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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(35)


 
 ――伯父さん……。
 部屋の別の扉から、車椅子に乗った二宮喜彦が現れる。
 今日本にいるはずのない人の――しかも、普段とはかけ離れた姿に、藤堂はしばらく言葉が出てこなかった。
 以前から身体を悪くしているのは知っていた。しかし歩行が困難になるまで深刻なものではなかったはずだ。
 車椅子を押している看護師らしい女性を下がらせると、喜彦は静かなまなざしで藤堂を見上げた。頬の肉はそげ、髪の量も減っている。
 屋敷を退去したと言われてから今日まで、喜彦がどこかの病院でなんらかの手術を受けていたのは明らかだった。
 ふらりと足を踏み出しかけた藤堂を遮るように、喜彦は感傷の一切を拒絶するような厳しいまなざしを甥に向けた。
「言ってみろ、瑛士。片倉1人雇うことのできないお前が、どうやって雄一郎を守るつもりだ」
「……、僕は」
「一日二日守ったところで問題は何も解決しない。もはや気持ちではどうにもならない。片倉を雄一郎につけても同じことだ。必要なのは金と人脈と政治力――お前にはないものばかりだな、瑛士」
「………」
 藤堂は、その場に膝をついて頭を垂れた。
 焦燥が、床についた手を震わせた。
 何もかも伯父の言うとおりだった。その場凌ぎで時は稼げても、自分には、今の事態を根源的に解決することはできない。
 それでも真鍋をこのままにはしておけない。自分にできることならなんでもして、あの人を助けたい。
「お願いします。どうか……、どうか伯父さんの力で、雄一郎さんを助けてください」
 喜彦は、頭を下げる藤堂を黙って見つめてから、口を開いた。
「忘れたのか、瑛士。私はもう当主ではない。そして一度退いた者が再びその座につくこともできない。それは二宮家の鉄の掟だ」
「分かっています。でも、伯父さんなら、どんな手を使っても雄一郎さんを助けられるはずだ」
「……お前は、何か勘違いしているようだな」
 ――勘違い……?
 顔を上げた藤堂を、喜彦は冷淡な目で見下ろした。
「雄一郎は私にとって、しょせん他人だということだ。亡き妻の血筋を引く遠い親戚――それが私にとっての雄一郎で、それ以上でもそれ以下でもない」
「…………」
「上っ面が似ているというだけで、雄一郎は脩哉ではない。お前と違って、私はそこに、一切の感傷を挟んだことはないよ」
 この冷酷さこそ、二宮喜彦の当主としての顔そのものだ。
 脩哉を失った時も、この人は一切の涙を流さなかった。そして粛々と、藤堂を当主にするための準備を始めた。
 この人の心根が冷たいとは思わない。むしろ優しい顔はいくらでも見てきた。
 ただ、この人は――どこまで行っても二宮家を守るためだけに思考を最適化させてきた人なのだ。 
「しかも雄一郎は二宮の掟を破った。その力を私的な復讐に利用し、二宮家そのものを危険にさらしている。そんな男のために、どうして私が病の身体を押して動かなければならないのかね」
「……伯父さん」
 藤堂はうつろに呟いた。もうこの人が次に何を言うつもりなのか、分かっていた。
「私にできるのは、やがて消える雄一郎に代わり、新しい当主を任命することだけだ。瑛士、――もし本当に雄一郎を助けたければ、その方法はひとつだけだ。お前自身が当主になり、この混迷を自分の裁量でなんとかしてみせろ」
「…………」
 一瞬強く唇を噛みしめた藤堂は、「僕には無理です」と呟いた。
 それで全てが解決するのなら、なんにだってなってやる。
 しかし同時に、自分がその任に耐えないことも分かっている。18で家を飛び出して、何年も海外で暮らしてきた。今、当主になったとしても、藤堂には何もできないし、問題解決のために何をしていいのかさえ分からない。
「そうだろう、お前には到底無理な話だ」
 喜彦の冷徹な声が、静まりかえった部屋に響いた。
「何年も責任から逃げ回ってきたお前を、たとえ当主の名を得たとしても、一体誰が相手にするだろう。頼りになる人脈ももたず、政治力もない。全部お前が、それを手にいれる術を放棄してきたからだ」
 ひとつひとつの言葉が、鋭い刃のように胸に刺さった。
「そんなお前の薄っぺらい言葉など、誰一人耳を貸すはずがない。――侠生会が話し合いの席につくことすらないだろう。無意味にあがいたあげく、雄一郎を道連れに二宮を破滅させる未来が目に見えている」
「……、では、どうすればいいんですか」
 藤堂は苦しく言葉をついだ。伯父がすでに答えを用意しているのは分かっている。しかし藤堂にはそれが見えない。
 この一方的な会話の中で、もはや藤堂が優位に立つことは不可能だ。自分の運命も真鍋の運命も、もはや喜彦の頭の中で決められているのだ。
「お前には、お前の弱点を補うパートナーが必要だ。もう人選は済ませている」
 ――人選……?
