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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(34)


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「遅かったのね」
「今、本気であなたを殴りたくなりました」
 そう言ってタラップを降りてきた藤堂を見やり、怜は笑いながら肩をすくめた。
「やだ怖い。そんな物騒なことを言う人だった?」
 金曜日、午前0時。
 高層ビルの屋上に立つ藤堂の背後では、プロペラの回転を止めたばかりのUH‐ブラックホークが停まっている。灰谷市のヘリポートでそれを見たときも信じられなかったが、米軍が所有する軍用ヘリコプターだ。
 そんな物騒なものを使って灰谷市まで迎えを寄越した怜は、藤堂の不機嫌さなど気にもとめずに先に立って歩き出した。
「知っての通り、東京上空には米軍の許可がないと通過できない空域があるでしょう? 民間人の移送は軍紀違反だけど、これが最短にして最適の方法だったの」
「僕は何も、方法に腹を立てているわけではありませんよ」
「じゃ、よく頑張りましたって褒めてあげたらいいのかしら。そんな甘いことを言っている場合じゃなんだけどな」
 歩き出した2人の周囲を、黒服を着た屈強な男数人が取り囲む。その胸につけられたバッジに藤堂はわずかに目を見張った。
 警視庁警備部警護課、要人警護を担当する警察官だ。
「今、どういう状況なんですか」
「いつ狙撃されてもおかしくない状況――ターゲットは私じゃないし、今は父が念のためにつけさせてくれているだけだけど」
 父というのは、この場合実親の方を指すのだろう。警視総監の八神崇。
 先週来、新聞に再々顔が出ている男だ。
「先週に起きたことと、何か関係がありますか」
「侠生会の一斉捜査? もっと言えば、昨年国土交通省の青柳さんが逮捕された時からずっと関係している話よ。――でもそれを説明するのも私じゃないの」
 下降するエレベーターは32階で停まった。絵画が飾られた回廊は静まりかえり、ただ広い空間は夜間の貸しオフィスのようにも見える。
 しかし扉の内側に通された藤堂は、ここが個人の部屋であり、極めて高度なセキュリティーに守られた住居だと理解した。
「藤堂君か、よく来てくれたね」
 大理石の床に、広い距離をとって並べられている応接椅子。そこに座っていた初老の男が、すぐに立ち上がって藤堂を出迎えた。
 髪こそ年相応に半白だが、藤堂と目線が違わないほどの長身で、恰幅もいい。穏やかで紳士的な相貌をしているが、それはいかにも外向けの顔という風に見えた。
 目の色が明るい鳶色なのは、祖母がフランス人だからだろう。
 警視総監の八神崇。
 佐倉怜の叔父で、――実際は父親だ。
「八神だ。そして妻の伊佐子」
 後から立ち上がった女性が、八神の隣で折り目正しく頭を下げる。身長は怜と同じか少し下くらい。目元のきりっとした意思の強そうな女性だ。
 どちらも私服姿で上品そうな装いだが、年齢不相応の姿勢の良さが格闘技の経験者であることを伺わせる。
 何故ここで、怜の実親に引き合わされなければならないのか。――まだ事態が飲み込めないまま、藤堂は自分も名乗ってから一礼した。
「怜、伊佐子、下がっていなさい。しばらくこの人と2人で話がある」
 怜は一瞬不服そうな顔をしたが、伊佐子に促されるように退室した。部屋の中にまでSPはついてこない。きっと安全が確約されている場所なのだろう。
「ここは、警視庁が借り上げている要人警護用のVIPルームのひとつだ。まさか私自身が、ここに閉じ込められる羽目になるとは思ってもみなかったがね」
 苦笑した八神は、藤堂に椅子に座るように勧め、自分も腰掛けた。2人の前にはすでにコーヒーが置かれている。
「君は私を知らないだろうが、私は君を知っている。二宮の後継者候補――私が要人警備部時代に、何度か警備の手配をしたことがある。君はその時、まだ十歳かそこらだった」
