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年下の上司 最終章A〜過去への扉

過去への扉(9)

 

「ちょっと、無理です、本当に無理」
「大丈夫、問題ない。僕に合わせて動くだけだ」
 いやいや、そういう問題じゃなくて、そもそもどうして私が、真鍋さんとダンスを?
 意味が分からないままに連れ出された個室の外は、すっかり照明が落ちて、中央にわずかに明かりが灯るだけになっている。
 そこでは、二組の外国人カップルが寄り添うようにして踊っている。
 他に客の姿はなく、ステージには本格的な楽団がいて、今はピアノとヴァイオリンを奏でている。
「彼らは友人同士で、毎年、このホテルで結婚記念日を祝ってくださるんだ」
 固まる果歩の手をとりながら、真鍋が言った。
「最初の年に、僕も一度だけ挨拶をしたことがある。その時のことを覚えていてくださって、一緒にどうかとのお誘いだ」
「それは、いいお話ですけど」
 もう引き戻せないものを感じながらも、果歩は足が萎縮して固まるのを感じた。
「……真鍋さん」
「ん?」
 ――言ってませんでしたっけ。いえ、言えるはずがないですよね。
 私、運動神経ゼロなんです。真鍋さんのリードがいくら上手くても、多分、合わせることすら不可能です。
「大丈夫だよ」
 がちがちに緊張している果歩を見下ろし、真鍋はおかしそうに微笑した。
「なにもジャッジメントされるわけじゃない。そもそも僕らのことなど、誰も見ていないからね」
 ――いや、そういうことじゃなくてですね。
 もちろん、なんでも器用にこなせそうな真鍋に、運動ができない果歩の気持ちがわかるはずもない。
「もしかすると、また貧血が……」
「だったら、僕に寄り添っているだけでいいよ」
 腰に手が回されて抱き寄せられる。想像もしていなかった距離の近さに驚いて、果歩は思わず息をのんだ。
 胸も腰も触れあうほどに合わさって、自分の目の前に真鍋の肩がある。
 彼の吐息が耳にかかり、果歩は胸を震わせてうつむいた。
 絡んだ指が、温かく果歩の手を包み込む。
「……上手だよ」
「…………」
 どうしてだか初めて彼と結ばれた時の情景が蘇り、果歩は動揺しながら視線を伏せた。
 そもそも最初から距離を一番危惧すべきだったのに、運動神経のことしか考えていなかった自分が馬鹿みたいだ。
 室内に流れる美しい旋律も、まるで頭に入ってこない。
 こんなの――おかしいし、すべきじゃない。
 こんなことまでしてしまったら、まるで私が、この人の恋人みたいで。
 もちろん、そうじゃないけれど、だとしても、もう、藤堂さんに会せる顔がないような気がする。――
「話の続きをしようか」
 耳元で真鍋の声がして、果歩は顔を背けるようにして頷いた。
 もしかすると、泣きそうな顔になっていることに、気づかれたのかもしれないと思った。
「さっき、どこまで話したのか覚えている?」
「……二宮の力が、もう過去のものだって」
 それでも懸命に冷静さを保って答えると、真鍋が小さく頷くのが分かった。
「そう。それは情報を司る機関の宿命だ。――これだけ情報網が発達し、なおかつオープンデータ化された時代に、そんな一族の存在そのものが不必要だというのは、子供が考えたって分かるだろう」
 真鍋の顔を見ないままに、頷きだけをそれに返す。
「二宮が最も権勢を極めたのは明治維新から戦前にかけてだが、維新の英雄が内閣を牛耳っていた時代はとうに終わった。旧財閥も次々と合併や世代交代を繰り返し、一部をのぞけば、衰退の一途を辿っている。――今となっては二宮は、莫大な資産と人脈を持つ、しかし存在自体は過去の遺物になろうとしているんだ」
 果歩は、山の天辺の、時代に取り残されたようなアンティークな豪邸のことを思い出していた。そう――確かに全てが現代とかけ離れ、時が止まっているような場所だった。
「だからこそ、二宮の伯父さんは、二宮を現代社会に上手く溶け込ませ、それまで闇だった一族を光に変えることができる後継者を探していたんだ。そうしないと、いずれ二宮の存在そのものが抹殺されてしまいかねないからね」
「……抹殺?」
 思わず真鍋の顔を見上げ、その距離の近さに驚いて目を伏せる。
「――。それは、どういうことなんてずか」
「奇しくも叔母さんが君に言ったね。あの山から地上に降りたのはこれでたったの三度目だと。――それが答えだと思ってもらっていい」
 ――どういうこと……?