 扉が開いて、そこに現れた人を見て、藤堂はようやく、先月来から抱いていた警戒心が決して勘違いではなかったことを理解した。
 この人は雄一郎さんの結婚相手として選ばれたわけじゃない。最初から伯父は、この人を自分の結婚相手にと考えていたのだ。
「ヒントはあげたと言ったはずよ、瑛士君」
 藤堂を見下ろした怜は、少し気の毒そうな目になって微笑した。
「あなたのプライベートを事細かに調べていたり、あえてあなたと一緒に恋愛の後始末をつけにいったり……、随分分かりやすくしてあげたつもりだったけどな」
 そんなの、知るか。
 初めて自棄にも似た怒りを抱いて黙っていると、怜はその目に冷淡な光を宿して唇から笑いを消した。
「言っておくけど、私にとっては父の命がかかっているのよ」
 そして喜彦に向き直ると、強い意志を込めた声できっぱりと言い切った。
「おじさま、どうぞ私を、二宮の後継者の妻にしてください。絶対にこの危機を乗り越えてみせると約束します」
「では婚姻届を、今この場で書いてもらおうか」
「承知しました」
 ――待ってくれ……。
 考える時間も、相談する時間もないのか。
 藤堂は、必死に自制心を保ちながら立ち上がった。今夜、このタイミングでこの場に呼び出されことが全てだった。
 今決断しなければ、明日の議会初日に真鍋は殺されるかもしれない。
 逃げ場が完全に塞がれていることを知りながら、それでも言わずにはいられなかった。
「……伯父さん。僕にはもう、心に決めた人がいる」
「知っているよ」
「だったら分かるはずだ。それは――それだけは僕にはできない」
(――土曜日なんですけど、お昼ご飯をうちで食べて、その後、ゆ、指輪を直しにいく感じで大丈夫ですか?)
 苦悩と激情が、握り絞めた拳を震わせた。
「ほかにはどんな条件でものみます。なんでもします。それだけは……それだけは許してください」
「だったら断ればいい」
 甥を見上げる喜彦の声は、どこまでも冷たかった。
「分かっていないな。選ぶのはあくまでお前だ、瑛士」
「…………」
「雄一郎か、的場さんか、ふたつにひとつだ」
 その答えならとうに出ている。
 果歩に、永遠に真鍋の真実を知らせないと決めた夜に、答えは出ている。
 あの夜自分は、真鍋を自分の中から切り捨てて果歩を選んだのだ。
 でも――
(――そんな水くさいことを言わずに、困ったらいつでも来いよ。俺はお前を、本当の弟みたいに思っているんだから)
(――頑張れよ、瑛士。俺はいつだってお前の味方だ)
 だめだ、できない。
 あの人を見捨てることなんて、僕にはできない。
 そんなことが、できるはずがない。
 黙って唇を震わせる藤堂を、喜彦は黙って見つめていたが、やがてどこか皮肉な口調で口を開いた。 
「あるいは私は、この時を待っていたのかもしれないな。お前がずっと否定し続けてきたお前の父親と同じ立場に立たされる時を」
「…………」
「お前の父親は、自らの幸福を棄てて二宮の家と脩哉を守った。さぁ、お前はどうする。どうしたいんだ、瑛士」
 
  
 *************************

     
「一体いつまで寝てるのよ、いくら役所が休みだからって言って……」
 洗濯物を干し終えたばかり母が、ベランダから戻ってくる。
