シャワーを浴びて、身繕いをしてからリビングに戻ると、真鍋の姿はどこにもなかった。キッチンからは淹れ立てのコーヒーの、香ばしい匂いが漂ってくる。 「……真鍋さん?」 嫌な予感を覚え、果歩は急いで寝室に戻った。 そこにも真鍋の姿はなく、果歩が部屋を出た時のままになっている。 ――どこに行ったの……? 途方にくれた気持ちで、果歩は再びリビングに戻った。 お願いだから、このタイミングでどこかに行くのだけは勘弁してほしい。というより、私が目を離すと必ず消えるのは、もしかして真鍋さんのお約束ですか? 外に出たのだろうかと、ふと思った。過去、二度そうだったように、クローバーが咲き乱れるあの丘に行ってしまったのかもしれない。 果歩は急いで、リビングの窓を開けた。そこは広々とした庭になっていて、庭続きに丘がある方まで歩いて行けるようになっている。 8年前はきれいに手入れされていて、2人でバーベキューを楽しんだ庭は、今は見る影もなく荒れ果てていた。 最低限の手入れはされているようだが、足下には野草が生い茂り、花壇にはしおれた花の残滓が土に滞っている。 空は灰色で、霧のような小雨が庭全体をけぶらせていた。半ば枯れた木々の向こうに、停車中の警察車両が見える。 急速に不安が膨らんで、果歩は窓の横にある靴箱からサンダルを取り出した。男物だったが、かまわずに素足につっかけて、草むらの中に足を踏み出す。 「――果歩!」 背後からいきなり腕を掴まれて、身体ごと後ろに引っ張られた。 真鍋の腕が肩に回され、驚く間もなく、バランスを崩した果歩の前で窓が閉まる。 「何やってるんだ、勝手に外に出るな」 息が止まるほど驚きながら、果歩は背後の真鍋を見上げた。 いたんだ……家の中に。 びっくりした。なんでそんなにすごい剣幕? 「……、すまない」 2人の視線が肩越しに合い、真鍋が当惑したように腕を離した。 「いえ……」 果歩もどこか気まずく、肩に残る真鍋の指の強さを思っていた。 ――名前……呼んだ、果歩って。 目が覚めてからは、ずっと「的場さん」だったのに。…… 自分の胸に置いた指に力を込め、うつむいたままで果歩は言った。 「どこに、いたんですか」 「え?」 「きゅ、急にいなくなったから、心配したじゃないですか」 「……、2階で電話をしていただけだよ」 あ、そうだったんだ。 じゃあ私が心配しすぎただけ……? 果歩を見下ろした真鍋は、小さくため息をついた。 「君は、俺の状況を全く知らずにここまで来たんだな」 「どういうことですか?」 その時、空から轟音が響いたので、果歩は驚いて視線を窓越しの空に向けた。 真鍋も眉をひそめて、雨にかすむ灰色の空を見上げている。 異様に低い高度を飛ぶヘリコプターに、再び不安がかきたてられた。 今、一体どういうことになっているんだろう。 「……まさか、上空から狙撃されるとかじゃないですよね」 「ドラマや映画の見過ぎだよ。――しかもあれは米軍機だ。多分僕とは無関係だよ」 カーテンを閉めた真鍋は、疲れたように目頭に指を当てた。 「とはいえそういう可能性が全くないわけじゃない。昨日、僕が何をしたのか知らないわけじゃないんだろう? ――市役所と親父の会社の不正を告発して、暴力団とのつながりまで暴露したんだ。普通に考えれば、報復されるのは目に見えている」 果歩はこくりと唾をのんだ。この家にテレビはないけど、ニュースではすごい騒ぎになっているに違いない。ここにマスコミは来ているのだろうか? これだけ警察が集まっているのだから、真鍋の居場所など悪い意味で一目瞭然だ。 「さっき、片倉に電話したよ。――つながらなかった」 「え、どうして、ですか」 「さぁね。ちなみに僕が君と一緒に家に出るのは無理だと思うよ。昨夜もそうだったが、今朝も外に出ようとしたら警察に囲まれた。不当な私権制限だと抗議したが、責任者の許可がいるとの一点張りだ。――なにしろ僕も容疑者の1人だからね」 「……容疑者」 「忘れたのか。僕は光彩建設の元役員だ。昨日の告発を受けて、早晩会社に捜査が入るだろうが、僕も取り調べを受けることになるし、間違いなく逮捕される」 「…………」 「片倉に電話は? 君がかければつながるかもしれない」 果歩は動揺しながらバッグの中から携帯電話を取りだした。片倉の電話は、すぐに留守番電話に切り替わる。 こんなことは今まで一度もなかった。大抵、ワンコールか、ツーコールで出てくれるのに……。 