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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(12)〜瑛士side

 








 
 雨が、途切れることなく降り続いている。
 その雨は、僕の心に降り続いて、決して止むことはない。







 
 
 
 
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「これが、あちら側の提示した条件です」
 うやうやしく差し出された封書を、藤堂は黙って取り上げた。
「条件はひとつ。選択は私どもに委ねられています。しかし、実現不可能でございましょう」
 大きな円卓に距離を開けて座っているのは、二宮家の重大事に招集される『御前会議』の構成員である。
 金曜日の午前11時。
 前面のスクリーンには、先ほどまで灰谷市議会初日の光景が中継で流されていた。
 灰谷県警機動隊に囲まれた真鍋が議場を後にしたのは、つい数分前のことである。
 手紙の封を開きながら、藤堂は改めて円卓のメンバーを見回した。
 照明は薄暗く、あえてその顔が影になるように工夫されている。帝の父、松平長七郎のように知っている顔もあれば、全く知らない顔もある。
 ただひとつはっきりしているのは、全員が明治維新になんらかの形で関わった者の――表舞台に名が出てこない一族を含め――その子孫であるということだ。
 同時に彼らは、各宗教団体や元政治家、大企業の創業一族からなる現与党最大後援団体『日本教会』の最高幹部でもある。
 マスコミが報じないため、国内でその活動は都市伝説のようにしか語られていないが、海外では日本最大の極右団体として知られている。いわば海外でいうところのイルミナティ的な存在だ。
 同会の支部は全国にあり、構成員は5万人。現総理赤城太郎もメンバーであり、実質、同会が国政の根幹を決定していると言っても過言ではない。
 その会の――決して表に出てこない名誉総裁が、二宮家の歴代当主なのである。
〈廃家〉
 金粉を織り込んだ和紙の中央に墨痕黒々と記された二文字に、藤堂は目をわずかに見開いた。
「廃家というのは、二宮家を廃するという意味ですか」
「他になにがあるんだ」
 煙草に火をつけながら、馬鹿にしたように松平が口を開いた。松平家は二宮家の分家で、この男もかつては後継者候補の一人だった。
 二宮喜彦と弟の和彦、松平長七郎。この3人がかつて当主の座を賭けて競いあい、喜彦が勝利したのだ。
「対外的に当主と見なされた人間が、あろうことか暴力団組織の人事に介入したんだ。この不祥事が公になることだけは絶対に避けねばならん」
「僕はそんなことは聞いていません」
 藤堂は遮った。
「何故、廃家なのですか。侠生会側の出してきた条件が」
「ようは、条件など本気で出すつもりはないのです」
 封書を差し出した男が、弱々しい声で口を開いた。
 久世直文。二宮家後援会最高顧問で、年は喜彦より大分上だ。白髪白髯で枯れ木のように痩せた姿は明治時代の元老を思わせる。
 今朝、急遽『御前会議』を招集したのは、この久世だった。この日、二宮家の新たな後継者が正式に決まったためである。
 同時に久世は、喜彦の依頼を受け、この数日来秘密裏に侠生会との交渉を行っていたようだった。
 正式な記録からは抹消されたものの、二宮家の歴史に一度は当主として名を刻んだ〈真鍋雄一郎〉の救済を図るためだ。 
「祝用の和紙を用いて返事をしてきたのが何よりの証でしょう。我々が廃家など決してのめないことを見越した上での挑発です。つまり、すでに交渉の余地はないのです」
 そこで言葉を切った久世が、白内障のために青みがかった目で藤堂を見下ろした。
「言い換えれば、真鍋雄一郎と八神宗に報復するまで、連中は一歩も引く気はないのです」
「なめられたものだよ、二宮も」
 煙草の煙を吐き出した松平が、苛立たしげにテーブルを指で叩いた。
「なにもかも喜彦君の失策だな。亡くなった妻子の親戚というだけで、あんな得たいの知れない馬の骨を後継者候補として正式に認めたんだ。それだけでなく、その人物を次期当主だと宣言した」
「幸いなことに、正式な継承はまだ行われておりませんでした」
 後を継いだのは久世だった。
「ゆえに雄一郎様は、公には二宮家の正式な当主ではございません。あくまでそうなる途中で失格となった者といえましょう」
 藤堂は微かに眉を寄せた。
 ――……正式な継承か……。
 今朝、藤堂は先代当主二宮喜彦の宣言によって当主となり、その場には後見役である久世が立ち会った。その後御前会議が招集され、新当主としてお披露目されることになったのである。
 むろん真鍋も、同じ段取りを経ているはずだから、正式な継承をしていないという意味では、藤堂も立場は変わらない。藤堂もまた、伯父から何ひとつ引き継いでいないからだ。
「だったらなおさら、放っておくことだな」
 松平が再び口を開いた。
「八神はたかが一官僚だし、実家の佐倉家とはとうに縁を切っている。真鍋は二宮の遠い姻戚には違いないが、そもそも血のつながりさえない男だよ。本人が自ら報復を受けるといっているのだから、好きにさせておけばいいんだ」
「松平さんの言うとおりだ」
 ブルドックのような顔をした小柄な老人が苦々しげに口を挟んだ。最上旭。世界最大の発行部数を誇る日ノ出新聞グループの元会長で、都内に広大な不動産を有する資産家である。メディアの王様と呼ばれ、この中ではもっとも高齢の、90を超えた老人だ。
