ひどく悲しい夢を見たような気がした。 その夢の中で、何か、とても大切なものをなくしてしまったような気がする。 「…………」 薄く目を開けた果歩は、締め付けられるような胸の痛み――というより、目に砂粒でも入り込んだような痛みに「うっ」と小さな悲鳴を上げた。 しまった。またしてもコンタクトをしたまま熟睡しちゃった。 それで2回も痛い目にあったのに、何やってんだろ、私ったら。 「起きた?」 穏やかな声がして、眉間に縦じわを寄せながら目をつむっていた果歩は、ドキッとして瞬きをした。 扉の前に、さっぱりとした白のシャツを着た真鍋が立っている。 慌てて起き上がろうとした果歩は、はらっとはだけたブラウスに気付いて、びっくりして胸を押さえた。 うわっ、超恥ずかしい。ちょっと待って、私のブラジャー、どこ行った? シーツで身体を隠しながら、あちこちに手を伸ばして衣服を探していると、 「シャワーを浴びてくるといいよ」 真鍋の苦笑まじりの声がした。 「浴槽は使えないけど、シャワーは問題なく使えるよ。早く目が覚めたから少し掃除もした。……君の着替えは、さすがに用意できないけど」 「だ、大丈夫です。その、……同じものを着て帰りますから」 ただ、それをかき集める間だけは、1人にしてもらえないでしょうか。いくらなんでもこの格好で浴室まで行くなんて、みっともなさすぎる。 けれど真鍋は動かない。どこか優しい目で、じっと果歩を見下ろしている。 「……な、なんですか」 「いや、夕べは気付かなかったが、化粧をしていないんだなと思って」 ―― ! そういえばそうだった。昨日は起き抜けに安田さんから電話があって、後はテレビばっかり見ていたから……。で、花織さんからの電話で、慌てて家を飛び出した。もちろん化粧なんてしていないし、なんなら、眉すら描いてない。 ――嘘でしょ、もう……。 思わず両手で眉を隠した果歩は、昨日からずっと、このみっともない顔でうろうろしていたことを思い、血の気が引くような気分になった。 一生一代の失敗といってもいいのかもしれない。まさか真鍋さんの前でドすっぴんをさらしてしまうとは―― 「そのせいかな。今見た時、まるで8年前の的場さんがそこにいたような気がしたよ」 しかし果歩の動揺が分からないのか、真鍋はあっさりと言って、ベッドの側でかがみこんだ。 穴があったら入りたいような気持ちで、真鍋の手から衣服を受け取った果歩は、彼が今、的場さんと言ったことに、ようやく気がついていた。 昨夜はずっと「果歩」だった。何度も何度も、もの狂おしげに名前を呼ばれて―― 「悪いけど、夕べのことは謝らないよ」 背を向けた真鍋が言った。果歩は胸を押さえたまま、そんな真鍋の背中を見上げる。 「ただ、避妊しなかったことは、申し訳なかったと思っている。もし、そういう危険のある日だったら……」 ――危険の、ある日……? 「……、あっ、いえ」 数秒、真鍋の言っている意味が分からなかった果歩は、弾かれたように首を振った。 にわかに心臓がドキドキしてきた。自分の危険日なんて、今まで考えたこともない。 晃司がきっちりしていたので安心していたのもあるけど、この一年は、ずっと干物女みたいな生活だったから。―― 「…………」 自分の記憶から、意識的に除外していることがある。その感情に飲み込まれる前に、果歩は急いで顔を上げた。 「……大丈夫……だと思います。でも、念のため、薬はやめておいた方がいいのかな」 果歩の言葉に、真鍋が強張った顔で振り返る。 その表情で、落ち着いた態度とは裏腹に、今真鍋がひどく緊張していることが果歩にも分かった。 「随分と冷静なんだな。――まぁ、好きにしたらいいんじゃないか」 「どういう意味ですか?」 「冷たいことを言うようだが、僕にはなんの責任もとれないからね」 先ほどと打って変わった素っ気ない口調に、胸の奥がズキリと傷んだ。 けれどその痛みは、自分が傷ついたというより、真鍋がまだ仮面をかぶっていることへの切なさだ。 彼の中に溢れる優しさと、それを見せてはならないという苦しさが、果歩にも痛いほど伝わってくる。 