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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(5)

 

「自宅に、一度帰りたいんですけど」
 果歩がそう言うと、果歩を後部座席に乗せた後、再び運転席に戻った片倉は、「その必要はありません」と短く答えた。
「ホテルに部屋を用意してあります。今夜のお召し物は全てそちらに運ばせているので、お支度はそちらで済ませてください」
 嘘でしょ……と思いながら、果歩は諦めの交じったため息を漏らした。
「そのホテルって、先日片倉さんとお会いしたホテルですか」
「そうです」
 やっぱりそうか。――確か8年前は知り合いが経営していたというし、きっと真鍋家の御用達ホテルなんだろうけど、それにしても……。
 行きたくない。
 藤堂との一件で、あのホテルには、二重に嫌な思い出ができてしまった。
 もう生涯行かないと誓ったのに、またあそこか――
 道中、何度か「やっぱり帰ります」と言いかけて、それを口に出せないままにホテルに着いたのは午後7時前だった。
 その時には、果歩は緊張と不安から胃が痛くなっていた。
 よほどタクシーに飛び乗って逃げ帰りたい衝動に駆られたが、今日、市長室から執務室に戻った時の、皆の期待するような目が蘇る。
(また、場所を変えて市長とお話することになりましたので、明日ご報告します)
 尾ノ上にそう報告した以上、今さらもう後には退けない。
「これは真鍋様、お待ちしておりました」
 すでに真鍋から連絡を受けていたのか、車が正面玄関に停まるとすぐにベルボーイが駆けつけてきた。
 部屋の鍵を受け取った片倉と2人で、エレベーターで客室階に上がる。
 フロントの手続きさえ省略されていたことを不思議に思いながら、果歩は傍らの片倉を見上げた。
「真鍋さんは、このホテルとどういうご関係なんですか」
「昨年までは会長でした。今は経営を退いておられますが」
「……、そうなんですか」
「何年か前、破綻寸前だったこのホテルを買収して、再生させたのがそもそも雄一郎様だと伺っています。役職こそ退きましたが、今も、実質的にはオーナー同然のお立場でしょう」
 それで従業員の態度が他の客に対するものと明らかに違うわけだ。
 先ほど通り過ぎたフロントでも、果歩と片倉を見ただけで、全員が姿勢を改めてお辞儀した。果歩は内心こう思った。――案外怒りっぽい人だし、よほど恐れられているんだろうな、真鍋さんは。
 部屋に着くと、扉を開けて室内を一通り見た片倉は、「私はここで待っていますので、着替えられたら出てきて下さい」と言って、廊下に立った。
 諦めの境地で部屋に入ると、ベッドの上に綺麗に包装された箱がいくつも置いてある。
 その量の多さと、高価なブランド物のロゴに余計に気持ちが重くなった。
 ――なんなのよ、もう……。
 一体今夜、誰と会うわけ? 政治家? それとも大企業の社長さん? まさか私をその人の接待要員として呼んだわけじゃないわよね。
 いや、これからつく嘘を思うと、そっちの方がまだましなくらいだ。結婚するだなんて、何故そんな馬鹿馬鹿しい嘘を? その人物は、独身者を全く信用していないってことだろうか?
 ――もしくは、真鍋さんに言い寄っている女性とか。
 その可能性はあるだろうなと、ふと思った。
 これから会う人は女性かもしれないし、男性でも、娘と結婚させたいとか、そういう思惑があるのかもしれない。
 芹沢花織を同行させればいいのにと思ったが、恨みを買わせたくないという配慮があったのかもしれない。――ふぅん、へぇ、それで私ってことですか。
 多少の腹立たしさを覚えながら、一番大きな箱を開けると、パールをまぶしたような光沢を放つ、淡い――光りの加減よって見えるか見えないか程度のシェルピンクの、イブニングドレスが現れた。
「……えっと」
 果歩はそう呟いたきり、絶句していた。
 真鍋さん、これ、絶対ただの食事じゃないですよね。
 ちょっと待って、本当に胃が痛くなってきた。一体今夜、真鍋さんは私に何をさせるつもりなの?