「君は僕に監視されるのを嫌がったが、二宮に嫁ぐとなると二十四時間、死ぬまで監視される人生がまっている。二宮は、ある種日本のタブーなんだ。数世紀に及ぶ歴史の闇を堅牢な館で守り、沈黙しているからこそ国家に庇護されている。――あの館に収められた情報の一端でも暴かれたら、現政府は転覆するだろうし、外交関係も破たんしかねない。二宮の当主とはいわばその門番で、決して門を離れて生きることは許されない。そういう意味では、皇室と一緒なのかもしれない」
 そこで真鍋は言葉を切った。
「仮に、瑛士と結婚するとして」
「…………」
「君はそんな家に、嫁ぐだけの覚悟はあるのか」
「…………」
 そんなの、今聞いたばかりで答えられるはずもない。藤堂さんは、私に一言もそんな話をしなかった。いや――彼が何度か話しかけたのを私が全部遮ったのだ。
 ――私……。
 藤堂さんと恋人になりたいと思っていたし、その日を指折り数えて待っていた。でも、その先のことまで、私は本気で考えていたのだろうか。
 家のことを本気で聞こうとしなかったのも、どこかで深く踏み込むことを恐れて、ブレーキをかけていたからではないだろうか……。
「俺は今、君の気を悪くさせることを聞いたかな」
 真鍋の声で我に返り、果歩は急いで顔を背けた。
「わ、私にも、答えたくない質問がありますから」
「そうだな。……そもそも俺には関係のない話だった」
 音楽が止まり、真鍋が果歩から手を離した。
「ありがとう」顔を見ることは出来なかったが、ひどく穏やかな声だった。「とてもいい思い出になったよ」
「……こちらこそ」
 身体が離れても、胸にも肩にも真鍋の香りが染みついているような気がする。果歩は無意識に胸のあたりを探り、そこに、3月までずっと馴染んでいた指輪がないことに改めて気がついた。
 まだそれは、3月最後の土曜日に収納箱に収めたまま、一度も引き出しを開けてはいない。
 その時、少し離れた場所で踊っていた外国人カップルが笑顔で歩み寄ってきた。
 真鍋に何か話し掛け、真鍋が愛想良くそれに答えている。最初は英語かと思ったが、途中でフランス語だと気がついた。3人とも楽しそうだが、何を話しているのかさっぱり分からない。
 夫人の方が、果歩に視線を向けて何か言った。多分、可愛らしいとかチャーミングだとか、そんな意味のことを真鍋に向かって言っている。
 にこやかに頷いてた真鍋が、不意に果歩の腰を抱いて引きよせた。
 彼が何か言い、その言葉の中にファムという単語が聞き取れた。フランス語は殆ど理解できない果歩だったが、その単語の意味だけは知っていた。妻という意味だ。
 やがて海外の客人が離れていき、「帰ろうか」と真鍋がそっけない口調で言った。
 果歩は、少し非難をこめて彼を見上げた。
「真鍋さん、今もしかして私のこと」
「ん?」
 ――ま、いっか。
 ちゃんと聞き取れたわけじゃないし、もしかすると否定してくれたのかもしれないし。
「なんでもないです。……服、どうしたらいいですか」
「持って帰ってくれ。僕が持っていても仕方がない」
「困りますよ。アクセサリーは部屋に置いておきますけど、ドレスはクリーニングをしてからお返しします。それでいいですか」
「好きにしたらいいよ」
 真鍋はそっけなく言って、内ポケットから携帯を取り出した。「使い道もないし、どうせなら捨ててもらった方が助かるが」
 彼は果歩に背を向け、歩きながら携帯を耳に当てた。
「義姉さん、僕だ。今終わった。どこにいる?」
 その相手が芹沢花織だと分かり、果歩は心臓が収縮するような感覚になった。
 真鍋の声が、不意にリラックスしたように和らいでいるのも、どうしてだかすごく嫌な気持ちになる。
「ああ、だったら僕の部屋で待っている。食事ならもう済ませたから必要ないよ」
 優しい声でそう言って電話を切ると、真鍋は果歩を見ないままに元の個室の扉を開けた。「片倉をここに呼ぶから後は送ってもらってくれ。瑛士に言い訳したいなら、瑛士のところに寄ったらいい」
「……寄れると思います?」
 怒りを押し殺した声で果歩は言った。
「そこまで、面の皮は厚くないですから、真鍋さんと違って」
「なんだ、上手くいっていないのか」
 笑うように言って、真鍋が振り返った。
「だったら遠慮せずに本気で口説けばよかったな。この8年で、君がどんな女になったのか多少興味があったんだ」
「…………」
 その顔を思いっきりひっぱたきたいと思ったが、果歩はかろうじて我慢した。
 それを本気で言っているなら、叩く価値さえない。
 ――最低……。
 今日彼に感じた温かみも懐かしさも、全部が吹き飛んだような気持ちだった。
 目の端に滲んだ涙を指で拭い、感情を押し殺して果歩は震える唇を引き結んだ。
「その発言は、市長としてどうかと思います。――失礼します。今夜は、色々教えて下さってありがとうございました」

