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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(36)


 
「――瑛士様」
 ようやくつながった電話に、片倉はほっとしながら携帯を耳に当て直した。
「今どちらに? 昨夜から連絡が取れなかったので心配していました」
「東京だ」
 携帯から、低い声が返された。
 あまり通信環境がよくない場所にいることはすぐに分かった。というより、今日灰谷市で起きた異常事態を当然知っているはずの藤堂が、未だ東京にとどまっていることに、片倉は微かに眉を寄せる。
「今は移動中で、あまり長くは話せない。――用件は?」
 降り出した雨が車を叩く音が強くなる。ひどく事務的な藤堂の声を気がかりに思いながらも、片倉は少しだけ声を大きくした。
「的場様のことですが、先ほど、外出すると連絡がありました」
「どこに?」
「行き先は分かりませんが、芹沢花織様から連絡があって、これから2人で会うようです」
 電話の向こうから、数秒の沈黙が返された。
「時期も時期ですし、考え直した方がいいと申し上げはしたのですが、……どういたしましょうか。瑛士様のご指示をいただければ、私の方でお止めすることは可能です」
「……いや」
 そこから続く長い沈黙が何を意味しているか分からず、片倉は黙って主人の指示を待つ。
「……、片倉、彼女の思うようにさせてあげてくれないか」
「思うようにですか? 今の状況を考えたら、外出は極力控えた方がよろしいかと存じますが」
「相手が花織さんなら大丈夫だ。今の状況も、あの人なら全部知っている。仮に今夜」
 沈黙の向こうに雨音が混じっている。
 幼い頃からよく知っている藤堂が、今、苦悩の中で言葉をつむいでいることが、片倉にはよく分かった。
「……仮に今夜、彼女がどんな選択をしても、……止めずに、ただ守ってあげてくれ」
「…………」
「明日にはそっちに戻れるよ。その時、改めて話をする」
「かしこまりました」
 ――結局……
 あなたも、お父上と同じ道を進まれるのですか、瑛士様。
 通話の切れた携帯をホルダーに収めた片倉は、雨が激しくなりだした空を、ひどく憂鬱な気分で見上げた。
 
 
 *************************
 
 
 雨はいつの間にか土砂降りになっていた。
 夕暮れ時だというのに、灰色の雲に覆われた空は夜のように暗い。果歩が車を降りようとすると、運転席から降りた片倉が傘を差しだしてくれた。
 それを受け取る自分の指が震えている。頭の中には、まだ先ほど会った芹沢花織の声が残っていた。
(――いきなり電話してごめんなさいね)
(先日、ホテルでは失礼したわ。瑛士君と一緒に、まさかあんな風に顔を会わせるなんて思ってもみなかったから。私としたことが、つい感情的になってしまったんでしょうね)
 芹沢花織。
 真鍋の妻の姉に当たる女性。今から約1時間ほど前まで、果歩はその人の車に乗って、2時間近く話をしていたのだ。
「大丈夫ですか」
 片倉の声で、我に返った果歩は、青ざめた顔で首を横に振った。
「ご自宅には、私から帰宅が遅くなる旨電話を入れておきます。お一人で行かれますか」
 かろうじて口角をあげた果歩は、ぎこちなく頷いた。
 藤堂さんに――と言いかけた唇を力なく閉じたのは、花織との会話を思い出したからだ。
 果歩に電話をかけてきた花織は、その時、すでに自身の車で果歩のマンション近くにまで来ていた、思わぬ人からの呼び出しに、急いで階下に下りた果歩は、傘を持って出るのも忘れていた。
 3時すぎからふいに降り始めた雨は、その時はまだ、降ったりやんだりを繰り返していた。
 呼び出された用件までは分からなかったが、一人きりで花織と対峙するのが、怖くなかったかと言えば嘘になる。
 果歩は、真鍋のかつての恋人として、少なからず花織の妹に不安な思いをさせていたのだろうし、姉である花織がそれを不愉快に思っていたことは容易に想像がつく。
 また、現在花織が真鍋のパートナーなら、いろいろな意味で果歩のことを快く思っているはずがないからだ。
 それでも会おうと決めたのは、花織なら、今の真鍋の状況を、誰より正確に知っていると思ったからだ。
「……瑛士君を通した方がいいとも思ったけど、今日は朝から連絡がつかなくて。――今、瑛士君がどこにいるか知っている?」
「いえ、職場じゃないんですか」
「電話したけど、欠勤していると言われたわ。……そう、的場さんも知らないの」
 藤堂さんが欠勤? 