 *************************


「真鍋様、いったんお席にご案内いたしましょうか」
 気遣わしげに声を掛けてくれたホテルの従業員に、真鍋は笑顔で片手を挙げた。
「構わないでくれ、ここで人を待っているんだ」
 約束の時間からもう20分が過ぎている。
 腕時計に視線を落とした真鍋は、窓の向こうの景色に目を向けた。
 壁一面にガラスをはめ込んだ窓からは、夜の帳に包まれた灰谷市の夜景が一望できる。
 ふと、そこに映る自分の顔を見た真鍋は、少し驚いて視線を逸らした。
 ひどい顔だ。
 ――驚いたな。何を子供みたいに緊張しているんだ、俺は。
 それでも心の中は、ずっと相反する感情で揺れ続けている。
 彼女に来て欲しいという思いと、来て欲しくないという思い。
 もし彼女が逃げてしまったら――その可能性はかなり高いはずだが――今後の計画を、根底から見直す必要がある。
 それでも真鍋は、果歩にこの場に来て欲しくないと思っていた。
 3月の終わり、このホテルで8年ぶりに再会した時、彼女は真鍋が初めて目にする和装姿で立っていた。
 あるいは瑛士が、彼女を連れてくるかもしれないと予想はしていたが、まさか和装とは思わなかった真鍋にとっても、あの出会いは想定を超えた驚きだった。
 果歩は知らないだろうが、真鍋が彼女を見たのは、この8年であの日が初めてではない。何度か目の覚めるような――心臓を鷲づかみにされるような――苦しくて辛いだけの邂逅の中で、それでもあの日は別格の驚きがあった。
 彼女は、瑛士と2人で上階から降りてきて、瑛士1人がフロントでチェックアウトの手続きをしている。それだけで、これまで2人が何をしていたのかは想像がついた。
 なのに彼女は、ひどく心細げな、怯えたような顔をしていて、真鍋は8年前の立食パーティの時と同じように、彼女に声を掛けたくなっていた。
 そんなに綺麗な人が、うつむいていてはいけない。顔を上げて、背筋を伸ばして――笑うんだ。
(これは真鍋様、ようこそおいで下さいました!)
 その時、真鍋の来訪に気づいたホテルのスタッフが声をあげた。
 その瞬間、はっと真鍋を見た彼女の顔にみるみる驚愕と恐怖が宿り――それは、この8年、彼女が真鍋に対して抱き続けてきた思いの全てを物語っているような気がした。
 どこか途方に暮れた思いで、転がってきたブーケを拾い上げたとき、ああ、結婚式だったのかと気がついた。
 それがどれだけ楽しい思い出であっても、今この瞬間、台無しになっただろう。それでも忘れられていないだけましなのか。いっそ、綺麗に忘れてもらっていた方がまだよかったのか。
 彼女が去り、瑛士がそれを追いかけた時、自分は彼女の世界の中で、もはや完全に脇役であり、過去の人なのだと思い知らされた。
 それは、今、この瞬間も変わらないし、今夜真鍋は、いっそ冷徹なまでにその役割に徹しようと決めている。
 窓ガラスの夜景に、気づくと1人の女性が映っている。
 その人は真鍋の背中を戸惑ったように見つめ、ぎこちない足取りで近づいてくる。
「…………」
 一瞬胸に込み上げた情動をのみ込み、真鍋はどこか優しい気持ちでその姿を見つめた。
 今、ガラスに映ったこの姿だけは、誰にも遠慮する必要はない。そう、本人にすら。
 ――俺のものだ。
 ガラスに映った輪郭に指を当て、真鍋は苦しい幸福の中で目を閉じた。 
 君は綺麗だ。俺にとって、君ほど完璧な人はいない。
 たった一度でいい、今夜だけでいいから、俺のために笑ってくれ。――
 それでも振り返った視界には、現実の、もう他人のものになった彼女が、どこか硬い目で自分を見上げている。
「遅かったな。約束の時間をもうとっくに過ぎている」
 真鍋は、冷淡な声でそう言った。
 
