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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(10)


 
「……ここ」
 怜が足を止めたので、果歩は思わず呟いていた。
 その建物が前方に見えてきたときから嫌な予感はしていたが、目の前にあるのは今年の 2月に香夜に案内された建物だ。
 緑の三角屋根を持つ西洋風の瀟洒な建物で、その時は壁一面がうっそうとした蔦に覆われていた。今は蔦が取り払われ、白い壁が赤紫の夕日に映えている。
「昨日、一通りお屋敷の中を見て、ここが一番新しいし、過ごしやすい場所だと思ったんです。ロケーションも日当たりも何もかも。――なにしろ先代の当主が、贅をこらせて特別に造らせた別宅ですから」
 怜は屈託なく言ったが、果歩はこくりと唾をのんでいた。
 ここは、脩哉の母親が療養していた館だ。香夜の説明をそのまま信じれば、心をやんだその人は、館に決して脩哉を近づけなかったという。
 その女性、二宮静香は真鍋にとっては伯母に当たる人である。彼が決して思い出したくないと思っている母親の姉に当たる人が晩年を過ごした家。そんな重たい因縁のある場所に雄一郎さんを――
「あの、」
「すごく素敵でしょう? 本当は私が、別宅として使いたかったんですよ」
 笑いながら言った礼は、夜風にあおられた髪を指でかきあげた。
「でもせっかくだから、雄一郎さんと果歩さんに使ってもらおうと思って。言い方はあれですけど、お二人にとっては新婚旅行みたいなものじゃないですか」
「……、」
 数秒経ってその意味を理解した果歩は、別の驚きで息をのんだ。
「まさかと思うけど、私も一緒なんですか」
「ええ。その方が警備する立場からすればとても都合がいいんです。もちろん瑛士さんも賛成してくれましたけど、駄目でしたか?」
「…………」
 駄目も何も――
 いや、この場合、結婚していない男女がひとつ屋根の下で暮らすということに抵抗感を持つ、私の感覚が古いのかもしれないけど。
 藤堂さんも賛成した。
 微かなめまいを感じたが、果歩は気持ちを必死に持ち直した。
 両親に対する後ろめたさは多分にあるが、この場合、怜の提案はむしろありがたい。こんな曰く付きの家に、そもそも精神が不安定な真鍋を一人きりにさせておけないからだ。
「いえ、お気遣いに感謝します。ただ、可能なら、ですけど」
 果歩は控えめに言い添えた。
「ご存じないかもしれないですけど、ここは、雄一郎さんにとっては母方の伯母に当たる人が暮らしていた家なんです。……お母様のことは、彼にはあまりいい思い出ではないので」
「え、そうだったんですか?」
 怜は驚いたように目を丸くした。
「ごめんなさい。瑛士さんがそんなことを一言も言わないから。私、何も知らなくて」
「それはいいんですけど、……できれば、なるべく早めに別の場所に移させていただければありがたいです」
 神妙な目で頷いた怜は、しかしすぐに微かな笑いを目元に浮かべると、館の方に視線を向けた。
「分かりました。考えておきますね。でもちょっと妙な気持です」
「妙って?」
「だって私より、果歩さんの方がこの家のことに詳しいんですもの」
 怜の目は笑っていたが、それが紛れもなく牽制だということは、女同士のマウント合戦になれた果歩にはすぐに分かった。
 おそらくだが、これ以上自分の決めたことに口出しするなという警告だ。
 真鍋が、この家の事情を知らなければいいと思いながら、果歩は憂鬱な気持ちで、美しくライトアップされた建物を見上げた。
 そんな曰くさえなければ、怜の気遣いには感謝しかない。上品な板塀と木々に囲まれた館は、新婚夫婦が暮らすにはぴったりのモダンな外観で、敷地面積は少なく見積もっても普通の一軒家の5倍はある。見晴らしもよさそうだし、なにより本殿から離れているのがありがたい。贅沢な暮らしになれている真鍋にとっても、問題なく長期滞在できる場所だろう。
 ただ――むろん果歩には、敷居が高すぎる家である。 
 館の前には数人の使用人がそろって頭を下げており、果歩はますます居心地の悪い気分になった。
「じゃ、よかったらひとまず部屋の中を案内しますね。果歩さんの荷物は、もう中に運ばせていますから」
「礼を言うよ」
 不意に固い声が、2人の会話を遮った。 
 果歩ははっと我にかえったように顔を上げた。使用人の列の向こうからスーツ姿の真鍋が現れる。
 ひと目で真鍋が怒っているとわかり、果歩は言葉を失った。
「でも案内は結構だ。僕が一通り見ているからね。……抗議したところで無駄なんだろう?」
「どういう意味ですか、ご入り用なものがあればなんでも用意しますけど……」
「それはどうも」
 ずかずかと歩み寄ってきた真鍋が、呆然と立っていた果歩の腕を掴んだ。
「行こう」
「あ、はい」
 痛いほどの力に少しだけ眉が歪んだ。怒るほどの覇気を真鍋が持っていることにほっとしたが、怒りの理由を考えると胸が痛む。彼はもうこの家のことを知っているのだ。
「果歩さん」
 腕を引っ張られる果歩の背中から、その怜の声がした。
「今夜のシャンパン、後でお部屋にお届けしますね。果歩さん、とても気にいってくれたようだから」
「あ、ありがとうございます」
 足を止めた真鍋が、険しい目で果歩を見た。
「飲んでるのか」
「……、少し」
 なんだろう。まるで浮気を咎められた妻みたいな気分だ。というより真鍋さんの態度がひどすぎて、さすがに怜さんに申し訳ない。
 彼女に好意が持てるかと言えば、それはまだ嘘になるが、少なくとも真鍋と果歩のために、これだけの準備をしてくれのだ。
「真鍋さん」
 背後から再び怜の声がした。
「そんなに怒らないであげてください。真鍋さんが不機嫌だと、果歩さんも不安になるじゃないですか」
 再び歩き出した真鍋の足が止まり、彼がぐっと唇を引き結ぶのが分かった。
「果歩さん、私に会いたかったら、いつでも使用人に言って私の部屋まで来てくださいね。なんでも相談にのりますから」
「ありがとうございます」
「瑛士さんは週末しか戻ってこないから、私も暇を持て余しているんです」
 一瞬胸がズキリと痛んだが、藤堂がいない日があらかじめ分かるのはありがたい。
 再度礼を言おうとしたが、その前に腕を引っ張られて玄関の中に引き入れられた。
「真鍋さん」
 抗議の声をあげる前に、扉が荒々しく閉められる。
 扉に置かれた真鍋の指が震えている。
 彼が本気で怒っていることがわかり、果歩は何も言えなくなった。
 

