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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(33)


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「一体、どういうことなんですか、八神さん」
 受話器を耳に当て直した八神の耳に、高石警察庁長官の高い声が飛び込んできた。
 木曜日。午前8時。
 東京霞ヶ関、警視庁。
 最上階にある警視総監室に、朝の日差しがまぶしく差し込んでいる。
「どういうこととは?」
 さすがに耳が早いな。
 そう思いながら、警視総監席に座る八神崇(やがみ たかし)は、鷹揚に聞き返した。
「昨日、晴海埠頭で見つかった遺体は、あなたのところのエスですね」
 エスとは、警察内の様々な隠語として使われているが、ここではスパイ――内通者を指す。
「そう聞いています」
「しかもカテゴリーはレベル4だ。このタイミングで4クラスのエスがやられたのは、うちの動きがほぼ筒抜けだということですね?」
「その可能性はあると思います」
 レベル4。国家最高機密クラスのエス。つまり、元警官がその身分を完全に抹消して被捜査機関に潜入することを指す。おとり捜査が禁じられている日本では、決して公にできない存在である。 
「だから私は、古い藪をつつくなと言ったんだ。一体この責任をどうとるおつもりなんですか!」
「私は、警察官としての職務を全うしたまでですよ」
 視線を手元に向けながら、八神は落ち着いた声音で答えた。
「最初に申し上げたとおり、すべての責任は私がとります。間違っても察庁にご迷惑はおかけしません」
「当たり前だ。そんな当たり前のことを言うために私が電話したとでも? いいですか、もはやあなた一人が腹を切ってすむ問題ではないんです」
 高石はヒステリックな甲高い声で続けた。
「いわばあなたは、私怨のために社会のバランスを壊したんだ。これから我々全員が、毎晩ヒットマンに怯えて暮らさないといけなくなる。どこを落としどころにするつもりなのか、もちろんその算段はあるんでしょうね」
 ふざけるなよ、その程度の覚悟もないのに、お前は警察官になったのか。
 冷めた胸のうちでそう思う八神の前には、今朝の朝刊が広げてある。社会面の片隅に小さく掲載された身元不明人の他殺体のことなど、犯罪を見慣れた一千万都民の誰も気にとめはしないだろう。
 それよりもなお大きく報じられているのは、先週、神戸の侠生会会長宅に家宅捜索が入り、会長の浅川桐吾が殺人教唆で逮捕された件の続報だ。同時に全国の侠生会系の事務所に一斉捜査が入り、大量の構成員が逮捕されたことが報じられている。
 先週、全国を駆け巡ったこのニュースには、全ての警察関係者が震撼したに違いなかった。
 暴対法の施行で次々と大手組事務所に警察の手が入る中、二十年余りにわたり、侠生会だけがあたかも治外法権区のように、警視庁のローラー作戦の対象から外されていたからだ。
 一瞬こみ上げた激情をのみこみ、八神は務めて平静な声で続けた。
「善処します。以前も申し上げましたが、この件は総理から私に一任されておりますので」
 鶴の一声に、高石がぐっとつまるのが分かった。
「そうしてください。うちはこの件では、一人も人員を動かすつもりはありませんから。――ああ、それと。あなたのミスに引きずられるようで大変お気の毒ですが、奥様も早晩、地方に飛ばされるでしょうね」
 吐き捨てるような声とともに、電話が切られた。
 高石が長官を務める警察庁は、全国の警察を指揮監督する組織である。500名のキャリア官僚からなる事務方のトップだ。
 片や八神がトップに立つ警視庁は、首都の治安を守る日本最大の警察組織である。いわば実働部隊の頂点だ。
 その八神と同い年の妻は、警察庁で長官官房総括審議官の座についている。女性ではおよそ最高位の出世だが、それもここまでになってしまうのかもしれない。
 新聞をわきに押しやった八神は、部屋の隅に控えていた秘書官に声をかけた。
「宮原捜査官には、都内で一人暮らしをしている母親がいる」
 めった刺しにされたあげく、頭を打ち抜かれて殺された男は宮原。ジャーナリスト、探偵――巷では様々な職業と名前を使い分けていたが、身分でいえば警視庁公安部の刑事である。
 約5年にわたり、宮原は警察官の身分を捨てて、裏社会に紛れ込んでいた。その他殺体が、昨夜、晴海埠頭の路地裏で発見されたのである。
 その存在を知っているのは、警視総監である八神を含めごくわずかだ。
「ご遺族に十分な慰霊金が渡るようにしてやってくれ。本来なら公務災害として処理されるケースだ」
「すぐに手配します。――八神総監」