 議会初日に、それは絶対にないだろうと思ったが、その疑問を口にするのはやめておいた。事情はよく分からないが、藤堂が花織をあえて避けている可能性もあるからだ。
「どこか喫茶店でもと思ったけど、やめておくわ。片倉が怖い目をしているから。――乗って。車の中で話しましょう」
 勧められるままに助手席に乗り込んだ果歩は、眉をひそめた。車内の灰皿にはあふれんばかりの煙草の吸い殻が突っ込んである。横目で伺った花織は、相当神経がまいっているように見えた。
 彼女が心労を覚えているとしたら、今の状況で原因は真鍋のことしか思い当たらない。
「……議会、ニュースで見ました。真鍋さんは今、大丈夫なんですか」
「……そうね……、大丈夫といえば大丈夫よ。昨夜は心配で一睡もできなかったけど、最悪の事態は回避されたみたい。……すぐにでも雄一郎さんのことが知りたいだろうけど、まずは順を追って話させて。私はあなたのことをよく知っているけど、あなたは私のことを何も知らないだろうから」
 そう言って花織は、一度は切った車のエンジンをかけた。
「少し移動するわ。ここじゃ人目がありすぎるから」
 雨に濡れた道路に車が滑り出し、その後を数台の車が追ってくる。果歩にも片倉がいるように、花織にも警備がついているのだと、果歩はようやく理解した。
 運転をしながら、先日会った時とは別人のように暗い声で、花織は続けた。
「国会議員、芹沢陽一の娘で雄一郎さんの義理の姉。あとは都英建設の副社長。――私に関してあなたが知っていることはそれくらい? 私と雄一郎さんの関係は、どこまでご存じかしら」
 その刹那、果歩は少しだけ緊張するものを感じていた。もう整理したつもりの過去でも、現在の恋人かもしれない人にそんな風に言われると、複雑な気持ちが込み上げる。
「私と彼が、最初、とても仲が悪かったのはご存じ?」
「……え、いえ」
 さすがにそれは予想外で、果歩は戸惑いながら花織を見上げた。
「妹より3歳年下の、顔しか取り柄のない遊び人。そんな男、どうやったら好感が持てるのか教えて欲しいわ。大嫌いだったのよ。あんな奴、消えてしまえばいいとまで思っていたわ」
 きつい口調で一気に言うと、そこでようやく花織はわずかに語調を緩めた。
「私は子供の頃から妹が大好きでね。きっとあの男にとられてしまった悔しさもあったんでしょう。――だから何かと対決した。あの男が妹を連れて新婚旅行に行くなんて言い出した時は、人殺しとまで言って罵ったわ」
「……妹さんの、お体の具合が悪かったからですか」
「悪い以前の問題よ。結婚式の準備に無理をしたせいで、いつ死んでもおかしくない状況だった。もちろん父も猛反対したわ。――でも雄一郎さんは、周囲が頷くしかないほどの綿密な計画をたてて敢行したの。タイのタレー・プア・デーン。紅い睡蓮の海よ。……妹が、ずっと行きたかった場所でね。今では雄一郎さんに感謝してる。妹は最期まであの旅行のことを思い出しては笑っていたわ。大好きな人に見守られて、幸せな最期だったと思う」
 運転席の花織が涙を指ではらい、果歩も目が潤むのを感じて顔を伏せた。
「……雄一郎さんは、そんな風に一度心に決めてしまったことは、周囲に何を言われようと絶対にやり遂げる人よ。今さらあなたのことを持ち出して残酷かもしれないけど、きっと周囲にどう反対されても、雄一郎さんはあなたとの結婚を断行していたと思うわ」
(何も言わないでくれ。年内のスケジュールとして組み込まれた以上、俺はベストを尽くしたいんだ)
 8年前の思い出が蘇り、果歩は思わず唇を引き結んでいた。
「結局そうはならなかったから、さぞかし雄一郎さんのことを、適当でいい加減な人だと思ったでしょうね。――でも違うわ。今回もそう。彼は何年も前から、今日の終幕を頭にイメージしていたのよ。誰にも、私にも打ち明けずに」
「……真鍋さんは今」
 思わず口を開いた果歩を遮るように、花織はそっと片手を上げた。  
 海岸沿いの歩道脇で車が停まる。同時に後続車も背後で停まった。
 雨がフロントガラスをとめどなく濡らし、まるで世界から遮断するように、2人の女を車内に閉じ込めている。
「瑛士君の話をするわね」
 うつむいたままで、花織は再び口を開いた。
「瑛士君は、都英建設に入る前年……つまり今から2年前まで、海外で仕事をしていたの。名前を言えば誰もがひれ伏す経営コンサルタントファームで研究員の職に就いていた。世界中の会社の経営状況を分析し、その資料を各コンサルタントに提供する仕事よ」