 藤堂は黙って男の話の続きを待つ。まだこの部屋に招かれた真意と、真鍋に起きていることとの関連性が分からない。
「二宮家は日本政府が抱えるタブーのひとつで、よくも悪くも続いている因習だ。天皇のルーツしかり、伊勢神宮の存在しかり、我が国には決して公にできないさまざまな秘密がある。手近なところでいえば、東京上空を米軍に占領されていることもそうだがね」
「…………」
 あまり知られていないが、東京の上空には米軍の許可がないと飛行できない空域がある。主権を持つ国家としては極めて異常な事態だが、それが決められ、なおも存続している経緯は一切公表されていない。
「知られれば、国家体制が転覆しかねない政治上の秘密は、明治維新……いや、それ以前の歴史を遡ればいくらでもある。そういった清濁をあわせのんで歴史というものは造られてきた。その編纂者のひとりが二宮家で、いわば裏天皇制とでもいうのだろうか。――ある時代の責任を天皇家が背負わされたように、二宮家が政治上の秘密を全て背負わされていた時代が存在した。――それが今も、君ら一族を山の頂上に閉じ込めている理由だよ」
「知っています」
 初めて藤堂は口を開いた。激務の最中、最悪、定刻通りに登庁できないことを覚悟して東京まで来たのは、こんなどうでもいい昔話を聞くためではない。
 しかし八神は、表情ひとつ変えずに続ける。
「君の先祖が最初にその任に就いたのは、ひとえに特殊な能力ゆえだったとも言われている。記録媒体が紙しかなかった時代、人間離れした正確無比な記憶力がどれほど役だったのかは語るまでもないだろう。君らの遺伝子には、そういった能力が代々受け継がれてきたのかもしれないね」
 その話も、伯父から聞かされたことがある。しかしそういった才能は徐々に一族から消えていき、最後の1人が藤堂の父だった。ゆえに父の人生はずっと孤独だったとも。  
「とはいえ血というのは、やがては薄まり、消えていくものだ。いわばこの時代まで君のような特殊能力者が存在していること自体が奇跡だよ、そうは思わないか、藤堂君」
「僕は自分のことを、そんな風に思ったことは一度もありません」
「君の伯父にあたる人物は、最初から二宮家の当主には弟がなるべきだと思っていたし、君の兄だった人も、君に対してそう思っていたに違いない。――にも関わらず、君の伯父は自ら望んで後継者になり、兄は必死にその座を得ようとした。その理由を考えたことがあるかね」
 ひどく穏やかな目で、八神は藤堂を見上げた。
「それが負の遺産だったからだ」
 ――……負の遺産?
「天皇家同様、君ら一族は国家の囚人だからだ。誰かが背負い、受け継がなければならない負の遺産だ。背負えば、生涯その責務からは逃れられない人生が待っている。そんな運命に、大切な者を就かせたいと願う者がいるだろうか?」
 一瞬、虚を突かれたようになった藤堂は、すぐに八神の言っていることを理解した。
 脩哉の胸の内にあったものはともかく、伯父が、我が子ではなく藤堂を後継者に推したのは、確かにそれが理由だったのかもしれないと思ったのだ。
 ただ、どんな生き方を幸福と思うのかは人それぞれだ。かつて共に暮らした人々のことを、そんな風に勝手に決めつけてほしくない。  
「……、今、その話を僕が聞く必要がありますか」
「私は裕福な家の生まれでね」藤堂の憤りを受け流すように、八神はあっさりと話題を変えた。
「正直言えば、高校生の頃まで警官になるなど夢にも思っていなかった。いわば世の中にすくう汚物を探し出して始末するような――そんな汚れ仕事は、私のような人間のすることではないと思っていたんだ」
「そうでしょうね」
 八神の実家である佐倉家は、老舗電気メーカーの創業一族である。八神の両親もまた、息子を公務員に――しかも警察官にしようなどとは夢にも思っていなかったに違いない。
「私が高校生の時だ。……一番仲のよかった親友が家の事情で退学することになってね。父親が事業に失敗して倒産したというのが理由だったが、実態は違った。暴力団に脅迫されて会社を手放し、多額の借金を負っての夜逃げだったんだ」
 言葉を切り、八神はコーヒーカップを持ち上げた。
