本文へスキップ

年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(11)

 
「――、雄一郎さん、夕食は?」
「無理に名前を呼ばなくていいと言ったはずだ」
「ようやく自分の中でなじんできたんです。夕食は?」
「……ヘリの中で簡単に済ませてきたよ。君も、まさか酒だけを飲んだわけじゃないんだろう?」
「……、ごめんなさい」
 そこは悪かったと思い、果歩は素直に謝った。
「連絡しようとしたんですけど、雄一郎さんの個人携帯の番号を知らなかったから」
「知っていたところで、ここからかけるのは多分無理だよ」
 ――無理って……?
 一瞬意味が分からなかった果歩は、ようやく去年、初めて二宮家にもぐりこんだ時のことを思い出した。そういえば一緒についてきてくれた長瀬さんが言っていた。この一帯は、電波が遮断されているようだと。
「携帯は?」
「あ、バッグの中に……」
「貸してくれ。この家で回線を使うためのパスコードがあるんだ」
 果歩がバッグから取り出した携帯を渡すと、真鍋は様々な画面を開いては、いくつかの英数字を入力した。
「これで使えるよ。ただ傍受されていると思った方がいいから、重要なことは電話を介さずに話した方がいい」
「……ありがとうございます。でも盗聴とか傍受とか、少し大げさなんじゃ」
「全く大げさじゃないし、彼女の世界では当たり前のことだ。――ついでに僕の番号を入れておくよ」
 彼女って、もしかして怜さんのこと?
 怜が、現在真鍋と共に身を隠す立場になった八神警視総監の実子であることは、道中のヘリで聞かされた。だからといって、怜が警察と同等の権力を持っているわけではないだろうが。――
「彼女って、どういう人なんですか」
「どうって? 警察組織のトップを実親に、ついでに言えば日本で五指に入る資産家の養親を持つセレブだよ。ちなみに赤城総理は彼女の親戚筋にあたる」
 果歩は黙って唾をのんだ。今更ながらぞっとする。とんでもない人とお酒を飲んでたんだな、私――
「瑛士とは、10年以上前に一度見合いしたと聞いたことがある。もっとも瑛士は高校生だったから、その自覚もなかっただろうが」
「…………」
「そういう話が聞きたかったのでは?」
 真鍋の口調が冷たかったので、果歩は少しむっとして顔を伏せた。
「別に……。ただ雄一郎さんが怜さんを警戒しているみたいだから、聞いているだけです」
「彼女がどうこうではなく、警察全般が信用できないと言っているんだ。彼女の背景にはどうしても警察の影があるからね」
「でも今朝は、助けられたじゃないですか」
「その通りだ。でもそれを百パーセント善意だと思っているなら、呑気すぎるとしか言いようがない」
「……、それは」
「誰だって自分の利害があるから動くんだ。この話はこれで終わりにしよう。――僕ほど猜疑心を深くする必要はないが、君も君で気をつけてくれればもういいよ」
 そこで言葉を切って立ち上がった真鍋が、窓の方に歩いて行った。そこには壁一面に厚手の紗のようなものがかかっていたが、彼が壁のスイッチを押すと、音もなく紗がせり上がっていく。
「わぁ、綺麗」
 思わず声をあげた果歩が駆け寄ると、初めて真鍋の横顔が優しくなった。
 壁一面に埋め込まれたガラス窓の向こうに、ライトアップされた木々の枝が浮かび上がる。その向こうに半月が浮かび、目をこらすと、山の稜線と星空が見えた。
「すごい、山の上から見る夜景ってこんな感じなんですね」
「そうだね。夜明けと夕暮れは、もっと素敵な色合いになると思うよ」
 真鍋の口調が穏やかだったので、果歩もようやく緊張の全部が溶けていくのを感じた。よかった、理由は分からないけど、真鍋さんの機嫌が直ったみたいだ。
 もうこの人と二度と喧嘩をしたくないし、隠し事もしたくない。
 そんなくだらないことで、2人の大切な時間を費やしたくない。――
「さっき、この家のことをって言いかけましたけど、なんだったんですか?」
 勇気を振り絞って果歩が聞くと、景色を見ていた真鍋の表情がわずかに陰った。
「……もしかして、ご存じなのかもしれませんけど、私が不安に思っていたことを言いますね。この家……以前香夜さんに聞いた話なんですけど、真鍋さんの伯母様が暮らしていた家なんだそうです」
「知っているよ」
 やっぱり――。多少緊張しながら見上げた真鍋の表情は、しかし予想に反して平然としていた。
「教えてもらったのは脩哉君の葬儀の日だ。二宮さんに案内されて、家も一度見させてもらっている。静香さんとは生前一度も面識はなかったが、僕にとっては、数少ない血縁者の一人だからね。――で、不安に思っていたとは?」