 
「すみません、支度に時間がかかったんです」
 果歩は、怒りを堪えた声でそう返した。
 そして目を逸らしながら、馬鹿みたいだと思った。
 エレベーターホールの突き当たり、窓に向かって立つ真鍋の背中を見た時、そこに、同じように窓ガラスに映る自分の姿を、どうしてだか真鍋が見てくれているような気がしたのだ。
 8年前、2人が窓の前に並んで立ち、互いに窓越しに見つめ合っていたように。
 エレベーターを降りるまでは、むしろ怒りしかなったのに、その刹那、果歩は真鍋の美しい背中に――窓ガラスに映る姿に見とれていた。
 普段身につけているビジネススーツではない。光沢のはいったグレーのスーツに臙脂色のタイ。ややうつむき加減で、影を帯びた双眸はどこか寂しそうにも見える。
 思わず手を差し伸べたくなって、慌ててその感情をのみ込んだ。この人はもう8年前の彼ではないし、私ももう、昔の私ではないのだ。
 そんな風に迷いながらも、果歩は窓に映る真鍋を見ていたし、真鍋もまた、窓に映る果歩を見ていたような気がした――何か、言葉にできない、同じような感情を抱えたままで。
 が、もちろんそれは、果歩の独りよがりの妄想だった。
 その証拠に、真鍋はもう、果歩を見ないままに歩き出している。
「……なんなんですか、この服」
 不満を堪えきれずに果歩は言った。
「ちょっと……ピンクって、私には幼すぎじゃないですか」
 貝殻のような淡い色味は、ロングドレスが翻るたびに濃度を変え、上品で繊細な輝きを放っている。純白にも薄桃色にも見えるドレスは、薔薇の花びらのように胸元をふわりと覆うデザインも愛らしく、もう少し若い人向けのような気がした。
「そんなことはないと思うが」
 真鍋が初めて足を止めて果歩を見た。「まぁ、――君の年にはそうなのかもな」
「ちょっ」果歩は頬を熱くした。「あなたが用意してくれたのに」
「時間がなかったんだ」素っ気なく真鍋は言った。「数時間だけのことだ。我慢しろ」
「ひどい、無責任なこと言わないでください」
「僕が着るんじゃないからな」
 その刹那、――気のせいかもしれないが、真鍋の横顔が楽しそうに見えたので、果歩は非難の言葉をのみこんだ。 
 私を困らせて喜んでいるんだろうか。確かにそういうところのある人だったけど、今夜の真意が分からないだけに、この態度の全てが謎だ。
 ただ、サイズは測ったようにぴったりで、大人すぎないデザインは、下ろした髪によく似合っていた。タグがどこにもなかったから、きっとオーダーメイドなのだろう。
 とはいえ、それをいつ、どのタイミングで、誰が作らせたのかは分からない。あるいはどこかから、真鍋が借りてきたものなのかもしれない。
 ドレス以外はおそらく急きょ買い揃えられたもので、全てがブランド物の包装につつまれていた。パールのイヤリングとネックレス。同じパールをあしらった指輪と靴。ドレスの色味に合わせたハンドバッグ。
 その中で、果歩は指輪だけは身につけなかった。
 真鍋に深い意味がないのは分かっているが、それだけは、気持ち的に無理だったからだ。
 正面に、レストランの扉が迫り、そこに恭しく頭を下げた黒服のスタッフが2人、控えている。
「腕を」
 真鍋がそう言い、果歩に腕を差し出した。
「取ってくれ。ここから先は、君は僕のフィアンセだ」



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