何もかも変わってしまった屋敷の中で、その部屋だけは時が止まったようにそのままだった。 本棚とデスク。そしてオリーブ色のシーツに包まれたセミダブルのベッド。 半分照明を落とした部屋の中で、真鍋はネクタイも解かないままにベッドに仰向けになっていた。片腕で顔を隠し、果歩が入ってきても微動だにしない。 ローテーブルの上に転がった幾つものワインボトルに、果歩は思わず眉を寄せた。 その内一本は中身がまだ残っていて、注ぎ口から零れた赤い液体が、テーブルに輪をつくっている。 「なにやってるんですか!」 まず込み上げたのが、強い怒りの感情だった。 びくっと腕を動かした真鍋が、物憂げにその腕を下ろして薄目を開ける。 「……なんだ、君か」 「なんだ君かって」 果歩は憤りを必死で抑えながら、テーブルの上のボトルをかき集めた。まだ中身があるものを台所で捨ててくるつもりだった。けれど、そこに包装された薬の束を見付け、凍り付くような気持ちで手を止めた。 (――こんなスキャンダルが万が一漏れたら選挙どころじゃなかったでしょうけど、雄一郎さんは一種の薬物依存状態よ。鎮痛剤の過剰摂取……。4年前に入院させて、ようやく元通りになったと思っていたのに、多分その時より依存がひどくなっているわ) 果歩は薬の束をつかみ取ると、ボトルと一緒に台所に持って行った。ボトルの中身をシンクにぶちまけ、薬をダストボックスに投げ入れる。台所には生活の名残があり、この数日、真鍋がここで生活していたことは明らかだった。 足早に元の部屋に戻ると、真鍋はだるそうにベッドで半身を起こしている。 「別に違法なものじゃない。医者に処方された鎮痛剤だ。頭痛が収まらない時に服用しているだけだよ」 真鍋は、今日テレビで見た時と同じネクタイを締め、同じパンツを穿いていた。 髪は乱れ、夢でも見ているような、ひどく虚ろな目をしている。果歩は駆けよって、その頬を思い切り叩いてやりたくなった。 「悪いが、今日は君の話につきあっている余裕がない」 髪に指を差し入れると、真鍋は疲れたような口調で続けた。 「ニュースを見たなら知っているだろうが、いろいろあって、ひどく疲れているんだ。どうせ片倉も一緒なんだろう? ということは、瑛士もここに来ているのか」 「……いえ」 花織と別れた後、ここまで果歩を送ってくれたのは片倉だった。 真鍋の潜伏場所を教えてくれたのは花織だが、果歩は当然、片倉もそれを知っているものだと思っていた。 (――的場様、私はすでに雄一郎様の元を離れ、瑛士様にお仕えしているのです。今夜のことで、瑛士様から特別な指示は受けておりません。その上で、これから行かれる場所のことを、瑛士様に申し上げておきますか) その問いに、果歩はすぐに答えることができなかった。そして迷いの中で、「いえ、言わなくていいです」と言った。 片倉はそれ以上何も言わなかったし、果歩も何も言わなかった。どうして自分がそんな風に答えてしまったのかも、分からなかった。 「相変わらず無警戒だな。……どうでもいいが、だったらなおのこと、さっさと出て行ってくれないか。君のことで、これ以上瑛士に誤解されるのはうんざりなんだ」 「だったらすぐに支度をしてください」 「……支度?」 果歩は真鍋の傍に歩み寄ると、その前で足を止めた。真鍋はだるそうに前を見たままで、先ほどから一度も果歩を見ない。 「帰るなら、真鍋さんも一緒に連れて帰りますから」 「どこへ?」呆れたように真鍋は笑った。 「見てのとおり、この家は警察に囲まれていて、俺さえ自由に出入りできない。正直、ことの大きさに驚いているのは俺の方だよ。まさかと思うが、瑛士が連中を手配したんじゃないだろうな」 「どうやったら、藤堂さんにそんな真似ができるんですか」 真鍋の別荘周辺には、彼の言うように、県警の車両が詰めていた。片倉が車を停めると、すぐに防弾ベストに身を包んだ機動隊員が駆け寄ってきて、身分証の提示を求められた。 真鍋が守られていることに、果歩は微かな安堵を覚えたが、その隊員に、今別荘の中に入ることはできないと足止めされた。それを、片倉がこう言ってくれたのだ。 (こちらの方は、真鍋市長の婚約者です。雑誌でお顔もお名前も出ていたので、ご存じかと思います) そんな嘘をついてまで真鍋に会おうとした自分が、今、藤堂の名前を口にしていることが、ひどい裏切りのような気がして、果歩は唇を噛みしめた。 「何もこんな寂しい場所に1人でいなくてもいいじゃないですか。花織さんも、真鍋さんが1人でいることを心配していました。私と一緒に、あの人の用意してくれた場所に行きましょう」 「……的場さん。僕は何も、やけを起こしてここにいるわけじゃない」 少し、苛立ったような口調だった。 「いずれ会社に顔を出さないといけないだろうし、検察からの呼び出しがある。そうしたら寝る暇もないほど忙しくなるんだ。今は1人にさせてくれないか。そのために、ここに来たんだ」 「……、真鍋さん」 「君が出て行かないなら、俺が出て行く。いい加減迷惑だと理解してくれ」 「どうして言ってくれなかったんですか」 これ以上、上っ面の会話を続けることが苦しくなって、果歩は唇を震わせるように言っていた。 