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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(14)〜瑛士side

 
 
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「これは瑛士様、このようなところに、わざわざおいでいただきまして」
 待ち合わせの場所に停められていた車の扉が開いて、後部座席からよろよろと久世が降りてきた。
「そのままで。――申し訳ありません。体調が優れないところに無理を言いました」
 藤堂がそう声を掛けたとき、助手席から慌てて降りてきた秘書役の男が後部座席の扉を開けて、2人を車内に誘った。
 黒のベントレー。運転席と後部座席との間は分厚いシールドで遮られている。
 用心深くそのシールドにカーテンを引くと、ようやく久世老人は口を開いた。
「かような場所を待ち合わせの場に選んだことを、まずお詫び申し上げます。最近はどこもかしこも監視の目があって、なかなか自由に発言することができませんので」
 高速道路のガード下。立体交差の影になった場所は暗く静まりかえり、車内を影で覆い尽くしている。久世が盗聴を警戒しているのは明らかで、ここでもまた藤堂は、自身の認識の甘さを思い知らされていた。
 二宮家後援会理事、久世尚史。
 藤堂がこの人物の存在を知ったのは、昨夜――いや、正確には今日の明け方のことだ。
 藤堂が二宮家の後継になることを決めた直後、どこからともなく現れたこの老人が、当主交代の見届け人となった。そして救急搬送された伯父に代わり、御前会議を招集してくれたのだ。
(――瑛士、この人は二宮家後援会の理事をされている久世さんだ)
 喜彦に紹介されるまで、そんな役職があったことすら知らなかった。今日の御前会議の存在もそうだが、二宮家には当主にならなければ知ることのできない事がまだまだ多くあるらしい。
(――久世さんは、二宮家の重大事――婚姻や跡継ぎ問題が起きた時には仲裁に立ち、同時に立会人となる役目を担っている。私の在任中、この人のお世話になるのはこれで2度目だよ)
 後援会というからには、久世以外にもメンバーがいるのだろうし、そもそも久世という老人が実社会で何者なのかも分からない。――が、今はそういうことより、先に知っておかなければならないことがあった。
「お呼びだてしたのは他でもありません。――今日の、御前会議のことです」
「――承知しております。私が披露したあの手紙のことですね」
 久世は恭しく頷いた。
「喜彦様の依頼を受け、私がひそかに侠生会サイドと交渉して得た回答です。松平家もこの度の騒動には強い関心を持っておられ、今日あの場で披露することは喜彦様のご指示でございました」
「そのあたりの事情は承知しています。ぶしつけな質問になりますが、あの手紙は、本当に信憑性のある相手がしたためたものなのでしょうか」
「それについては、間違いございません」
 咳き込んだ久世は、吸引器で咳を沈めてから口を開いた。よわよわしい声は、よほど耳をこらさないと、正確には聞き取れない。
「あれは侠生会の会長になった、宮田始が自らしたためたものです。私が自らのつてを通じてこの騒ぎを静める方法を本人に打診し、その返信として寄越されたものです」
 そこでもう一度咳き込むと、藤堂を見ぬままに老人は続けた。
「ただし、その内容は、正直いえば意外ではありました。相手はしょせん暴力団ですから、当然金品なり利権なりを要求してくると思っていたのです。しかし戻ってきたのは、あの書状一枚でした」
 藤堂は微かに眉を寄せた。
「……、これは仮定の話ですが、僕自身が、直接会長と交渉することは可能でしょうか。条件成就にはある程度の時間がかかります。少しの間猶予をいただきたいのです」
「なりません」
 思わぬ早さで、久世はぴしゃりと言い切った。
「二宮家の当主が反社会勢力の長と直接交渉するなど何があっても認めるわけにはまいりません。連中は瑛士様の弱みにつけこみ、ずるずると要求をエスカレートさせるでしょう。そうなれば二宮家は本当に終わります」
 それに――と、藤堂の返事を待たずに久世は続けた。
「期限をいくら設けようと、廃家などできないことをおそらく向こう方は知っています。いってみれば、それは実現不可能な条件なのです」