「我々がそのために動く必要はない。八神も真鍋も、二宮の威光を利用して反社会勢力と取引した以、。その罪は自身の命で報いるべきだ」
「警視庁は」
 久世が再び、弱々しく口を開いた。
「八神総監の身柄を隠し、絶対に守り抜く所存のようです。それに対し警察庁が異を唱えており、現在、両者で綱引きをしている状況です」
「官邸の動向はどうなってる」
 横柄に聞いたのは松平で、久世は恭しく頷いた。
「赤城総理は静観を貫く構えのようですが、党内の反赤城派が勢いを強めております。なにしろことの発端が、赤城総理の父親がしでかしたことですから」
「脇の甘いところのある人でしたからな」
 冷めた声で最上。
「持病を理由に赤城総理に退任を迫っており、そのような流れになれば当然警視総監の人事も刷新されましょう。警視庁が八神総監を守っていられるのもそこまでかと」
「八神はああいう気性の男だ。赤城が辞任に追い込まれる前に自分から敵地に飛び込んでいくだろう。結末はもう見えているよ」
 円卓のメンバーが、それぞれに口を開き始める。
「侠生会は今後一切警察に協力しないと言っているようだが、そもそも海外からからいくらマフィアや薬物が入ってこようと、我々には痛くも痒くもない」
「むしろ新しいビジネスチャンスともいえますな」
「世が乱れれば人々の信仰も深まります。当会としてもなんの問題もございません」
 国内全ての神道を束ねる長が大真面目な顔で言うのを聞いて、藤堂はこの会議になんの意味もないことをようやく理解した。
「皆さん、お忘れではないではないと思いますが、僕は今日、正式に二宮家の当主になりました」
 焦燥を顔を出さないようにして、藤堂は立ち上がった。
「その上で申し上げますが、真鍋雄一郎氏は僕の従兄であり、八神総監は僕の義父です。二宮家の威信にかけて絶対に犠牲にさせるわけにはいかないと思ってください」
「馬鹿なことを言うな、若造が」
 吐き捨てるように言った松平が、テーブルをだんと叩いた。
「では、二宮が反社会勢力との抗争の表舞台に立つと言うことか。真鍋と八神を守るというのはそういうことだぞ」
「そんな真似は絶対にさせられん。少なくとも我々は一切協力しない」
「私もそれに同意します」
「同意します」
 そういうことか、伯父さん。
 だからあなたは、僕と怜さんを結婚させたのか。
 この人たちに、最初から雄一郎さんと八神さんを守るつもりはない。現状、そのために動いているのは八神がトップに立っている警視庁だけだ。
 それも赤城総理が辞任して、八神が今のポストを失えば風向きは一気に変わる。
「別の方法を探します」
 藤堂は再び視線を紙面に落とした。廃家――
「おいおい、それはなんなんだ? 瑛士君」
 小馬鹿にしたように松平が口元をゆがめた
「他に策がないからと言って、まさか本気で、二宮家を終わらせようと思っているんじゃないだろうな」
「我々は認めんぞ!」
「当主になったばかりで、そんな勝手が許されると思っているのか!」
 円卓から、次々に非難めいた声が飛ぶ。
「皆様、どうかご静粛に」
 それを遮ったのは久世老人だった。
「――ご承知のように、廃家は簡単にできることではありません。瑛士様の一存でそれを行うのは、到底不可能な話です」
 一瞬剣呑になった円卓の空気は、それで冷静さを取り戻した。
 藤堂は眉をひそめたまま、今の久世の言葉の意味を考えていた。
 僕の一存でできないということは、つまり国の許可がいるということか。
 二宮家が政府の監視下にあることは承知しているが、皇室典範がある皇室と違い、法令化されたものではない。これまで担ってきた役目を他者に移譲すれば、家を廃するのはそう難しくはないはずだ。国の許可がいるにしても、それを取ることが、そんなに困難なことなのだろうか。
 しかし当主にはなったものの、まだ藤堂には二宮家の全容が分かっていない。
 かつて幕府の情報収集機関として、戦前から戦後にかけて一大勢力であり続けた二宮家を、今の時代にあってもなお特別な存在にさせている理由は何なのか――本当のところを何も知らないのだ。
 それを引き継ぐべき伯父は、明け方容態が急変し、都内の病院に救急搬送された。
 が、それもまた、この場のメンバーに決して悟られてはならないことだった。
「皆さんのご意向はよく分かりました。協力は結構ですが、僕も僕で好きにさせてもらいます」
「まぁ、君には警視庁と佐倉家が味方についたからな」
 笑うように言って、松平は煙草を口に持って行った。
「好きにしてみたらいいさ。しかし失敗すれば二宮家は大恥をかくことになる。――瑛士君、そうなったらむろんその座は明け渡してもらうよ」
 おそらく最初から、この流れに持って行くつもりだったのか、流ちょうな口調で松平は続けた。
「そもそも、海外で遊んでいたような若造に当主がつとまるはずがない。しかも、何年もうちの娘を待たせた挙げ句、土壇場で逃げ出すような優柔不断な男だよ」
 蔑みのこもった目が、この時を待っていたかのように藤堂に向けられた。
「つまり私は、君の言葉をひとつも信じられないんだ。ここで、全員の前できっちり約束してくれないか。真鍋か八神、どちらかが殺されれば、君もまたその座を降りると」
「構いません」
「構いませんとは?」
「約束するという意味です」
「降りるということは、掟通り戸籍も名前を棄てて日本を出て、二度と戻ってこられないということだよ」
「…………」
 にやりと笑うと松平は肩をすくめて立ち上がった。
「会議はこれで終了だ。では、新当主のお手並み拝見といこうじゃないか」