 即座に答えた秘書官は、しかしためらったように足を止めた。
「先ほども申し上げました。SPの数を増やすことについてどうぞご検討ください」
 不安を顔に宿したままの秘書が出て行くと、八神は喉を鳴らしながら、拳で机を叩いた。
 あとわずかだった。その無念さと、長年苦楽をともにした大切な部下を失った悔しさが胸の奥で渦を巻いている。 
 しかし体中を激情が駆け巡ったのはわずかで、すぐに八神は冷静さを取り戻して私用の携帯電話を持ち上げた。
 八神がこの作戦に取りかかって5年。決して表には出ていないが、犠牲者は宮原一人ではない。多くの尊い犠牲と志が、現政権の間はほぼ不可能といわれた侠生会の一斉捜査を成し遂げた。もうこの国に『黒い聖域』は存在しないのだ。
 後は、それによって崩れたバランスの折り合いを、どこでつけるかだ。
「私です。八神です」
 八神が言うと、電話の向こうからは落ち着き払った声が返される。
「まことに残念ですが、あなたの予想した通りになってしまいました。……状況はあまりよくありません。しかしあなたの新たな後継者は、もはや後には引かないでしょう」
 もはや八神であっても連絡を取るすべもないあの男は、たとえ殺されても明日、自らが作り上げた舞台に登壇するだろう。
 タイムリミットは明日の朝。それまでに手を打たなければ、最悪、今日まで日本の表裏を支え続けてきた均衡が、根幹から崩れてしまう。
「……すべての責任は、あなたの警告をきかなかった私にあります。最初に約束したよう、私はあなたの指示に従います。どうぞ、ご指示ください。御前様」
 
 
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 木曜日、午後7時。
 藤堂の携帯が鳴ったのは、時間外に行われていた局長ヒアリングの最中だった。
 明日の議会初日、そこで真鍋が行う所信表明演説。その文案についての最終チェックだ。
 そういったものは、むろん市長の性格にもよるが、市側が原案を作成する。そこに盛り込まれる各事業については、それぞれの所管局が責任を持って作成するようになっているのだ。
「そもそも市長は、こちらが作ったものを、本気で読むつもりがあるんですかね」
 会議が終わり、ぞろぞろと局長室を出た後、窪塚補佐が冷めた声でそう言った。それに課長が答える声を聞きながら、藤堂は片手を挙げて人の輪から離れる。
 ――佐倉補佐……?
 携帯の画面には、思わぬ人の名前が表示されていた。
 国土交通省の佐倉怜。藤堂が海外で仕事をしていた頃の上司で、実家は大企業と政治家一族、さらには親戚に警視総監を持つ女性である。
 しかし、意外さとともに、どこかでこんな電話があることを予感していたのは、先日からメディアを騒がせている侠生会の一斉捜査と現会長の逮捕が、喉に刺さった小骨のように引っかかり続けていたからだ。
 この逮捕劇が、下部組織である湊川会に影響を及ぼさないはずがない。それが真鍋にとって吉報であることを願いながら、藤堂は急いで電話に折り返した。
「すみません。会議中だったので」
 口にした途端、まず果歩に電話すべきだったことに気がついた。
 留守電は数分前に彼女からも入っていて、用件はおそらく土曜日のことだ。
 彼女と幸福な時間を過ごしてから今日で2日目。土曜に会う約束はしたものの、時間などの詳細はまだ決めていない。
 この2日間、殺人的に忙しかったのが直接の原因だが、根源的な理由はほかにある。
「ごめんね。忙しいのは知っていたけど、――今、大丈夫?」
「ええ」
「……あまりいい話じゃないわ。しかも非公式に得た情報だから、これを瑛士君に話していいかどうか迷ったんだけど」
 暗い予感に胸が塞がれるような気持ちになった藤堂の耳に、電話を通した雨音が聞こえてくる。
 庁舎の窓に叩き付ける雨を見ながら、東京も雨なのかとふと思った。
 その雨の中に立っている自分は、でももう、一人ではないはずだ。
「何絡みの話ですか」
「二宮家――というより、真鍋雄一郎」
 藤堂は唇を引き結び、こくりと唾を飲んだ。
「それで」
「悪いんだけど、電話で話せるような軽い内容ではないのよ。私がそちらに行ければ一番いいんだけど、それも今は難しくてね」
 そうだろう。すでに国会が始まっている。官僚である怜の忙しさは藤堂の比ではない。「悪いんだけど、あなたが東京に出てこられないかしら」
「……、日曜日なら、少しは時間がとれると思いますが」
「できれば今夜中に。その方がいいと思う」
「今夜中?」
 さすがに驚いて、藤堂は腕時計に目をやった。
 真鍋が絡む話となれば、明日の議会初登壇と無関係の話ではないだろう。
 その日、市役所にはおそろしい数のマスコミが詰めかけることが予想されている。銃撃事件の直後、警察も総動員で議会棟を守ることになっている。