「……、というと?」
 用心深く藤堂は聞いた。まだ、先夜顔を合わせたばかりのこの老人が、敵か味方か分からない。
 怜はメンバーの中に内通者がいると言った。久世がそうでないとは言い切れないのだ。
「瑛士様もご承知かと思いますが、二宮家は内閣府の管轄下にあります。まず廃家に当たっては、内閣府二宮担当の承認が必須となります」
「そのあたりは知っています。ただそれは、形式的なものだという認識でした」
 藤堂の知る限り、二宮家の財政は完全に独立し、維持費は二宮家会計基金と株や不動産などの収益で賄われている。資金の用途に当たっては、当然国会を通す必要もなく、国家から干渉を受ける筋合いはないはずだ。
「仰る通り、管轄下にあるとはいえ、二宮家には極めて自由な経済活動が認められています。とはいえ様々な国の規制に縛られているのも事実なのです。――たとえば歴代当主は、その座を退いた後は国籍を失い、別の人間として海外で生きていかねばなりません」
 その奇妙な内規のことは知っている。
 二宮家には明治維新から戦後にかけて国家機密を収集していた時期がある。決して表には出せないそれらの秘密を知っているがゆえに、日本で生きてきた痕跡を全て奪われるという決まり事だ。
 使用人にしても同様で、雇用時には内閣府から徹底的な身辺調査がなされ、退職にも承認が必要とされている。そしてその職を辞した者は、秘密保持書にサインの上、二度と二宮家に関われない。詳細は不明だが、罰則はかなり厳しい。
 片倉を呼び戻せないどころか、今の立場で迂闊に連絡が取ることができないのもそのためだ。今朝から何度かかかってきた片倉の電話にも、そのあたりの整理がつくまで出ないようにしている。
 そこでふと気づき、藤堂は眉を寄せて久世を見た。
「しかし真鍋さんは、国内にとどまっている。それはあの人が正式な当主だと政府に認められていないからですね」
「仰る通りです。ありていに申し上げれば雄一郎様は二宮家について何一つ本当のことを知りません。そうなる前に自ら後継の座を辞されたのです」
「……、本当のこととは、二宮家が収集していたという国家の様々な機密ですか」
 久世は頷き、それで藤堂にも正式な継承の意味がうっすらとだが分かった。
 それを知ることが真の当主の条件であるなら、藤堂もまた仮の立場ということになる。
「いってみれば、二宮家の歴代当主はそれだけの重い責務を担っているのです。ゆえに政府も自由な経済活動を認め、影ながら二宮家を支援しています。確かに二宮家の資産は独自の運用によって築いたものです。――が、それも政府の後ろ盾や、それを知る企業の忖度があった故だということを忘れてはなりません」
「……その資産も含め、二宮家が持っている情報全てを国に返納しても、廃家は難しいのですか」
 意表を突かれたように久世は黙り、重たい沈黙が車内に満ちた。
「――僕自身は、二宮という家を存続させることに、今の時代、なんの意味もないと思っています。あのような条件を出されなくても、僕が当主になれば、いずれこの問題に着手していたでしょう」
 うつむいたまま、久世は一言も口をきかない。
 その沈黙の重みはよく分かる。何百年も続いてきた二宮家という『制度』を、たかが暴力団との抗争で廃止しようとしているのだ。なんのためにと聞きたいのだろう。
 しかし藤堂もまた、同じ疑問を呈したかった。一体なんのために先人たちは、誰も幸福にしない『二宮家』という制度を存続し続けてきたのだろうかと。
 そこで久世が激しく咳き込んだので、藤堂は驚いて、その枯れ木のような背中に手を当てた。スーツ越しに痛々しく痩せた骨格の軽さが伝わってきて、不意に胸が痛くなる。
 明け方、急に倒れた伯父を抱き上げた時も同じだった。その軽さに驚き、同時に申し訳なさで胸が詰まった。今はただ、無事に目覚めてくれることを祈るしかない。
「体調が芳しくないところを、お引き留めして申し訳ありませんでした。ひとまず久世さんの立場は理解しました。また何かあれば相談に乗ってください」
 この人にこれ以上無理を言うのは気が引けるし、頼んだところで侠生会との窓口になってもらうのは無理だろう。気は重いが、今は怜が持つチャンネルに頼るしかない。
 藤堂は謝辞を述べ、車を降りようとした。その途端、「瑛士様」と、鋭い声が藤堂を止めた。
「侠生会との交渉の件は、私がやってみましょう」
