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年下の上司 Final Story〜赤い糸の行方

赤い糸の行方(17)〜瑛士side

 
 
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 「お待たせいたしました。こちらが屋敷の工事施工書にございます」
 台車を押してきた甘粕が、扉の手前に立っている男を振り返った。
「それから、地下の点検を担当している警備部の者をお連れしました。合わせて新しいパソコンをお持ちしましたので、設定の間、少々お待ちください」
 書斎の机で資料を読み込んでいた藤堂は、顔を上げて扉の方を見た。
 ひょろっと痩せた小柄な男が、ロイヤルブルーの明るい作業着を着て立っている。藤堂と視線があうと、男は細い目元を柔和に下げてひょこっと一礼した。
「森です。よろしくお願いしまっす」
「森はセキュリティ部門の責任者でもあるので、その方面でご不明な点があればおたずねください」
 言っては悪いが見るからに不健康そうな青年だ。髪はやや長く、えりあしが肩にかかっている。単に若く見えるだけなのかもしれないが、どう見ても20代を超えているようには見えない。
 しゃべり方にも、社会人とは思えない稚拙さがある――が、ずば抜けて優れたシステムエンジニアとは得てしてそういうもので、その若さで責任者になったのだから、この男は相当に優秀なのだろう。
「失礼しまぁす」
 森という青年はやや甲高い声で言って、甘粕とは別のカートを押して入ってきた。
 カートの上にはデスクトップパソコンとプリンター、そして藤堂が頼んだシュレッダーが置かれている。
「えと、すぐに設定しますので、少々お待ちください」
 藤堂は頷き、甘粕の方に目を向けた。甘粕はカートに積んである箱から様々な形態の書物を取り出し、書斎中央のローテーブルの上に重ねている。
 二宮家建設から今に至るまでの全ての工事図面。それらが全て、仰々しい化粧箱に納められている。
 宮が退去した後、再び書斎に戻った藤堂は、次に脩哉の誕生日をパスワードとして入力してみた。暗転した画面に表示された数字は120。これもまたエラーだった。
 しかも今度は、2時間ロックがかかる仕様になっている。2回目のミスから倍になるなら、3度失敗すれば4時間待ちになる可能性もある。
 その間無為に待つ時間が惜しくて、藤堂は甘粕に命じて様々な家の資料を持ってこさせた。家系図、セキュリティについての詳細設計、参与官が毎日付けていた業務日誌。これまで過去20年分を全てチェックしてみたが、地下にあると思しき『〇号文書』の存在はむろん、暗号に繋がるようなことは何も書かれていない。
 しかし業務日誌の中に、かつて二宮家で大規模な改修工事がなされていたことが少しであるが触れられていた。それが伯父が当主になった年だったから、何か関係があるかもしれないと思い、念のため、過去全ての工事記録を甘粕に持ってこさせたのだ。
「御前様、コック長の松坂が、昼食はどうされるかと……」
「今日はいいです。皆さんで召し上がってください」 
 時刻はあと少しで午後2時になる。
 椅子から立ち上がった藤堂は不意に笑い出したくなった。伯父のつくった冗談のような暗号に振り回されている間に、おそらくだが自分は結婚してしまったのだ。
「……は」
 乾いた笑いが唇から漏れた。自分の人生とは、これほど滑稽なものだったのか。
 あれほど軽蔑していた父親と、理由はどうあれ結局は同じ選択をした。これからどれだけ彼女を傷つけるかと思うと、頭がおかしくなりそうになる。
 自分が、いかなる理由があろうと父親を決して許さないように、彼女もまた、藤堂を許さないに違いない。
(――あ、藤堂さん? お仕事お疲れ様です)
「…………」 
 でも、最後に選択したのは自分なのだ。
それに、まだ希望は残っている。絶対に。
 気持ちを奮い立たせるように長椅子に場所を移した藤堂は、ローテーブルの上で工事図面を広げてみた。
 甘粕は退室したが、森は机にパソコンを設置し、無言で接続作業をしている。その森が不意に言った。
「古いパソコンは、どうします?」
「……、机の下に置いておいてください」
「棄てないんですか?。これ、スイッチを入れても何も反応しませんけどね」
「……いえ、それは結構です」