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 会議室を出ると、そこには佐倉怜が待ち構えていた。
 都内の某商業ビル。ここはメンバーである最上の所有物である。御前会議のためにしか使われない地下の会議室には、集まったメンバーのために個別の控え室が設けられていた。
「お疲れ様、瑛士君」
 微笑んで藤堂を見上げるその顔が、「分かったでしょう?」と言っている。
 分かったでしょう。味方が私だけだと言うことが。
 その怜の背後に、おそろしく長身の制服警官が立っている。制服といっても交番勤務の制服ではない、明らかに官僚がまとう制服だ。
「紹介するわ、警視庁警備部の左近警視正。真鍋市長の身辺警護を指揮してくれている人よ」
 目に一切の表情を宿さずに敬礼する男に、藤堂は黙って頭を下げた。
 この男が、今朝、ありもしないテロ予告をでっちあげて、灰谷県警機動隊に議事堂を守らせるという離れ業をやってのけたのだ。
 年は40前後だろうか。その若さで警視正なら、間違いなくキャリア組だ。
「真鍋市長は、今」
 藤堂が聞くと、左近は眉筋ひとつ動かさずに口を開いた。
「議事堂を出た後、車で、高速を西方面に移動中です。こちらの保護要請を一切拒否しており、正式な令状がない以上、現状では身柄を確保しようがありません」
「行き先は分かりますか」
「皆目見当もつきません。このまま県境を出て関西方面に向かうようにも思えますが」
 藤堂は眉を寄せた。秘書課から入手させた公用携帯の番号で、何度か真鍋に電話しているが、その電話はすでに使われていないのか一度も応答はない。
 真鍋が唯一心を許している義姉の花織も同様で、朝から何度も電話しているが、一向に折り返しがない。
「――西に行くと見せかけて、灰谷市に戻っている可能性はないですか」
「というと」
「……あの人には、とても大切にしている場所があるんです。僕の予想では、今夜はその場所に行くのだと思っていました」
「確認します。場所を言っていただけますか」
 その場所を左近に言うとき、本当に真鍋を裏切ってしまったような痛みが胸をかすめた。しかし左近は、どうしてそんな大切なことを隠していたんだという目で藤堂を見ている。
「もし警察の目を欺いて行動しているのだとしたら、危険ね」
 左近が出て行った後、眉をひそめて怜が言った。
「真鍋市長は今や時の人よ。マスコミが地上からも空からも彼を見張っている。だから侠生会も手が出せないんだけど、1人になってしまえば何が起こるか分からないわ」
「…………」
 藤堂は黙って唇を引き結んだ。もし真鍋の目的が自殺なら、追尾に失敗した時点で手遅れだ。ここで脩哉のことを思い出す必要はないと分かっていても、不安が胸を締め付ける。
「侠生会よりもっと厄介なのは灰谷県警よ。連中が真鍋さんを拘束するための令状でも取れば、左近にも手が出せなくなる。それまでに、どうにかしてこちらで彼の身柄を確保しないと」
「県警に、真鍋さんの身柄を抑える正当な理由があるんですか」
「真鍋さんが信号無視すらしたことがないなら別だけど」
 冷めた目で怜は笑った。
「誰だって大なり小なり、微細な間違いを犯しているものよ。――ただ、真鍋さんもそれを警戒して、光彩建設絡みの汚職事件をあらかじめ東京地検に告発している。それで県警も簡単には手を出せなくなってるってわけ。――でも、どんなことにも抜け道はあるものよ」