 淡々とした口調で花織は続けた。
「一人で資料を収集し、調査分析する仕事……。ま、心を閉ざしたコミュ障の瑛士君にはぴったりね、もちろんその時、私は瑛士君の存在なんて知らなかったけど」
 予想もしていなかった話の流れに、果歩は思わず唾をのんだ。まさかここで藤堂の過去を話されるとは夢にも思っていなかったが、そういえばこの人は、藤堂の元上司なのだ。
「その頃には雄一郎さんは、すでに灰谷市の市長選に出るべく準備を進めていたわ。もう聞いているかもしれないけど、庁内の反市長派と手を結んで、雄一郎さんがこれと見込んだ優秀な人材を、何人も役所に送り込んでいたの」
「聞いています」
 果歩は、ようやく口を挟んでいた。
「庁内の反市長派というのは、那賀局長と、藤家局長のことですか」
「他にもいるわ。真鍋正義市長の長期政権に危険な匂いを嗅ぎ取っていた市のブレーンが、密かに手を結んで市長への反撃を企んでいたのよ。そこに雄一郎さんが上手く乗っかって今回のクーデターが成功した。――ただ反市長派の彼らにしても、まさか雄一郎さんがここまでやるとは思ってもみなかったんじゃないかしら。私と同じで」
 憔悴したように息を吐く花織を、果歩はどこか不安な気持ちで見つめた。
「……藤家局長は、5月で退職されました」
「……そうね。彼らにしてみれば、市長を交代させ、ソフトランディングする形で徐々に市政を綺麗な形に持って行く腹づもりだったんだと思う。でも雄一郎さんはそんな甘いことは端から考えていなかった。たとえ相手と差し違えても、灰谷市を一度、完全に解体させるつもりだったのよ」
 そこで言葉を切り、花織はかすかに目を細めた。
「藤家さんの退職ですっかり霞んでしまったけど、雄一郎さんが市に送り込んだ人員もまた、瑛士君以外全員6月までに退職したわ。――今にして思えばだけど、雄一郎さんが地検に提出したという証拠は、彼らが揃えていたんでしょうね」
 瑛士君に話を戻すわ、と花織は言った。 
「今から2年前――雄一郎さんがそうやって市の情報収集を進めていた時の話よ。――その頃、雄一郎さんに叔父の二宮氏から依頼があったの。海外にいる瑛士君を日本に呼び戻してくれないかと」
「…………」
「雄一郎さんは瑛士君と親交があって、時々電話で連絡を取り合っていたそうだから、その縁に頼ったんでしょうね。瑛士君は雄一郎さんの求めに応じ、1年の約束で帰国した。もちろんそこに二宮の名前を出せば瑛士君が心を閉ざしてしまうのが分かっていたから、知人の会社を手伝ってほしいという名目でね――そして、私の下で働くことになったのよ」
 果歩はこくりと唾を飲んだ。
「雇用の名目は経営オブザーバー。でも、実際は私の秘書としてビシビシしごいてやったわ。いくら頭がよくてもまだ24歳よ。あの頃の瑛士君ときたら本当に世間知らずの頑固者でね。――まぁ、それでも優秀ではあったけど」
 いつだったか、藤堂が少しだけ話してくれたことがある。処理できないほど大量の仕事を任されて、それをどうにかするスキルを学ぶことができたと。あの時の無茶ぶりをした上司が、花織さんだったのだ。
「……その瑛士君を、次に市役所に送り込んだのは、雄一郎さんにしてみればそれほど深い思惑があってのこととは思えないの。瑛士君を日本に引き留める口実が欲しかったのと、これまでとは違う環境で仕事を経験させたいという、それだけだったんじゃないかしら。――瑛士君は、雄一郎さんが市長選に出ることすら秋まで全く知らなかった。市長就任後も雄一郎さんの思惑が分からなくて、一番頭を悩ましていたのは、多分だけど瑛士君よ」
 それは果歩には初耳だった。自分と話した時の真鍋は、あたかも最初から藤堂を利用するつもりで、市役所に送り込んだようなことを言っていたのに――そうではなかったのだ。
「もちろん瑛士君のような優秀な人に、市の改革の一翼を担って欲しいという気持ちもあったんでしょうけど、少なくとも夏までには辞めさせるつもりでいたんだと思う。二宮氏は瑛士君を後継にと望んでいたし、秋には身内と結婚させるつもりで準備を進めていたようだから。――でも、その期待を全部台無しにさせたのが、あなたなのよ、的場さん」
「…………」