「それから後の親友一家の運命は筆舌に尽くしがたい。彼らはいわば暴力団のカモになった。どこまでも追われ、親の土地財産まで奪われたあげく、金になるものは全て金に換えさせられた。――人間の尊厳までもだ」
「…………」
「まだ暴対法などなかった時代だ。警察は民事に介入できず、親友一家を追い込んだ連中は新宿にビルを構え、神戸に豪邸を建ててのさばっていたよ。――この世にこれほどの不条理があっていいものか。私は親友の姉にほのかな憧憬を抱いていたが、二人とも……そう、それぞれの苦難と地獄を生き抜き、それでも二十歳までは生きられなかった」
 室内に重い沈黙が満ちる。いつの間にか目的も忘れて八神の話に聞き入っていた藤堂は、それでも警戒しながら口を開いた。
「それが、警官を志した理由ですか」
「陳腐かね? しかし私は決めたんだ。私の頭脳、行動力、判断力――恵まれた家庭環境ゆえに培われた才能は、このために使われるべきものだと。それが、友人を救うことのできなかった私の責任だろうとね」
「あなたが僕に、遠回しに仰いたいことが何か分かりません」
 僕に二宮を継ぐべきだったと言いたいのか。
 しかしそれを決める権限はもはや藤堂にはなく、真鍋にすら覆すことはできない。第一、そんなことが今何の意味を持つのか分からない。
 しかし八神は一向に動じずに口を開く。
「警察官として出世してはじめて、私はこの世界の不条理が、すでに仕組みとして動かしがたいものになっていることを理解した。暴対法はできたが、警視庁が本当の意味で侠生会に捜査の手を入れることはない。理由は、君も知っての通りだ」
 藤堂は黙って、自分もコーヒーカップを持ち上げる。
「しかし私は、どんな手を使ってでもその不条理の壁を打ち破る覚悟だった。そうでなければ、なんのために家を棄て、娘を棄ててまで警察人生に命を賭けてきたのか分からない。妻もまた、私と同じ志を持っている。妻は幼い頃、身内を暴力団に殺されているんだ」
 藤堂は、八神の妻の、意志の強そうな相貌を思い出した。
 世界を動かす大きな流れと、小さな――しかし命がけの潮流の激突は、どこまでいっても相容れない。それもまた現実だ。
「とはいえ、侠生会が社会の必要悪であることは、今では私も理解している。私の代で、その仕組みを変えること不可能だということも。――が、親友一家をなぶり殺しにした浅川桐吾にだけは、必ずその罪に見合った罰を与えねばならない。その上で、侠生会の牙城に蟻の一決を開ける。それが、私の警察人生の悲願であり、全てだったんだ」
「……それは、……公平さを欠いている」
 思わず藤堂は呟いた。
 浅川桐吾とは、先日逮捕された侠生会の会長である。
 巨大組織の縁組みによって誕生した、いわばヤクザ界のサラブレッド。30歳そこそこで会長の座につき、以来30余年にわたってこの世界のトップに君臨してきた大物だ。
 その浅川が八神の親友一家を追い込んだのなら、残酷なようだが、それは数多の犯罪の氷山の一角にすぎない。
 罰するというのなら、その対象は浅川一人ではないはずだ。私人ならともかく、八神は警察組織を動かす立場にいるのだ。
 そんな藤堂を、八神は苦笑を浮かべた目で見上げた。
「いかにも二宮家の者らしい合理的な意見だね。――そうだ。これは私の私怨であり、ある意味では個人的な復讐だ。しかし誤りだとは思っていない。君もいずれ分かるだろうが、人生とは小さな戦いの連続だ。その中で、ようやく生きることの真実が見えてくる」
 眉を寄せる藤堂を、八神は慈愛をこめた目で見つめてから表情を改めた。 
「浅川とその一派を裏社会から完全に駆逐する。それが私の警察人生の目標となった。とはいえ、会長にまで上り詰めた浅川の周辺に捜査の手を伸ばすと、必ず上層部からストップがかかる。どれだけ証拠を集めたところで上司に上げた途端に握りつぶされる。――考えたよ。一体どうすれば、上は浅川の逮捕にGOサインを出してくれるのだろうと」
 そこで言葉を切った八神が、警察官の目になって藤堂を見た。
「アルカナという言葉を聞いたことは?」
 
 
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 ――アルカナ……?