「平日の金曜日よ? 最近のお父さんが甘いからって、図に乗ってるんじゃないの」
 顔を洗ったばかりの果歩は、少し気まずくリビングのソファに腰を下ろした。
 午後10時半。母が怒るのも当たり前だ。父は出勤、美玲は引き続き友人の家にいるから、家には果歩と母の2人だけになっている。
「つ……、ついうとうとして二度寝しちゃったのよ。いつも通りの時間に起きたんだけど、その……お休みだったから」
 今週のはじめ、ようやく藤堂と身も心も結ばれて、一気に緊張が解けてしまったせいもある。
 母には分からないだろうが、この一ヶ月、りょうの言葉を借りれば、果歩は過去を旅していたのだ。
 それはそれは、長くて辛い旅だった――なんて言っても、どうせ理解されないだろうけど。
「お昼ご飯、私が作るから、お母さんは休んでてよ」
「当たり前よ。お母さんは昼からパートだから、買い物と晩ご飯の支度もお願いね」
 ――……一応護衛付きの身……、まぁいいか。
 よく考えたら今日は議会初日で、真鍋さんのいうところの解放日だ。
 出かける前は、片倉さんに連絡しろと言われているから、一応連絡してから外に出るかな。
 果歩は立ち上がって、ベランダの窓を開けた。
 爽やかな空気とうららかな初夏の陽気。下の公園からは近所の幼稚園児たちが遊ぶ声がする。
 ――平和だな……、こんな安らいだ気持ちになったの、本当に久しぶり。
 明日は藤堂さんと、指輪を直した後に散歩にでも行きたいな。
 でも、藤堂さん、ちゃんとお休みがとれるかな。
 昨日かけた電話に折り返しがあったのは9時過ぎで、丁度入浴していた果歩は、電話に気づくことができなかった。
 留守電を聞きながら、あまりのタイミングの悪さに、子供みたいに地団駄を踏んでしまった。
 ――あー、早く顔が見たいなぁ……。
 会いたいな。ていうか、もう一日だって離れたくないよ。
 まだ身体の中に、藤堂さんの熱が残っているような気がする。
 暖かくて大きな手――情熱的なキス――全部、昨日のことのように覚えている。
 夢みたいに幸せで、神様がくれた宝物みたいな時間だった。
 藤堂さんも、少しは私のことを考えてくれてるかな。それとも今は、仕事のことで頭がいっぱいなのかな。ちょっとでも……私のこと……。 
「果歩、あんたの部屋、携帯が鳴ってるわよ」
「えっ、本当?」
 藤堂さんかな? こんな時間にそれはないか。
 慌てて部屋に戻って、ベッドに投げっぱなしになっていた携帯電話を取り上げた。画面には、思わぬ人の名前が表示されている。
 秘書課の同僚、安田沙織だ。
 ――……安田さん?
「もしもし?」
「あっ、的場さん、大変なのよ、テレビ見た?」
 うわずった沙穂の声に、果歩は驚いて息を引いた。――テレビ?
「あ、そうか、議会の中継ってテレビではやってないのか。……えーと、ニュース」
 混乱したように続ける沙穂の背後では、いかにも慌ただしげな喧噪があり、そこに尾ノ上の怒鳴り声が交じっている。
「何があったの?」
「とにかく大変なの。真鍋市長が、今日、市長を辞任して」
「えっ?」
「それだけじゃなくて、とんでもない告発をして辞めちゃったのよ。課長が、的場さんはしばらく自宅から出ないようにって」
 ――どういうこと?