「……、芹沢さんに、連絡してみましょうか」 「やめてくれ。これ以上義姉さんを巻き込みたくない」 真鍋は苦悩をこらえるように眉根をゆがませた。 「君には、もっとそう思っていたけどね」 「勝手に来たのは私だから……」 「その通りだ、でも、引き留めたのは俺だよ。今は自棄になっていた自分を、心の底から後悔している」 「だったらもう、お酒も薬もやめてください」 「そういう問題では――、ああ、そうだな」 苛立ったように果歩を押しのけると、真鍋はキッチンの方に歩いて行った。 「さっき弁護士に連絡して、県警に抗議の電話を入れさせたから、直に何らかの動きがあるはずだ。――ミルクか砂糖は? あいにく俺も、君の食習慣を知らないんでね」 「……ブラックで」 知らないなんて嘘ばかり。秘書課の時は、何も言わなくてもブラックコーヒーを煎れてくれたのに。 果歩がテーブルについて待っていると、コーヒーと篭に入ったクロワッサンが運ばれてきた。 「……いつの間に、こんなものを用意してくれたんですか」 「冷凍ものだよ。言っておくが、君のためではなく自分のために用意していたんだ」 そっと手を伸ばすと、パンはほのかに温かく、食欲をそそる酵母菌の香りがした。 白い陶器の皿には、ジャムとバターまで添えてある。 「え、でも私だけ……?」 「俺はもう食べたんだ。さっさと食べてくれないか」 「あ、はい」 対面の椅子に腰掛けた真鍋は、不機嫌そうに腕を組んで目を背けている。 怒ってるくせに、優しいな、真鍋さん。 ていうか私、なにげに真鍋さんに甘えてない? 私としたことが、何をのんびり座って、彼が給仕してくれるのを待ってたんだろう。 「何?」 「……い、いえ」 果歩は急いで、指でちぎったパンを口にはこんだ。 そういえば昔から、冷たそうに見えて面倒見のいい人だった。 デートの行き先も食事のメニューも全部彼が決めてくれて、初めてこの家に泊まった日も、準備から片付けまで、なにもかも彼がやってくれたんだっけ―― 多分私は、その時彼に甘えていた二十代だった頃の感覚に、無意識に戻っているんだろうな。 (でも雄一郎さんは、周囲が頷くしかないほどの綿密な計画をたてて敢行したの) (雄一郎さんは、そんな風に一度心に決めてしまったことは、周囲に何を言われようと絶対にやり遂げる人よ) 私、真鍋さんのそういう一面をあまりよく知らなかった。それどころか、優しいけれど意思の弱い人くらいにしか思っていなかった。 あれだけ一途に好きだったのに、実際は、この人のことを何も分かっていなかったのかもしれない。―― 「的場さん」 「……、はい」 自分の思考の中にいた果歩は急いで顔をあげた。真鍋は、腕を組んだまま、視線をやや下に向けている。 「今、俺がどんな気持ちでいるのか、分かってもらえるとありがたいよ」 果歩は口を開き掛けたが、真鍋の顔を見て言葉をのみこんだ。胃に半分ほどおさまったパンが、不意に重たい石になったような気がした。 「この8年、君から逃げ回っていた自分が馬鹿みたいだ。……今となっては誰を恨んでいいかさえ分からない。君に余計なことを吹き込んだ義姉さんなのか、相も変わらず君を放置している瑛士なのか」 「――ま、」真鍋さん、と言いかけた果歩は口をつぐんだ。 「雄一郎さ」 「何も無理に名前を呼ぶ必要はないよ」 真鍋は冷たい声で遮った。 「今朝からの君の態度は……、言い方は悪いが、鬱陶しくて苛々する。同情と偽善……しょせんそれは君の自己満足で、俺を余計に惨めにするだけだと思わないのか」 果歩は口を開きかけたが、迷うようにそれを閉じた。 違うと言いたかったが、真鍋の言葉を、どう否定していいか分からなかった。 「君の下手な芝居を、怒らずに受け流していたのは、昨夜したことへの罪悪感からだ。朝目が覚めてから、ずっと考えていたよ。どうすれば昨夜のことをうまく処理できるのかと」 「……それは私が、藤堂さんの恋人だからですか」 「君にその自覚があったのなら驚きだ。――他になんの理由がある」 果歩が黙っていると、真鍋は疲れたようにため息をついた。 「君に掛ける言葉も、君がそれにどう応じるかも、朝から百通りも想像した。君の態度はその中でも……最悪だ」 「私……」 果歩はうつむき、唇を軽くかんだ。真鍋に言いたいことは色々あったが、まだどこか、自分の中に迷いがあるのも確かだった。 