 そんな勝手な真似をした森に、やや唖然としたが、デスクに置かれていたのは、確かに相当古いタイプのデスクトップパソコンで、カバーを外してみると、これまで見たこともない形態をしていた。
 念のため起動させてはみたが、コンセントは刺さっていても通電している様子もない。相当長い間使われていなかったようだから、どこかしらに不具合が生じているのだろう。
 とはいえ、ハードディスクに何が入っているか分からない以上、迂闊に処分しない方がいいのは確かである。こういう些細な判断をするにしても、片倉がいてくれればと痛切に思う。
 森は鼻歌を歌いながら作業をしている。その呑気さがふと微笑ましくなり、藤堂は声を掛けていた。
「森さんは、いつこの家に?」
「今年の春っす」
 大型モニターの向こうから、あっけらかんとした声が返された。どおりで2月に帰った時には見なかった顔だ。
「以前は、何のお仕事を?」
「何と言われたら難しいですけど、アメリカのR&S社で、ちょっとの間働いてました」
 何気なく振った話題だったが、藤堂は瞠目した。
 そこは世界最大の警備会社で、現在世界中で使われているRSA暗号――素数を用いた最強の暗号システムを開発した会社でもある。セキュリティの厳しさは言うに及ばず、おそろしく優秀でなければ東洋人を雇うはずがない。
 藤堂は傍らに置いていた二宮家のセキュリティ設計図を取り上げた。この春行われた定期点検の報告書には、責任者名に森響也と記名がしてある。
「森さんの目から見て、この家のセキュリティはどうですか」
「あー、完璧じゃないですかね。何年もの間、どんなハッキングにも耐えられただけはあると思います」
「……、実際にハッキングされるようなことが?」
「攻撃はしょっちゅうですよ。国内はもちろん、最近は中国からが多いかな」
「狙われているのは何だと思いますか」
「分かりませんが、この家には、国の重要機密が保管されているという噂がありますからね。まぁ、そういう都市伝説みたいなものに挑む奴らって案外多いんで」
 藤堂同様に半信半疑なのか、その口調はどこか明るかった。 
「ただ、そういうものはうちのサーバー内のどこにもないから、あるとすれば、アナログなやり方で保管されているんだと思います。個人的には賢いやり方だと思いますよ」
「賢いやり方」
「世界には天才の域を遙かに超えた高度なクラッカーがいて、実のところ連中はどんな電子の扉でも破っちゃうんですよ。ペンタゴンでもMI6でも。でも現実の扉を、物理的に開くのは無理じゃないですか」
「……森さんは、地下の核シェルターに入ったことは?」
 用心深く藤堂は聞いたが、森は臆することなく「あ、やっぱそこにあるんです?」と逆に聞いてくる。藤堂は苦笑した。
「さぁ、僕も今日初めて地下のことを知ったので。それで森さんに来てもらったのですが」
「そうなんすか。まぁ、シェルターの中には入れませんが、入り口までは点検で週に一回は入ります。扉に電子ロックがつけられていて、まぁ、それがいたずらされてないかを目視するだけなんですけどね」
 ――電子ロックか。
「ロックを開けてみることはないんですか?」
「いやぁ、僕の見た限り、開けられた形跡はここ何年もないみたいですけどね。そもそもパスワードも分からないですし」
「それくらい、仮に森さんがハッカーだったら破られるんじゃないですか」
「あ、多分無理だと思います」
 森はあっさりと否定した。
「画面に設定した桁数が示されているんですけど、126桁なんですよ。はっ? て感じじゃないっすか」
「……、それは、相当に長いですね」
「打ち込むのに何分かかるんだって話ですよね。ま、それはともかく、仮にブルートフォーアタック(総当たり攻撃)をかけたとして、何通り試さなければならないか分かります?」
 1から0までの数字は10。それを126乗すると、数学に造詣の深い人ならすぐにある単位にたどり着く。
「百万不可思議ですか」
「そうっす。議論するのが不可能なほど大きな数字。昔の人も、なかなか面白い単位をつけたもんですよね」
 森はおかしそうに笑った。
「しかもこのロックは、間違える度に24時間、しかも乗数でロックがかかる仕組みなんです。7回間違えれば何年になると思いますか」
 多少面食らいながら、藤堂は頭の中で計算した。
「小数点以下の余りを切って、523569年ですね。仮に僕と森さんの年齢を考えたら、現実的に間違えられるのは3回までです」