 弱々しい声だが、奇妙な迫力があり、藤堂は一時言葉が何もでてこなくなった。
「ただし、あまり期待されない方がよろしいかと存じます。宮田会長は本気です。ある意味許しを請うた我々に対し、実現不可能なことを要求してきたのですから」
「実現不可能かどうかはやってみなければ分かりません」
「仰る通りです。しかし、いずれ瑛士様にもお分かりになるでしょう」
 何がだろう。藤堂は眉を寄せたが、久世はその質問を遮るように口を開いた。
「しかも今回、侠生会の怒りには正当性があります」
「……正当性?」
「宮田会長は、何も浅川桐吾の逮捕や、灰谷市との癒着を暴かれたことに対する報復目的でこのようなことを言い出したわけではないのです。宮田は、いわば昭和の経済ヤクザの先駆けで、非常に合理的な思考を持った男です。――ゆえに、今回の敗北を、合理的に受け入れることにしたのです」
「……、どういう意味ですか」 
「現役市長が関与した灰谷市と湊川会の癒着は、今や日本中の注目を浴びています。近年暴対法の下でおとなしくなったと思われていた暴力団が、こうもあからさまに市民生活に食い込んでいたことが明るみに出たのですから当然です。暴力団憎しの風潮が世間で再び高まれば、警察がいっそう取り締まりを厳しくするのは必然でしょう。――しょせん政府も警察も、民意という巨大な潮流には敵いません。それをつくりあげた時点で、雄一郎様はこの戦いに勝利されたのです」
 それは藤堂も認めている。
 最初からそれを見越しての劇場型選挙であり、スキャンダルの数々だとしたら、正直真鍋のとった綿密な計画には鳥肌さえたってしまう。ただひとつ、そこに果歩を巻き込んだことだけは今でも絶対に許せない。それが果歩を守りたい一心からきたことだったとしても――結局、真鍋は失敗したのだ。
「しかし侠生会の全ての幹部が、宮田のような柔軟な思考を持っているわけではなく、むしろその真逆のタイプが多いことは想像がつくでしょう。たとえ雄一郎様が目論んだ人間がトップに立ったとしても、下部組織の不満を抑え込むことができていたかどうか――。報復は、組織ぐるみでなされるより個人の方が厄介です。そしてさらなる報復の連鎖を生む。宮田会長はそれを、首謀者2人の命を持って手打ちにしようと持ちかけているのです」
 藤堂は微かに喉を鳴らした。
 なまじ感情ではなく、計算ずくで出た条件なだけに、もはや覆しようがないような絶望感がこみ上げる。
「雄一郎様の犯した唯一の失策は」
 抑揚を変えずに久世は続けた。
「慎重を期する余り、仁義とメンツを何よりも大切にする侠生会の組織人事に介入してしまったということです。それだけはいくら宮田会長でも許すことはできません。いや、許してしまえば組織を統制することができなくなります」
「…………」
「雄一郎様も八神さんも、当然そのことは承知しているはずです。誰かが犠牲にならねば、報復の連鎖は決して収まらないのです」
「だとしたら」
 内心の動揺を押し殺しながら、藤堂は慎重に言葉を継いだ。
「仮に二宮家を廃家にしたとしても、侠生会が手を引かない可能性があるということですか」
「それは、宮田会長が、どこまで組織内で力を持っているかにかかっているでしょう」
 久世は苦い目になって言葉を切った。
「当然のことながら宮田会長にも面子があります。あのような形で返書をしたためた以上、条件が成就されれば手を引かざるを得ません。――ただしその時点で、侠生会のトップの座が変わっていれば、その保証はありません」
「…………」
「それでも、この賭けに乗りますか」
 藤堂は唇を引き結んだ。反社会勢力相手に取り引きをするのは初めてだし、自分の人生にこのような事態が起こるとは思ってもみなかった。相手を信用できるか否かでいえば、明らかにできない。――が、あらゆる事象に、確実という言葉など存在しないのだ。
「他に2人を救う方法がないなら、僕は廃家の方向で話を進めたいと思っています」
 もう後には引けない。失敗すれば、藤堂もまたかつての当主たちのように、それまで生きてきた軌跡を全て抹消されて、国外に出て行くことになる。
 果歩を守るどころか、二度と会えなくなるかもしれないのだ。
「……瑛士様、喜彦様のご容態は?」
 不意に問われ、藤堂は表情を陰らせた。
「……すぐに病院に運ばれて、今は薬で安定しているようです」