 *************************

「……雄一郎さん?」
 静まり返った部屋に嫌な予感を覚えた芹沢花織は、ノックをせずに扉を開けた。
 午後11時少し過ぎ。予定より遅くなってしまったのは、思ったより道路が渋滞していたからだ。
 床に転がったウイスキーボトルに、花織は思わず眉をひそめた。マラカイトブルーのソファには、この部屋の主が脱いだと思しき上着が無造作に掛けられている。
 大理石のローテーブルには、空のグラスが倒れていた。そして幾つもの薬袋――
「雄一郎さん」
 軽く拳を握ってから、花織は絨毯に足を踏み入れた。
 探していた人はテーブルの影になったソファに仰向けに倒れている。片腕で顔を覆い、ネクタイも外していない。
「――何を考えているの、薬とお酒を一緒に飲むなんて!」
 怒りを堪えきれず、花織は卓上の薬袋を取り上げると、片っ端から自分のバッグに押し込んだ。
「お医者様に警告されたことをもう忘れたの? それとも、本気で死にたいの? もう薬はやめるって言ったじゃないの!」
「……適量だ。コントロールはできている」
 呟くような声がした。
 その声の持つ寂しい響きに、花織は続けようとしていた言葉をのみこんだ。
「今夜は眠れそうもなかったんだ。――遅かったね。もう来ないのかと思ったよ」
「……そんなわけないじゃない」
「……うん」
 素直に頷く人の枕元に膝をつくと、花織はどこか切ないような気持ちで、髪を撫でた。
「……大丈夫よ」
「……うん」
「絶対に1人にしないから、……大丈夫」
「うん……」
 私には、この人の寂しさを、どう救ってあげることもできない。
 妹の代わりにも、この人が求める人の代わりにもなれない。
 だからこそ、この人の生きる望みを繋ぐ手助けをしてあげたい。――それが、別の悲劇を産むと分かっていても。
 混沌の中で、この人が見付けるであろう何かを、ただ信じるしかない。
「データ、見たわ。上手く撮れていたわよ」
「そう」
「恨まれるわね。雄一郎さん」
「…………」
「でももう、お酒は絶対に飲まないで」
 花織は、動かない彼の手をそっと握りしめた。
 今夜、いつも以上に彼が荒れている理由は知っているつもりだった。
 そして、今夜以上の苦しみが、いずれこの寂しい人を飲み込んでしまうことも。



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