 単語としては、それはラテン語で、「秘密」「神秘」などを意味する。
 藤堂が眉をひそめると、テーブルの上に数枚の紙面が差し出された。
「読んでみたまえ。君なら1分もかからないはずだ」
 藤堂は紙面を取り上げ、びっしりと書かれている文字に目を走らせた。
 そこには、二十数年前に起きた国土交通省の機密費5億円が横領された事件の、経緯と顛末が記されていた。
 横領した犯人は元官僚の佐伯涼。裁判で自白した後服役している。そして――自殺。
 その佐伯の上司が、先日逮捕された西東事務次官で、当時の同僚が前年逮捕された青柳だ。この連続逮捕が二〇年も前の5億円横領とどう関連しているのかは、紙面の情報からは読み取れない。
 読み取れるのは、実行犯である佐伯一人が組織から切り捨てられたという構図である。
 犯行自体は、間違いなく組織的に行われている。
 佐伯の動機もとってつけたようなものだし、5億円の使途が一切不明だという点もその裏付けになるだろう。
 ただ、この規模の横領と隠蔽を、国土交通省単独で行うのには無理がある。だとしたら、指示はもっと上から来ている。内閣官房か、――それに匹敵する人物か。
 長い文章の中で、ようやく「アルカナ」という単語にいきついた藤堂は、自分の推測がおおむねで間違っていないことを理解した。
 アルカナとは、佐伯が、自身の潔白を証明するために所持していたとされる音声データの隠語だった。
 いわば横領を真に指示した人物の音声が吹き込まれている動かぬ証拠だ。
「こんなデータが、本当に実在していたんですか」
「33秒。――さすがだな」
 かすかに笑った八神は、藤堂の手から紙面を取り上げた。
「アルカナについては、あくまで佐伯が検察にほのめかしただけの話で、それが実在するかどうかは長年藪の中だった。――結論から言えば実在する。それこそが、現政権最大のタブーであり、決してふれてはならない禁忌だったんだ」
「……つまり、横領を指示したのは内閣ですか」
「その通りだ、当時の内閣総理大臣赤城晋太郎。昨年亡くなった、今の総理の父親だよ」
 さすがに喉がわずかに鳴った。
「なんのために?」
「東京上空を米軍に占拠されていることと、おおむね似たような理由のためだ。金は米軍に流れている。しかしそのことが公になれば内閣総辞職どころの騒ぎじゃない。日米同盟を揺るがす騒ぎになるだろう。――君も理解しているように、戦後何年経とうと日本は米国の属国なのだ。そしてその真実に、ほとんどの国民は気づいていない」
 暴力団撲滅をうたう警察が、その実、社会の必要悪としてその存在を認めていることを、ほとんどの国民が知らないように――か。
 世界の皮肉は、正義より合理性を選んだことの副産物だ。そのこと自体を藤堂が誤りだと思えないのは、後継者候補としての教育が、そもそも世の矛盾を受け入れることから始まっていたせいかもしれない。
「アルカナは、では内閣が指示して隠蔽させたんですね」
「その通りだ。そして、そのために赤城元総理が使ったのが、侠生会であり浅川桐吾だ。この件では何人もの死人が出ている。ありていに言えば、赤城元総理に殺人教唆の罪がかけられても仕方のない状況なんだ」
「…………」
 それは前代未聞の、過去に類を見ない大事件になるだろう。
 昨年亡くなった赤城晋太郎は、現総理の父親というだけではなく、昨年まで与党の最高幹部だった。親米派として、最期まで米国と日本との橋渡し役であり続けた外交の重鎮でもある。
 侠生会が治外法権区であり続けたわけだ。絶対公にできない秘密を政府と握り合っている。これではどうあっても、浅川を逮捕できるわけがない。
 しかし、実際には浅川は逮捕された。八神の悲願は達成されているのだ。
 藤堂は初めて、ひどく恐ろしいものを見るような気持ちで八神を見上げた。
「――どうやって、今の総理を説得したのですか」
「説得ではない、取引をしたのだ」
 ――取引……?