「まさか瑛士君が、あなたと恋愛関係になるなんて、さすがの雄一郎さんも想像していなかったんじゃないかしら。しかもお互い真剣で……あの香夜さんにどれだけ妨害されても、あなたが諦めずに瑛士君と交際を続けているなんて、雄一郎さんも相当驚いたんだと思う」
「…………」
(そもそも30過ぎの女性が4歳も年下の男に惹かれるのは、一体どういう心境なんだ? それすらさっぱり分からない)
 思い出した。――そう、確かに彼は、私の気持ちが理解できないと言ったのだ。
 ただ、すぐに得心したって……安心したって……、そんな風にも言っていた。
「でもその時から、雄一郎さんの頭にはもうひとつミッションができてしまったの」
「……ミッション?」
「ひとつは、自分が市長選に立った後、あなたをどうやって守るかということ」
 そこで言葉を切り、花織は苦痛に耐えるように唇を引き結んだ。
「もうひとつは、婚約者のいる瑛士君とあなたを、どうやって結ばせようかということ……。それを知った時、私はもう耐えられなかった。それで10月に、瑛士君に会いにいったのよ」
    

 *************************
 
 
 雨が激しさを増していく。
 先週、真鍋と2人で過ごした別荘の前に立った果歩は、自分の唇が震え出すのを感じた。
 この扉の向こうに、真鍋がいるのだ。果歩が知らなかった、本当の真鍋がいる。
(――あなたは知らないだろうし、これを話せば雄一郎さんに永遠に縁を切られてしまうだろうけど、言うわ。雄一郎さんは、何も妹と結婚したくてあなたと別れたわけじゃないのよ)
(吉永冬馬という人物をご存じ? 戸籍上は雄一郎さんの叔父だけど、実は真鍋麻子さんが産んだ子よ。――真鍋麻子さんと正義さんが長年不倫関係にあったことは知っているかしら。雄一郎さんの実母はそれが許せなかった。……吉永冬馬は、その報復の過程で生まれた父親のいない子供なのよ)
(今日雄一郎さんが告白したように、昔から光彩建設は暴力団と強いつながりを持っていた。でも、それは養子に入った正義さんの罪というより、むしろ創業一族である真鍋家――つまり雄一郎さんの実母や祖父の罪だと思うわ。いずれにしても雄一郎さんのお母様は、その力を使って麻子さんに報復したのよ)
 自分が一度、複数の男に車に引きずり込まれたことを果歩は思い出していた。
 それ以上は説明してもらう必要もなかった。幸運にも自分は助けられたが、麻子さんはそうではなかった。そして、吉永冬馬は生まれたのだ。
(――吉永冬馬は、何も知らずに麻子さんにきつく当たる雄一郎さんがどうしても許せなかったんでしょうね。報復の機会を窺っていた時、雄一郎さんの前にあなたという人が現れた。……同時にその頃、雄一郎さんが湊川会と光彩建設の繋がりに気がついたこともあって、あなたを盾に雄一郎さんを脅したのよ)
(――麻子さんと同じ目に遭わせてやるって、守れるものなら守ってみろって。……自分の母親の罪を知った雄一郎さんが、その時どれだけ打ちのめされたか想像がつく? そして……理解したのよ。吉永の復讐からあなたを守るには、別れるしかないって)
 果歩は震える手を伸ばして、花織から預かったキーで扉を開けた。
 この扉をくぐるのは、果歩にとっては3度目になる。8年前、真鍋と2人で初めての夜を過ごした時。ほんの数日前、彼と2人で過去について話し合った時――   
(――妹は、そんな雄一郎さんの辛さを全部知っていたし、もちろんあなたのことも知っていたわ。妹はね、的場さん。……雄一郎さんを男としてでなく、弟のように大切に愛していたの。自分が、死んだ後)
 そこで言葉を詰まらせて、しばらく唇を震わせていた花織を思い出し、果歩は自分の鼻筋にも、涙が伝うのを感じた。
(……、ゆ、雄一郎さんがあなたと、再婚することを願って……、嫌がる雄一郎さんを説き伏せて、彼との思い出の別荘を改装させたの。あなたと雄一郎さんが、いずれそこで暮らせるようにと……)
 優しい色彩、子供部屋、太陽の輝く空色の部屋。
 その場に立ちすくんだ果歩は、込み上げる感情に耐えきれずにしゃがみこんだ。
(――私が、そういった全ての事情を知ったのは妹が亡くなった後、私あての遺書を読んだ時よ。雄一郎さんを私に代わって幸せにしてあげて――それが、熱にうなされていた時の妹の口癖だったけど、それがあなたと雄一郎さんを結婚させることなんだと、時間をかけてようやく理解したわ)
 そして花織は、果歩が一度真鍋のマンションを訪ねた時の非礼を詫びた。