真鍋の言うとおり、自分が傍にいても彼を傷つけるだけになるかもしれないという迷いだ。 さっきもそうだったが、まだ咄嗟に「雄一郎さん」が出てこない。逆に真鍋は、普段は「的場さん」なのに、切羽詰まった時は咄嗟に「果歩」と呼んだのだ。 そんな中途半端な自分が、はっきりとした拒絶を示している真鍋に、今、何を話していいか分からない。―― (――でも、8年たった生木は、もう元の木じゃないのよ。お互いにね) りょうの言葉が、鋭く胸を切り刻む。 私は今、間違った道を進もうとしているのだろうか。私たちが失った8年は、もう取り返しのつかないものなのだろうか。 「昨夜、どうして話してくれなかったのかと君は言ったな」 真鍋の冷たい声に、果歩はびくっと肩をふるわせた。 どうして話してくれなかったのか――それは、8年前、彼が果歩の元を去った本当の理由のことだ。 「……言いました。話したところで、私が、……納得しないからだって」 「本当は違う。……いや、最初に君から離れた時は、確かにそれが理由だったが」 言葉を切って、真鍋は膝の上で両手指を組み合わせた。 「この8年、僕がずっときれいなことばかりしてきたと思うか? 写真週刊誌はもう見たな? それ以外にも、聞けば軽蔑されるしかないようなことをいくらでもしてきた。俺はそれを、君だけには死んでも知られたくなかったんだ」 「…………」 「それが俺の最後のプライドで、せめて君の中でだけはいい思い出でいたかった。わかってくれないか。今の君の優しさは、俺に言わせればただただ残酷でしかない」 「真鍋、」 「それを少しでも悪いと思うなら、俺が昨日したことと相殺にしてもらえるとありがたいよ。俺はもう、君に会いたくないし、会うつもりもない」 感情を抑えた口調で言い、真鍋は果歩を見ないままで立ち上がった。 「昨夜話すべきだったが、俺が二宮家の後継になる件もとっくにご破算になっている。君に以前話したように、犯罪歴を持つ身内がいる者はその花嫁候補にすらなれないんだ。自分自身が犯罪者になろうしている俺が、二宮家にとどまれるはずがないだろう」 言葉をのみこみ、果歩はこれまでの真鍋の行動を振り返っていた。 きっとこの人は、最初から自分が失脚することを前提に、後継者候補に名乗りをあげていたのだろう。 最初から、藤堂さんが受け継ぐものを奪うつもりなんて、この人にはなかったんだ―― 「今頃、二宮家では瑛士を当主にする手続きを進めているはずだ。帝君はとうの昔にリタイアしているし、香夜さんは海外で妊娠中だ。――というより二宮さんは、最初から瑛士以外の後継者を考えていなかったようだよ」 「…………」 「君は怒るだろうが、当主になる以外、君を守る選択肢がないことを、今は瑛士も分かっているはずだ」 それもまた、真鍋が最初から頭に描いていたプランだったのだろうか。 藤堂がやがておかれる立場を思うと、一瞬、足下がなくなるような真っ暗な気持ちになったが、今そのことは考えないようにした。 もうその必要ないのだと――それもまた、藤堂に伝えなければならない。 もう私に、あなたに守ってもらう資格はないのだと。 「……昨夜のことで君と瑛士がこじれてしまったら、それこそ俺は、途方に暮れるしかなくなるよ。もう俺には、君を守る術すらないんだ」 そこで言葉を切った真鍋が、苦しげに唇を噛みしめた。 「それで君に何かあれば、……生涯、自分のしたことを悔やみ続けることになる」 ――真鍋さん……。 「……もういい加減、俺を楽にさせてくれないか。頼むから、二度と俺の前に現れないでくれ」 果歩は口を開いたが、やはり何を言っていいか分からなかった。 「君との話はこれで終わりだ。片倉が無理なら瑛士に電話して迎えにきてもらってくれ。実は何度もそうしようとしたが、……とても俺からかける勇気がなかったのでね」 「…………」 果歩は眉を寄せたままでうつむいた。 私は―― 私はもしかして、この人と藤堂さんの関係も、修復できないくらいに壊してしまったのかもしれない。 この人の幸せのためなら、自分などどうなっても構わない。そう言った藤堂さんから真鍋さんを無理矢理切り離させて、今度は私が裏切った。 こんな私が、いまさらどんな顔で藤堂さんに会って、何を謝ればいいんだろう。 その時、いきなり玄関のチャイムが鳴った。 |
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