、5分も経っていないような気がするけど。 「そうだ、先に片倉さんと話してこられたらどうですか」 いいことを思いついたとばかりに、果歩は藤堂を振り仰いだ。 と、思わぬ距離の近さにドキッとする。ここの台所が相当に狭いことは分かっていたが、こうやって出入り口側に立たれると逃げ場がない。 「片倉に?」 「……は、話があるって、そう言ってませんでしたっけ」 「話なら、帰宅前に電話で済ませました。その時、的場さんがかなり手の込んだ料理を作っていると聞いたので」 「…………」 片倉さん、会話に余計な遊びが入りすぎてます。 「僕もそのつもりで帰ってきましたが、……的場さん」 「は、はい」 改まった彼の口調に緊張した時、手が伸びてきて、フライパンの柄を持っていた果歩の手に重なった。同時にもう片方の手が、ガスコンロのスイッチを回して火を止める。 「食事は後でいいですか」 咄嗟に言葉が出てこなかった。 切羽詰まった藤堂の声に、胸がきゅっと収縮する。 「まるで時間稼ぎをされているようで、――すみません、余裕がなくて。さっきから気持ちが全く落ち着かない」 背中に彼の胸が重なって、腕が肩に回される。温かな身体からは清潔な石けんの香りがして、速い鼓動の音が感じられた。 「もし、僕の意図が伝わっていなくて、的場さんにそういうつもりがないなら」 ――あ……。 「僕も今夜は何もしません」 「…………」 どうしよう。そんな風に思わせていたなんて、想像してもいなかった。 というより、普段の藤堂さんがじれったすぎるほどじれったい人だから、このペースでも速すぎるくらいかと思っていたのに。 「わ、私も……」 首筋を薄赤く染めながら、果歩は肩にかかった藤堂の腕に手を添えた。 「私も、……お風呂に入ってきて、いいですか」 ************************* 藤堂の大きな手が、湿り気を帯びた果歩の髪を愛おしげに撫でている。 ベッドの上で、互いに抱き締め合ってキスをしながら、果歩はまだ、藤堂とこうなったことへの現実感が持てないままでいた。 あまりにすれ違いが多すぎて――まるで運命の悪戯のように、いつも途中で邪魔が入っていたから――。 今だって、いつ玄関のチャイムが鳴って、はっと藤堂が我に返り、全てが夢のように終わりになるかもしれないと思っている。 でも現実には、雨音に覆われた部屋で、二人は指を絡め合って飽きることなくキスをしていた。 ――藤堂さんの唇……柔らかい……。 息づかい、背中に回された手の大きさ、キスの密度。 すごく温かくて気持ちいい。こんなにキスがうまいのに、本当に余裕がないのかな。 今までと同じようで全然違う。こんなキスをする人だっけ、こんな風に――手を…… 「あ……」 背中に滑り込んできた手が、ブラジャーのホックを外した。こんなに器用な真似をする人なんだという驚きと、いきなり無防備になった自分の身体にドキドキする。 ふと動きを止めた藤堂が、果歩の首にかかったままの指輪に指でふれた。 「……あ、指輪、外しましょうか」 「いえ、このままで」 鎖につながれたリングを持ち上げて口づけると、藤堂は優しい目で果歩を見下ろした。 「週末、2人でサイズを直しに行きましょうか」 「……、うん」 幸福で胸がいっぱいになりながら、果歩は彼の肩に頬を預けた。 それは、どの指のサイズでしょう、藤堂さん。 私が決めちゃっていいのなら、もうどの指にするかは決まっているんですけれど。 でも、できれば藤堂さんに決めてほしいな。それがどの指のサイズであっても、――多分、最高に幸せだと思うから。 「……僕は、女性とこうなるのは初めてなので」 やがて仰向けにした果歩の前で、シャツを脱いだ藤堂が少し固い口調で囁いた。 「何か失礼なことをしたら、すみません」 失礼なことってなんだろう。というより、藤堂さん、やっぱり初めてだったんだ。 私がそうでなくて悪かったかな。過去は過去で大切にしたいけど、ほんの少しだけ心苦しくて切なくなる。 もし生まれ変わったら――もう一度、この人と同じ世界に生まれることができるなら。 今度こそ、一番最初にこの人を見つけたい。 一番最初に恋をして、この世で息をする最後の時まで、ずっとこの人を好きでいたい。 そんな風に思う自分を、真鍋さんも晃司も、許してくれるかな。 あの2人も、いつかそんな風に思える相手と、巡り会うことができるかな……。 藤堂の髪が首に触れる。息づかいが乳房にかかる。温かな手のひらが腹部をすべって腿にふれる。 身体の全部が彼の手でとろかされていくような心地よさの中で、頭の中を占めていた様々な思考がゆっくりと霧散していく。 恥ずかしさも気後れも、次第に意識の外に消えていき、触れあう肌の温もりや互いの肌の甘い匂い、彼が与えてくれる優しい愛撫だけが、果歩の感覚の全てになる。 吐息――衣擦れ、優しく響く雨の音。猫みたいに甘えた自分の声。汗ばんでいく肌と、熱を増していく身体。 気付けば果歩は、すすり泣きにも似た声をあげ、藤堂の腕にすがっていた。 「的場さん、僕につかまって」 「ん……」 頼りなく頷いた果歩は、彼に取られた腕を、その首に回してしがみつく。 屈み込んだ藤堂が、耳元で囁いた。 「辛かったら、言ってください」 欲情と愛情で潤んだ双眸に見下ろされ、胸の奥底が苦しいほどに締めつけられた。 互いの素肌が、布団の下で甘く温かく重なり合い、すっかり緊張が解けた身体の中が、ゆっくりと彼のもので満たされていく。 「……あ」 藤堂のどこもかしこも固い身体が愛おしくて、その筋肉が躍動するのも愛おしくて、不安と幸福と息が詰まるほどの切なさがごっちゃになって――果歩は無意識に泣いていた。 自分の身体の中で、幸せが膨らんで、その波が繰り返しやってくる。 互いの掠れた吐息と、ベッドのスプリングが軋む音。彼の汗ばんだ肌と、時折喉から漏れる声。 揺れる前髪からのぞく瞳。鼻――何度もキスしてくれる優しい唇。 好き――大好き……。 「……藤堂さん、好き」 「……ん、俺も好き」 指を絡め、夢中になって口づけを交わしながら、自分が今夜、ようやくこの人と結ばれたんだという実感が込み上げてくる。 4月に初めて出会った時は、野暮ったいとしか思えなかった。 真面目で頑固で、融通がきかなくて、でも素直で可愛くて――。 「……、的場さん」 「あ、好き……、大好き……」 藤堂の吐く息が荒くなり、終わりの時が近いことが果歩にも分かる。 幸福の中に寂しさの影が落ちる。まだ終わりにしたくない。まだずっと、こうして二人でつながっていたい。 やっと分かった。この人に出会って、こうして愛されるために、私は今日まで生きてきたんだ。 今、私、自分が自分でよかったって――心からそう思ってる。 初めて、本当に思ってる。 「……、的場さん、愛してる」 こめかみを涙が伝って耳を濡らした。 ――私も……、私も、藤堂さんを愛してる。 彼の肌、体温、髪――唇。天井に映る影。 私、今夜のことを絶対に忘れない。 こんなにも美しくて幸福な時間が、自分の人生に起きたことを、絶対に忘れない。―― |
>>next >>contents |