(あの頃はまだ、あなたと雄一郎さんの関係を、私は受け入れることができなかった。妹が亡くなったばかりで、どうしたって会わせてやるもんですかと意地のように思ったわ。あの時、雄一郎さんがどれだけ苦しそうにしていたか……説明するまでもないわね)
(妹の一周忌に、……そのお詫びもかねて、私、あなたのためのドレスを仕立てて雄一郎さんに贈ったの。そのドレスを、先日ようやく着て下さったわね。あれはね、雄一郎さんがあなたとの結婚準備を進めていたときに、デザイナーに作らせていたデザインなのよ。……オーダーは取りやめたけれど、事情を察した妹が、そのデザインをこっそり取り寄せて残していたの)
 果歩の胸に、ホテルで2人で会った時の、真鍋の言葉がよみがえる。
(――場所については同感だが、服はそのままにしてもらえないか)
(――ありがとう、とてもいい思い出になったよ)
 それに、私はどういう態度で答えただろう。
 色が似合わないと不平を言い、ドレスを棄ててくれと言った真鍋に、クリーニングに出して強引に返してしまった。
 なんであの人は、いつも肝心ことを口にしてくれないんだろう。
 いつもいつも、私一人を置き去りして――
(その一周忌の日に、雄一郎さんは芹沢の籍を抜けたわ。もともと父は、雄一郎さんを自分の後継者にするつもりだったけど、本人に全くその気がなかったから。――思えばその頃から、雄一郎さんは湊川会と対決する覚悟を決めていたんでしょうけど、そんなことは当時の父も私も知らなかった。……私は、雄一郎さんはあなたと再婚するものだとばかり思っていたし、雄一郎さんも否定しなかったわ。――でも)
(今にして思えば、その頃には、吉永冬馬が再び雄一郎さんに接近していたのよ。丁度真鍋麻子さんが入院して、吉永が社長に就いたばかりの頃よ。……その時、雄一郎さんがあの男にどんな要求をのまされていたか……私には、とても言葉にできないわ)
 玄関を開けた果歩は、そこに置いてあるスリッパに履き替えて室内に上がった。廊下の向こうに見えるリビングの扉から、淡い光りが漏れている。
 しかし扉を開けても、そこには誰もいなかった。リビングに点っているのは常夜灯だけで、明かりはその向こうにある通路から漏れている。
 その先にあるのは、8年前、初めて2人で夜を過ごした部屋だ。
「…………」
 こめかみがドクドク音を立てていた。真鍋に会ったら何を言うつもりなのかは分からなかったが、この先にある部屋の扉を開けられるのが、自分だけだということも分かっていた。
(いまの話は、全部ではないにしろ、去年の10月に私の口から瑛士君に伝えたわ) 
 果歩は改めて、どれだけ果歩になじられようと、藤堂が真鍋と向き合って欲しいと言い続けていた本当の理由を理解した。
(あなたにしてみれば余計なお世話でしょうけど、よりにもよって、雄一郎さんが可愛がっている瑛士君とあなたがなんて……とても残酷で見ていられなかった。はっきり言えば、私はあの時、あなたと別れるように瑛士君に忠告したのよ)
 最初は積極的だった藤堂の態度が、10月から一変した理由も、ようやく分かった。
 彼がその理由を、曖昧にしか言えなかった理由も。
(私が瑛士君に事情を話したと知った雄一郎さんは、尋常じゃないくらいに怒ったわ。――多分だけど瑛士君にも会いに行ったし、口止めもしたんだと思う。そう、あの人は、このことを死んでもあなたにだけは知られたくなかったのよ)
 その理由の残酷さに、果歩は打ちのめされそうになっていた。
 まだ、心の準備はついていない。でも、迷っている時間もない。
(今日、ようやく私にも、雄一郎さんが本当に描いていた結末が分かったの。――雄一郎さんは多分、死ぬ気よ。自殺するつもりはないでしょうけど、この先を生きる気力もない。今もきっと一人で、誰かが終わらせてくれるのを待っているわ。あの人の、……苦しいだけだった人生を)
(的場さん、雄一郎さんの意に反してこの話をするのは、あなたに雄一郎さんを助けてあげて欲しいからなのよ)
(雄一郎さんはもうボロボロよ。あの人は何年も、傷だらけの翼で必死に飛び続けてきた。お父様とお母様の罪を購うために――それから、的場さん、あなたを守るために)
 
 果歩は、8年前に閉じたきりの扉を開けた。






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