もうそんな真似はしなくてもいいと、昨夜伝えたつもりだったのに、――まだこの人は、私に本当の気持ちを見せてはくれないのだろうか。 そう思いながら、ブラウスのボタンを留めようとした果歩は、胸の狭間で揺れる冷たい感触に、反射的に指をこわばらせた。同時に、今胸をよぎった感情だけは、絶対に真鍋に知られてはならないとも思った。 「本当に冷たいんですね。普通、嘘でも適当な言い訳を口にしません?」 「悪いが、今の僕に君のことを考えている余裕はない。自分のことだけで頭がいっぱいなんだ」 「分かります。そういう心の狭いところ、昔からですよね」 「――、なんだと?」 「もしかして無自覚でした? あ、そうだ。そんなことより朝食はどうします?」 「……朝食?」 ベッドから降りた果歩は、真鍋の側に歩み寄って微笑みかけた。 「和食派ですか? それとも洋食派? 私、雄一郎さんの食習慣を何も知らないから」 戸惑ったような目になった真鍋が、返事に窮したように目を逸らす。 「……僕は、朝はいつもコーヒーだけだよ」 「キッチンで煎れられます?」 「生憎、ここには豆もメーカーもない」 「見てきます。それっぽいものがあったような気がするけどなぁ」 「的場さん」 キッチンに向かって歩き出した果歩の後を、驚いたように真鍋が追ってくる。 「もし何もなかったら、その時は一緒にコーヒーショップに行きませんか? 確か商店街にカフェががありましたよね」 前に回り込んだ真鍋の手が行く手を遮り、その距離の近さに、果歩は少し緊張して足を止めた。 狭い廊下、片腕で囲い込まれていると、否応なしに昨夜の記憶がよみがえる。 真鍋と同じで、自分も平静さを装っているだけだったと、改めて思い知らされるようだった。 「僕の態度が何か誤解させたのなら申し訳ないが、シャワーを浴びたら片倉を呼んで帰ってくれないか」 「昨日も言いましたけど、ここを出るなら真鍋さんも一緒です」 「僕には僕のタイミングがある。君と一緒に行くことはできない」 「じゃ、私も一緒にいます。幸い仕事も休みですし」 「悪いが君の意見は聞いていない。家の持ち主である僕が、こうして退去を命じているんだ」 「その持ち主と一夜を過ごしたんです。その程度のわがままも許されないんですか?」 言葉に詰まった真鍋が、苛立ったように壁を叩いた。 「君がそんなに図々しい人だとは知らなかったよ」 「てっきり知ってるんだと思ってました」 「じゃあ君も、俺の性格をよく知っているはずだな? 昨日は色々言ったし、それが全部嘘だったとは言わない。ただ、今は後悔しているし、心の底から面倒なことになったと思っている」 「……私を自分のものにしたからですか」 「……、そんな言い方はしたくはないが、そうだ。白状すれば、俺の性格は昔と全く変わっていない」 嘘つき。 「俺にしてみれば、厄介ごとがひとつ増えたようなものだ。――正直、いっぱいいっぱいなんだ。頼むから、昨夜のことはなかったことにしてくれないか」 あなたの性格がそのままなら、私なんて、8年前のあの日からとっくに面倒になってたはずじゃないですか。 「……考えときます。もしかしたら赤ちゃんができてるかもしれないし」 真鍋が驚いたように顔を上げる。果歩はその隙を縫うようにして、彼の傍をすり抜けた。スタスタとキッチンに向かう果歩を、真鍋が苛立ちもあらわに追ってくる。 「よく分かったよ。しょせん君も、ほかの女と同じなんだな」 「つまりこれまでも、そんな風に脅されたことがあったんですね」 「今の君のように、全部嘘だったけどね。一応礼儀として言いなりに金は払ってやったよ」 「嘘じゃなく、私は可能性の話をしているだけです。そもそも不注意だったのは真鍋さんじゃないですか」 「――ああ、そうだな。だったらいくらいるか言ってくれ」 「あ、あった」 真鍋の怒りを無視して、果歩はキッチンに置かれているコーヒーメーカーに目を向けた。 どう見ても最近使った形跡があるから、豆もどこかにあるはずだ。 上の戸棚を開けようとした果歩の腕を、背後から真鍋が掴んだ。 「ここで、もう一度君を抱いてしまおうか」 「…………」 大きな手と強い力。すぐ背後に真鍋の体温がある。自分の喉が緊張と不安で微かに鳴った。 