 そこまで真鍋が計算していたのだとしたら、その周到さには舌を巻くほかない。同時に、そうも県警を警戒していた理由に、灰谷市が抱えた闇の根深さを改めて見た思いがした。
「私が思うに、灰谷県警はいずれ、市長室銃撃事件の重要参考人として真鍋さんを警察署に拘束すると思う。それなら特捜部も文句のつけようがないし、マスコミだって納得するでしょうから」
「…………」
 未だ犯人が捕まらない市長室銃撃事件は、怜のほのめかした話だと、県警内に実行犯を手助けした人間がいるとのことだった。
 つまり侠生会が国のアンタッチャブルなら、灰谷市では湊川会がそれに当たる存在だったのだ。仮に真鍋の告発によって灰谷県警と港川会のつながりが暴かれることになるなら、県警も必死で真鍋の口封じを図るだろう。
「いずれにしても、灰谷県警の動きは全部私の耳に入るようになっているから安心して。この春県警の新しいトップになった本部長の羽生さんは父の元部下だし、機動隊の森内隊長は左近が育てた男よ。少なくともその2人は絶対に裏切らない」
 そこで言葉を切った怜が、表情をわずかに緩めて藤堂を見上げた。 
「眼鏡は取れって言ったのに」
 立ち上がった怜が、藤堂の前に回り込んでくる。 
「その髪型もスーツも全部だめ。無駄に育ちと人の良さがにじみ出ているわ。だから私が全部コーディネートしてあげると言ったのに」
「結構です」
 藤堂はにべもなく遮った。
「あなたは僕には、まだ無関係の人ですから」
「あと数時間後には夫婦になるのに?」
「それでもまだ、今は違う」
 婚姻届は委任状を添えて代理人に手渡したが、養子縁組の手続きなどもあり、役所に受理されるのは午後の見込みだと聞いている。まだこの人と正式に籍を入れたわけじゃない。
「まさかと思うけど、恋人への義理立てのつもり?」
 怜は呆れたように眉を上げた。
「好きにしたらいいけど、籍を入れたら私の言うとおりにしてもらうわ。あなたが舐められるということは、妻の私が舐められたも同然だから」
「――お互いのプライベートには一切干渉しない約束では?」
「だったら言わせてもらうけど、誰が真鍋市長を守ってあげていると思っているの」
 しばし険悪な目で見つめ合った2人だが、先に顔を背けたのは藤堂だった。
 正直言えば、民間人だとばかり思っていた怜が、こうも警察組織に顔が利くとは思ってもみなかった。先ほどの左近など、あたかも怜を自らの主人のように接し、上にも置かない待遇ぶりだ。
 対して、今の藤堂にできることは、潤沢な資産を使って真鍋のための護衛を雇うことくらいだ。それも、警察組織には到底敵わない。
 つまり真鍋を盾に取られれば、藤堂は何ひとつこの人に反論できないのだ。
「……これから、どう動くつもりなんですか」
「県警の羽生本部長がどこまで下を抑えられるかだけど、あの人もしょせん外様だから、そう長くはもたないと思う。まずは真鍋市長を見つけて安全な場所に移さないと」
「……雄一郎さんには、二宮の家に来てもらうつもりです」
「それが一番安全でしょうけど、果たして素直に来るかしらね。いくら左近でも元市長を法的に拘束することはできないわよ。本人が弁護士でも立てて拒めばそれまでだし」
「僕が、説得します」
「説得させるなら、もっと適役がいるんじゃないの」
 藤堂は初めて厳しい目を怜に向けた。怜が最初からそう言いたがっていたことは知っている。
「言っておきますが、的場さんは絶対に巻き込ませない」




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