「……せっかく用意いただいた家ですけど、真鍋さんにとって、あまりいい場所じゃないんじゃないかと思って」
「俺に?」
 おずおずと聞いたことだが、真鍋は意外そうな目で果歩を見下ろした。
「別に、なんの感慨もないよ。薄情なようだが一度も会ったことのない人だ。脩哉君に対してもそうだが、他人の人生にいちいち同情していたら身がもたない。せいぜい気の毒にと思うくらいだよ」
「……、じゃあ、なにをそんなに怒ってたんですか?」
 この部屋に入る前、彼は物言いだな口調で「君はこの家が」と言いかけたのだ。結婚前の男女を同じ家に放り込んだこと以外にも、真鍋が気がかりに思っていることがあるはずだ。
「……、いろいろな意味で瑛士が無神経なことにだよ」
 素っ気なく言うと、彼は話を打ち切るように顔を背けた。
「無駄とは思うが、明日にも瑛士に抗議してみるよ。少なくとも俺と君の住まいは別にすべきだからね」
 ――それは……。
 それはできればやめてほしい。
 私と真鍋さんのことで、もうあの人を煩わせないであげてほしい。
 もうあの人に。
「いいんじゃないですか、別に」
「……、いいとは?」
 もう藤堂さんに、私のことで、少しも苦しんで欲しくない。
 果歩は笑顔で顔を上げた。
「だってここ、気に入っちゃったし。雄一郎さんと一緒の方が、私も心強いし安心じゃないですか」
 黙り込んだ真鍋が、何か言いかけて口を閉じる。
「雄一郎さんに言わせれば、私は呑気だし不用意だから、――一緒にいた方が、雄一郎さんも気が休まるんじゃないですか」
「それは君の言うとおりだよ」
 真鍋はすぐに答えたが、どこか疲れたような口調だった。
「君さえよければ、俺は一緒で構わない。最初にも言ったが俺は客間を使うから、君が寝室を使うといい」
「……はい」
「君の荷物をここに運ばせるよ。入浴は、君が先に済ませてくれ。俺は疲れたから少し仮眠したいんだ」
 背を向けた真鍋が部屋を出て行こうとしたので、ためらいの中でその場に立ち尽くしていた果歩は、我に返ったように後を追った。
「雄一郎さん」
「なに?」
 真鍋はすぐに足を止めてくれたが、果歩はその腕に手を添えた。
「こ……、この部屋が一番安心できるなら、今夜は一緒にいませんか?」
「…………」
 心臓がどくどく鳴っている。自分が何を言っているかは分かっている。
 夕べのことはまだ感情的な弾みで済んだことなのかもしれない。実際真鍋は半分理性を失っていたし、果歩もまた激情で心が乱れていた。それは――確かだ。
 夢と現実の狭間の中で、後悔が何度も胸を突き上げた。それも――確かだ。
 そんなに割り切りのいい性格じゃない。昨日の今日で、全部の色を塗り替えられるほど、器用じゃない。
 ほんの数日前に別の人に愛された身体が、少しずつ上書きされていく感覚は、とても言葉にはできなかった。あまりにも残酷すぎて、とても現実だとは思えなかった。
 これがどちらに対しても卑怯な裏切りだと分かっていたからこそ、目が覚めた時に決めたのだ。
「私は構わないというか……、そうしたいです」
 真鍋は黙ったまま、何も言わない。どうせ怒っているし、ここから長い口論になるだろう。そう思いながら、辛抱強く果歩は続けた。
「でないと、私が一緒についてきた意味がないじゃないですか。こんなに家が広いと、雄一郎さんがどこで何をしているのかも、分からないですし」
「…………」
「だめですか?」
「言うまでもない」
「雄一郎さん」
「そもそも君がついてきた意味って?」
 返事はにべもなかったが、予想に反して、その口調は穏やかだった。
「俺がまた夕べみたいにならないか、監視するということなら問題ないよ。薬はもう手元にないし、こんな場所でへべれけになるほど呑気でもない」
「ねぇ、また嫌味言ってます?」
「嫌味じゃないよ。実際に君は少しも酔っていない。でも、これからはあまり油断しないでくれ」
「……油断?」
 瞬きする果歩を、どこかもどかしげに見下ろすと、真鍋は苦しげに唇を引き結んだ。
「ここで何が起きても、俺にそれを完全に防ぐ術はないんだ」
「…………」
「勝手なことを言うようだが、これ以上俺に、自分の選択を悔やませないでくれ」
 一瞬言葉に詰まった果歩は、不意に胸の奥が熱くなるのを感じ、真鍋の腰に両腕を回した。
 ねぇ、もういいんです。雄一郎さん。
 もうこれ以上、私のために頑張らなくてもいいんです。
「手を、放してくれないか」
 真鍋が苦しげに呟いた。
「俺には、君に触れる資格はない。……汚れているんだ。触れるだけで罪を犯しているような気持ちになる。今朝の、緒方の話を聞いただろう」
「そんな言い方はやめてください。私にも雄一郎さんにも失礼です」
