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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(32)



 雨の音で、果歩はぼんやりと目を開けた。
 ああ――今日も雨なんだとふと思う。そろそろ梅雨明けしてもいいのに、いつまでこの憂鬱な天気が続くんだろう。
 身体が、幸福な暖かさに包まれていることに気がついたのはその時だった。
「――!」
 そうだった。私、昨日藤堂さんと――
 藤堂の腕が自分の首の下にあって、布団の下で足と足が絡まっている。
 ――う……うわ……。
 あのまま眠ったのだから当たり前だが、自分も彼も、多分何も身に着けていない。
 目が少し痛むのは、もちろんコンタクトをしたまま眠ってしまったせいだろう。でもそこまで深刻ではないのは、多分睡眠時間が3、4時間だから。
 外もまだ暗いし、体感的には午後3時か4時くらいだろうか。――
 常夜灯だけが灯る薄暗い部屋の中。藤堂の規則正しい吐息が自分の額に当たっているのが感じられる。
 怖いものでも見るような気持ちでおずおずと顔を上げると、いきなり藤堂の寝顔が飛び込んできた。
「…………」
 目の前で、ちかちかっと星が瞬いたような気がした。
 ――なにこれ、もしかしてこの2ヶ月のご褒美ですか。
 すごく無防備で、すごくかっこいいんですけど!
 男らしい目鼻立ち、凜々しい眉。もう自分のものになった(と思いたい)せいだろうか、何もかもキラキラと輝いて見える。
 顔立ちはもちろんだが、肌も匂い立つように艶めいて、鎖骨から肩にかけての線が男らしくてセクシーだ。
 ああ、なんだか夢みたい。今日からこの人が、本当に私の恋人なんだ。――
「……ん」
 そのセクシーな唇から、微かな呻き声が漏れる。
 果歩はびっくりして近づきすぎていた顔を離そうとした。が、逆に腕に力を込めて抱き寄せられ、ぐうっと胸が押しつぶされる。
「……っ、うっ、あの」
 情事の朝の幸福というより、リアルな息苦しさに声を漏らすと、藤堂がはっと目を開けた。
「――っ、わっ、す、すみません」
 ぱっと両腕が離され、藤堂が跳ね起きる。そこで初めて、彼も昨夜のできごとを思い出したようだった。
「…………」
「…………」
 これもまた、我慢していた時期が長かったゆえに起きた条件反射だろう。
 互いに気まずい目で見つめ合った後、どちらからともなく苦笑して、2人は再びベッドの中で抱き合った。
「もう、起きないとまずい時間ですか」
「……いえ。私ならしばらく休むように言われているので大丈夫です。藤堂さんは、お仕事ですよね」
「うん、さすがにこのタイミングで休むと、春日局長に叱られます」
 今日まだ火曜日だ。藤堂の仕事も忙しいようだし、さすがにこれ以上親に嘘をつくのは気が引ける。次に会えるのは……週末か。
 急速に心細くなるのを感じたが、その週末に指輪を直しにいけるのだと思い直した。しかも金曜日は議会初日。真鍋に拘束される期限もその日までだ。
「もし遅刻でもしたら、私のせいだってバレバレですね。絶対に何もなかったような顔で出勤してくださいよ」
「どうかな。そのつもりですが、にやけてしまうかもしれないです」
「ええ? そんな藤堂さん、想像できないですよ」
「僕にもできません」
 笑い合ってから、自然にキスを交わしていた。
 とろけるような優しいキス。これまでの真面目な彼からは想像できないほどいやらしいキス。
 自分は女性にしてはそこそこ長身だと思っていたけど、こうして彼の大きな身体に抱かれていると、すごく華奢なように思えてくる。
 ――藤堂さん、キスが上手いなぁ……。
 キスだけじゃなく、夕べはなにもかも上手かった気がする。
 経験がないって本当かな。それとも頭がいいから、なんでも上手にできるのかな。