「私自身が、アルカナを手に入れた。この世に現存する唯一の証拠品だ」
「…………」
「データを複製したのは浅川の配下で、浅川自身も複製品があることを関知していなかった。それはいろいろな人の手と運命を介して、とある場所に隠されていたよ」   
 愕然としながら。藤堂は言葉をのんだ。
 つまりこの男は、言い方を変えれば現職の総理大臣を脅したのだ。
 絶対に表に出せない過去の事件の証と、その秘密を知る男の逮捕。
 その2つを天秤にかけさせ、後者を選ばせた。
 もちろん浅川が、自身の罪が重くなるような告白を決してしないと分かっているからだ。
「真鍋市長の話をしようか。君はそもそも、そのためにここまで来てくれたのだからね」
 呆然としていた藤堂に、八神の声が戻ってくる。
「ここまでの話に、真鍋さんはむろん無関係ではない。というより、アルカナを使って赤城総理と取引することを私に提案したのは、真鍋さんなんだ」
 ――……雄一郎さんが。
 二度目の大きな衝撃に、藤堂は黙って言葉をのむ。
「真鍋さんの物語を、君がどこまで承知しているのかは知らないが、あの人は、自身の生まれ故郷から湊川会を追放することを、唯一のよすがとして生きてきた。真鍋さんはその理由を、自分の責任であり、逃れることのできない贖罪だと言われていたよ」
 責任と贖罪。
 藤堂の脳裏に、真鍋の生い立ちや、光彩建設の成り立ち――そして、実母と義母が辿った運命がよみがえる。
 特に義母の真鍋麻子が、吉永冬馬を身ごもったいきさつは、藤堂でも目を背けたくなるほど悲惨なものだった。
「もはや現存しないと思われていたアルカナを探し出すために、真鍋さんはおそらく二宮家の力を使ったのだろう。彼はその在処を突き止め、6月の初めに手に入れた。それが私の手元にわたったというわけだ」
「……、真鍋市長がそんな真似をしたのは、侠生会が、湊川会の上部組織だからですか」
「その通りだ。2つの組の上下関係は絶対だ。言ってみれば湊川会と戦うためには、侠生会を抑えておくことが必須なんだ」
「それで、二宮家の力を使ったと……」
 動揺が、思わず語尾を震わせた。
 それは明白なルール違反だ。二宮家は中立が原則で、政治にも公権力にも加担してはならない。少なくともその力を、決して私怨に使ってはならないのだ。
「真鍋さんの目的は、浅川を逮捕させ、別の人間を侠生会のトップに据えることだった。その人物と真鍋さんとの間にはおそらく取引があって、それが、湊川会に灰谷市から手を引かせることだったんだろう。――しかし、その企ては失敗した」
 ――……失敗した。
「明日には公表されるだろうが、侠生会の次のトップは真鍋さんが目論んでいた人物ではない。その人物は粛正され、おそらく二度と表舞台には出てこないだろう。――新しくトップに立つのは、一度は引退した元ナンバー2の宮田始。かつて浅川の懐刀とまで呼ばれていた人物で、今回の浅川逮捕に凄まじい怒りを募らせている」
 険しい目になり、八神は空になったカップを持つ手に力を込めた。
「特に、幹部に造反を働きかけた真鍋さんを、あの男は絶対に許さないだろう。仲介者を通して、内々に話をしてはいるが、私と真鍋さんの命を取るまで一切妥協しないと言い張っている。それが叶わないなら、中国とロシアから流入するマフィアを野放しにするとまで言い切られた。そうなると侠生会にも大打撃だが、もはや損得の話ではないのだろう」