 あたかも真鍋自身がマスコミを利用してつくり上げたようなその舞台で、大げさではなく日本中が見守る大舞台で――真鍋がただ、職員の作った作文を読み上げるだけとは思えなかった。
「分かりました。今から調整してみます。何時にそちらに着くかは分かりませんが」
「迎えをやるから、時間の調整がついたら電話して。――でも瑛士君。できるだけ急いだ方がいいと思う」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味。――ひとつ質問してもいい?」
「なんでしょう」
「的場果歩と真鍋雄一郎。どちらか一人だけ選べと言われたら、あなたはどちらを選ぶつもり?」
「……、質問の意味が分からないのですが」
「どちらか一人を見捨てろと言われたら、どっちを捨てるつもりなのかと思って」
 藤堂が黙っていると、「どっちも無理ね」そう言って怜は笑った。
「ひとつだけヒントをあげるわ」
「……あなたのヒントは、ヒントじゃない」
「私より頭のいい瑛士君にそう言ってもらえるのは光栄よ。真鍋雄一郎は失敗したのよ」
 ――…………。
「それだけ。じゃ、また後で」
 電話が切れ、藤堂は一人、その場に立ち尽くしていた。
 

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「――あ、藤堂さん? えーと……、お仕事お疲れ様です」
 少し照れたような声が、耳に優しく響いてくる。
「土曜日なんですけど、お昼ご飯をうちで食べて、その後、ゆ、指輪を直しにいく感じで大丈夫ですか? それで……お母さんが、何か苦手な食べ物があるなら聞いてくれっていうんですけど、絶対何もないですよね」
 果歩の声の背後から、「ちゃんと聞いておきなさいよ!」という母親の声がする。
「きっと忙しいでしょうから、折り返しは大丈夫です。予定が変わったら連絡してくださいね。じゃあ」
 留守電が切れ、携帯を膝に下ろした藤堂は、いったんは小ぶりになった雨空をぼんやりと見上げた。
 今、何時だろう。
 庁舎屋上。下では、間違いなく春日さんが怒っている。――今日中に片付けなければならない仕事は山積みで、すぐにでもそれを終わらせて東京に向かわなければならない。
(的場果歩と真鍋雄一郎。どちらか一人だけ選べと言われたら、あなたはどちらを選ぶつもり?)
 携帯がまた鳴り始める。先ほどから再三かけてくる春日からだ。
 藤堂は、拒否のボタンを押してから頭を抱えた。
 火曜日からずっと、あるひとつの言葉が胸を重く占め続けている。
(藤堂さんにもあったように、私にも真鍋さんにも秘密の部屋があるんだなって、それは改めて思いました)
 ――秘密の部屋か……。
 言い得て妙だ。確かに僕には、都合の悪いものを記憶の底にしまい込んでしまう癖がある。
 でもそれは、思春期の多感な時期だからこそできたことで、今では、不都合な記憶を完全に消すことなどできはしない。
 いっそのこと、本当に消してしまえればよかったのに。――
(――瑛士、8年前、俺にとって最大の弱点は彼女だった)
(彼女を押さえられたら、俺はもう身動きとれない。言われるがままだ。結婚もしたし、男とも寝た)
 耳に残る真鍋の声が消え、現実の静けさの中で、冷たい雨が藤堂の顔を濡らした。
 月曜日の夜、ここで彼女と話した時から分かっていたことだった。
 雄一郎さんは、本当の気持ちを何一つ彼女に打ち明けてはいない。
 ただ、的場さんの気持ちにけりをつけさせるためだけに、あの人は彼女に会ったのだ
「……的場さん」
 雄一郎さんは、大切な人にこそ絶対に本心を明かさない。 
「……あなたはまだ、雄一郎さんの秘密の部屋を見ていないんです」
 そして僕は、永遠に彼女の目と耳を塞ごうとしている。
 それがどれだけ卑怯で浅ましい真似だか分かっていて、それでも。
(お仕事、頑張ってくださいね。あの……、土曜日にまたここに来てもいいですか)
 もう、彼女のいない人生など考えられない。今もまだ、全身の細胞があの人を求めてざわめいている。
 結ばれて初めてわかった。あの人は僕の欠けた一部だった。
 自分の人生が、こんなにも喜びにあふれていることを、あの夜、生まれて初めて知った。
 愛している。もう、手放せない。先週までの、彼女を忘れて生きようとしていた自分はどこにもいない。
 もう二度と――何をしても彼女を知らなかった時の自分には戻れない。
 彼女を雄一郎さんには渡さない。
 自分が正しいと思う生き方から脱線したとしても、それでも。
 その罪が、生涯自分を苛むと分かっていても、それでも。――





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