「……君の気持ちは嬉しいよ。でも、もう昔とはなにもかも違うんだ。過去の話だけじゃない。近いうちに逮捕される話はしただろう? これから犯罪歴がつく俺に、どうやって君を幸せにしろと言うんだ」
 彼の手が、そっと果歩の腕を引き離そうとする。
「分かってくれないか、……もう若くもないし、人生をリカバリーする気力もない。もう俺に、君の傍にいる資格はなくなったんだ」
 さらに強く首を横に振ると、果歩は彼を抱きしめる腕に力を込めた。
 そうじゃないんです、雄一郎さん。
 もう、これ以上、誰かのために飛ばなくていいんです。
 これからはずっと、私の傍で休んでくれていていいんです。また、あなたが以前のように輝いて、新しい場所に飛び立てるまで。
 その時まで、私がずっと傍にいますから。
 ずっと一緒にいますから。
「私が、幸せにするんじゃだめですか」
 こみ上げる感情を必死に堪えて、果歩は言った。
「雄一郎さんに余裕ができるまで、今は私が頑張りたいんです。私が……私が絶対、あなたを幸せにしますから」
「……果歩」
 しばらく無言だった真鍋が、苦しげに顔を背ける。
「じゃあ本当のことを言うよ。迷惑なんだ」
「嘘です」
「嘘じゃない」
「嘘です! そんなの、いまさらどう信じろって言うんですか」
 あんなに愛おしそうに私の名前を呼んでくれたのに。
 いつだって私のことを気に掛けて、自分を苦しい立場に追い込んでしまっているのに。
「嘘じゃない、迷惑だ」
「雄一郎さん」
「本当に迷惑なんだ。――分かってくれないか? もう俺が、君を失うことに耐えられないんだ」
 不意に感情を爆発させたように声を荒げると、真鍋は果歩の腕を振りほどいた。
「この8年、まがりなりにも自分と折り合いをつけてうまくやってきたつもりだよ。とても苦しかったし時間もかかった。それがまた振り出しに戻されると思うと、たまらないんだ」
 真鍋は唇を震わせると、口走ったことを悔いるように顔を背けた。
「しかも今の俺は、瑛士の言うように、自分の失策を他人に被ってもらっている状態だ。君が傍にいると、俺が余計に惨めになる。どうしてそんなことも分かってくれないんだ」
 果歩は唇を噛みしめた。それでも堪えきれない涙が、一筋頬をこぼれ落ちる。
 この8年、真鍋もまた、果歩と同じ感情に縛られてきたのだと思うと苦しかった。
 私にはまだ、彼を悪人にするという逃げ道があった。でもこの人には……それすらなかったのだ。
「……なんで、失うことが前提なんですか?」
「…………」
「どうして、もう一度、私とやり直したいって思わないんですか?」
「…………」
「ゆ、雄一郎さん、自分のことばっかり……、昔も今も、私の気持ちなんて」
 もう一筋こぼれた涙を、果歩は急いで手で拭った。
「全然、分かってくれてないじゃないですか……」
「……果歩」
 しばらく立ち尽くしていた真鍋の手が、ぎこちなく肩に回された。果歩が両腕でその身体を抱きしめると、数秒のためらいの後、そっと抱きしめ返される。 
「本当にいいのか」
 果歩は頷き、真鍋の背中に回した手に力をこめた。
「もう、瑛士のところに、戻らなくてもいいのか」
 もう一度頷き、腕に余計に力を込める。
 そんなこと、夢にも思っていない。
 たとえ夢の中でも、もう絶対に思ったりしない。
 本当は、全部分かってる。
 藤堂さんが嘘をついていることも、わざと冷たい態度を取っていることも。
 最初は分からなかったけど、途中から全部分かってしまった。
 目が合ったとき、彼の表情が初めてゆがみ、彼が胸の奥底で必死に隠していた感情があふれ出すのが分かったから。
(――この人の素顔を初めて見たな)
 馬鹿みたいに分かりやすい嘘を言われた時、思わず駆け寄って、藤堂さんを抱きしめたくなったから。
 そんな自分を、その時ものすごく汚い人間だと思ってしまったから――
 何度も喉を鳴らして双眸を潤ませた涙をのみこみ、果歩は気持ちを静めて真鍋の背を抱く腕に力をこめた。
 同時にその時わかったのだ。
 私が真鍋さんを選んだように、藤堂さんも真鍋さんを選んだのだと。
 離ればなれになっていた昨日、2人で同じ決断をしたのだと。
 だから、もう後悔しないし、引き返さない。
 頭によぎった今朝の夢の残像を、果歩は目をつむって追いやった。
 今朝、夢の中で、ずっと藤堂さんを探していたような気がする。
 暗闇で迷子になった私の手を取って、大丈夫ですよ、僕がなんとかしますからって……、いつもみたいに現れてくれるのを、ずっと待っていたような気がする。
 でも、もうそんな風には思わない。 
「雄一郎さん、ずっと私と一緒にいてください」
 たとえ夢でも、もう絶対に思ったりしない――











次回から瑛士sideです
>>next  >>contents


このページの先頭へ