 
 
 *************************

    
「政令指定都市である灰谷市に、前代未聞の事態が起こりました。女性とのスキャンダルで姿を隠していた灰谷市長真鍋雄一郎氏が、所信表明の場で突如辞任を表明。就任からわずか一ヶ月あまりの辞任は、過去に類をみない異常事態です」
 テレビ画面に、フラッシュと怒号が飛び交う灰谷市議事堂が映し出される。
 正面席ににずらりと並ぶのは市役所の局長連中だ。そこに、この春局長に昇格したばかりの春日の姿もある。その対面に、市幹部と向かい合うように座っているのが、灰谷市の市議会議員54名。議場とは、市と議員が向かい合って議論する場なのである。
 発言者のみ立つことが許される中央の壇上には、真鍋が立っている。メディアが詰めかけた傍聴席からはひっきりなしにフラッシュがたかれている。
 しかし、果歩が目をみはったのは、議場と傍聴席を埋め尽くす、防弾ベストを装着した警察官の姿だった。
「議場には、灰谷県警機動隊の姿が見られました。本来であればテロや大規模災害などにあたる機動隊が、このような場に派遣されたのは何故なのでしょうか。いずれにしても、とても異様な光景です」
 そんな中、議長に名前を呼ばれた真鍋が登壇すると、場内の雰囲気が一変する。
「馬鹿野郎、市役所は女漁りの場じゃないんだよ」
「さっさと辞めちまえ!」
 一斉に飛び交う野次、野次、野次――
 その声は傍聴席からも飛んでいるが、主に声を張り上げているのは議員らだ。 
「静粛に! 静粛に! これ以上騒ぐと退室を命じます!」と、議長が大声を上げているが、なんの効果もない。
「税金泥棒!」
「恥さらし、早く灰谷市から出て行け!」
 こういう時の議員の口の悪さを知っている果歩は胸が引き絞られるような気持ちになる。
 そこに、ニュースを読み上げる女性アナウンサーの声が重なった。
「約一ヶ月ぶりに姿を見せた真鍋市長に、騒然とする議事堂でしたが、その第一声で、様子が一変します」
 前を向く真鍋の顔が画面に大写しになる。
「私の父、真鍋正義は、長年湊川会会長、城島竜介と懇意な間柄にありました」
 それから数秒、誰もが、真鍋が何を言ったのか分からないと言った顔をしていた。
「父が経営していた会社であり、かつて私が専務を務めていた光彩建設は、長きに渡って湊川会の資金供給源でした。父が市長になって12年、父が主導となって進めた数十件の大型事業は、全て利益の一部が湊川会のフロント企業に流れる仕組みになっています」
 画面が引きになり、再びアナウンサーの声が重なった。
「ここから約20分にわたり、真鍋市長の告発が始まります。入札価格が市の幹部から元市長を通じて湊川会に流れていたこと。談合の実態――その衝撃的な内容に、場内は最初静まりかえり、やがて騒然となりました」
 画面には混乱する議場が映し出される。真鍋の演説を止めようと押し寄せる議員に、それを制止する警察と警備員。怒号と罵声。目もくらむほどのカメラのフラッシュ。
 その中で、あたかも静寂に守られてでもいるかのように、真鍋は朗々と告発を続ける。
 最後に、真鍋の不思議に静かな顔が画面に大写しになった。
「私は本日、これら全ての証拠を、東京地検特捜部に提出したことをここに報告し、かつて光彩建設で経営を指揮した責任を取って、市長の座を辞任したいと思います。短い間でしたが、お世話になりました」
 深々と頭を下げる真鍋の姿で議場の様子は引きになり、代わりにアナウンサーのバストアップが画面に現れた。
 その背後では、「嘘をつけ、嘘を!」「苦し紛れに何言ってやがる」といった野次が飛び交っている。そして廊下をマスコミにもみくちゃにされながら前に進もうとしている真鍋の姿。機動隊に囲まれて議場を後にする真鍋は、周囲の喧噪が全く耳に入らないかのような落ち着き払った顔をしている。
「――真鍋元市長は、マスコミの会見要望にも応じず、再び姿をくらましてしまったとのことです。この件について、東京地検特捜部は未だ沈黙を貫いていますが、先日警視庁が行った侠生会一斉捜査が、この告発に関係あるのではないかと注目を集めています」