 人の気持ちを読むのは下手なくせに、私の気持ちがいいところはすぐに――
「……あ」
 ぴく、と肩を震わせた果歩は、耳を赤らめて顔を背けた。
「と、藤堂さん、お仕事、持ち帰ってるんじゃ」
「朝、コーヒーを飲みながらするつもりだったので、大丈夫です」
「でも、……っン」
 こんなに強引な人だったっけ。こんなにエッチな人だったっけ。
 やがて、そういったことも考えられなくなって、思考も身体も甘い陶酔の中に沈んでいく。
「的場さん、……すごく濡れてきた」
「……、い、言わないで」
 煩かった雨音が遠くなり、果歩は藤堂にしがみついて彼の動きに身を委ねた。
 
 
 *************************
 
 

「――だから、片倉に買ってこさせると言ったのに」
「そんな雑用みたいなこと、いちいち頼めるわけないじゃないですか」
 朝――雨はすっかり止み、二度寝した果歩が目を覚ました時、藤堂はすでにテーブルについていて、コーヒーを飲みながら書類に目を通していた。
 果歩は急いでシャワーを浴びてから、夕べ着ていた服に着替え直し、朝食の用意をした。といっても、昨夜大量に作ったものの中から、消化に良さそうなものを選んで出しただけなのだが。
 意外なことに、あれだけよく食べる藤堂は、自宅では朝食を抜いているらしく、果歩はますます彼の食生活が心配になった。
 この人の母親は、息子を美食家だと信じているがとんでもない。藤堂は、果歩に言わせれば雑食で、見るからに健康に悪そうなものでも気にすることなく食べている。そういうところは、本当に良家のお坊ちゃまですか? と疑問を差し挟みたくなる。
 しかし藤堂は、まごうことなき金持ちの息子だった。
 というのも、持参した所持品の中に日焼け止めがないことに気付いた果歩が、万が一の可能性を期待して藤堂に「日焼け止め、もってないですか」と聞くと、こともなげに片倉に電話しようとしたからだ。
 今も、果歩が日差しをおそれて窓際を避けて歩いていたら、そんな嫌味を言われたのである。
「だいたい、家に使用人がいるなんて異常な状況、公務員家庭じゃ考えられないですからね」
「僕も、いつも片倉に用事を頼んでいるわけじゃないですよ」
 藤堂は、ややむっとしたように果歩を見上げた。
「的場さんが、人生の一大事みたいに僕に言うから……、それほど深刻なら、お願いしようと思ったまでです」
「そんな言い方しました? 私」
 そりゃしたかもしれないけど――。
 分かってないかもしれないですけど、三十代の女性にとって、紫外線っていうのはまさに凶器。それでシミでもできたらまさに人生の一大事じゃないですか。
「もういいです。藤堂さんに頼んだ私が馬鹿でした。だいたいお忘れかもしれませんけど、片倉さんは真鍋さんの下で仕事をされているんですよ」
「……、片倉は」
 口を開き掛けた藤堂は、小さく息を吐いてから立ち上がった。
「分かりました。今回は僕が間違っていました」
 今回は? と思ったが、その不満は口にしないでおいた。
 というより、昨日あれだけ熱々だった2人が、なんだって日焼け止めのことなんかで(果歩のせいです)険悪になっているんだろう。
「そろそろ出かける時間じゃないですか」
 それでも、多少つんっとしながら果歩は言った。
「私、夕べ作った食事を冷蔵庫に収めてから帰ります。鍵はお借りして、片倉さんに預けておきますね」
「予備があるから、そのまま持って帰られて構わないですよ」
「……、いいんですか」
 現金なもので、にわかに心臓がドキドキとし始める。
 つまり、それって――恋人のマストアイテム、合鍵?
「次に会った時に返してください」
「…………」
 がくっ……。
 やっぱり藤堂さんの空気の読めなさ加減は健在だった。まぁ、鍵なんて、そんなに簡単に人に渡すものではないけれど。
「その時までには、日焼け止めを買って、部屋に置いておきますよ」
 ――え……?