 4回目の間違いで37年になり、5回目で908年になる。実際は鉄の耐用年数の方が先に尽きるだろう。
「計算はやっ。さすが二宮家のご当主様ですね」
 森は楽しそうに目を見張った。
「俺が思うこのシステムの唯一の欠陥は、パスワードの異常な長さなんですよ。普通であればメモでも残さなければ覚えられない数字でしょ。メモが流出してしまえば、どれだけ長い数字を設定しても意味がないじゃないですか」
「そうですね」
「でも、以前片倉参与が言っていました。この家の人たちの記憶力は尋常じゃないから、126桁の数字なんてあいうえおと同じなんだって。――そうなんですか?」 
 ――126桁のパスワードか……。
 森が退出した後、藤堂はひどく憂鬱な気持ちで家の工事図面に視線を落とした。
 その程度の数字を暗記するのは、藤堂なら造作はない。ただ、伯父には多分無理だ。伯父は頭のいい人ではあるが、計算力や記憶力が優れているわけではない。もちろん訓練によって記憶することは可能だし、実際そうしているのかもしれないが。
 とはいえ、その伯父が今病床にある以上、金庫の中にパスワードが収められていなければ手詰まりである。
 あまり考えたくはないが、伯父は自身の死も想定した上で、あの封書にあったヒントを残したのだ。それは、答えは藤堂自身で考えろというメッセージに他ならない。
 もし金庫にあるのが、ダイレクトな答えではなく、また謎めいたメッセージだったら――その可能性の方が高い気がするのだが――、そこから126桁の数字を探り当てるのは、想像するだけで途方もない作業だ。
 藤堂は、宮から手渡された封筒の中身を頭の中で再現した。
『二宮家廃家の条件』
『その1・二宮家が保存している第〇号文書の無償寄与』
 その〇号文書が何を意味しているのかは未だ分からないが、探し出さないといけないのは、そう名付けられたたったひとつの文書だった。
 では、維新の頃から二宮家が収集してといたという膨大な機密文書は、そもそも存在しなかったか。最初からひとつだけだったのか。――藤堂はますます分からなくなった。
『その2・二宮家会計基金の解散と同基金原資の返還』
『その3・現に居住する不動産の無償譲渡』
 条件はそれだけだった。
 基金の原資については調べてみなければ分からないが、根こそぎ持って行かれるわけではないから、この家で働く者たちへの補償は十分にできるだろう。
 だからこそ、逆に分からなくなる。
 たったこれだけのことが、どうして今までできなかったのだろう。 
 藤堂は雑念を追いやり、図面に意識を集中させた。今は少しでも多くの情報を急いでインプットする必要がある。怜が今、どこで何をしているか分からないが、〇号文書の存在を彼女に知られる前に、こちらで確保しなければまずいというのは直感で分かる。
 ――直近の工事は、今から26年前か……。
 大規模な改修工事は、喜彦の妻である敏子が暮らしていたエリアを中心に行われていた。伯父が敏子と結婚したその年に改築し、屋敷の中に別の屋敷があるような造りに変えている。
 それまで、そのエリアは伯父夫婦――伯父と脩哉の母、静香の部屋になっていた。
 寝室とそれぞれの部屋。ドレスルームに和室、サウナ、ピアノを弾くための防音室とバルコニー。
 いかに伯父が脩哉の母を大切にしていたかがうかがい知れる贅沢さだが、そのエリアがまるまる改装され、敏子の『屋敷』として作り替えられている。
 藤堂はいぶかしみながらページをめくった。
 ――……伯父さんにとって、静香さんとは、どういう存在だったんだろう。
 無理矢理この屋敷に閉じ込め、家族の反対を押し切って結婚したはずの人だ。
 なのにこの切り替えの早さはなんなのだろう。
 藤堂の記憶では、静香の死後、喜彦はその一周忌もまたずに敏子との再婚を決めている。
 当時は香夜の嘘を真に受けて、脩哉が伯父の子ではないと信じていたから、その仕打ちも当然だと思っていたが、実際は違った。
 脩哉が伯父の子であり、伯父の愛情を一身に受けていたことは疑う余地がない。
 では何故、伯父はあっさりと再婚を決め、静香と過ごした部屋をためらうことなく新しい妻に明け渡したのだろうか。
 そこで、ふとあることに気づき、藤堂はページをめくる手を止めた。
 当たり前のことだが、部屋の持ち主は代々変わる。この部屋は、以前は伯父の書斎だったがその前は――?