「どうされるつもりなんですか」
「現時点で、政府にも私にも打てる手はない。私も、今は警察庁の指示でこんな場所に閉じ込められているが、いずれは外に出て連中の望みを叶えてやることになるだろう。真鍋さんも、明日で自らの身辺警備を解いているよ」
 藤堂は立ち上がっていた。
 衝撃で頭が真っ白になったが、すぐに、灰谷市に戻らなければならないという焦燥がこみ上げる。
 片倉に電話をしなければ――。
 すでに二宮家を正式に辞職した片倉は、今は自身の意思で藤堂の側にいる。
 当然給料は払えないし、迷惑だと断りはしたが、ゆうに生涯遊んで暮らせるほどの報酬を得ている片倉に、金銭はそもそも不要のようだった。絶対に引き下がらないと言い張られたから、今はその好意に甘えて果歩の身辺警備をさせているのだ。
「電話を――いえ」
 動揺をこらえて、藤堂は座ったままの男を見下ろした。
「明日、真鍋市長は議会に初登壇されます。当然警察は、市長を守ってくださるんですよね」
「警視庁は動かない。県警を頼りにしない方がいいことは真鍋さんも承知している。――理由は市役所同様、地元警察と湊川会の間にもある種の癒着が生じているからだ」
「…………」
「もはや真鍋さんが自分で自分を守るほかないが、真鍋さん自身が、もうそれを望んでいない」
 めまいがした。それは確実な死刑宣告と同様だ。
 ――……雄一郎さん……。
(――俺の振るまいが間違っていたというなら、それはもう、8年前から続いている。俺が、叔父である吉永冬馬の言いなりになってしまった時からだ)
(――お前、役所を辞めるなよ。この俺を殴ったんだ。責任をとって今年1年は残ってくれ)
 あの人は、あの時から、もう今の終焉を見越していたのか。
 だから的場さん真実を話さずに、消えようとしたのか。
 目の奥が熱くなり、藤堂は歯を食いしばるようにして八神を睨んだ。
「あなたは真鍋市長の力を借りて、ご自身の悲願を達成された。なのに今になって市長を見捨てると言うんですか」
「藤堂君。私自身も近い内に今の任を解かれるだろう。もう、私個人の力では、どうすることもできないんだよ」
 数秒、雷に打たれた人のように立ち尽くしていた藤堂は、我に返ったようにきびすを返した。ここで八神を責めていても埒があかない。今は一刻も早く、真鍋と直接話さなければ。
 誰がなんと言おうと、明日の登壇は中止させる。真鍋を殴ってでも止めさせる。
「失礼します。帰りも無論、同じヘリコプターで送っていただけますね」
「藤堂君。私はともかく、真鍋さんは今二宮家の当主という立場にいる」
 八神の鋭い声に、藤堂は扉の前で足を止めた。
「となれば、早急に次の後継者を定めなければならない。彼がまだ生きている内にだ」
「――お断りします」
 その残酷さに身震いすら覚えながら、藤堂は振り返った。
 このための前振りであり長舌だったのかと思うと、目の前の男に殺意すらかきたてられる。
 今、真鍋からその立場さえ奪ってしまえば、彼を守るものは本当に何もなくなってしまうのだ。
「僕にそんな役目が務まると思いますか。僕は僕のやり方で、雄一郎さんを守ります」
「それはなんだね、瑛士」
 背後から聞こえてきた声に、藤堂は悪夢でも見ているような思いで立ちすくんだ。





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