 果歩が目を見張った時、背後に立った藤堂にそっと抱き締められていた。
「ご希望のメーカーがあれば教えてください。他には、何を買えばいいですか」
 胸がいっぱいになって、咄嗟に言葉が出てこなかった。  
 そっか、鍵を返せるのは、次に会う約束ができるからだ。
 もう――この人の気持ちを推しはかって、いちいち悩まなくてもいいんだ、私。
「……、は、歯ブラシとカップは、昨日買ったから」
「はい」
「私のお茶碗と……あと、お箸があったら、嬉しいです」
「分かりました」
 本当は何もいらないけど。
 この部屋に藤堂さんがいてくれたら、昨日みたいに優しく抱いてくれたら。
 もう他には何もいらないけど。
 胸の前で合わさった彼の腕に手を添えて、果歩はそっと藤堂を振り仰いだ。自然に唇が重なって、すぐに甘く、深くなる。
「藤堂さん、……時間」
「分かってます。……でも、あと少しだけ」
 やがて唇を離した2人は、未練のように抱き締め合った。
「……本当に、休んでしまいたいな」
「な、何言ってるんですか」
 それでも藤堂の気持ちが痛いほど分かり、果歩は彼の背中に両手を回して抱き締めた。
 昨日の夜から今朝にかけて、いわば2人は現実とは違う場所にいたのだ。
 現実に立ち戻れば、こんなことばかりをしてはいられない。 
 藤堂とは話しあわないといけないことが沢山あるし、将来のことも……やっばりきちんと話しておく必要がある。少なくとも真鍋の警告は伝えるべきだし、その上で仕事を続けるかどうかの判断は、なかなかの難題だ。
 真鍋に対して、これからどう関わっていくべきかも難しい問題である。
 自分が真鍋と近づきすぎれば藤堂を不快にさせるだろうし、逆に藤堂が真鍋に近づきすぎれば、果歩が不安な気持ちになる。
 ――私にとっての真鍋さんと、藤堂さんにとっての真鍋さん。そういうの、一度2人でしっかり話しあわないといけないんだろうな。
 人間って難しい。いくら恋人同士でも、自分の知識や気持ちの全部を相手に伝えることは不可能だ。だから誤解や不安、行き違いが生じる。
 そんなことになる前に、お互い納得できるまで話すしかないんだけど。――
「雄一郎さんは、僕のことをなんて言っていましたか」
 まるで心を読んでいるような藤堂の言葉に、果歩はドキっとして瞬きをした。
「……、ぶつけた腰が痛いって言ってました」
「……、そういうことではなく、……」
 ですよね。それは分かってるんですけど。
 真鍋のことを、いかに平常モードで藤堂に話すことができるか。それが当面の課題かもしれないと思いながら、果歩は藤堂の胸から顔をあげた。
「藤堂さんが市役所に入られたいきさつは教えてもらいました。あと、殴られた時の話とか。――でも、全然怒っている風ではなくて」
「…………」
「藤堂さんのことを、とても大切に思っているんだなと、感じました」
 あと、どうして晃司は呼び捨てで、藤堂はさん付けなのかとか――いや、その話は、多分藤堂を不快にさせるだけだろう。
「藤堂さんのご実家のことも、これは別の機会にですけど、やっぱり教えてもらいました。そこに嫁ぐのが簡単な話でないことも、――あくまで真鍋さんの言葉ですけど、早く結婚して二宮の家に入るべきだみたいなことも、言われました」
 藤堂が、微かに眉を寄せるのが分かった。
「それは、的場さんの安全のためですか」
「うん……、まぁ、そういうことだと思います」
「でも僕は今、その家とは縁の切れた人間です」
「……、そうなんですか?」
「今の当主は雄一郎さんです。僕にもう、それを覆すことはできない」
 そうなんだ。いつの間にそういうことになってたんだろう。なんとなくだけど――真鍋さんの真意は、二宮家を継ぐことではないような気がしたのに。
「すみません。だったらもう分からないかも。――真鍋さん、色々話してくれましたけど、肝心なことは一切話してくれないから」
「……肝心なこと?」
「それが何かは分かりませんけど、あの人にとって重要な問題を隠したままで話をされていたことだけは分かります。――今も、やってることは滅茶苦茶ですよね。でもそれには、真鍋さんなりの理由が絶対にあるはずなんです」
 彼がメディアや秘書課のメンバーに馬鹿にされていたことを思い出し、多少の憤りをこめて果歩は続けた。
「でもそれは、私に話すべきことでも、私になんとかできることでもないんだろうなって思います」
 果歩を抱いたまま、藤堂が微かに息を吐くのが分かった。
「では雄一郎さんは、一体あなたに何を話したんですか」
 あれ? 昨日その話をしなかったっけ、と一瞬思ったが、確かに詳細までは藤堂に話していない。 
 ただ、真鍋から聞いたのは、彼の心にある秘密の部屋の物語だ。それは――私の口から他人に言うことでは絶対にない。 
「……すみません。詳しいことは直接真鍋さんから聞くべきだと思います。ただ」
 果歩は迷いながら言葉を切った。話せないことを、どう藤堂に説明すべきかと思いながら。
「藤堂さんにもあったように、私にも真鍋さんにも秘密の部屋があるんだなって、それは改めて思いました」
「……秘密の部屋?」
 藤堂が訝しそうな顔をしたので、果歩は彼がまだ、その話を知らないことに気がついた。
 佳江から聞かされた藤堂の心の中――記憶を閉じ込める秘密の部屋の話をすると、彼は心外そうな――それでも何かに納得したような表情になった。
「なるほど……、自分の精神構造をそういう形で考えたことはなかったですが、表現方法としては当たっているのかもしれないですね」
「当たっていると思いますよ。私だって真鍋さんとの過去を鍵をかけた部屋の中に閉じ込めていたし、真鍋さんだって忘れたい思い出を閉じ込めていたんです。真鍋さんの場合、それは私のことじゃないですけど」
 藤堂が、微かに表情を翳らせる。
「……的場さんのことではないんですか」
「まぁ……、だからそれは、私の口から言うような話ではないんですけど」
 真鍋が部屋に閉じ込めていたのは、彼の2人の母親と、それによって彼の心に深く残った傷跡の物語だ。その傷は、多分まだ癒えていなくて――それが少しだけ心残りではある。
「……あの、芹沢花織さんって、おられたじゃないですか」
 果歩はおずおずと言葉を継いだ。
「あの人が、今の真鍋さんの支えになってくれているって、そう思ってもいいんでしょうか」
 数秒待っても、沈思する藤堂から返事がない。
「……藤堂さん?」
「――、まずいな、そろそろ行かないと」
 弾かれたような藤堂の声で、果歩は我に返ったように腕時計に視線を落とした。
「ほんとだ、いけない、もう50分になってますよ」
「すみません。じゃあ後片付けをお願いしてもいいですか」
「はい」
 任せてくださいとばかりに頷いた果歩は、はっと顔を上げて、昨日彼がハンガーに掛けていた上着を取りに行った。
「行ってらっしゃい」
 上着を差し出してそう言った果歩は、藤堂がひどくぼんやりとした目をしていることに気がついた。
 ――藤堂さん……?