 この部屋の主というから、てっきり伯父のことだと思っていたが、かつてこの部屋を所有していた別の人間のことだとしたらどうだろう。
 いやまて。
 不意に理由の分からない不安がこみ上げてきて、藤堂は立ち上がった。
 そうなると、対象を1人に絞ることができなくなる。しかもその人物の一番幸せだった日を闇雲に打ち込んでいたら、たかが金庫を開ける作業に何日もかかってしまうだろう。
 なら専門家を呼んで壊してしまった方が何倍も早い。
 だいたいそんな曖昧な謎を、あの用意周到な伯父が残すものだろうか? ――   
「…………」
 いや。
 もしかして僕は、最初からその答えを知っていたのではないか?
 知っていて、あえて思考を別の場所に持っていこうとしていたのではないか?
 藤堂は、強張った首を傾け、書棚の方に視線を向けた。
 書棚には全て開閉式の扉が取り付けられてあって、中に何が納められているのか分からないようになっている。
 約10年前、一度この部屋に入ったときも、全く同じ光景がここにはあった。
 閉じられた書庫。古いパソコン。カーテンと絨毯、観葉植物。その時から、あたかも時が止まったように、何もかもが同じ部屋――
 どうして最初に、この書棚を調べようと思わなかったのだろう。
 この部屋の持ち主の趣向や暗号のヒントを調べるために、普通であれば一番に見るべき場所を、どうしてスルーしていたのだろう。
『この部屋の主が人生でもっとも幸福だった日』
 それが、伯父が僕のためだけに残したメッセージなら、答えはひとつだ。
 ――この部屋の主は……。
 藤堂は意を決して書棚に歩み寄ると、開閉式の蓋を開けた。
 中にはぎっしりと本が詰まっている。
『砂山理論』『全有限単純群の分類』『自己組織化臨界現象』『フェルマーの最終定理』『ゲーデルの不完全性定理』
 藤堂は眉を寄せた。それは全て、あるひとつの分野に収束される夥しい数の専門書だった。――数学だ。
 殆どが海外の書籍で、他にも、大学が発行した研究冊子や高名な数学者の書いた論文などが、書棚いっぱいに詰め込まれている。
 藤堂は喉を鳴らし、書棚の下部にある引き出しを開けた。中には本ではなく、レポート用紙がぎっしり詰め込まれている。
 ためらいが、何度も指先を滑らせたが、その一束を取り出してみる。
 紙面を埋め尽くす無数の数式が、いきなり視界に飛び込んできた。
 それが何枚も何枚も飽きることなく続いている。おそろしいほど細かく、活字をそのまま書き写したような几帳面な字は、ある種の精神の障害を想起させた。
 サヴァン症候群。
 自閉症スペクトラムや発達障害のある人の一部が、突出した才能を持っている状態を指す。藤堂も小学生の頃、その疑いがあるといって診断を勧められたことがある。
「…………」
 そのレポートの表紙は、末尾に添付されていた。
 美しいフランス語で、『ヒルベルトの23の問題の未解決問題に係る考察』と書かれている。その下に日本語で記名があった。――京都大学 大学院理学研究所 二宮和彦。
 藤堂は息をのむようにして固まった。静けさの中で自分の心臓だけがドクドクと鳴っている。
 何年も、自分はずっと勘違いしていた。
 ここは伯父の部屋ではない。
 父の部屋だったのだ、最初から。
 藤堂はレポートを急いで書棚に戻してから立ち上がった。
 一時真っ白になっていた頭に、憤りがふつふつとこみ上げてくる。
 ――なんの真似なんだ、伯父さん。
 どこまで俺を振り回せば満足なんだ。そんなに俺が、あなたの弟を憎んでいることが許せないのか。
 俺に父と向きあえというのか。今さら、こんな時に、なんのために。
 藤堂は拳を握り締め、大股で金庫に向かった。
 この部屋の主、つまり父が一番幸せだった日。
 間違えればあと4時間この金庫は開かない。実際はどうだか知らないが、答えだけは分かっている。なぜならこの質問を考えたのは父ではなく、伯父だからだ。
 藤堂は、歯を食いしばるようにして自分の誕生日を入力した。
 カチリと心地よい音がして、キーロックが外される音がする。
 自分を支えている何かがズタズタに切り裂かれたのを感じながら、藤堂は金庫の扉を開けた。中には封筒と、そしてホルダーに掛けられたいくつかの鍵。
 封筒を取り上げた藤堂は、怒り任せに封を切り、中の紙面を取り出した。もうそこに何があるかは分かっている。核シェルターのロックを外すための、暗号のヒントだ。
 そこに記された数字に眉を寄せたとき、扉が外から慌ただしくノックされた。




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