「……どうして君に? 君はうちの会社とはなんの縁もない人だろう」 「そうじゃなくて!」 そうじゃなくて。…… 果歩のただならぬ剣幕に気付いたのか、物憂げだった真鍋の眉が微かにゆがんだ。 「……君が何の話をしているのか」 「わ、私と別れた時の話です」 口にした途端、意識していなかった涙が、不意に鼻筋を伝って落ちた。 「……じ、自分の意志じゃなかったって。吉永さんに脅迫されたって、……何もかも、私を守るためだったって……」 歯を食いしばっても、悔しさとやるせなさで、涙が後から後から頬を伝った。 激情を懸命にのみ込み、果歩は両拳を握るようにして真鍋を見下ろした。 「どうして言ってくれなかったんですか!」 横顔を強張らせ、真鍋はしばらく石のようにみじろぎひとつしなかった。 やがて微かに喉を鳴らすと、彼は果歩から顔を背けるようにしてベッドから降りて、立ち上がった。 「言って、どうなったんだ」 「…………」 ――どうなった? 「どうにもならない。それが分かっていたから言わなかった」 「真鍋さん、」 「言えば君は納得したか? するはずがない。今以上に強情な人だったからな」 真鍋は振り返り、怒ったように両手を広げた。 「納得せずに、もっと困ったことになっていた。俺の義母のようになっていたかもしれない」 「それでも言って欲しかった、2人で答えを出したかった!」 8年間我慢していた感情を迸らせるように果歩は続けた。 「そ、それがどんな結論になったとしても、2人で一緒に考えたかった」 真鍋の双眸に一瞬激しい感情が揺れたが、彼はすぐに怒りをもてあますように顔を背けた。 「無理だ」 「どうしてですか」 「あの頃の君はまだ子供で」 「私はあなたのなんですか? 友達でもない、知り合いですか?」 表情を止めた真鍋が、ゆっくりと果歩の顔を見る。 果歩は両目から零れる涙を拭うのも忘れて、真鍋の顔を睨み続けた。 「そんな……そんな大切な話すら、してもらえないような関係だったんですか?」 「……よく覚えているね。俺が昔、君に言ったセリフだ」 一瞬優しさを取り戻したように思えた真鍋は、しかしすぐに横顔を険しくさせて目を逸らした。 「……無理だ。そうなったら、俺が君を手放せなくなっていた」 「だったら手放して欲しくなんてなかった!」 果歩は両手を握りしめた。 「私はついていってました。怖くなんかない。どうなったって自分で決めたことですから。真鍋麻子さんが、一度だって不幸だっていいました? 一度だって、正義さんと一緒になって嫌だったって言いました?」 何かを堪えるようにうつむいた真鍋が、次の瞬間振り返る。 抱き締められた身体が、あっという間にベッドの上に押し倒された。激情と興奮の中で、本能的な恐怖を覚えた果歩は、咄嗟にブラウスの上から指輪を握りしめる。 果歩の肩を押さえた真鍋は、情欲というより怒りを帯びた目で果歩を見下ろした。 「ここで拒むくらいなら、何をしに来た。俺をもう一度、地獄に突き落とすために来たのか!」 しかしその目は、怯える果歩から逃げるように力なくうなだれ、逸らされる。 「……君は、俺をなんだと思っていたんだ」 「…………」 「そうだ、知り合いでもなければ友達でもない。俺が君をどれだけ愛していたのか、君にはまだ分からないのか」 真鍋の唇が震え、苦悩したように閉じられた目から、涙が一筋鼻を伝った。 「この8年……、俺がどんな思いで君を断ち切ろうとしたのか、まだ分からないのか」 ――真鍋さん……。 「果歩……」 呻くように囁いた真鍋が、果歩の髪に顔を埋めるようにして抱き締めた。 「君を失ったら、俺には本当に何もない。今も昔も……それを想像しただけで、どうしていいか分からなくなるんだ」 (――果歩……) (君を失ったら、……俺は、どうしていいか分からない) あれは、夢じゃなかったんだな。 ぼんやりとしたまま、果歩は涙で潤んだ目で天井を見つめた。 ホテルで貧血を起こした夜、夢の中で聞いた声は、本当の真鍋さんの声だった。 自分の手の中には、薄いブラウス越しに頑なに握りしめたままの指輪がある。 明日には、一緒に直しにいく指輪。どの指のサイズにするか、藤堂さん決めてくれてるかしら。 ――ごめんなさい……。 閉じた目から、幾筋も苦しい涙が頬を伝った。 でももう、私、この人の腕を解けない。 どうしても1人にさせておけない。 私のために何もかもなくしてしまったこの人に、一体どうしてそんな残酷な真似ができるだろう。 (でも不思議だな) (それまでずっと的場さんだったのに、一度名前を呼ぶと、もう果歩になっているんだ。名前には不思議な力があるというけど、本当かもしれないね) 頑なに力をこめていた指から、少しずつ力を抜く。 手から離れた指輪が、胸を滑って落ちていった。 「……ゆ」 その冷たい感触を心のどこかで痛いほど意識しながら、果歩は両手を、そっと真鍋の背中に回した。 「雄一郎さん……」 終 次章予告 |
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