「あの……」
「――、すみません。仕事のことで」
 藤堂は我にかえったように微笑したが、それはどこか寂しげな笑い方のようにも見えた。
 どうしたんだろうと思ったが、それを問い質している時間もない。
「……、お仕事、頑張ってくださいね。あの……、土曜日にまたここに来てもいいですか」
 そう言うと、上着を受け取った藤堂は、普段と同じ笑顔で頷いた。
「はい。その日に一緒に指輪を直しに行きましょう」
 よかった、いつもの藤堂さんだ。
 この人のことだから、また何かしら問題を持ち出して、距離を開けるとか言いかねないと思ったけれど――
 果歩がほっとして微笑むと、そっと肩を抱かれて、抱き寄せられる。
 寄り添った彼の首筋から、昨夜と同じ匂いがした。
「でもその前に、ご両親に挨拶に伺ってもいいですか。特にお父さんには、随分と心配させてしまったようなので」
「……はい」
 嬉しさで、目の奥が熱くなる。
 双眸を潤ませて顔を上げると、同時にかがみこんだ藤堂と唇が重なった。
 出勤前とは思えないほど情熱的なキスに、果歩は戸惑って顎を引く。
「……、ど、どうしたんですか?」
「……しばらく会えないので。だめですか」
 もちろん私はだめじゃないですけど、だめなのはむしろ藤堂さんの方なんじゃ……。
「時間は、」
 背中に壁が当たり、再度藤堂の唇が被さってきた。
「もう一度」
「…………」
「もう一度」
 
 
 *************************
 
 
「――雄一郎、貴様」
 初夏だというのに黒のコートに身を包んでいた男は、入ってきた真鍋を見て、怒りを爆発させるように立ち上がった。 
 即座にボディガード2人が前に出て、真鍋の前に立ち塞がる。
 同時に、真鍋正義に長年連れ添った私設秘書も立ち上がり、「いけません!」と、今にも殴りかからんばかりの剣幕の正義に抱きついた。
 火曜日――午後9時。羽田空港。
 滑走路で離陸を待つばかりとなったプライベートジェット。18人乗りの贅沢な機内にはよく見慣れた顔が並んでいる。
 その奥で、怯えた顔で妻子と膝をつき合わせている吉永を見て、真鍋は冷めた目で微笑した。
「せっかくお別れに来たのに、随分な挨拶ですね。父さん」
「何をしに来た」
 髭が伸び、目の下に青黒い隈ができた正義もまた、息子が市長に就任した日から、逃げ回るように国内を転々としている。
 社長である吉永冬馬も行方不明――ここにいるが――光彩建設はこの一ヶ月、混乱の極みにあったはずだった。
「お、お前は一体何がしたい、私への復讐か、それとも母親の恨みを晴らしたつもりか。言っておくが、こんな真似までして、お前一人が上手く逃げられると思っているなら大間違いだぞ!」
 白髪をふりたて、充血した目で正義はまくしたてた。
「麻子がどれだけお前を大切に思っていたのか、お前にはまだ分からないのか。お前をうちのしがらみから切り離すために、あれがどれだけ苦労したか――」
 そこで、喉に何かつかえたように、正義は咳き込んだ。権力者という仮面をなくした途端、ただの老人に成り果てた人を真鍋は黙って見下ろした。
 正確には、権力者ですらなかった。この人は生涯憐れな傀儡にすぎなかったのだ。
「わ、私の話など聞こうともしない。私を理解しようともしない。お前とは今度こそ本当に縁を切った。どこでも好きな場所で野垂れ死ぬがいい!」
 ――そういうあなたは、僕を一度でも見てくれたことがあったんですか。
 僕を、……本当の僕を、一度でも。
 喉元まで込み上げた言葉を、真鍋は微笑してのみこんだ。
 何をしても分かりあえない人がいる。僕には、それがあなただったというだけだ。
 それでも父親は父親だ。あなたにとって僕がずっと息子だったように。
「レバノンですか」