しかし真鍋は、すぐに手を離すと、自分のしたことを悔いているかのように果歩から離れて、シンクに背を向けて腰を預けた。 「……、分かってくれないか。その程度には俺も自棄になっているんだ。また夕べのようなことになって、困るのは君じゃないのか」 「……別に、困ったりはしませんけど」 眉を微かに動かした真鍋が、諦めたようなため息をついた。 「……的場さん、最初に謝罪はしないと言ったが、撤回するよ。昨日は……本当に申し訳なかった」 「…………」 「分かってくれていると思っていたが、昨日の俺は……とても正気ではなかったんだ。お酒もかなり入っていたし、あんなことになった記憶自体も曖昧だ」 嘘つきだなぁと、果歩は黙ってうつむきながら思っている。 そうじゃなかったことは、私がよく知っているし、真鍋さんだって分かっているはずなのに。 私が先にうとうとしかけた時、何度も髪や額に優しいキスをしてくれた。 夜中に何度か目が覚めて、真鍋さんの様子をうかがった時だって、眠りながらずっと私の手を握ってくれていた。 まるで、もうどこにも行くなと言われているみたいに―― 冷たいことを言う真鍋さんと、その時の真鍋さん。どちらが本当の真鍋さんかなんて、もう考えるまでもない。 「……君は同情で冷静さを欠いていたし、その隙をついて、俺が無理矢理そうしたようなものだ。……瑛士も、分かってくれると思う」 いずれその名前が出ることは覚悟していたはずなのに、えぐられるような胸の痛みに、果歩は言葉をのんでいた。 「話す必要があるかどうかは、別としてだが」 「…………」 果歩は黙って頷き、自身の動揺を懸命にのみこんだ。だめ――こんな顔を真鍋さんに見せては絶対にだめ。 顔を上げると、真鍋は果歩から顔を背けるようにして自分の足下を見つめている。 少しだけほっとしながら、果歩は微笑んで真鍋を見上げた。 「私たち、色々話し合わないといけないことがありそうですね」 「…………」 「シャワーを浴びてきます。その間に、私のコーヒーをお願いしてもいいですか」 ************************* 8年ぶりに浴室前の脱衣室に入った果歩は、自分が不意に夢の中に入りこんだような感覚になった。 ずっと携帯を見ていなかったことに気がついたのはその時だった。 脱衣室に持ち込んだバッグの中から、どこかぼんやりとした気持ちで、携帯電話を取りだしてみる。着信は3件。家からが2回で、尾ノ上課長から1回。 覚悟していた人からの連絡がなかったことに、気持ちをどこに持って行っていいか分からなくなる。ほとんど無意識に、果歩は保存していた留守番電話を再生していた。 木曜日の夜、果歩の入浴中にかかってきた藤堂からの電話だ。 「的場さん、僕です」 耳に響く優しい声。その瞬間、果歩はその場にしゃがみこんでしまいそうになっていた。 「折り返しが遅くなってすみません。土曜日は予定通りで大丈夫なので、家の近くに着いたら電話します。嫌いなものは……特にないですね。皆さんによろしくお伝えください」 じゃあ、また。という声と共に再生が終わる。 ――連絡しなきゃ…… もう来なくていいって。私の方から謝りに行くって。――そう、伝えなきゃ。 もう決めたんだ。 もう、絶対に元には戻れないんだ。 唇をきつく結んだまま、果歩はブラウスのボタンを外した。 ずっと意識しないようにしていた、ひやりとした感触が胸の狭間にある。 真鍋の唇が何度も触れた場所に、藤堂からもらった指輪があることが、ひどく滑稽で、残酷なことのように思えた。 夕べ、ひどく悲しい夢を見たような気がした。 その夢の中で、何かとても、大切なものをなくしたような気がした。目覚めてから気がついた。それが夢ではなく現実だったことに。 首の後ろにある留め具に手をかけ、果歩は首から指輪を外した。 何かの感情が激しく胸を突き上げたが、果歩は考えないことにした。もう、考えてはいけないのだ。永遠に。 指輪を外してバッグの中のポーチに収めると、果歩は顔を上げて深呼吸した。 |
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