 様々な書類上の手続きが終わり、久世立ち会いの下に新当主の宣言をした喜彦は、その直後に意識を失って昏倒した。
 同席していた医師がすぐに応急手当を施したが、すでにモルヒネがないと激痛で立っていることもできない状況だったらしい。余命はもう過ぎている。その場で医師から聞いた現実の残酷さに、藤堂は言葉をなくして打ちのめされた。
 伯父はいつ――今この瞬間この世から消えてもおかしくない。その瞬間、藤堂は完全なる孤独の中、二宮という牢獄に1人残されてしまうのだ。何一つ肝要なことを知らされないまま。 
「……瑛士様、落ち着かれたら、喜彦様からお話をうかがうことです。何故、廃家が難しいのか、それは喜彦様であれば、お分かりになろうかと存じます」
「……、伯父の回復を待っている時間があればそうしますが、侠生会がどれだけの猶予を与えてくれるか分からない今、悠長に待っている暇はありません」
 正直今は、1分1秒も惜しい。怜に指摘された通り、果歩に結婚したことを知られたくないという気持ちが、藤堂から余裕と冷静さを奪っていることも否めない。
「まずは今日にでも、内閣府の二宮担当に会って話をしてみようと思います。手続き的なものを確認しなければ始まりませんので」
「――、それはお勧めいたしません。内閣府にこちらの手の内を知られてしまうことになる」
「……手の内、とは?」
 久世は黙り、それが彼の失言だったことが藤堂にも分かった。
「今のはどういう意味ですか? 一体内閣府の担当とは、何を話し、何を話してはいけないのですか」
 再び久世が黙り込み、藤堂は膝で拳を握った。
「久世さん。伯父とは、しばらく話ができない状況なんです」
「……お待ちになることです。私にはそれだけしか申し上げられません」
「では伯父が目覚めるまで、僕は何もできないということですか? それまで侠生会が待ってくれるとでも?」
「……、瑛士様、今はまだ、申し上げることができないのです」
「今はまだというと?」
「それを伝えるのは、あくまで喜彦様のお役目だからです。私がその代役に立つことができるのは、喜彦様がその役目を担うことができなくなった時だけです」
 それは――喜彦が亡くなった後ということだ。
「久世さん、お願いです」
 辛抱強く藤堂は続けた。
「今教えていただかなければ、僕はあらゆるつてを通じて、情報を集めるしかなくなります。その過程で、手の内を見せるようなことになっても、僕にはそれを見せてはならない理由さえ分からない」
「…………」
「差し支えのない範囲で構いません。久世さんのご存じのことを教えていただけませんか」
 久世は石のように黙りこくっているが、青みがかった目は迷いの中で揺れている。
 言うべきか言わざるべきか――しかしこの人は、確実に答えを知っているのだ。
 心苦しかったが、藤堂はこの老人に強い口調でたたみかけることにした。
「分かりました。言いたくなければ構いません。代わりに、僕の質問に、はいかいいえかで答えてもらえませんか。――二宮家が有している国家機密と処分可能な財産、それらを返納すれば、廃家は可能ですね」
 数秒の間の後、久世は微かに頷いた。ようやく道が開けた気がして、藤堂はほっと息をついている。
「先ほど、雄一郎さんは正式な継承を済ませていなかったと仰いましたが、それは、二宮家が所有しているという、様々な秘密文書の継承という意味ですか」
 久世は黙っている。答えがイエスなのはほぼ明確のはずなのに、何故か肯定も否定もしない。藤堂は質問を変えることにした。
「僕もその継承を済ませていない。つまり僕もまた、立場は雄一郎さんと同じです。――内閣府に漏らしてはならない手の内とは、そういう意味ですか」
「それは……話が違うことです」
「……?」
 話が違う? 
「……では、僕が正式な当主でないことは、内閣府も承知しているということでいいんですね」
「それもまた違います」
「違うとは?」
「瑛士様と雄一郎様では、お立場が全く違うと言うことです」
「それは僕が、二宮の直系だからですか」
「そうではありません」
 しばし口を閉ざしてから、ようやく――ひどく苦しげに久世は口を開いた。
「はっきり言えば、それは瑛士様が二宮和彦様の息子だからなのです。――私にはこれ以上は申し上げられません。どうか、お許しくださいませ」




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