 真鍋は機内を一瞥した後、これまでの話など聞いていなかったかのように続けた。
「気候もいいし、随分と暮らしやすい場所だと聞いています。逃亡にはうってつけの場所だ。まぁ、せいぜい呑気な余生でも楽しまれたらどうですか」
「何もかも失ったんだぞ」
 歯軋りするような声で、正義は言った。
「私とあれが必死になって守り続けたものを、何もかもだ。この恨みは死んでも忘れん。何年たとうが、いずれお前を地獄に引きずり落としてやるからな」
「無駄だよ……、義兄さん」
 そこに、虚ろな目をした吉永が、ふらつきながら前に出てきた。
「雄一郎には二宮家がバックについている。いや、今は雄一郎が二宮家を動かせる立場になったんだ。義兄さんにはできなかったことも、雄一郎ならうまくやるさ。……そう、どうあがいたって、勝ち目はない」
 そして媚びと怯えを含んだ卑屈な笑いを浮かべ、真鍋の前に膝をついた。
「なぁ、雄一郎、俺は今度こそお前の味方になったんだ。俺のしたことを許してくれ。お前には本当に悪いことをしたと思ってる」
「パパぁ」
 後ろの方から、子供の無邪気な声がする。その子供を咄嗟に抱き締めた若い母親が、怯えた目で真鍋を見上げている。
「――ゆ、許してくれ、この通りだ」
「…………」
 指を震わせて土下座する吉永に背を向けると、真鍋はタラップに向けて歩き出した。
「連中を甘く見るなよ」
 吐き捨てるような、正義の声がした。
「お前のバックは警視総監の八神さんか。先週の一斉捜査もどうせ無関係じゃないんだろう? 警察のトップを味方につければ安泰だと思っているなら大間違いだ。警察組織は一枚岩じゃないし、お前が思っている以上にうちの県警は連中とズブズブだ」
「…………」
「せいぜい夜道は気を付けて歩くことだ。どうせろくな死に方はしないだろうがな」
 真鍋は父親を振り返った。その背後では、学生時代から真鍋と顔馴染みの父の私設秘書が、申し訳なさそうに頭を下げている。
 レバノンへの渡航手配も含め、向こうに終の棲家を用意しているのが真鍋だと、この男だけは知っているからだ。   
「今度こそご期待に沿えるよう、努力しますよ」
 真鍋は微かに笑って肩をすくめた。
「ではよい旅を。――さようなら、父さん、叔父さん」
 タラップを降りた真鍋を、複数のボディガードが取り囲んだ。車に乗り込んだ途端、助手席の私設秘書が、ためらったように振り返る。
「真鍋様、会社の方から、今週で我々の任務は終了すると言われています」
「今までご苦労だったね」
 柔らかく言って、真鍋は手元の資料に視線を落とした。
「僕は嫌われ者だからね。随分と嫌な役目だったと思うが、それも金曜までだ。あと少しの間よろしく頼むよ」
「……それで、新しい人員との引き継ぎを、早く済ませておきたいのですが」
「必要ないよ」
「しかし」
「そういったことは全てこちらで手配済みだ」
 真鍋は切り上げるように言って、顔をあげた。
「ニュースをつけてくれないか」
 視界の端に、滑走路を滑っていくプライベートジェットの胴体が見える。
 車内添え付けのテレビから、のどかなローカルニュースが流れ出す。そこに視線をやりながら、真鍋は、何度か着信があった携帯電話をとりあげた。
「真鍋さん、私だ。すでに連絡はいっていると思うが交渉は決裂した。連中の狙いはあんたで、もう八神さんにも打つ手はない。一刻も早く日本を出た方がいい。私もしばらく東京を離れることになりそうだ」
 慌ただしい声の背後には、汽笛の音が混じっている。
 留守電を切った真鍋は、銀色の機体が夜空に舞い上がっていくのをひどく静かな気持ちで見送った。






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