 *************************


「しばらく2人にしてくれないか」
 真鍋が苛立ちもあらわに言うと、慌てて後をついてきた使用人たちが、戸惑った顔で足を止めた。
 彼は使用人らには目もくれず、果歩の手を掴んだままで、ずかずかと廊下を突っ切っていく。
 手首の痛みに眉をしかめながら、果歩は次第に真鍋の態度のひどさに腹が立ってきた。
「ねぇ、何をそんなに怒ってるんですか」
「何をだと?」
 2階に続く階段の半ばで足を止めた真鍋は、怒りの収まりきらない目で振り返った。
「――じゃあ君は腹が立たないのか? 僕らは結婚しているわけでもないし、恋人でもない。なのにこの扱いだ」
 そっち?
「君のご両親がこのことを知ったらどう思う。今日の空港での騒ぎは、当然彼女の耳にも入ってるんだぞ」
 真鍋がこの家の曰くを知らないことにはほっとしたが、空港の騒ぎのことはどこまで知っているのだろうか。それには多少動揺しながら、冷静を装って果歩は続けた。
「同居のことは、私が怜さんにお願いしたんです」
「……、君が?」
「だって真鍋さんを一人にさせておけないじゃないですか。夕べ自分がどんな状態だったか、もう忘れたんですか」
「…………」 
 嘘だったが、ひとまずそう言えば真鍋の気持ちも収まるだろう。まさか同じ家で暮らすことになるとは思ってもみなかったが、目の届く場所にいさせて欲しいと思っていたのは事実である。
「……君はこの家が」
「この家が?」
 ドキッとしたが、真鍋はそこで言葉を切ると、再び歩調を速めて歩き出した。
 2階の一室に誘われた果歩は、一瞬その足を止めていた。20畳ほどの広い部屋は、明らかに夫婦の寝室で、新しく購入したとおぼしきベッドが二つ並べて置かれている。
「僕は客間で寝るから心配するな」
 その果歩を冷めた目で一瞥すると、真鍋は二つ並んだベッドの片方に腰掛けた。
 心配なんてしていないと言いたかったが、室内に入るとき、一瞬足がすくんでしまったのは確かである。
「他意はないし、君を試しているわけでもない」
 立ったままの果歩を見上げ、真鍋は微かなため息をついた。
「家の中を一通り見たが、ここが一番プライベートが確保される場所なんだ。盗聴器がないことも確認済みだ。少なくとも今夜だけは、ここ以外の場所で話したくないんでね」
 数秒してその意味を理解した果歩は、思わず眉を上げていた。
「は? 盗聴器?」
「悪いが呑気な君と違って、僕は初見の宿泊場所は、必ず盗聴の有無をチェックするようにしているんだ。当然、不用意に酔ったりもしない」
 それは明らかに果歩に対する嫌味である。
「別に、言われるほど酔ってもないですけど」
「呼気にアルコールがまじっていたし、体温も高かった。それを酔っていないというなら、何を酔っているというのか教えて欲しいよ」
「夕べ自分が何をしたか、ろくに覚えていない人のことを酔っているっていうんじゃないですか」
 今度は果歩が反撃をした。確かに怜とお酒を飲んだけど、今の状況で彼女の誘いを断れる方法があったら教えて欲しい。
 本当は、いつ藤堂が出てくるのではないかと思って、胃がねじきれるようだった。いわぱ真鍋を守るために、歯を食いしばるような気持ちであの席についたのに……。
 だいたい真鍋にだけは、酔ったことを責められたくない。自分のことを棚に上げて、一体何を言っているんだろう。
「僕は……」
 苛立ったように口を開いた真鍋が、諦めたように口をつぐんだ。
「なんですか。言いたいことがあるなら言ってください」
「いいよ、もう」
「いいって言いながら、目が完全に怒ってるじゃないですか」
 顔を背けて黙り込んだまま、真鍋は苛立ったように握りこんだ指をこすり合わせている。
「夕べのことを、覚えていないとは言ってない」
「ろくに覚えていないって言いましたけど」
「――言ったかもしれないが……」
 迷うように言葉を探す真鍋を見て、果歩もようやく言い過ぎたことに気がついた。
 ただ、だからといって、一度波だった感情はそう簡単には収まらない。
「分かりました。私が不用意で呑気でした。そういうことにしておきます」
「僕も、君の口が減っていないことが分かって安心したよ。細かな揚げ足をとるところを見ると、記憶も確かなようだ」
 カチンときたが、その感情をぐっと抑え、果歩は真鍋の隣に腰を下ろした。
 互いに怒っていることが、顔を背けたままの双方の体温から伝わってくる。
 なんで顔を合わせたら、いったんは喧嘩しちゃうんだろう、私たち。
 この人を怒らせたり不安にさせたりするために、傍にいるわけじゃないのに――



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