「湊川会は侠生会の下部組織といわれていますからね、このタイミングで市長が告発を行ったことと、全くの無関係ということはないような気がします」
「ただ湊川会は、今では東京を拠点としていますが、元々は灰谷市が発祥です。同会と地元企業との繋がりは相当に古いと思われ、ことによれば、市政にも経済にもかなりの混乱が生じるのではないでしょうか」
 いくつかのニュースをはしごした後にテレビを切った果歩は、胸に重苦しく渦巻く不安を堪えながら、携帯を取り上げた。勤務時間内だから当たり前だが、藤堂からの着信はない。
 おそらく市全体が激震に見舞われているだろう。というより、今日真鍋が口にした大型事業の大半は、都市計画局が持っているのだ。問い合わせや苦情電話だけで総務課がパンクしていることは容易に想像がつく。
(――秘書課に銃弾が撃ち込まれたのも、きっと湊川会の警告だったんだよ。私も明日からしばらく自宅待機になった。警察の人が念のため警備についてくれるんだって)
 興奮と怯えが入り混じった沙穂の声がまだ耳の奥に残っている。
 動揺しているのは果歩も同じだった。あんな真似をして、真鍋さんは本当に大丈夫なのだろうか。
 ――片倉さんは……なんて言ってたっけ。
(私が言うのは、2日前の状況が100なら、今は10になったということです)
(雄一郎様を殺してでも、あの方がされようとしていることを止めたい連中の割合です。ただ、その10が厄介なので、あまり油断されないように)
 90が――もしかすると会長が逮捕されたという侠生会のこと? じゃあ残る10が湊川会?
 ていうか、トップの人が逮捕されたら、逆に下の人たちが怒ったりしないのだろうか。
 やみくもに見たニュースの中に、ひどく気になる情報があった。
(真鍋正義元市長と光彩建設社長の吉永氏は、現在行方をくらましており、逮捕を避けて国外に逃亡したのではないかと見られています)
(光彩建設は、典型的な同族経営企業です。かつて専務として在籍していた時代にもし市の汚職に関わっていたなら、雄一郎氏の逮捕も当然あり得るでしょうね)   
 ――真鍋さん……、今、どうしているんだろう。
 1人かな、それとも花織さんが傍にいるんだろうか。もう、私には何をしてあげることもできないけど……、できないんだけど……。
「…………」
 落ち着かない気持ちのまま、果歩は立ち上がって自室に戻った。クローゼットを開けて外に出るための服を見繕う。
 いったん、役所に行ってみようと思っていた。迷惑かもしれないが、藤堂のところでも秘書課でもいい。どこでもいいから確かな情報が欲しかった。
 Tシャツを脱いだとき、一緒に持ち上がった指輪が胸の狭間にひんやりと落ちてきた。
 ――明日……、多分、無理だろうな。
 真鍋の告発は、暴力団と光彩建設の繋がりに、市の事業が利用されていたことを意味している。つまり市長が主導した汚職だ。そんな話は今まで聞いたことがないし、確かなら間違いなく市職員に相当数の逮捕者が出る。
 局の総務課係長――別名、局のなんでも屋である藤堂の立場では、休日出勤は確実だろう。少しくらい時間を作ってもらえるかもしれないが、そんな我が儘を言うのも気がひける。
 しかもこの騒ぎは、1週や2週で終わるようなものではない。
 ――指輪、……いっそのこと1人で直しに行っちゃおうか。その後、藤堂さんの家で夕飯でも作って待っていてあげようかな。
 今は、私より藤堂さんの方が落ち込んでいるような気がする。
 なにしろ彼にとっては、ある意味、私より大切な真鍋さんの一大事だ。  
 ローテーブルに置いていた携帯が鳴ったのはその時だった。今度こそ藤堂からだと思った果歩は、とびつくように携帯を持ち上げている。
 ――……誰……?
 知らない番号だ。さすがにこの状況で、迂闊に出るのは気が引ける。
「……はい、どちら様ですか」
 それでも果歩は電話に出ていた。雨が窓を叩く音が聞こえてくる。





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